☆☆ゆきのおと Yuki's Note ♪☆☆

☆名越(なごや)左源太時敏の玄孫が綴る日々のあれこれや家族の歴史. 
☆記事・写真などの複写・転載はご遠慮ください

島津對馬の長女・スガ

2018-01-11 23:29:51 | 曾祖父・轟のこと
☆いつもお読み頂きありがとうございます♪
年が明けて最初の投稿です。本年もどうぞよろしくお願い致します。^_^♪
 
 
さて、今日1月11日は、去年の3月の記事『島津登について』に書いた、曾祖父夫婦が子供ふたり(祖父とその姉)共々養子に入った先の、養母(要するに今の姓である)栗川スガの誕生日でした。
そして余談ながら、偶然にも私の兄の誕生日でもあります。
 
ところで、この曾祖父・轟の養母・スガについては、1837年(天保8)生まれで1902年(明治35)4月18日に吉田村で亡くなった(享年数え年で66)ということと、「明治4年2月17日 鹿児島県鹿児島郡上竜尾町 島津對馬 長女 入籍ス」ということくらいしかわかりません。(☆昨年が生誕180年にあたりますね)
 
ただ、以前からブログを見て下さっている黎明館の前・調査史料室長(現・学芸課長 )内倉氏が昨年送って下さった史料で、和泉家の流れを継ぐ今和泉島津家に「島津對馬 忠喬」とあり「こちらでは?」とご教示下さいました。
この「島津忠喬」は篤姫の父・島津忠剛(ただたけ?ただとき?ただかた?)の父(養父)にあたる方で、忠剛のあとは嫡男・忠冬が継いだのち亡くなったためその弟・忠敬(ただゆき)が今和泉家を継ぎました。
※『篤姫』より岡田義徳さん演じる島津忠敬
 
また、忠剛の次男(3男?)・久敬(ひさたか)は永吉島津家に養子に入った、と大河ドラマ『天璋院 篤姫』でも言っていたように記憶しています(この件は手元に資料がなく未確認)。
この永吉家を、名越左源太の妻・タネの弟・島津久籌(ひさとし)が継いでいることは以前にも書きましたが、この辺りの繋がりでもあるのかもしれませんね。
 
※以上を書くために、きのうから資料を読み直したりして、実際に書き終わったのは12日の深夜。
 
永吉島津家と前期・後期の佐土原家とのこと(←これについては初めて知りました!)や、今和泉家など時代の流れで途絶えた家系を吉貴の嫡男・継豊が弟たちに復興させたことや、その他の分家なども読み返しているうちに時間が経ってしまいました(泣)
 
*「忠郷(たださと)」→「忠卿(ただあきら)」についてはチェストブログに以前書いていたので、宜しければお読みください。
 
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曾祖父・名越轟と西南戦争−2

2017-08-27 02:38:49 | 曾祖父・轟のこと

いつもお読み頂き、また気がつけば「いいね!」も頂いて、
本当にありがとうございます♡
     ☆☆☆

さて、今年5月に『曾祖父・名越轟と西南戦争』と題してほんの少し記事を書きました。

その後、そのままになっていたのですが、
6月にFaceBookを始めたところ、最近参加させていただいた「鹿児島の歴史を学び、語り、伝えよう」というグループ
とあるサイトを紹介していたことを切っ掛けに、また書いてみようと思い立ちました。

今回はもう少し細かく追っていきたいと思います。

切っ掛けは前述の通りで、『西南役余話』というサイトの
「肥薩国境の戦闘」のページをFBグループの参加者の方の紹介で見てみたんです。

すると西南戦争時の詳しい状況が時系列で調べられていて、「これは凄い!」と。
 ※このサイト、有り難いことにリンクフリーということなので『西南の役・データ集』をご紹介します。

前にも書いた通り、曾祖父・轟が西南戦争であちこち転戦していることは、
轟の兄・時成さんの子孫の内村八紘氏が纏められた資料『名越左源太と長男・時成(変名・三笠政之介)第一回薩摩英国留学生の消息』や
以前このブログで書いた日記『北川町教育委員会様へ。』(2010年10月3日)にあるように
北川町教育委員会が平成3年3月に発行された冊子『西南戦争、戦跡を訪ねて』に書かれていたのですが、今ひとつ参戦・転戦の流れをつかみきれず、随分前に「安政橋」をキーワードに調べてみたりもしたものの、どの大隊の第何小隊だか、どこで戦って手傷を負ったのか、これまでちゃんと把握出来ていなかったので
このサイトを頼りに一度照合して書き記しておこうと思ったわけです。


     ☆☆☆

ではまず、内村氏の資料(元は『西南記伝』下巻二 「14. 名越 轟伝」)から辿ると、

  ↓↓↓

 ※ 国立国会図書館デジタルコレクションコマ番号228で読めます('21.2.23 追記)

☆「明治十年 西南の役、薩軍に應じ、五番大隊二番小隊に属して、熊本に出て、」とあるので
「熊本城の戦い」を見てみます。
(※北川町の冊子『西南戦争、戦跡を訪ねて』巻末資料に、発進時の薩軍編成は、五番大隊は池上四郎が約2000人を、
  桐野利秋が四番大隊(約2000人)を、別府晋介が六番・七番(各約1500人)を率いたとあります)


☆次に「熊本に出て、二月二十二日、※安政橋方面に戦いて傷を負ひ、治療し、後、本隊に復し、山鹿、隈府方面に転戦し後、奇兵隊に属し、」とあります。傷の程度は不明ですが、曾祖父が傷を負ったその日に例の「軍旗事件」があったんですね!
(※「安政橋」熊本市市街部を流れる白川に架かる橋でのちに安巳(やすみ)橋と名前を変えたが今でも残っている)

そこで、「山鹿の戦い」を見ますと、「3月21日 官軍、山鹿を占領。薩軍、※隈府方面へ撤退」とあり、合致します。
(※「隈府」を何と読むのか判らず、調べたら「わいふ」でした。旧菊池郡隈府町(わいふまち))

また「大分方面の戦闘」には「4月30日 野村忍介率いる奇兵隊、日向に出発。」とあります。


☆続いて、「奇兵隊に属し、豊後竹田に於て、同隊(奇兵隊)十三番中隊 隊長と為る。是より日州各地に戦いて利あらず、…中略… 六月十七日、薩軍 豊後方面三国峠を守り、夜半官軍の襲う所となり、大敗して退くや、轟、時に旗返峠の険を守りしが、」ということで、8月14日までの攻防が伺い知れます。


☆そしていよいよ、「是より日州各地に戦いて利あらず、八月十七日、長井村に於て官軍に降り、懲役2年の刑に處し東京市 市谷監獄に幽せらる十年の役」ということの様です。「大分方面の戦闘」にも「8月15日 和田越の戦い。薩軍、長井村(宮崎県)に退却」とあり、納得しました。



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曾祖父・名越轟と西南戦争−1

2017-05-27 23:42:00 | 曾祖父・轟のこと

来年の大河ドラマ『西郷どん』に関連して、最近も西郷隆盛役の鈴木亮平さんや原作者の林真理子さんが来鹿されたニュースがありました。

さて、西郷さんと言うと思い浮かぶ事柄がいろいろありますが、明治十年の役=「西南戦争」もそのひとつ。

これまでにも少し触れたことがありますが→(2010年10月3日の記事「北川町教育委員会様へ。」)、
私の曾祖父も西南戦争に加わり各地転戦していた記録が残っています。

☆きのうと今日のツイートから↓

 



☆なお、これに関連して後日もう少し書いてみたいと思いますが、今日はひとまず取っ掛かりとして記しておきます。

 この続編はこちら↓(補足:2021.4.21)
曾祖父・名越轟と西南戦争−2』 (2017-08-27)カテゴリー : 曾祖父・轟のこと

 

 

 

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曾祖父・轟の名を台湾のサイトに見つける

2016-09-12 17:21:47 | 曾祖父・轟のこと

秋場所も始まりました。
皆様、ご無沙汰しております。

夏の暑さもようやく治まりつつあるこのごろ、久しぶりにブログを書いてみる気になりました。


前回の記事をアップした直後、U室長さんから頂いた資料をヒントに、早速、曾祖父の名前と"台湾"で検索をかけてみたところ、「中央研究院 台湾史研究所」の『台湾総督府職員録系統』のページに"轟"の名前を見つけました。
(※U室長さん、お礼も申し上げず失礼しており申し訳ございません。。)


そこからわかったこと。
明治29年には轟が台湾に渡っていたということ、台湾総督府の職員であったこと、などです。

明治14年生まれの祖父・篤彦が台南の嘉南大圳(かなんたいしゅう)水利組合で庶務の仕事をしていたことは父から聞いているのですが、曾祖父・轟がどんな事をしていたかはよくわかっていませんでした。


以前にも検索してみた事はあったのですが、よくある「"○○轟"さんの姓名診断」みたいなものばかり並んでいて、最初の2〜3ページでそれ以上見るのをやめてしまってました。

でも今回はしつこくページをめくってみたので、探し当てる事が出来ました。

ここ「明治二十九年‧澎湖島廳」のページに轟の名があります。


冒頭のページの明治29年の職員録をクリックすると616ページに名前を見る事が出来ます。
「台湾総督府職員録系統」の明治29年の616ページ


台湾のサイトは私には解読できませんが、祖父の書いた物をもとに1999年に発表されたものもあるようです。

国立台湾師範大学のサイトより)←リンク先が見られなくなっていましたが探し出して最後尾↓に新たにリンクを貼りました
     ↓

栗川轟(陳春暉 譯)(1939)
1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉),《硓咕石:澎湖縣立文化中心季刊》16:2-12。
※このリンク、問題あるようでしたらどうぞご指摘ください。

曾祖父・栗川轟の「四十二年前の澎湖(ぼうこ)の水産業」を1939年に陳春暉という方が訳したものが、1999年に「一百零二年前澎湖之水産業概況」と題して《硓咕石:澎湖縣立文化中心季刊》に載った、ということかと思います
(1999年の102年前だから1897年、同様に訳書出版の1939年の42年前は1897年=明治30年の論文ということになります)

(↑この部分、2018.1.25 祖父・篤彦の命日に追記)


さらに澎湖島(ぼうことう)で検索して興味深い記事もありました。

藤沢市文書館のサイト、「文書館だより 文書(ふみくら)」の一番下、連載記事のようです。

ちょうど曾祖父・轟が職員であった前年、明治28年の様子。


そして、先日注文していた片倉佳史氏の『古写真が語る台湾 日本統治時代の50年 1895-1945』と一青妙さんの『わたしの台南 「ほんとうの台湾に出会う旅』が届きました。




今日はこんなところで。

 

「国立台湾師範大学」のリンク先からこちら↓に変更です('22.8.11追記)

栗川轟(陳春暉 譯)(1939)
1999〈一百零二年前澎湖之水產業概況(原名:〈四十二年前の澎湖の水產業〉),《硓咕石:澎湖縣立文化中心季刊》16:2-12。

 西暦表示がややこしいのですが、1939年の出版時から42年前ということで、1897年=明治30年のレポートですね。

以上、2022年8月11日の追記、でした

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