仁王堂水(清水馬場・坊中馬場)&鶴嶺高等女学校校跡(本立寺馬場)を訪ねて
5月26日に訪ねた鹿児島市上町の仁王堂水などをフォトチャンネルにまとめました
(1枚目は稲荷川に架かる一つ橋です)
見てみて下さいね
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最後の1ページは「さんぎし」未掲載分です。
イサさんのお孫さん・川上久雄さんが平成6年3月27日に完成させたものです。
『都見物日記』(このページは「さんぎし」には未掲載)
(桜島の頭のような山を描いて)↑※トップ画像
此のやうな所が見えて元気も出。チン〳〵甲板にあがり眺めおり候所、早。故郷のなつかしき所などそろ〳〵見え、天保山の前も通りて いよ〳〵前の浜に着き 荷物などかたつけ 端舟(ハシケ)にて上陸致し候。上より皆々様がお出迎に来り居られ、精一殿(久良の弟)ツバタ(津端?)迄来たり居られ 久々にてうれしき事妙々
酒匂問屋より皆々さんとお分かれ致し、精一どのと帰り 武之橋の入口に迄に着く。
又 子供皆々「おとみ」「貞」他に「おみか」「おけさ」来り居り
夕暮より「お君さん」を取寄せ(芸者を呼び の意?)三味などひき 心悦びいたし候。
酒肴にて精一どの待ちうけ居られ 大喜び。さらば地歌「君さん」にお頼み申さん
ペコ〳〵ツン〳〵テン〳〵とひかれ候所 ぢきにオババが踊り。伊勢音頭のナリソコネなど出し大笑。皆々よろこび 嬉しさおめでたさ おかしきなり 実に〳〵すぐれた初のぼりの新下り妙々
(※ 以下は、結びにイサさんの孫・川上久雄氏が書かれたものです)
明治廿三年 寅 五月廿九日着
五十一才 川上いさ 記
この最後の頁は寺師若法師「さんぎし」に記載の内 未完の項を いさ日記原本から猶野(ナオノ)耕一郎・芳即正様の御協力を頂き、いさの孫 川上久雄が完結し 猶野耕一郎氏(久良の娘・丹下幸代、長男)、二階堂飛虎氏(久良の次男=久雄の弟)、内村八紘氏(名越左源太翁 子孫)へ贈る
平瀬実武氏は平成六年一月十八日死去の為 未贈
平成六年 三月二十七日
長い旅を終え、皆さんに迎えられてほっとするやら嬉しいやら、といった様子が目に見えるようです
最初にこれを読んだ時にはよくわからなかった「武之橋の入口」の意味。
「精一どのと帰り」着いた「武之橋の入口」にあった川上家の場所については以前書いています。
『 川上式部邸跡と「授産社跡」 2019-10-19 11:31:49 』
☆下の画像の右下に「武之橋」があります。「松方正義誕生地」と橋との間の一画が川上式部邸跡。(画像共追記:'20. 5.31 15:21)
「子供皆々」と名前が並んでいますが、最初イサさんの子供?と思いましたが、おそらく精一さんの子供さんでしょうか
最後は芸者さんだか三味線弾きの「お君さん」の地歌に合わせて賑やかな様子です。
「オババが踊り 伊勢音頭のナリソコネなど出し」とあるのは、イサさんご本人?
「実に実にすぐれた(東京)初のぼりの新下り」と大満足で締めくくられて、めでたしめでたし、ですね
『都見物日記』ご紹介(完)
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
『都見物日記』4月19日に「和田屋のすみばば」とあります。→「4月19日 讃州多度津〜金比羅様へ」
そして4月22日に↓「石燈籠(いづろ)和田屋 母おすみ殿」とあります。
「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」
わかったんです 「いづろ和田屋」というのが「呉服店」だということが
昨日(というか、先ほどAM2時前)「5月26日 神戸最後の夜に・・・」を書いている時に
「納屋町」か「納屋通り」か、当時の町名を知りたくて
唐鎌祐祥(やすよし)先生の『昔の鹿児島 ー かごしま 新聞 こぼれ話 ー』
(南日本新聞開発センター 2008年発行)をパラパラめくっていたら、
「祗園祭は休日だった」というタイトルのところに明治30年7月14日の鹿児島新聞の記事紹介と共に、
ほかに石燈籠(いづろ)通りの「和田呉服店」は反物で「道成寺安珍鐘入りの場」の人形をつくり店先を飾りつけた(p.27)
とあったのです
そう!いづろ和田屋の母おすみ殿は、呉服屋の方だったのです〜!!(きっとそう、そうだわ!)
ありがとうございます!唐鎌先生
さてさて、第八章も最後になりました。長かった旅も終わりを迎えます。
『都見物日記』(八)‥‥ ⑦
五・二九 天気よし。別に風なし。
船大ゆりいたし それにこまり、今日は七時ごろより苦きもの吐き、実に頭痛いたし、三人ともいね居り申候。残念には存居候え共 めしも得(エ)食べず、うろうろ気分也
十一時比(ゴロ)よりチンチン鹿児島が見え(桜島の頭のような山を描いて)此ような所が見えて元気出
(以下次号へつづく)
風もなく天気はいいのに、船は大揺れ‥‥。ご飯も食べられず、うろうろ気分のイサさんです。
思うようにいかないのが船旅ですね〜
第八章、終わりました。次号への掲載は、果たしてあったのでしょうか?!
昨日午後四時、美濃丸で神戸を出帆。船に乗って2日目です。
『都見物日記』(八)‥‥ ⑥
五・二八 今日天気よし。夜明け三時ごろに売船通りかかり、其船とつき合わせ中々の混雑。然し人は皆あがりバッテラ(※→ボート、大きな船に積載する短艇)にておくり候。其(ソレ)がため七時過に漸くこのかかりし所より出帆、鹿児島着も自然おそく相成るとの頃。先(マズ)船おだやかにて仕合(シアワセ)、鹿児島之人だんだんのり込み居られ候。そろそろ気分あしく寝ねつづき、母上様も三原氏母様も 同敷(※オナジク)気分あしき風にお見え居候。
この頃になると、ひたすら鹿児島へ向けての船旅で快適とは決して言えない状況のためか、日記も短いです(^-^;)
往路と違うのは、御三方に加え、三原氏母様も一緒に鹿児島へ向かっていることです。
三原氏母様は轟の妻・ツタの母親でもありますが、西村時彦様、つまり西村天囚氏の妻も(先妻・後妻共に)三原家の女性なので、轟の義母が同一人物かは今のところ確認が取れませんが、文面からすると、西村氏の義母でもあるのかも知れません
長かったお江戸上りもいよいよ締めくくりとなりました。
『都見物日記』(八)‥‥ ⑤
五・二七 今日天気よし。六時過に起き 茶、七時過にめし、今日はゆるゆると薩摩屋より出立の賦り(←※くばり)。十二時前昼飯、美濃丸へ二時乗込、四時出帆、例のごろごろにて酒を飲み候て 夜の入る頃よりいね、海も平和故、先ず酔いもせず。船へのり着(ツク)と後(アト)より鈴木さん お暇乞にお出被下(クダサレ)候事。
※「賦り」が読めず。。「くばり」と読むんですね
今回は船酔いもせず、まずまず良かったですね
前後しますが、船に乗り込んだ後、前日にもお見えになった鈴木さん(=名越氏の知人)が挨拶においでくださったようです。
いつもご覧いただき、ありがとうございます
前回の第七章目次に続き、第八章のタイトルを並べてみました
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第八章
① 「5月23日 今日は三人で大坂見物」 ( 2020-05-23 18:01:49 )
② 「5月24日 宿屋増元、長崎の小間物屋さん」 ( 2020-05-24 18:03:42 )
③ 「5月25日 神戸へ移り、布引瀑見に出掛け候」 ( 2020-05-25 18:04:58 )
④ 「5月26日 神戸最後の夜に・・・」 ( 2020-05-26 18:06:27 )
⑤ 「5月27日 神戸を離れる日」 ( 2020-05-27 18:09:26 )
⑥ 「5月28日 三原氏母様も一緒に鹿児島へ」 ( 2020-05-28 18:12:57 )
⑦ 「5月29日 船旅は、行きも帰りも・・・」 ( 2020-05-29 18:14:09 )
いつもお読みいただきありがとうございます ( 画像を複数枚、追加しました〜)
昨日は『都見物日記』のアップも18日から20日の分まで進み、だいぶ捗りました
ところで、 5月15日の『都見物日記』で「鹿児島の上町 堂の前 煙草屋の…云々」と書かれていましたが、
本日別件で、以前撮っていた画像を探していたら、2年前の3月に撮った写真(↑トップ画像)の
「鹿児島城下絵図」に「堂の前」の文字を発見
通りの名前として載っていることに気付きました
福昌寺(現、玉龍高・玉龍中)や大乗院(現、清水中学校)があった地域に「堂の前通り」という表記があったので、父にも話してみたら、場所が何処かということこそ知りませんでしたが、地元の人たちが「どのまえ」と言うのを聞いたことはあったと教えてくれました。
「坊中馬場(ぼじゅんばあ)」と「清水馬場(しみっばあ)」の交わる所に「仁王堂水(におうどうみず)」があります。
今日雨の中撮ってきた写真です(クリックすると大きい画像になります)。「仁王堂水」は清水小学校の向かいにあります
で、肝心の「堂の前(どのまえ)通り」は稲荷川を挟んで、一つ橋を渡った西側の通りで、大龍小学校(大竜寺跡)を左手に見て北上すると皷川町へ、更には名越左源太の別邸があった韃靼冬(たんたど)へと登る道に繋がります。
最近の地図には「堂の前通り」の表記がなくわかりませんでした。
今日夕方、思い立って現地に行って探してみたところでも、付近に「堂の前」の表記はありませんでした。
画像↓の左端に「玉龍高校前」のバス停が写っていますが、「堂の前通り」は、その先から地図の「皷川町」表記の辺りの短い距離のようです。右折表示の方へ行くと「一つ橋」から「仁王堂の水」の清水馬場です。
(この病院敷地の一角、実は父の叔父(=「池之上のおじさん」)家族が住んでいた場所なんですよね。小さい頃は時々家族で尋ねていたので、懐かしい場所です)
上町の資料を調べると載っているのかも知れませんが、現・玉龍高校・中学校(=福昌寺跡)に続く通りなので、おそらく「福昌寺の御堂の前の通り」ということからそう呼ばれているのだと思います。これについては後日確認してみたいと思います。
せっかく行くのだからと、以前からFBFさんたちが画像を上げていた「鶴嶺高等女学校 校跡碑」と「良子女王殿下御台臨記念碑」も見たい!と、先日検索して見つけた「クマタツ1847」さんのブログ記事「鹿児島市 上町歴史散歩(その五)(12)」で下調べの上、無事に見つけました!
通り一つ北へ上がった「本立寺馬場」という通りにありました。それについてはまた後日アップします
では。
神戸・薩摩屋、最後の夜です。衝撃のアクシデントが、あったとか、、なかったとか、、いや、あったようです
『都見物日記』(八)‥‥ ④ (※印は、ゆき註釈)
五・二六 今日雨。六時おき茶飲み 夫(※ソレ)より程なく 青山と申すお方はなしにお出、又 鈴木信弥さんと申お方 お出にて暫らくお談(※ハナシ)、九時過にお帰りの事。 程なく三原母様、西村時彦様とお出、今日船も出帆之はずにて 此方へお越しにてゆるゆると成され、皆々十二時過にはめし、牛(ギュウ)など向こうさん買入 ちんと酒などお分かれに飲かた(※飲み方=宴、酒飲み)有之候。二時には西村さんもお帰り之事。
三時過に楠公社辺に又歩行致し、少し雨降出し せわせわ敷候に付、早目にかえり候得ば 上(カミ)の納屋の上の田尻様もお出の事。 夕飯は此宿にて四人ともたべ、ゆるゆるといたし居り候処、鈴木さんお出にて、それより酒、牛など差出し、芸者の御馳走など有ておもしろく、ゆるゆるゆると致され十一時前お帰之事。
轟どの酔候て小便を二階のすみにて致され、小便所と思いてのことならん。轟どの格別のしくじりもなかりしに 終にしくじりの終(シマ)いを首尾いたされ、おかしおかし、皆大笑。十二時いね候。
「青山と申すお方」は他の日には出て来ないと思いますが、どなたの関係かはわかりません。
「鈴木信弥」という方は、 往路の4月21日の日記に「名越氏の知人」と書かれています。神戸最後のこの日は午前中と夜にも宿に来られていますね。また、明日27日の日記では、イサさん達が神戸を離れる時にもお暇乞いにおいでになります。
「名越氏の知人」ということですので、よほど縁の深い方なのかもしれません。ただ、ここでいう「名越氏」が誰のことなのかまではわかりませんが、時成兄さんか、その家系の方かもしれませんね。
「牛(ギュウ)」というのは「神戸ビーフ」でしょうか?「向こうさん買入」とは西村時彦様がお昼にお別れのお酒と共にご馳走下さったということ?
「夕飯は此宿にて四人ともたべ、」とあるのは西村時彦様が帰られて、三原氏母様と御三方との四人ですね。
あと、よくわからないのが「上(カミ)の納屋の上の田尻様」です。「納屋(なや)」というと、鹿児島市街地にある地名の「納屋通り」というのがあります。
「田尻様」で思い浮かんだのは、「田尻務」様。桂久武の兄で、霧島神宮の初代宮司になられた方で、その後を左源太の妻・タネの実弟が明治7年から2代目宮司になっています。・・・が、「上の納屋の上の‥‥」というのだから、違うでしょうね?? どちらの田尻様でしょう??
轟の「しくじり」は、ひ孫としては恥ずかしいので、小文字にしました (大笑いされてるし〜)
大坂滞在は5泊。今日は大坂を後にして神戸へ移ります。
『都見物日記』(八)‥‥ ③
五・二五 今日天気よし。六時おき茶飯、今日より又神戸へ差越す。九時比(ゴロ)に出立、梅田停車場迄人力車にて、それより十時に汽車も出、途中鳥渡(チョット)ずつとどまる所、神崎、西の宮、住吉、三宮などなり。 神戸停車場に着、直ぐ浜辺の薩摩屋へ十二時比(ゴロ)行く。 昼飯たべ腹ならしに三人連れ布引瀑(タキ)見に出掛け候。雄瀑雌瀑とて随分見ものなり。茶屋など有り、景色よろしき也。瀑見の道に神戸直き見える所も有り、帰りには小さき石など七つ八つ拾いて帰り、又たかつぶり也。夕暮にかえり着、七時に飯、ちんと酒飲み、十二時ごろにいね申候。
往路でも泊まった「薩摩屋」へ移った御一行は、「布引の滝」を堪能したようですね。
「たかつぶり」って、何? まさかの「かたつぶり」の誤植? 小石を拾って帰ったら「カタツムリ」だったとか
今夜はちょっと夜更かしで 、午前零時頃ご就寝です
復路の旅、大坂見物をした翌日の様子です。
『都見物日記』(八)‥‥ ②
五・二四 今日は天気よし。六時過に目醒め、茶飯にて、今日は轟殿は電信局へ参られ、それより西村時彦様方へ参らるる筈にて出掛けられ候。 私、母様は風呂入に、後で行き ゆるゆるは入候。 此二階の廊下ごしに昨日より参りし人有り、是は長崎の人と申候得共 実は長崎より二里計りの所の人と申候もの、大坂に小間物 仕入に参り候由。今日は朝早々より小間物屋十五、六人参り いろいろとたくさん買入、これのため 其の人等そろばんカツカツと朝より賑々敷事に候。
母上様、私と茶のみいたし居候処に 轟どのも帰られ候得ば、私共の方へ隣の小間物品々たくさんにひろげたて候得ば、母上様、轟どの、私も詮方なしにチンと買入候。これは何もとらん(←※傍点有り)つもりにては候得共、又私も十四銭五リ(←※「厘」と思われます)だけ買いました。ノサンノサンノサンと申候也。十二時に飯たべ、程なく今日は久々に轟殿は風呂入、かみつみ(←※髪摘み=髪切り)有之、大坊主の様にて帰られ大笑之事。夕ぐれに晩飯、九時にいね申候。
轟さんが散髪してもらって帰ったら「大坊主の様」だったと、またしても大笑いです (^o^;)
轟はここ大阪でも22日に「電信の事に付」出て行ってますが、今日も電信局へ出掛けたようです。「電信の事」はこれで5回目。
小間物屋(問屋?)さんが早朝からそろばん弾いて賑やか(少々迷惑?)な様子です。この人物について、「長崎の人」ではなく「実は長崎から二里計りの所の人」と書いてあるのが面白いですね。長崎から二里(約8km)というと、どのあたりになるでしょうか?
ここでもイサさん、押し切られてか予定外の買い物をして「ノサンx3」と嘆いていますね
さて、明日は神戸へ移動。旅も終盤です
宿屋増元に3泊、早くも大坂は4日目です。
『都見物日記』(八)‥‥ ①
五・二三 今日天気よし。六時起き 茶のみ 七時過めしたべ、和田すみ同道の四人は今日出発、兵庫へ出掛けるとの事。鹿児島へ遣わしの文も頼み候。私等三人は今日大坂の見物致し候。 途中にて三味乃糸取入れ、難波より汽車にのり、天下茶屋と申所にてとめ、又 住吉にても とめ、堺にて停車場よりおいり、堺の浜を見物致し これもよき景色、いろいろ茶屋あり。
程なく車より住吉様まで参り候、此橋涯の住吉茶屋に一寸たちより、住吉様お神楽の所に参り付候。まえの店は麦がら細工と土人形有り、此所の茶屋にてちんと飯たべ、ここより車にのり 阿倍野の神社の前を通り、太閤秀吉の戦いの天下茶屋を通り、天王寺に行き候。 此寺は古びたる寺にて随分奇麗には有り、こは聖徳太子様の安座まします所にて、右の内に聖徳太子様十六歳の時に御像を刻み、外にだんだん刻みたる仏様入らせられ候。 又 上の少し坂あがりて行きし所に 御むそふ御うけの仏様入らせられ、其所にて薬茶戴き直(ジキ)ついで飲み候。 聖徳太子様の御門に大きなる石亀の口より水出でて、其所には何かお願にや 附木(ツケギ)のような物に字を書き、それが皆其池につけ 何とか申 祈願いたす人だんだん有り、私共は只見て通り候。池には亀 沢山おれり。
それより矢張り車にて大坂城の下迄のり、ここにて車よりおいり、ちんちん歩みて帰りつき候。夕暮は飯、酒二瓶ばかり飲み、今晩は早目にいね候。
和田すみ殿一行は宿を発ち、兵庫へ出かけ、一足先に鹿児島へ向かわれるのでしょう。
イサさん達三人は大坂見物。ちょうどひと月前にも大坂で過ごしていましたね。
『「4月22日 大坂の宿屋・増元泊、西村時彦様と道頓堀の芝居見物へ」』
明日も天気が良いといいですね
第八章に入る前に、大まかな流れを自分なりにメモしたものを画像にしました。
10年以上前にどうにか読み込んでみたものの、宿屋の名前、登場人物の名前、それにどこを訪ね、何をしたかの記録を付けておこうと、書き付けていたのでした。(画像は読みにくいと思いますが、、、)
以下の通り、 '20. 6.13 に文字入力してみました。
M. 23 4. 17 pm2時前出港(豊瑞丸)
4. 18 終日 船内
19 雨。霧。昼食後豊瑞丸を4時ごろ降りて、夕方陸に上がり、讃州 多度津へ上陸
総勢26名、汽車にて金比羅様へ(夜10時ごろまで)
帰りに大茶屋「虎屋」で食事
夜10時頃、車で浜近くまで、それから舟で豊瑞丸を目差すも、霧で何も見えず、
小舟にて26名して、夜を明かす
4. 20 天気よし. 朝霧にて何も分からず 昼寝. 夜沖に船をみつけた、と皆騒ぎ立ち賑やかに
ほかに大勢がのりこみ、夜中0時頃までせわしく、1時頃寝入る
4. 21 午後、淡路島を眺め、兵庫港入り
宿屋「薩摩屋」 ※ 名越家と川上方へ文を書き送る
神戸楠公社参詣
神戸 薩摩屋 泊
4. 22 10時前、汽車に乗り 11時過ぎには大坂の「増元」宿屋へ着く いささんは宿屋で留守番
姑さんと轟さんが戻り、昼過ぎより大坂市中見物に
夜は道頓堀へ芝居見物
大阪 増元2泊(〜23日)
4. 23 雨。昼は「増元」にて。夜は三原氏お母様と4人で「源水楼茶屋」へ。
4. 24 9時すぎより雨。 2時過ぎに車で梅田停車場へ。
汽車で西京(京都)へ。4時着。 宿:三条小橋「亀屋」
京都 三条小橋 亀屋3泊 (〜26日まで京都泊)
4. 27 午前中は嵐山、天竜寺、西本願寺、東本願寺 見物
京都停車場より、5時頃汽車に乗り、柘植(つげ)に夜8時着
柘植 亀屋 泊
4.28 柘植(つげ)より、車にて「かぶと村」経由「むくえ」まで
「むくえ」で昼食、馬車に乗り換え「津」でまた馬車を乗り換え「櫛田」まで。 宿:「紅葉屋」
櫛田 紅葉屋 泊
4.29 伊勢参詣 伊勢山田「北村屋」へ
9時前には着き、11時に昼食をとり、案内人頼み お伊勢様御参詣
伊勢山田 北村屋 泊
4.30 「北村屋」を出発 かみやしろの港より小舟にて小蒸汽へ乗り、
はし船にて川登り、豊橋の宿屋「壺屋」へ着いたのが4時頃
豊橋 壺屋1泊
5. 1 (30日の)夜中2:50には「壺屋」を出立。車で豊橋の停車場まで。3時過ぎに汽車に乗る。
次ページ(画像)の一番上↓に「5/23以降のが '08. 3. 30 に出てきた。」と書いてありました。
一時所在不明だった次のページ「第八章」が後から見つかったのものです。
(この件、2008.4.10の『いささん、51歳』に書いていました )
5. 1 夜中3時過ぎに汽車に乗り(豊橋から)東京入り 夜まで終日汽車
高輪御殿山、下手をとおり、品川を片脇に見つつ、新橋停車場でおり、
新橋の「松元屋」へ宿をとる
新橋 松元屋 泊
5. 2 朝8時前には 京橋区加賀町十七番地「和田(いく)宿」に宿替え
麻布永坂島津氏 お染様のところへ 3人で連れ立ち参り上げ、
帰りには愛宕山、芝増上寺見物
京橋加賀町 和田屋
5. 3 雨降り お染様と芝居見物(朝8時過ぎより)歌舞伎座へ。市川団十郎「道成寺」他
〈終日雨に うんざりのご様子〉※この後、7日まで雨降り。
5. 4(雨) 〜 5. 7 買い物や、上野博覧会見物。また、宿を訪ねる方々もあり、話し、飲食して過ごす
5. 8(晴れ)馬車で上野の博覧会他。九段坂の招魂社祭日にて参詣や、美術館見物も
5. 9(晴れ)〜 5. 12 5. 11には上州日光山へ向かう
上野 → 宇都宮 → 日光 宿:日光「神山」
5. 13(少々雨降り)久しぶりにゆっくりする。日中、雨が強く降ったが、夕方には上がる
5. 14(晴れ) 富士を見に参るつもりが、曇りのためにとりやめ。向島辺りへ。
「堀切のしょうぶ」を見に行く
5. 15(〃)〜 5.17(晴れ)
5. 18(晴れのち雨)東京を離れる。8時 新橋より → 横浜まで 宿「蓬来屋」に9:20に着くも、
横浜 蓬来屋 泊 神戸行きの船が無く、横浜「蓬来屋」泊まり
5. 19(雨ふり) 11時には浜へでかけ、小舟で新潟丸へ乗り込む(神戸まで船中泊)
5. 20(晴れ) 夕方には神戸へ着き、車で三宮まで。8時の汽車が出たあとで、
10時前の汽車で大坂梅田まで。11時過ぎには着き、以前の宿「増元」へ。
大坂 増元 泊
5. 21、22 大坂泊
以上、 '20. 6.13 上記の通り、文字入力してみました。
5月21日以降は、日付の本文をご笑覧くださいませ。
「5月21日 和田すみ殿と再会、 三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」
いつもご覧いただき、ありがとうございます
前回の第六章目次に続き、第七章のタイトルを並べてみました
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第七章
① 「5月16日(続き) 芳殿、吉村お仙殿、そして久良殿との再会に!」 ( 2020-05-16 12:53:52 )
② 「5月17日 久良さんと永岩さんと」 ( 2020-05-17 12:59:53 )
③ 「5月18日 東京を離れ、横浜の蓬莱屋に一泊」 ( 2020-05-18 13:08:51 )
④ 「5月19日 新潟丸で横浜出帆」 ( 2020-05-19 13:12:58 )
⑤ 「5月20日 神戸、そして大阪へ」 ( 2020-05-20 14:29:47 )
⑥ 「5月21日 和田すみ殿と再会、 三原氏母様とも久々にお目にかかり上げ」 ( 2020-05-21 17:21:36 )
⑦ 「5月22日 昼間はお買物、夜は西村時彦さん方へ」 ( 2020-05-22 17:49:20 )
寺師若法師さんによると、「あと二回だけで帰鹿まで漕付けます(若)」とのことです
20日から大阪の宿屋・増元に宿泊中です。
『都見物日記』(七)‥‥ ③
五・ニニ 今日 朝天気よし。六時起き茶、めしたべ、九時過より轟殿は電信の事に付 出行かれ候。御母上様、私は 和田屋、すみ婆殿、そのばばどのの三人、都合五人連れにて 又品買物にいで、笄(コウガイ)、櫛ども買入、又 荷ぜき品取入れて大笑い也。一時前 内に帰り候。昼飯たべ 轟どのも帰り来り、今日の買入品、金は又壱円だけ轟どのより借入れ いろいろとり候也。
午後四時過より 轟殿と母様は西村時彦(天囚)さん方よりお呼の事。私はるす也。六時頃に亦私も参る様にと車迎いに来り 行き候而、三人ともに十時頃に内にかえりいね申候。
あと二回だけで帰鹿まで漕付けます(若)
轟が「電信の事」で出かけるのは東京・大阪合わせてこれで4回目。
以前も書きました → 『電信の・・・。』('19.6.28)、『「電信」の仕事?』 ('18.7.23)
轟が出かけたのち、川上のお姑さんとイサさんは、都合5人連れ、ということは和田屋さんと、すみ婆殿と、そのお姑さんとで3人ということかな?、で、お買い物に出かけたんですね。
西村時彦(=西村天囚)さんからお呼びがかかり、夕方には川上家のお姑さんと轟が出かけ、イサさんはお留守番しておられたけど、約2時間後にはイサさんも車で迎えがきて西村さんに会いに出かけてようですね。
ところで「笄(こうがい)」について気になったので画像がないかなと思い、またまた検索してみた。
『髪結ねっと』というサイトに「笄という名の武具」という記事があったのでご紹介。