☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

島津継豊公の後の夫人(1) ー 島津宗信公の実母・妙心院殿の墓

2022-07-08 18:42:28 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みくださって、ありがとうございます 

 

第22代・島津継豊公の「二人の夫人」の墓は、『第22代・継豊公夫人の墓、二つ2022-07-05(カテゴリー| 福昌寺跡島津家墓地)に以前書いた通りですが、

「 継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、

その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生

とある。(『島津歴代略記』参照)」

と書きました。

 

この二人の継豊後夫人、「妙心院殿」と「嶺松院殿」の、どちらがどちらの墓なのかを今回確かめてみたところです。

写真を撮った頃は全く知る由もなかったのですが、ようやく把握できるようになりました。

この継豊公の後の夫人お二人の墓もチェックしてみました。

 

 まずは、継豊公を嗣ぎ若くして亡くなった長男、第23代・島津宗信の実母「妙心院殿の墓」です。

 

案内図左端の歴代12〜14代藩主(茶色の四角表示)の上部に

クリーム色の表示で「継豊後夫人」としてカッコ()の中に「宗信実母」とありました。

 

 場所がわかったところで次は、撮った写真の中に写っていないかを探してみました。

この画像、前面に大きく写っているのは「9代・忠国」夫妻の墓。

その向こう、石塀に沿って並んでいるのが12〜14代の墓で、右端には一つだけ背の高い墓があります。

 

近くで撮ったものがこちら。

 

残念ながら逆光で、おもて面の法名などは読めませんが、こちらが「妙心院殿」の墓ではないかと思います。

神号を調べていないのでわかりませんが、「改號 慈徳小負(員?)命」とあります。

 

側にある石碑。苔むして少々読みづらいです。(苔がなくても読めないかも〜

裏面(ピンボケですけど)

 

 2019年に書いた関連記事もあります↓

第24代藩主・島津重年と嗣子・重豪 』2019-05-26 

     カテゴリー| 第21代藩主島津吉貴と継嗣島津継豊

 

 次回は重年公の実母について、です。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑦ 2018年6月13日、島津家墓地にて出会う

2022-07-07 23:30:53 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

〈福昌寺墓地 案内図〉

 お読み頂きありがとうございます 

2008年2月29日に撮った写真の中で、時代の違う1枚の写真↓がありました。

  

前回の『第六代薩摩守護職・島津師久』からの続きです。

 

 上の写真を撮った10年後の2018年6月13日に訪ねた際には、まだ踏み入れていなかった歴代のご当主様の墓所も見て回って、写真に収めていました。

撮った画像を順に追っていくと、この時は斉興公と真了院殿(お由羅様)の墓所を巡り、

    

石塀の出口から外に出ると久光公の墓所を右手に見つつ、石畳の通路を左に進み、

 

吉貴公の墓所に再会、

 

更に左奥へ進み、幅の広い階段の前を過ぎた先の、

 

小さな階段を上ってみました。

  

 

まず目に飛び込んだのが、黒い蝶が群れ飛ぶ姿

 黒いアゲハ蝶たちが水を飲んでいたのです

 

 

そこにあったのは「島津齊徳之墓」

 

写真がピンぼけ↓ですが、大正8年9月の生まれで、昭和43年1月に亡くなっているようです。50歳くらいですね。

 

 

どなたなのかわからなかったので案内図で確認すると、「齊徳 忠重男子」とありました。

最後の藩主・島津忠義公の跡を継いだ、第30代ご当主・島津忠重様の、そのご子息の墓でした。

 

 

ここから左手を見ると、島津氏歴代のお墓は、この奥にありました‥‥が、

 

続きはまた、次回です

 

 では〜 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑥ 第六代薩摩守護職・島津師久

2022-07-07 14:47:14 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みいただきありがとうございます

 

さてこの数日、福昌寺跡の島津家墓地の画像を並べていますが、

今回はちょこっと小出しにしてみます。

背景からして、福昌寺墓地の一番奥付近を写していますが、

手前の表示は「薩摩第六代 島津師久(もろひさ)」です。

2008年2月29日に撮った写真の中で、これだけ他の区画のものと違っていました。

 

 

案内図(全体図)です。

 

 撮りためた写真をチェックしたところ、10年後の2018年にはこの歴代当主の墓所辺りをたっぷり写真に撮っていましたが、2008年のこの時は、吉貴公の墓所から奥へ入ってみて「こんな古いのもあるんだ〜」と思いつつ、気まぐれに撮ったものと思います。

 

      ↑「薩摩6代 師久」です。

この時(2008年2月29日)は吉貴公墓所が目的だったので、

もっと古い時代のご当主の区域は回っておらず、この1基だけ撮ったようです。

 

 歴代の島津家当主の墓は主に案内図の左側の区域にあり、

薩摩6代・島津師久(もろひさ)をはじめ、第9〜14代までが並んでいます。

(初期には薩摩国守護職・大隅国守護職それぞれで名前が上がります)

※ 島津師久 … 六代薩摩国守護職

  島津貞久三男。母は大友因幡守親時入道 道徳の女子。

  正中二年(1325年)八月十六日、出水木牟礼城に出生。

 父の守護・貞久は文和元年(1352年)頃には、嗣子・師久には薩摩国を、同じく氏久には大隅国をと国政を分けて委ねているが、師久は薩摩国の守護所を川内(せんだい)碇山城に置いた。(『島津歴代略記』より抜粋)

 

 この続きはまた次回。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

⑤ 寿国寺にあった4人の島津家女性の墓

2022-07-06 12:02:37 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

FBで歴史に詳しい方たちとつながることが出来て、新たに気付くことやご教示いただくこともあり、これまでに撮ってきた写真についての解明ができることもあります。

第21代・島津吉貴公の墓所のあたりを一通り撮影したのは今から5年前の2017年6月4日でした。

目的は月桂院殿の墓石をもう少し丹念に見て、写真に収めることでしたが、

吉貴公や月桂院の並びの向かいにある墓石も随分立派な、存在感のあるものだったので、これも是非とも納めておこう、と相成りました。

それがこうして、ブログに記せるようになるとは、我ながら「よくぞ撮っておいたものだ!」と悦に入っている昨今です(笑)

さて、その墓石群ですが、FBFのブログで、市内武町にあった「寿国寺跡」から移設された島津家の女性たちのお墓だということを知ったのです。

その「寿国寺」は、何年か前のこと、『島津歴代略記』を読む中で、島津の歴代ご当主が寺社仏閣を建立されているのを目にし、それぞれが成した事業・功績などをノートに書き出そうとしていたのですが、

『ー 略記』の「第22代・島津継豊」の項に、

「継豊も信仰厚く、祖先源頼朝を祭る(ママ)鎌倉の白旗神社」に神供料を供え、徳川家康を祭る(ママ)日光東照宮に参詣し、鹿児島郊外の武に黄檗宗(オウバクシュウ)の寿国寺を建立しました。」(前述の『ー 略記』p.124)

とあり、それで「寿国寺」をネット検索して見つけたのが、

ブログで繋がった「クマタツ1847」さんの記事↓でした。 

ジージの南からの便り『鹿児島にあった笑岳寺と寿国寺』(2011.12.12) ←是非ご一読を

(別ウィンドウで見る場合は→こちらからどうぞ

 

クマタツさんが子供の頃遊んだ場所が「笑岳寺墓地」と「寿国寺跡」だったそうです。

クマタツさんの記事には「第21代島津吉貴が茶円迫にあった真言宗の地蔵院(ここに鼻取地蔵があった)をここに移した。そして僧の玄黙に命じて再興し、黄檗宗の寺として元持山寿国寺と改め開山した。」とあります。

吉貴公が「真言宗の地蔵院」を移したあと、「黄檗宗の寿国寺を建立」したのが継豊ということでしょうか。

リンク先のブログ記事には、「拙ブログ11月25日に書いたように島津家の墓が4基あり、歴代当主の御夫人や息女、側室が葬られていたが、ここも区画整理にともない福昌寺に改葬された。」と書かれていますが、

その島津家の女性たちの4基の墓が、福昌寺のこの4基だというわけですね

それも「島津綱貴公夫人」などの墓だと、最近になってまた別のFBのお友達から教えて頂いたのです。

 

ジージの南からの便り「鹿児島市武にあった島津墓地のこと、再び』 (2011.11.25) ←こちらも是非

(2017.6.4撮影)

 福昌寺島津家墓地の案内図をご覧いただくとわかるように、それぞれ歴代の藩主のご夫人たちのお墓だったのですね。

以前も墓地案内図を見ていたはずなのですが、改めて認識した次第で、

今になってピンと来たというか、とても嬉しかったのです

それもあって、福昌寺の写真を見直すきっかけを頂き、こうして新たに記事にし直してみようと始めたのでした

 

 左が「斉宣後夫人」の墓。

前述のクマタツさんの記事で、武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」によると

「「一番左側ののには中央に
      蓮亭院殿香顔玉溶大姉
                      と刻まれている。
 これは第26代島津斎宣公後の御夫人で丹波加賀守長祥元の妹にあたる方である。」とある、

とありましたので、4基のうち一番左のが「蓮亭院殿」の墓ですね!

 

中央の大きなものは「綱貴夫人」の墓。その右隣は「綱貴女子」で、右端の「綱貴後夫人」の墓は手前の灯籠に隠れて写っていませんね。

 

 

ずいぶん立派なものだったので、何枚も撮っていました。

こちらが「綱貴夫人」だったのですね(2017年6月4日撮影)

 

 

 

 ちょうど、月桂院殿の墓の亀趺碑越し、右に少しだけ写っていたのが「綱貴後夫人」の墓です。

 

 もっと前の2008年2月29日に撮ったもの↓にはしっかり写っていました。

ほら!上の画像と続けて見ると「こんにちわ〜っ!」てヒョコッと出て来た感じです(笑)

 

 

 月桂院殿の墓と向かい合う「綱貴後夫人」の墓(右奥)

墓石の背面を写す目的で撮ったものですが、ここにもしっかり写っていましたね

 

 

☆『島津歴代略記』でさらに確認してみました。

島津綱貴公は吉貴公の実父(吉貴公は綱貴長男)

吉貴公の母は「二階堂十郎左衛門宣行の女子。お重。蘭室院殿」

 

綱貴公には『ー 略記』で見る限りは4名の室があり、「蘭室院殿」は4人目に書かれています。

おそらく、おそらくですが、これはその「蘭室院殿」かな、と思うのですが、

これもまた次回訪ねた折に、刻字など残っていないか確認してみたいと思います。

   ・

   ・

   ・

と、ここでまたしても

クマタツさんの「2011年11月25日」のブログ記事『鹿児島市武にあった島津墓地のこと。再び。』を読み直して見たら、4基のお墓について詳しいことが書かれていました〜

(上のリンク、ページが飛んでしまうので別ウィンドウで見たい方は→こちらをクリックして下さい)

武にあった島津家所縁の墓地について、「昭和49年2月20日 武小学校PTA郷土誌刊行委員会発行の「武郷土誌」によると、」とあり(内容は上記リンクをご覧下さい)、この墓は「吉貴公の実母(蘭室院殿)」の墓ではないことがわかりました〜

この右端の「綱貴後夫人」の墓「信証院殿 … 江田五兵衛国重の女子。お豊。」の墓でした。

 

 改めて自分で撮った写真画像で「福昌寺墓地 案内図」の部分撮りのいくつかをみて見たところ、

ありました〜!

「吉貴実母」他3基まとまって墓地の奥手、第18~20代ご当主墓の後方に並んでいるようですね。

                       画像右手上部↓

ではまた

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

④ 第22代・継豊公夫人の墓、二つ

2022-07-05 21:13:49 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

吉貴公墓所の右隣に、同じくらい立派なお墓があります。(↑トップ画像)

吉貴公嫡男で第22代・島津継豊公の夫人の墓が並んでいるのです。

 こちら↓は前にも載せましたが吉貴公の墓。画像整理していても見間違うほど似ているのです! 

 

 写真を撮ってからずいぶん時が経ち、その間いろいろな事がありましたので、すっかり忘れていましたが、

この「継豊夫人」の墓石をぐるっと回り込んで後ろから撮ったものもありました。

 

 

 おもて面を撮っていなかったようですが、側面の神号の画像があります。

一部不明ながら「改號 可◯(天?)霊華姫命」と読めます。

 

今度行くときには、おもて面に刻まれている法名も確認したいと思います。

 

 

 墓所案内図で確認しますと、「21代吉貴」の右隣(画像では上隣)に「継豊夫人」とあるのがトップ画像の墓です。

 

おや?と思われた方があるかもしれませんが、有名な「竹姫=浄岸院殿」は図の左奥に表記があるように、「継豊夫人」と書かれたここではありません。

 この墓の配置に関して詳しいことは存じませんので、ご質問は受け付けておりません。何卒ご了承下さい。

 

・まず、吉貴公の隣にある「継豊夫人」ですが、継豊公には「竹姫」の前に、毛利長門守吉元の女子、皆姫=瑞仙院殿がおられました。

なので、最初写真整理をしているときはこの墓については、

「継豊夫人」とあり「後夫人」ではないので、最初の「正室」瑞仙院殿の墓かな?と思っていたのです。

ここでお断り:私の情報はほぼ全て『島津歴代略記』の表記順によります)

 

また、「竹姫」の次に記されているのは、

渋谷喜左衛門貫臣の女子、お嘉久=妙心院殿。

更に、島津求馬久房の女子、お登米=嶺松院殿。

となっております。

 

 それで、今回の写真整理の際に、2018年5月19日投稿↓の自分の別ブログを読み返し、

福昌寺墓地(3)第23代・島津宗信と その母・妙心院殿の墓

なかなか深く分析していたなぁ、と自分でも感心したのですが(笑)、

継豊公の跡を継いだ長男「宗信公(第23代)」の母が妙心院殿であり、宗信公は江戸の芝藩邸に出生、

その兄が22歳で早逝し、跡を継いだ二男「重年公(第24代)」(母は島津嶺松院殿)は鹿児島鶴丸城に出生

とあるのです。(『島津歴代略記』参照)

 

福昌寺墓地には「継豊夫人」の墓の表記はこの2つだけなので正しいかどうかわかりませんが、宗信公の墓所もすぐ近くにあり、あながち間違いでは無いのでは?と思っています。

   ・

   ・

   ・

☆と、ここでこの説はひっくり返ってしまいました

これに関して最後に書いていますが「妙心院殿」の墓は別の場所にあることがわかりました

なので、吉貴公の右隣の墓はやはり「瑞仙院殿(皆姫)」の墓のようですね。 

 

 「妙心院」の刻銘がある石碑(2017年6月4日撮影) これも供養の石碑かな

 

この宗信の母「妙心院」の名が刻まれた石碑は継豊公の墓所内にあるものだったと、気付きました。手前の石碑が上画像石碑の裏側で、画像奥に継豊公の墓があります。↓

宝暦十一年とあります。継豊公は宝暦十年(1760年)九月二十日、鹿児島に60歳で亡くなったそうです。

 

 

・さて次に、「竹姫」の墓ですが、吉貴公の墓の右手奥にあります。↓

 

こちらが「浄岸院殿(竹姫)」のお墓です。(↑2008年2月29日撮影↓)

 

美しい墓石だと思います (右奥は斉彬公の男子・哲丸さまのお墓)

 

 「改號 清川玉藻姫命」とあります。

(史料も何も見ていないので、法名や神号についての確認まではしていません)

 

 

‥‥と、 ブログにここまで書いてきましたが、

画像をよく見ていたら、案内図画面の左上↓にある「哲丸」墓の更に奥まった所(図の左奥)に

「継豊後夫人(宗信実母)」とあるのに気付きました 

こちらが「妙心院殿」ですね〜確認出来てよかった〜

『ー 略記』の配置図とも照合して「継豊後夫人」二人についても

更に(自分の中で)判明したことがあるので、また次回

 

 改めて、自身の画像整理のためにメモとして記しているだけ、画像を並べているだけなので、

地元の観光を盛り上げる目的でも、歴史について語る目的でもなく、

何かの参考になればそれはそれで嬉しいですが、

ご質問は一切受け付けておりませんのでご了承下さい(まぁ、ないとは思いますが

では

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

③ 吉貴公後の夫人の墓、その2:慈恩院殿

2022-07-05 18:26:00 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

前回の月桂院殿の墓に続き、もうひとりの吉貴公 後の夫人の墓です。

墓所の案内図画像↓、中央付近に小さく「吉貴 後夫人」とあります。

福昌寺跡の墓所には、それぞれの墓全てに表示があるわけではありませんので、重立った方以外は墓前での確認はできません。

『島津歴代略記』巻末の配置図のコピーを持って行った時もありましたが、5年前のこの時も後で画像を見ながら案内図と照らし合わせることに。

  

 

その中で、「これは‥‥墓石、なのか?」と思うものがあり、後で見てもわかるようになるべく周りの景色を写り込ませつつ写真に収めましたが、未だよくはわかりません。

それが、こちら↓です。

【画像1】(2017年6月4日撮影)

 

背の高いものはおそらく「六地蔵塔」。

手前のものが墓石なのか石碑なのか、今もこういった石碑や仏教に関するものなど詳しくはないのですが、4年前、別ブログにアップした時にも「六地蔵塔」というものもよく分かっていませんでした。

(神道についても特に詳しくはありませんが…

 

また、一見墓石に見える石柱も、反対側には刻字があり改めて読んでみました。

画素数が小さく拡大してもはっきり読めないのですが、まず「浄國院殿‥‥」と読めます。

そのあとはよく読めませんが、左2行には「光明真言 百万遍」「光明真言 七十万遍」とあり、

亡くなった方への供養として奉納された石碑のようです。

【画像2】(2017年6月4日撮影) 後ろの階段は「宗信公墓所」への入り口↓です。

 

 

【画像1】にも写っていますが、『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』の記事で書いた「鍋保丸」の墓の右隣にある「重豪女子」の墓が右奥に見えます。↓

左手の石垣の向こう側は一段高くなっていて、「継豊公」の墓所区画です。

【画像3】

 

 ← 継豊公墓所への入り口。鍋保丸墓の向かい(Click

 

ここの案内図や『島津歴代略記』の巻末の墓地配置図で確かめてみるのですが、

「吉貴後夫人」の墓がはっきりしません。

もしかしたら、【画像2】の平台のようなものがそうなのかな?とも思いますが、

墓石が立っていません。いったいこれは、なんなのでしょうね?

 

ということで、「吉貴公後の夫人、慈恩院殿」の墓石ははっきりしませんでした。

※ 慈恩院殿 ‥‥ 相良大蔵長賢の女子

『島津歴代略記』には

夫人 ‥‥ 桑名藩主松平越中守定重の女子。福姫。零竜院殿。

      名越右膳恒渡の妹。お須磨。月桂院殿。

に続いて記載されています。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

② 吉貴公後の夫人の墓、その1:月桂院殿

2022-07-05 17:49:05 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 

 前回の『吉貴公の祖父・島津綱久墓など』に続き、

カテゴリー「福昌寺跡島津家墓地」として過去に撮った画像で綴ってみます。

 

墓所の案内図にあるように、第21代・島津吉貴公の後の夫人の墓が2基あることがわかります。

その1基は吉貴公の墓の左隣にあります。

トップ画像中央の1基で、隣り合って立っているのは重豪公の後の夫人の墓です。

 

☆ここからは2008年2月29日に撮った写真をいくつか並べてみます。

継豊公墓所を背にすると、吉貴公の墓の前の通路があります。(福昌寺墓所 案内図) 

 

 第21代・島津吉貴公の墓(2008年2月29日撮影 )

 

吉貴公の墓に向かって左隣に、2基並んでいますが↓

右が「吉貴公後の夫人・月桂院殿(名越右膳恒渡の妹、お須磨)」の墓。亀趺碑(きふひ)があります。

2基のうち左は「重豪公後の夫人・慈光院殿(市田喜内貞行の女子、お登世)」の墓です。

さらに画像左に写っているのは、案内図によると「吉貴女子」の墓ですね。

 

☆追記:2022.7/6(15:21)あとになって見つけた画像、こちらの写真にも左端の「吉貴女子」の墓が写っていました(2017年6月4日撮影)

 

 慈光院殿(左)と月桂院殿の墓石が並ぶ墓所。亀趺碑も見えます。右には5年前の父がちょこっと写っています(笑)

 

 

亀趺碑越しに吉貴さまのお墓を写しました。(2008.2.29)

 

 吉貴公墓所の前の通路

 

 通路の向こう、階段を降りた奥には斉興公とお由羅様(真了院殿)の墓所があります。

  

 

 こちらは2017年6月4日撮影した島津吉貴公の墓です。2008年当時よりも綺麗になっています。

玉龍高校の生徒さん方が墓所のお掃除をされると確か聞きましたが、

お手入れしてくださったのかな?と思います。ありがたいことです

左隣↓に2基、月桂院殿(吉貴後夫人)と慈光院殿(重豪後夫人)の墓も見えます。

 

 

さてさて、吉貴公後の夫人・月桂院殿です。

前に『月桂院とは2017-05-19 カテゴリー: 名越左源太と家族 として書きましたので、ご一読いただけると嬉しいです。

画像を並べてみます。ここからは主に5年前、2017年6月4日撮影のものです。

 

残念なことに、墓石のおもて面は剝落、というか削られた?と思えるほどの損傷。

劣化・風化もあるかもしれません。

  

後ろには特に何も無いように見えました。

 

側面です。ハッキリとはわかりませんが、「桂(?)光珠姫命」と読める、かな?

 

斜め前から。かなり劣化も見られますが‥‥

 

2008年の画像↓とそう変わりはないようです。

 

亀趺碑の画像もいくつか。

 

表には梵字と「奉唱滿愛染明王咒一百万遍成就所」とあります。

(残念ながら知識なく、意味はわかりません…)

 

裏を見てみます。

 

 ←亀さんの尻尾〜

 

 

「太守継豊公御實母爲御武運長久 御‥‥」、上部がよく読めないので、2008年の画像も並べてみます。

 

上の続き、「御子孫繁栄國家安全◯民豊楽‥云々」と読めますね。

「享保萬年第十乙巳八月吉祥日」とあります。

 

調べたら1725年が「享保十年 乙巳」でした。

吉貴公が亡くなったのは延享四年(1747年)十月十日、齢七十三。

‥‥ということは、月桂院殿は吉貴公より22年も早く亡くなったのでしょうか?!

継豊様が生まれたのは元禄十四年(1701年)十二月 二十二日(江戸高輪藩邸に出生)

お須磨さま、おいくつだったのでしょうね‥‥(これって正しい解釈?)

 

(↑2008年2月29日撮影↓)背面から。中央が月桂院殿、右が慈光院殿。

 

 慈光院殿(重豪後夫人)の側面。こちらは5年前の2017年6月4日にも撮っていました。

「改號 慈心明慧姫命」と読めます。

 

 慈光院殿の墓、おもて面です。「慈光院殿佛心慧證大姉」とあります。

こちらは月桂院殿の墓と比べるとずいぶん鮮明に文字も読める状態。

吉貴公が第21代、重豪公は第25代、それぞれの室ですから年代が違うのでそれもそうかもしれませんね。

ただ!残念なことに、こんな綺麗な状態なのに、背面を見ると‥‥

落書きが刻まれていました〜 残念ですね。。(2017年6月4日撮影)

 

 

以上、吉貴公後の夫人の墓2基のうちの1基、月桂院殿の墓の画像と、

隣接する重豪公後の夫人・慈光院殿の墓、でした。

「ご覧いただきありがとうございました

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

① 吉貴公の祖父・島津綱久墓など

2022-07-03 19:22:42 | 福昌寺跡島津家墓地 2018

 いつもお読みいただき、ありがとうございます

 

別ブログに『福昌寺墓地(2)第21代・島津吉貴公の墓所』として書いていますが、

こちらにも記録として、過去に撮った写真を個別に、

墓所の配置図参照の上検証しつつ、載せてみようと思います。

こうすれば、自分でもわかりやすいので  

 

 墓所の案内図です。('17.6.4撮影)

 

上部左手に、「第十九代 島津光久長男 島津綱久」の墓が表示されています。(「18代 家久」の左下)

☆トップ画面にもありますが、こちら↓をクリックすると、大きく表示されます。

スマホだとどの程度の大きさに表示されるのか??ですが。

 島津綱久様は第20代・島津綱貴公の実父であり、第21代・吉貴公の祖父に当たります。

「光久長男。母は伊勢大隅守貞豊の女子。曹源院殿。

 寛永九年(1632)四月一日、江戸藩邸に出生。初め虎寿丸・又三郎・久平。」

以上、『島津歴代略記』より

 

そのそばの様子も撮っていたので並べてみます。

 

 こちらは「鍋保丸(綱貴男子)」の墓。(案内図の中央)

その右隣は案内板に表記がありませんが、

『島津歴代略記』を見ると、「71. 継豊女子」となっています。

(「71.」は『ー 略記』でのナンバリング)

 

 

 その奥には塀を隔てて3基、左から

「敬姫(重豪女子)」「重豪夫人」「斉宣夫人」の墓石です。

☆画像は2017年6月4日撮影

 

 アップした後で気づきましたが、例の別ブログには

同じシリーズの『福昌寺墓地(4)鍋保丸(島津綱貴男子)、重豪夫人などの墓所』2018年06月05日

があり、そこにアップしていたものと重なります(2022.7.4 追記)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする