昨日の「君が代」不起立解雇撤回訴訟控訴審において控訴人3名が意見陳述を行いました。以下は当日配布された意見陳述の内容です。どうかお読みください。そして、「君が代」不起立というだけでなぜ教職の場から追放されなければならないのか、その不当性について多くの方々に訴えたいと思います。
2017年10月24日 野村 尚
2017年10月24日
「君が代」不起立解雇撤回訴訟控訴審
第1回弁論 意見陳述
野 村 尚
1.はじめに
私たち控訴人三名は、本年5月10日に地裁民事5部で内藤裁判長による不当判決を受けました。この判決では、私たちの訴えについては、却下や棄却というものでした。しかも判決は、事実認定について多くの事実誤認があり、原告の主張した事実を検討することなく、一方的かつ独断的に認定し、さらに結論として「反省」や「反省の態度」の有無を理由とするという控訴人各人の内面を勝手に推断した不当な判決でした。
控訴審にあたり、控訴人の主張に真摯に向き合い、慎重な審理をお願いしたいと思います。これから控訴人3人が、それぞれこの控訴審の口頭弁論の場で、それぞれが最も審理していただきたいと考えていることや思いを述べさせていただきます。
2.大阪府国旗国歌条例の違憲性について
最初に、私は、国旗国歌条例の違法性について、原判決がいかに誤っているかを訴えたいと思います。原判決は、国旗国歌条例の目的を「一般に国旗国歌に対する敬意の表明が、慣習上の儀礼的所作として尊重されるべきことなど生徒に感得させることを目的とするもの」(原判決70頁下から4行目から2行目)と断じています。しかし、これには3点にわたる問題があります。
第1に、国旗国歌に対する敬意の表明は、憲法にも教育諸法規にも国旗・国歌法にも定められていないこと。
第2に、一般に国歌斉唱等の行為が国家に対する敬意の表明の要素が含まれるので、それを是認しないものにとっては、思想・良心の(間接的)制約となると一連の最高裁判決が判示していること。
第3に、「生徒に感得させることを目的」として合憲としていることです。これは、明らかに国歌斉唱時に、全教職員が率先垂範して起立斉唱することを、生徒に見せつけること(教育方法や教育内容)によって、生徒に疑問を抱かせず起立斉唱させる(これが感得するということ)という教育目的を達成しようとするものであり、最終的には間違った愛国心を高揚させるためのものであることは明らかです。これを合憲とすることは、教育の国家支配を容認し、教育基本法にある「不当な支配」に抵触するものです。
3.再任用合格・更新取消に対する訴えを、原告不適格として、却下したこと
原判決は、一方的に「公法上の任用関係である以上、任用行為がなされて初めて公務員としての地位を取得するものであり、未だ任用関係がない時点においては、再任用を希望する者と被告大阪府との間において何ら法律関係も形成されていない」(原判決68頁)とし、再任用合格取消や再任用更新取消は無効という私たちの訴えを却下しました。
第1に、任用という法律概念を用いた不当な勤労者の権利侵害であることです。公務員の任命権は、憲法上主権者である国民からの負託によるものであり、国民・勤労者の権利を侵害しないことが前提であることは論を俟ちません。任用において、行政権が辞令を発令しない限り、公務員としての地位を保障されないと解することは、私たちの場合4月1日に辞令が発令されない限り、再任用希望者は、法律的に全く無権利状態に措かれることになり、その間は何ら法的保護も与えられないということであり、憲法27条「勤労の権利・義務」に明らかに反する解釈です。
第2に、原判決の決定は、任用希望者が不当な選考結果について、異議を申し立てる権利を奪い、地方公務員法の公正な採用選考定めた諸規定を空文化する結果となることです。そもそも再任用選考で合格し、辞令が発令され公務員の地位を取得した者が、不利益処分を受けたとして任命権者を訴えることが、現実にあるでしょうか。訴えるのは、不合格とされ辞令が発令されなかった者や、私たちのように合格を取り消された者ではありませんか。つまり原判決は、私たちを原告不適格と認定することによって、採用選考における違法性を訴えることのできる者がいないという、司法審査のおよばない空白領域を作ったことになります。司法としての社会的責務を果たしていただきたいと思います。こうした判断では、国民・勤労者の権利は不当に侵害され、しかも司法がそれを推進していると指弾されかねません。
4.野村に関する事実認定について
原判決は、控訴人の事実に基づいた主張について一言たりとも触れることなく一方的な事実認定をしたうえで、野村に「反省」がみられないとしていることです。予め決めたおいた結論を導くために、校長や府教委との応答のなかでの、文脈から切り離した片々たる材料を探したということがよく分かります。多くのことがありますが、特徴的なことだけを述べます。
第1に、「今日は望ましいかたちであったでしょうか」という校長の発言は、卒業式の何について「望ましかったか」ということが不分明であり、野村が回答を留保したことは当然の対応であったことです。同じことが、府教委の担当者の発言「校長先生がそう言われていますが」という発言に対する私の「校長がそう言うんだったらそうなんでしょう」という発言にも当てはまります。
第2に、「管理職2人が現認した」という校長の発言の問題性について検討がなされていないことです。人事委員会の公開口頭審理の調書にもある通り、これが、私が校長に対して不信を持ち、その後卒業式のVTRを確認して校長の発言が嘘であると確信し、顛末書の提出をしなかったことや、府教委の事情聴取の場で、府教委の担当者の「管理職が現認した」という発言に対し、野村が「管理職とは誰ですか」と問い返したことの原因となったものです。
第3に、校長との意向確認をめぐって50分にわたっている面談しているにも関わらず、その内容について一切触れることなく、ありもしない「資質向上研修」を「研修と称した」と発言したと反省していない根拠としてあげています。そもそも大崎証人の「資質向上研修」なる証言が間違った認識によるものであることは、府教委の準備書面でも明らかです。
これら、当然ともいえる野村の対応について、原判決は、被告府教委の主観的判断に基づく主張のみに依拠しながら、しかも被告が主張もしていないところの「反省していない根拠」の一つとしてあげています。
5.「反省していないこと」を理由に棄却した判決が、全く不当なこと
原判決は、原告野村の発言を取り上げ、さらに「④原告野村本人尋問においても、本件野村職務命令の適法性について疑問がある旨供述していること」(原判決93頁4行)として、法廷での弁論内容まで「反省」がみられない根拠にしています。
第1に、そもそも訴えることが「反省していない」と、いわんばかりの口ぶりです。ここでも、合格を取り消すに足りるだけの理由を見いだせなかった裁判官が、「国家に敬意を表しない者は、公務員として存在することは許さない」という自分の独善的信念で下した判断に他なりません。だから「自らの歴史観・価値観等を最優先にし、それに沿わない条例、通達、職務命令には従わないという確固たる意志を有していることがうかがわれ、(中略)、そのような態度が公務に従事する公務員として許されるものとは言い難い」(原判決93頁8行~12行)と決めつけているのです。しかしこれは事実に反し、また個人の内面を勝手に推断した全く独善的判断であり、裁判官として許されない判断です。
第2に、国旗国歌に対する敬意の表明は、すぐれて個人の価値観や思想に関わることです。原判決は、今後の起立斉唱という将来の行為(未遂の行為)に対して、「反省があるか、ないのか」という裁判官の主観的判断によって、控訴人らの内面を推断し、再任用合格取消の可否を判断したことになり、こうした判断を司法の場に持ち込むことの違法性は明らかです。
私たちは長年の教職にあった者の経験として、このような「反省の有無」を問題とする者は、生徒・教員の如何を問わず、好悪の感情が先行した誤った判断をなす者であり、逆にそのような評価を下した者の思想的立ち位置の偏向を如実に示していることを知っています。
繰り返しになりますが、公正な審理をお願いするものです。
意 見 陳 述
菅 平 和
私は、原判決が、事実を根拠とせず、推測により、原告の認識や行動を審理していることや事実誤認に基づく判断により、再任用の審査が行われていることについて陳述します。
1.原判決は、原告菅に職務命令が出された事実を明らかにしていない。
ア)原判決では、大澤校長(以下校長と記す)が2012年2月14日の職員会議で発した「これは私からの職務命令です。」という発言をもって「本件菅職務命令」(原判決P12)と判断している。
しかし、この職員会議に提出された「平成23年度第5回大阪府立堺工科高等学校卒業証書授与式役割分担表」には、「※当日が休日及び休暇申請の出ている教職員は未記載」との補足説明があり、役割分担表に記載されている教職員に校長からの職務命令が発せられたものである。
この「分担表」には、卒業式当日が週休日(勤務を要しない日)であった菅の名前は記載されておらず、この時点で菅に職務命令が発せられていないことは明白な事実である。
にもかかわらず、原判決は、職員会議での校長の職務命令を「本件菅職務命令」として菅に職務命令が発せられたかの想定をしているが、事実誤認である。
イ)原判決は、卒業式の前に菅が校長から「卒業式に参列するのであれば、保護者席で参列するか、勤務日に振り替えた上で教職員席で参列すること、教職員席にいて国歌斉唱時に着席すれば、懲戒や指導の対象になる」(原判決P77)という指導を受けていたことを根拠に、菅は「校長の指揮監督下に入ることを十分に認識していたと認められる。」(原判決P77)として、「本件菅職務命令は有効な職務命令であると認められる」(原判決P77)と結論している。
しかし、菅への事前指導の中で、校長は、教職員席での行為は「職務行為になる」とか、「職員会議での職務命令を発する」といった指導をしていません。
つまり、菅は「校長からの職務命令を受けた」という認識ができた筈だとする根拠は、ありまえん。
にもかかわらず、原判決は、強引にも「十分に認識していた」との独断をしているが、客観的な根拠を示していません。
ウ)以上により、菅に職務命令が発せられたという事実がなかったことは明らかであり、 職務命令違反を根拠とする戒告処分には根拠がありません。事実確認の上、公正な審理を求めます。
2.原判決は、菅が一度変更したものの逡巡したのち元の原文通りの文面で提出した意向確認書(甲B6)は、本心を「秘した」菅の虚偽であるとしているが、憶測による独断である。
ア)証人尋問で被告側大崎証人は、意向確認書の内容を信じる根拠として「それはもう、署名押印されて出されているので、それを信用しないとなると、全てのものが無になるので。」(大崎調書P30)として、意向確認書に署名押印していることをもって「信用」すると発言している。
イ)原判決は、菅が、署名押印して提出した意向確認書について、「原告菅の主張あるいは原告本人尋問における供述の具体的内容に照らせば、原告菅は、今後の入学式や卒業式において、適式な職務命令を受けた教職員として卒業式に参列し、国歌斉唱時に起立斉唱する意思を有していなかったと認められる。」(原審P91)と断定している。
しかし、菅は主張や供述の中で、今後も「不起立する」などと発言していない。
にもかかわらず、原判決は、「起立斉唱する意思を有していない」という結論を客観的な根拠や合理的な説明なしに導き出している。さらに、「原告菅は、今後の入学式や卒業式における国歌斉唱時に起立斉唱する意思がなかった」(P92)と、信じられないような憶測をしている。さらに「平成23年度卒業式と同様に、有給休暇を取得した上で教職員席に参列し、国歌斉唱時に不起立をすることを意図していた」(P92)と4月の菅の不起立を予測し、意向確認書は、原告の本心を「秘して」記載したものと断定している。
このように原判決は、憶測や予断による審査している。
ウ)菅が提出した意向確認書について、憶測や予断によるのではなく、公正な審査・審理を求めます。
また、原判決は、菅は、「意図していたにもかかわらず、そのことを秘して」と述べている。これは、菅は嘘つきだと言うに等しく、菅の心を著しく傷つけるものである。
3.再任用教職員採用審査会(以下、審査会と記す)は、事実誤認を前提に「再任用の更新をしない」と結論している。これは、裁量権の逸脱という以前に、審査会の信用を失墜させる審査である。
ア)菅は、教員生活27年間おいて職務命令を発せられたことがない。ゆえに、職務命令違反という処分を受けたことはなかった。
にもかかわらず、再任用の審査結果には「職務命令違反を繰り返していることから、再任用教職員の採用選考等に関する要綱第12条3項及び4項により、再任用の更新をしないこととする。」(証拠甲B9)と記されている。
このことは証人尋問において被告側大崎証人に質すと、証人は「事実としては、だから、校長先生の再三の指導に従わなかったということになりますね。」と答え、さらに「ここは職務命令違反が繰り返されているという認定をしているわけですね。」という質問に「まあ、そうなりますね。」(大崎調書P23)と答えている。
証人自身が事実に基づかない審査であったことを証言している。
イ)審査会における菅の再任用更新についての審査が、誤認した事実に基づいて行われたことは、審査会の判断過程に重大な過ちがあったということである。
しかし、原判決は、被告側も認める事実誤認を前提とした審査会の審査結果に対して、全く審理していない。
ウ)事実誤認に基づく審査は、審査会の信用にかかわる問題であり、あってはならないことである。よって、審査会の判断過程に対する厳正なる審理を求めます。
また、菅の提出した意向確認書が、審査会での審査結果に記載されておらず、「今後の職務命令遵守の意向を確認。」できたとして、再任用に合格した他の7人との間で不平等な取り扱いをされており、公正な審理を求めます。
最後に、公正な審理をお願いしまして、陳述を終わります。
意 見 陳 述
山 田 肇
「君が代」不起立を唯一の理由とする再任用取消の撤回を求める私たち3人の裁判の5月10日大阪地裁・内藤裁判長による判決の不当性について申し述べるとともに、以下の5点について公正な審理と判断を求めます。
この裁判の大きな争点の一つは、「君が代」不起立をした教員に対して、「意向確認書」に署名捺印した者だけを再任用する、つまり、「君が代」の「踏み絵」を踏んだ者だけを再任用する、この府教委のやり方は憲法19条「思想・良心の自由に反する」のではないか、ということであったと考えています。しかし、判決は、これについて、「争点」15の眼目には入れず、「争点14(再任用合格決定の取消し・・・に裁量権の逸脱・濫用があるか)について」の「(エ)」で触れるのみです。しかも、判決文では前半部分を削って、「意向確認書は、職務命令に従うことの確認を求めるもの」とのみ書き、「君が代」の踏み絵の部分を隠しました。しかし、府教委の「意向確認書」は、単に「職務命令に従う」かどうかの確認を求めたものではなく、「今後、卒業式・入学式等の国歌斉唱時を含む上司の職務命令に従います」の文言が示すように、「君が代」不起立した者に対して、今後は起立斉唱するかどうか、つまり「君が代」の「踏み絵」を踏むかどうかを突きつけるものでした。
「判決」は、この前半部分の核心的なことには一切触れず、また、この「意向確認」が憲法19条違反かどうかも判断せず、「教職員が職務命令に従うことは当然のこと」と書き、府教委がやっている「君が代」の「踏み絵」を踏んだ者だけを再任用する、しかし踏まない者は再任用しない、クビにするという、この思想・良心を踏みにじる再任用採否のやり方を認めました。
しかし、裁判官もご存じのように、「君が代」不起立は「歴史観ないし世界観」の問題であり、「思想・良心」の内容を形成すると、最高裁も認定しています。そして、宮川裁判官が言われたように、「君が代」不起立は「思想及び良心の核心の表出」であります。戦前の教師は天皇をたたえる歌である「君が代」を歌わせ、「日の丸」の旗をふって、森友学園の幼稚園でやっていたように教育勅語をたたきこんで、子どもたちを天皇の兵士に仕立て侵略戦争の戦場に送りました。これは歴史の真実です。子どもたちを人間としての成長に導くべき教師が、こんなことを二度としてはいけない。「教え子を戦場に送らない」。これは歴史から学んだ教育の出発点であり、教師としての良心であります。
ルイ・アラゴンは、「教えるとは、希望を語ること。学ぶとは、誠実を胸にきざむこと」と詩に書きました。教師が歴史の真実を「誠実に胸にきざ」まないと、子どもたちに「希望を語ること」はできません。侵略と戦争の旗「日の丸」を仰ぎ、天皇をたたえる歌「君が代」を歌うことは、「誠実を胸に刻み」「歴史の真実」に立って子どもたちの教育を行おうと考える教師にとって、絶対にできないことであります。私は日々、子どもたちに、何が正しいのか、何が間違っているのか、自分で考えるようにと言ってきました。そのように子どもたちに言ってきた教師として、自分が間違いだと思うことを正しいとすること、「歴史の真実」に反することはできません。「君が代」の起立斉唱は、日本の侵略戦争も教え子を戦場に送り出したことも、「日の丸」「君が代」もすべて正しかったと認めることになり、教師としての良心に反することです。
これら「歴史観ないし世界観」、また、「思想・良心」を踏みにじる「君が代」起立斉唱の職務命令は「間接的強制」などではなく、まさに直接の強制であります。しかも、「君が代」不起立した者に対して、今後、起立斉唱を誓約せよとの「踏み絵」をつきつけ、「君が代」の「踏み絵」を踏まないと再任用を取り消すというのは、まさに「思想・良心」に対する直接的制約以外のなにものでもありません。かつてキリシタン弾圧で使われた「踏み絵」のごとく、府教委が「君が代」で立つかどうかという「踏み絵」を「君が代」不起立者に対してつきつけ、それで再任用を決めるという、このやり方が憲法19条「思想・良心の自由」に照らして是認できるのか、公正な審理と判断を求めます。
2つめは、再任用審査会の審査のあり方です。第一審、2015年11月10日付け準備書面(4)及び別紙の「再任用教職員採用審査会議事録」で明らかですが、「君が代」不起立以外の体罰事例等では「戒告」以上の「減給」「停職」等の処分となってはじめて審査会の俎上に上がるのに、「君が代」不起立で「戒告」処分を受けた者は全員、審査されています。そして、二度と「君が代」不起立しないと誓約してはじめて再任用「合格」となります。しかも、飲酒運転で停職3ヶ月の者や体罰及びその隠蔽による停職6ヶ月の者も再任用合格とされています。再任用の「審査」で、「君が代」不起立による「戒告」を他の事例の「減給」や「停職」以上に重く見るという、こんな不公平、不平等、不当、不合理な再任用採否に対する「審査」が許されていいのでしょうか。しかも、私の「戒告」処分は取り消されています。停職6ヶ月の者が再任用されているのに、処分が取り消された私は再任用取消が撤回されない、これは、まさに比例原則違反、平等原則違反だと考えます。
甲第23号証、早稲田大学の岡田正則氏の『教育公務員の再雇用における行政裁量の限界』という論文では、「採否の判断基準をどのように適用して拒否判断に至ったのかを示していない」ならば、それは「裁量権の範囲を著しく逸脱し、またはその濫用にあたるものとして、違法」(P441、5行目から)と書かれています。しかし、府教委は「再任用教職員審査会の判断基準に関わるすべての資料」、また、「再任用教職員審査会に資料を提出する者及び合否の判断基準」を墨ぬりのまま未だ開示していません。再任用「採否の判断基準」も明らかにせず、また、それを「どのように適用」したのかも明らかにしないならば、先に述べた比例原則・平等原則違反と合わせ、再任用採否に関して府教委の裁量権の逸脱・濫用は明らかです。しかし、この再任用審査会の「判断基準」及びその「適用」、また、先に述べた不平等・不公平の運用についても、判決は一言一句も触れていません。本裁判においては、再任用「採否の判断基準」及びその再任用審査会での「適用」について、公正な審理と判断を求めます。
3つめは「府国旗国歌条例」についてです。「府国旗国歌条例」は違憲・違法という私たちの主張に対して、地裁判決は「各地方ごとの状況」「実情に応じた対応」を上げ、条例は「違憲・違法ではない」としました。しかし、「君が代」を職務命令で強制していいという大阪だけのどんな「地方ごとの状況」があるのか?大阪だけのどんな「実情」があるのか?判決は一切書かず、「教育基本法と府国旗国歌条例との間に矛盾抵触」はない、条例は「違憲・違法ではない」としました。しかし、「府国旗国歌条例」は、教職員に対して「君が代」の起立斉唱を義務づけ、強制するものです。憲法19条「思想・良心」の自由と条例は「矛盾抵触」することは明らかです。この点についても公正な審理と判断を求めます。
4つめは「勤務実績」についてです。私は37年間、高槻市の小学校で勤務し、最後の南平台小学校では希望の杜・施設内学級で7年間、「学校をつくる」取り組みを進めてきました。2011年度の校長の評価は、『業績・能力・総合評価ともS』でした。2013年8月6日、私の再任用合格取消が朝日新聞に掲載された記事の見出しに、『教員37年「君が代」の50秒で決めないで』とありました。私の処分は取り消されたにもかかわらず、「君が代」の50秒で教員としての「適格性」と「勤務実績」をすべて決め、合格していた再任用を取り消すことが果たして妥当なのか、公正な審理と判断を求めます。
最後は「判断遺脱」の問題です。訴状の49ページに「原告山田は高槻市教育委員会の違法な内申に基づき大阪府教育委員会から違法な戒告処分を受けて,多大の精神的苦痛を被った。これらにより、原告山田が被った精神的苦痛を金銭に評価すると、金100万円を下らない」とあります。しかし、判決には、このことについて、一切、判断も言及もなく、「判断遺脱」の状態です。私の「精神的苦痛」と「金100万円」の賠償について、公正な審理と判断を求めます。
以上、5点について、公正な審理と判断を求めます。