9月12日、2020グループZAZA連続講座第1回を開催しました。多くの方々にご参加いただき、平井美津子さんの現職教員としての、また研究者としての素晴らしいお話をお聴きすることができました。平井美津子さんの了承のもと、当日配布したレジュメを2回に分けて掲載します。なお、次回は11月14日(土)14時より、エルおおさかにて開催しますので、ぜひご予定ください。
2020年グループZAZA・連続講座第1回 2020.9.12
原爆孤児と支えた人
子どもと教科書大阪ネット21事務局長 平井美津子
はじめに~新しい民主主義の夜明けを迎えて
5年前のこと覚えてますか?「民主主義ってなんだ?」「これだ!」…昔のシュプレヒコールじゃない、新しいコールに夢中になった夏。あちこちでスタンディングが行われて、何かに組織されてじゃなく、みんなが自分の意思で安倍NO!を表示。
安倍政権のもとでの数々の悪政、ようやく終止符をうった。これは病気のせいではなく、私たちの長年の闘いの成果だ。でも、残念ながら、まだまだ私たちを休憩させてはくれない政権が続く…らしい。でも、民衆の力は微力であっても無力ではない。希望を失わずに前へ前へと思う。
1.ふってわいた広島との出会い
2013年に本庄豊さんが元孤児施設「積慶園」(京都市)から大量の写真や史料を発見したことがきっかけで、8月「平和のための京都の戦争展」で「京都の戦争孤児展」を開催された。そのことが京都新聞に大きく取り上げられ、大きな反響を呼び、元孤児の方や孤児施設の方から続々と連絡が。真宗佛光寺派大善院で孤児たちの遺髪・遺骨8体が発見され、調査が開始されることになった。その調査をもとに、10月に大善院で「追悼・法要の夕べ」を開催。『平和を学ぶ戦争遺物』第3巻(汐文社)に本庄さんが戦争孤児の遺骨遺髪のことを書き、出版された。
この経緯の中で、汐文社より戦後70年企画として『シリーズ 戦争孤児』全5巻の編集・執筆の要請があり、本庄さんを含め歴史教育者協議会の仲間で2014年1月に執筆の会議を開いた。出版期限は、2014年度内。この会議の時点で1年余り。だれがどこをやるかでは、すでに本庄さんが京都周辺の孤児、エリザベスサンダースホームを決められており、平井の沖縄はすんなりと決定。広島・長崎の段になって、広島歴史教育者協議会の方にお願いするも…。最終的に平井が。
2.原爆孤児と精神養子運動
○ 取材と資料収集に難航
沖縄に関しては、沖縄平和ネットワークの仲間や沖縄タイムスなどの協力があり、春休みや5月6月に集中的に沖縄取材。目途はついたものの、広島は?広島平和記念資料館にいっても、孤児に関する展示はほとんどなし、学芸員の反応も…。
そんなときに大きなヒントをもたらしたのが『歴史地理教育』688号(1995年8月)の特集「被爆60年 ヒロシマ・ナガサキを教えよう」。ここに登場していた山田寿美子さんの取材から始めることに。広島を調査する上でぜひともお話を聞きたかったのが広島歴教協の高橋信雄先生(現在は広島教育研究所・原爆遺跡保存運動懇談会副座長)。孤児調査でお話を聞けそうな方などについてアドバイスをもらう。
その日がまさに歴史的豪雨災害が発生した8月20日。翌日は豪雨災害のさなか、高橋さんに紹介してもらった小西さんを取材。そこでめぐり会ったのが『おこりじぞう』の作者山口勇子だった。ここからどんどん証言者に出会うことに。
○原爆孤児とは
・ 疎開中に原爆で両親を失った子ども。
・ 親と一緒にいた、もしくは同じ広島市内にいて自らも被爆し、両親を失った子ども。
・ 片方の親はいるが被爆などにより、困窮している子ども。
推定で広島市内に6500名と言われているが、定かではない。
広島市及びその近郊にある11の孤児収容所と、市内の親せきや知人の家で養育されている原爆孤児の数は、推定1000名を超える。これらを原爆孤児という。
○原爆孤児精神養子運動
・ 始まりは、米国のノーマン・カズンズらによる「精神養子運動」(1949年)
・ 『原爆の子』の編著者で被爆者である長田新が国内での「精神養子運動」を提唱。
・ 1953年2月22日「広島子どもを守る会」発足。(会長・森滝市郎、副会長・山口勇子、土谷巌郎)。長田は「精神養子運動の仕事は慈善事業ではない。そういう方向に向いてはならない仕事だよ。平和運動のひとつとしてやりぬくのだよ」と言い続けた。
・ 最初は特別新教育をめざす学生から始まった。
・ 精神親は精神養子となった子どもに月千円の仕送りと手紙を送る。最高十八歳になるまで続ける。この手紙こそが重要な役割を持った。
○山口勇子と笑わぬ子ら
・ 「あの日から母は私たちだけの母ではなくなりました。」
・ 孤児たちを探す作業に難航する。
・ 孤児たちの置かれていた状況
ぼくは原爆が落ちてから十日目の八月十六日に生まれ、母は八月二十四日に死にました。だから母の乳は飲んでいません。近所の人たちは、乳がないので育つまいと言っておられたそうです。でもおばあちゃんが米をたいたおも湯を作ったりミルクは当時何もかもみな配給だったので朝早くから行って長い間待ってもらっていたのだそうです。 冬などはぼくの身体がなかなか暖まらないのでおばあちゃんの着物の中に入れて寝ておられたそうです。 夜は泣いたらみんなが目をさますのでそっと外に出てぼくを寝かせていたのだそうです。こんなに苦労してぼくを育ててくださったおばあちゃんは今だに苦労しておられます。おじいちゃんが原爆のため病気で働けないのでおばあちゃんが働かないとぼくたちが食べていけないので、おばあちゃんは毎日毎日働きに行っておられます。 おばあちゃんの働いておられる所は石切り場で大きな石をかつぐ仕事です。夏などは汗で着物がびっしゃこにぬれています。こんなにおばあちゃんが苦労さなさるのもみんな戦争があったからだと思います。戦争がなかったらかあさんも生きておられ光復に生活していることだろうと思うからです。 ぼくは早く大きくなっておばあちゃんを助けてあげたいと思います。それにはおばあちゃんが長いきをして下さればいいがなあと思っています。 こんなにぼくたちを不幸にした戦争が二度とおこらないように心から願っています。(十四歳、男子、中学二年生。祖父母・姉(十七歳・女工員)とくらしている) |