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☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

ドルフィンポートの思い出、再び

2021-06-23 13:01:29 | 日記

前回の投稿、父の画像を探す中で、

昨年の今頃の記事を目にしたのです。

ドルフィンポートの思い出と、古地図遊び♪』(2020.6.19)

 

鹿児島の市民・県民、県外からの観光客の皆さんの憩いの場だったドルフィンポートも

今はもうありませんが、ぜひ、有効活用して欲しいところです。

    

貝汁、美味しかったなぁ♪‥‥って、去年の記事でも書いてあった(笑)

 

   

 

 なお、別ブログ『ゆきの時間』(アメブロ)にも

父のことを書きましたので、お時間ある時にでもお読みいただければと思います。

無題』(2021.6.17)

ラジオで父の日特集をやっていた(思い出し日記 2021.6.22記)』(2021.6.18)

「父の日」に (思い出し日記 '21.6.22 記)』(2021.6.20)

 


画像で2017年の出来事を回想中

2021-04-13 09:07:22 | 日記

 今日は過去に撮った写真を見直しつつ、以前アップした記事に画像を追加掲載していました。

宜しければご覧ください。

島津 登について』(2017-03-09)カテゴリー:名越左源太と家族 

  

☆「演武館」などの敷地の向かい角、画像中央に「島津 登殿」があります(ピンボケでスミマセン

 

また、この後にわかったことを書いた関連記事↓も追記しました。

 『島津對馬』については後日記事にしました(2021.4.13追記)

『島津對馬』関連記事一覧

 

FBで話題になる場所などをみていると、自分でも撮った覚えがあったりして、画像チェックしてみるのですが、いつ行ったところだったか覚えておらず、ブログにあげていないものもあったりするので画像ファイルにあげるための作業をしているのです

2017年に撮った画像で、出来事を振り返ってみて、また記事をかけそうなものがあればアップしようと思っています

 


上野戦争と銅像

2021-03-31 11:54:28 | 日記

 FBへ投稿したものをこのブログに記します。

 

『英雄たちの選択』で「上野戦争」を取り上げていたのを視聴('18.8月の再放送)
上野の西郷隆盛像、作者は誰だったか確認していたら、いろんな事がわかった!
 
その1
だけど、首から下は「岡崎雪聲」の作だった!
 
その2
「高村光雲」のWikiを読むと、代表作のところに「傍らの犬は後藤貞行の作」とあった!
上野の西郷さんが連れている犬は作者が違う、って知らなかったなぁ。
 
で、ここに楠木正成像の画像が載っていたのでよく見ると、
「馬は後藤貞行の作」とあったので、では、楠木正成像の作者は誰?
と検索したところ行き着いたのが、これ↓
 
「楠木正成像は、別子銅山開坑200周年事業として住友から宮内庁に献納されもの」だそうです!これも知りませんでした〜
 
「当時、東京美術学校には塑造科はなく、原型は木彫を使用する時代だったため、同校の木彫科教授であった高村光雲が主任となり、指揮をとった。翌(明治23)年、東京美術学校は後に製作担当者となる3人を次々と教師として採用。高村光雲は頭部を担当し、山田鬼斎と石川光明が身体・甲冑部などを、後藤貞行が馬の製作を担当した。 」とある。
 
これで、「その1」に書いた「首から下は「岡崎雪聲」の作」に繋がりました〜
 
当時、こうして色んな銅像が作られたのでしょうね。
 
補足:(上記のリンクHPより)
「馬を担当した後藤は、若い頃に騎馬術を習い、軍馬局で種馬について研究した後、理想的な馬の姿を描きたいと日本画、洋画を習った経歴の持ち主で、それでも飽き足らず彫刻を覚えたいと光雲のもとを訪れた人物。その才を見いだした光雲が、馬の製作担当に推挙した。巨大な馬像に挑んだ後藤は、並外れた熱意を見せた。」      
 
☆↓拾い物です
怪談風朗読 高村光雲「上野戦争当時のことなど(うえのせんそうとうじのことなど)」

先祖のお墓探しは前途多難っぽい

2021-03-20 23:19:11 | 日記

少し前に『曽祖父の養父母の墓は‥‥どこ?』で先祖のお墓がどこにあるのか、あったのか、探さなくては!と書きましたが、2017年の6月に書いた『名越左源太のお墓は?』を読み直す機会があり、そこに自分で書いたはずのことをすっかり忘れていることに気づきました。

しかもそれは、2008年4月の『これまでの経緯ー2』に記していたものでした(正直ショック

※ 以下の通り

 

  ('08) 3/11(火)
   福昌寺にあった墓が移設されたという坂元墓地へ。

 墓地の管理事務所へ行き、移設・改葬されたという無縁墓の多数の骨壺を見せてもらう。
 名越とも縁のある「町田氏」の名前を多く見かける。

昭和24年の時点で連絡の取れないものや訪れる人の無い墓は
全て無縁墓としてまとめられ、供養されたということだった。

 *ほとんどの骨壺の蓋に番号が書かれていたが、
 市の墓地関係部署で訊くと、移設・改葬されたものは昭和40年代に
 まとめて供養され、資料・名簿などは残っていないとのこと。
 左源太のものが果たしてそこにあるのかは不明のまま。

 

 目的が泰藏さん(名越左源太時敏)のお墓探しだったので、「資料・名簿などは残っていない」と聞いたことはすっかり失念していました。

ということは、用行さんや須賀さんのお墓・遺骨はどちらかの墓地から改装されていたとしても、もはや無いのかも知れません‥‥(それが一番のショック

 

 追記:(2021.3.21)

2008年に坂元墓地に行った時に撮った立て札には、「興国寺墓地」も「南洲寺墓地」も書かれていない

なので、まだ探す余地は残っていそう

「寺山家」の墓のこともあるし

  → 『薩州島津家と寺山源右衛門家』(2020.10.18)

   『曽祖父の養母・スガの命日でした』(2020.4.18)

 この記事↑の最後に書いたことを再録しておきます 

 「 そう言えば、スガさんのお墓って、どこにあるんだろう??

  父の話に、終戦後台湾から引き揚げて来た祖母・ふくと一緒に「冷水(ヒヤミズ)にあるおかあさんのお墓」を訪ねたという話があります。祖母のおかあさん、とは義母・スガさんのことだったのか、実家・寺山の墓だったのか??

 訂正:2021年11月29日に『祖母が戦後お参りしようとしていたお墓』で訂正していますが、「スガさん」は曾祖父の養母なので「祖母のおかあさん」には当たりませんでしたゴメンナサイ

 

  その時は大雨のあとだったかで土砂崩れで道が塞がれていて、お墓に行く事は叶わずお参り出来ずに帰ったという事でしたが、おそらく「興国寺墓地」ではなかったかと思われます。

  興国寺墓地は島津家のお墓をはじめ、古い家のお墓があるところです。私も以前二度ほど行ったことがあります。

  長澤鼎のお墓を見にも行きましたが、結構急な傾斜があるし、ただ行くだけでは見当もつきません。

  墓めぐりには時間と体力が必要です。第一、また行けるかどうか。。。 」

 

関連記事:『「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』(2008.3.27)

 


画像ファイルの見直し

2021-02-26 23:48:43 | 日記

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

先日『歴史探訪時系列インデックス』に《2008年》の出来事の追記をしていたところ、画像を貼らなくては!と探していたら見つからず、CDに保存していたものをようやく引っ張り出してPCに画像ファイルを作り、それからブログの画像ファイルにアップして、どうにか今、更新できたところです。

 

追記部分は以下の通り ( 備忘録として)

 

<2008年>

☆ 1月10日は『篤姫館へ(2008.1.12 mixi日記より)』行き、思いがけず、城下絵図に「名越家」の表記を見つけました。

 

これをきっかけに、1月23日には名越家があった場所を探しに上町散策をしたのでした♪

名越家屋敷跡

   

 

☆1月13日日曜日、西郷南洲顕彰館~南洲墓地~南州神社。
そのあと福昌寺まで行きました。

その際には初めて「竹公園」にも行ってみたことを書いています

郷土史探訪の日々<1. 西郷南洲顕彰館~竹公園(mixiアルバムより)

郷土史探訪の日々<2. 南洲墓地~南洲神社(mixiアルバムより)

この二つの記事は2017年6月26日と28日に書きましたが、2008年に訪ねたものです。

それと前後して、6月25日にも『西郷南洲顕彰館と竹公園』を書きました。

このインデックスアップ当時、まだ記事に出来なかったので画像アップのため、先に記事にしたもの。

(以上は、'21.2.16追記



☆ 2月4日の日記
『2008年 2/1~2/3 金魚、雨、いろいろ。(mixi日記より)』
黎明館で開催された『「島津氏一門家の雅と由緒」 ー重富(越前)島津家資料展ー』を見に行ったことや、
名越家邸宅跡の場所もこの展示会でわかったことなどを書いています。

(1月10日に「篤姫館」で目にした地図では「この辺りかな?」くらいしかわからず、ここだ!と判明したのがこの資料展)

   

 

☆ 3月になると、11日には改葬されたという「坂元墓地」の管理事務所を訪ね、無縁納骨堂に並んだ町田氏の骨壷も見せて頂いたり。

「谷山支所〜県立図書館」mixi日記より』(※ 後日画像アップ予定 '21.2.24追記)

   

 

更に左源太の墓があった場所「長谷場墓地跡」を市役所で訊いて教わった龍源寺の墓地を、本当にここは『加治木島津家関係の墓地?』と思いながらも3月13日に父と訪ねてみたこともありました。('21.2.15 に記事アップ)

   

 画像は全て2008年当時撮影したものです)

以上、今日の記録でした〜


長谷場墓地跡は今‥‥

2021-02-23 23:53:38 | 日記

先週14日深夜に『加治木島津家関係の墓地?』を書き始めて

今日23日、ようやくアップしたところです

実は数年前までこの画像を保存したCD-Rを長いこと探していて見つからず、mixi日記を辿っても画像が無いので、この長谷場墓地に行ったのがいつだったかもはっきりせず、2008年前後の手帳をめくってもわからずじまいでした。

しょうがないので、日頃買い物に出る際に書き付けていたメモ帳を何冊もめくってみたところ、2008年の3月だったことが判明!

最近になって画像の入ったディスクも出てきたので、今回どうにか記事にすることが出来ました。

 

深固院、島津氏第9代忠国の法名が「深固院殿」
「島津歴代略記」巻末に、墓地の改葬経緯など一覧がありました。地図も付けてみます。
✖️長谷場(北)」とありますが、福昌寺の北にあったという事か、「✖️」は改葬済みの印(画像参照)なので、福昌寺跡の「長谷場墓地北部」から「長谷場(現・福昌寺跡の墓地)へ改葬」した、ということだと思います。

 

 

今回記事にしたこともあり、先日、記憶が曖昧だったこのお寺の場所を確かめに行ってみました。

随分手前のスーパーの駐車場に車を停めて行ってみると、路地が入り組んでいて、

車で通れる道とそうで無い細く曲がりくねった道もあり、歩いてみたらお寺の手前からは結構な坂でした。

(帰りにはスーパーでちゃんとお買い物して帰りましたヨ

 

いつものことながら出かけたのが夕方だったし、父も一緒だったこともあり、長い階段を上るのは見送ることにしました

※今回撮った画像(といってもお寺の看板と下から見上げた階段のみですが‥‥)は後日アップ予定です

では〜


2010年のことなどを振り返ってみた

2021-02-14 23:28:30 | 日記

 備忘録として

出来事別インデックス<自分用」に2010年の4月以降のことを少し追記

2010年の当ブログの記事が少ないのでmixiで確認したら、理由が判明

そこで「mixi過去日記」をアップ

 ↓↓↓

2010年4月16日『久しぶりのmixi活動

 

「<2009年

☆旧・伊作街道〜白山神社〜黒丸神社を散策‥‥3月8日 」と書いてはいるけど、記事がない。。

写真をアップしたつもりが、出来てない。。。

 

ということで、2009年のこともあまり記録していないので、

写真をアップしつつ、書き留めておこうかな、と思ったりしているところ

 

 


川上忠塞

2020-12-27 15:04:20 | 日記

川上忠塞の「忠塞」って、「ただせき」って読むんですね

土曜日の夜、『現代語訳 上井覚兼日記』を読んでいたら載っていました♪

 著者の新名一仁さん、ありがとうございます

 

今まで「川上 忠‥‥ん、ん〜」と、声に出して名前を読めなかったのですが、

今回、読み仮名が振ってあって助かりました

※ 画像は『島津家家臣団系図集』から、私がメモに書き写したものです。

 尚、画面右下の「久逹(ひさゆき)」は「川上イサ」さんの夫です→『川上式部邸跡と「授産社跡」

 

ツイッターでこの件のお礼を伝えたら、「(ただせきは)便宜上の読みです」とのお答えでしたので、補足しておきます。

(この件、コメント欄に記していましたが、改めて2023.10.24 追記しました

 


『現代語訳 上井覚兼日記』に「大興寺」の名を見つけた!

2020-12-27 14:53:25 | 日記

寺山用之(寺山源右衛門家)の妻で、子供3人を残して早くに亡くなった曽祖母・スキ。

 関連日記 → 『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』(2019.9.25)

今年4月にシンイチさんから頂いたコメントで、スキの父「町田藤蔵」の家が稲荷町に確認できると教えて頂きながら、コロナ禍で思うように動けずまだ確認には至っておりません。

 以前コメントを頂いた記事 → 『父方祖母の育ての親・平山チカの命日でした』(2020.4.12)

 

その確認は来年早々に予定しておりますが、実は昨年暮れに急逝した叔父(亡母の弟)の遺品整理などもまだまだ時間が掛かりそうなので、段取りをつけつつ合間にやりたい事をやって息抜きにしようと思っています。

南洲寺の墓石なども見たいと思いつつ、今年中には叶いませんでした〜(>_<)

 

そんな中、先日書いた曽祖母・寺山スキ(すぎ?)の父、「町田藤蔵」のことが気になり、シンイチさんに頂いたコメントを読み直して古地図(『鹿児島城下絵図散歩』)と現在の市内地図で確認して、「大興寺」や「善聚院」の辺りをひと通り見入っていたのでした。

 

 こちら↓、「清水小学校」を起点に首を右に90度曲げてみて下さい

 

それから少し後、先日書店で取り寄せ購入して「じっくり読まなくては!」としばらく本棚で温めていた(?)新名一仁さんの『現代語訳 上井覚兼日記』にざっと目を通したところ、とある日の日記に「大興寺」の記述を目にしたのです!(p.101)

 

☆こちら↑、安政年間の地図。画面の右から下部にかけて「善聚院」「善聚院 門前」があります。現在の稲荷町11番。

画面左の「本立寺」の周囲に「大興寺 門前」が並んでいます。こちらが稲荷町12番ということのようです。

☆↓こちらは少し遡って天保年間の地図。画像中央の「三原藤八」「川上〇〇」なども気になるところ。

 

 

 

 

 


明治32年〜40年が気になって

2020-12-23 00:35:06 | 日記

最近のメモや調べ物から、「明治30年〜40年」辺りがキーワードになってるのだけど、時々こんがらがってしまう。。。

 どうも気になるので整理するためにもちょっと並べてみた

 

明治32年‥‥9月25日が、祖母・ふくの実母「寺山スキ」の命日(台湾にて没。享年33、満で31歳)

明治35年‥‥4月18日が、曽祖父の養母「栗川スガ」の命日(鹿児島郡吉田村本名小学校住宅にて没、享年65)

明治40年‥‥12月1日が、高祖母・タネ(名越時敏改め、泰藏の妻)の命日(享年83)

 

 なるほど、これで眠れます。


寺山スキさんの誕生日でした♪

2020-12-18 23:10:51 | 日記

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

さて、12月18日は父方の祖母・ふくの実母、「寺山スキ(読みは「すぎ」かな?)」の誕生日でした

この人がいて、祖母がいる。祖母が生まれたから私の父も存在するわけで、ありがたいことです

 

☆ 今月初め書いた記事、『高祖母・タネと、祖母・フクの実母の没年を比べてみれば‥‥』では「寺山スキ」の没年について書きましたが、誕生日については書いていませんでしたので、ここに記しておきます。

 

 関連記事:『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』(2019.9.25)


投稿のタイミングって、難しい〜

2020-12-05 23:04:39 | 日記

最近の当ブログ記事、投稿の日付が前後してアップしています。

内容によって、また推敲しているうちに実際の投稿日との差が広がってしまい、、、。

 

最近では11月6日の『薩州家のこと、島津仲家のこと』も、実際はつい最近ようやくアップしたものです

11月の投稿8件は大体そんな感じで編集&投稿が前後していました

この前の記事、12月3日の『小松帯刀清廉の誕生日に』も、実を言うと、先ほどやっとアップ出来ました〜

 

なので、時々遡って読んで頂けると嬉しいです

 

では、おやすみなさい


高祖母・タネと、祖母・フクの実母の没年を比べてみれば‥‥

2020-12-01 00:11:38 | 日記

3年前の12月1日に『高祖母・タネの命日でした』を書きましたが、

改めて見返し、明治40年まで生きていた(享年83)ことは感慨深いなぁと思いました。

と同時に、祖母・フクの実母、「寺山スキ」さんの没年を確かめてみたら、

明治32年9月25日(享年32)なんですよね!

(以前の記事→『祖母の実母の旧姓は‥‥「町田」?(スキさんの命日に)』)

左源太の妻・タネの方が、私の祖母の母親よりも長生きだった!ということに今更ながら気づき、驚いた次第です。

 

では、今夜はこの辺で


「地神」石碑と黎明館企画特別展「鹿児島の城館」へ

2020-10-11 23:18:47 | 日記

今月6日午後遅く、黎明館の「鹿児島の城館」企画特別展を見に父と共に出かけました。

黎明館に向かう手前で、平之町の「調所広郷邸跡」道路脇にある「地神」の石碑を確認に。

  

「地神」の読みが分からず検索したら、面白い記事を見つけましたのでご紹介します。

八ヶ岳原人さんのHPより→「南の地神・北の地神」

 

さて、黎明館へと向かいます。

御楼門を裏から眺めてみました。 

 

復元協力寄附者の名簿がありました。父の名前があるかな〜と思いつつ見ると、、、ありません。

やはりそうだ、確か寄附の際に、名前を「公開しない」ことにしていたのでした

ただこの中に、中学の頃の同級生の名前を見つけました。(ガラホで撮ったのと夕刻だったせいか写り悪いです

  

建造途中に見学したことはありましたが、公開後にじかに見るのは初めてでした。

でも、この日は館内の展示を見るのが目的だったので、また次回、表からもじっくり見てみることにして、

館の入り口に向かうと、屋外展示がありました。

 

鹿児島城下絵図です♪

 

 

 

「島津登」の屋敷もあったので帰りに撮ったら、夕方で暗くなってたせいかピンボケ・・・ちゃんと撮れませんでした‥‥

ちなみに画像中央、演武館の道路向かいの一角です

 

展示入れ替えになるかもしれないので、また近いうちに行ってみたいです


書きたいことが溜まってしまって、、、。

2020-09-19 23:54:43 | 日記

今、2日前に書いた記事を推敲・校正してアップしたところです。

「上野の博覧会」と「帝国博物館」

 

9月に1件しか書いていなかったのですが、

あれこれネットでも調べ物しては資料なども読んでいると、

気になることが増えて行き、それぞれに書きたいことが溜まるのだけど、

雑事に追われるうちにPCを開ける時間が作れず、気持ちばかり焦る毎日でした。

(時間はあるはずなのに‥‥

 

7月の最後に書いた記事『岷山? 』の最後にあげた、「中西長門守秀長」について書こうと思っていたはずなのですが、、、、

そのほか、

・「三原藤五郎」と「倉山藤五郎」

・「薩州島津家」と「寺山氏」

なども、今後書く予定です。

 

今夜はこの辺で〜