西原博史さん亡くなるーーー
突然の訃報に言葉を失いました。私たちの運動の理論的な支柱のお一人であった西原博史さん(早稲田大学憲法学者)が不慮の事故で亡くなられました。残念でなりません。ご冥福をお祈りするとともに、西原博史さんに書いていただき、「君が代」不起立減給処分取消訴訟ならびに「君が代」不起立戒告処分取消共同訴訟で裁判所に提出した鑑定意見書ここに再掲し、これからも最大限に活かしていきたいと思います。
大阪高等裁判所第2民事部 御中
鑑 定 意 見 書
大阪府教育委員会による
卒業式の国歌斉唱時における不起立を理由とする
府立高校教員に対する減給処分は適法か?
2017年2月10日
早稲田大学教授
西原 博史
目次
1 はじめに
2 懲戒権者の裁量権逸脱濫用の有無
3 思想・良心の自由に対する直接的侵害の有無
4 君が代不起立をめぐる憲法問題の配置状況における本件の位置
5 おわりに
1 はじめに
本件は、大阪府立枚方なぎさ高校の2012年度卒業式の国歌斉唱時における控訴人の不起立行為(以下「本件不起立行為」という)に基づき、地方公務員法29条1項1号および3号違反を理由として、被控訴人大阪府教育委員会により2013年3月12日に控訴人に対して下された減給処分(以下「本件減給処分」という)が適法であったか否かを争うものである。
公立学校の入学式・卒業式の国歌斉唱時において所属教員に起立斉唱を命じる校長の職務命令が、起立斉唱行為が自らの思想・良心に反するがゆえに受容不可能であると考える教員との関係で思想・良心の自由を保障する憲法19条に違反することにならないか、そしてその職務命令に対する違反を根拠に懲戒処分を行うことが同条違反とならないか、という論点に関しては、すでに判例の蓄積がある。すなわち、2011年5月30日最高裁判所第2小法廷判決(民集65巻4号1780頁)、2011年6月6日最高裁判所第1小法廷判決(民集65巻4号1855頁)、2011年6月14日最高裁判所第3小法廷判決(民集65巻4号2148頁)(以下、これら小法廷判決の重複部分に関して「起立命令合憲判決」という)およびそれを踏まえたその後の判決により、争われた具体的な事例における起立斉唱命令および起立斉唱命令違反を理由とする懲戒処分がそれ自体として憲法19条に違反するものではないとされている。しかし、2012年1月16日最高裁判所第1小法廷判決(裁判集民事239号1頁。以下「不起立停職処分違法判決」という)および同日の最高裁判所第1小法廷判決(裁判集民事239号253頁。以下「不起立減給処分違法判決」という)においては、君が代不起立による過去1回の戒告処分歴を踏まえた減給処分(不起立減給処分違法判決)や、過去3回の処分歴を踏まえた停職処分(不起立停職処分違法判決)が処分権者の裁量権の範囲を越えるものとして違法とされた。
本件における減給処分の適法性を判断するための判例上の枠組も、この起立命令合憲判決および不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決に置かれる。特に後二者において、戒告を越えた減給・停職等の処分を選択することができる場合が限定されていることが本件との関係でも重要な意義を有する。すなわち、不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決においては、以下のような確認がなされている。
「不起立行為等に対する懲戒において戒告を超えて減給の処分を選択することが許容されるのは、過去の非違行為による懲戒処分等の処分歴や不起立行為等の前後における態度等に鑑み、学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合であることを要する。」
この確認を踏まえれば、本件においてまず検討されるべきは、減給処分が選択された本件における事実関係が上記引用箇所にいう「当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情が認められる場合」に該当するか否かという点である(下記「2」にて検討)。
しかし、本件における法的問題はそれに留まらない。最高裁各小法廷の起立斉唱命令合憲判決は、思想・良心に基づいて斉唱参加ができない教員に対して起立斉唱を命じる職務命令が思想・良心の自由に対する直接的制約を生ぜしめるものではないとして、問題を不起立教員に対して生じていた「間接的制約」の許容性の次元に置き、必要かつ合理的な場合には一定の制限が生じることはやむを得ないとした上で、制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものと認定した。その際には、以下の考察が基礎に置かれている。
「上記の起立斉唱行為は、その性質の点から見て、上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず、上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は、上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。……本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると、本件職務命令は、これらの観点において、個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」
それに対して、大阪府においては条例に基づく別種の規範構造が成立している。すなわち、「大阪府の施設における国旗の掲揚及び教職員による国歌の斉唱に関する条例」(以下「国旗国歌条例」という)および「大阪府職員基本条例」は、君が代不起立を理由に3回の処分を受けた教員に対しては免職処分が下される旨を定めており、これら条例の制定過程における議論に鑑みても、大阪府における教員の国歌斉唱義務に関わる条例上の制度が、最高裁の起立命令合憲判決にいう「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くもの」に該当することは疑う余地がない。
そのため、最高裁判例において公立学校教員に対して君が代斉唱を命ずる職務命令が発せられても思想・良心の自由に対する違法な侵害は存在しないと認定した他の都道府県における状況と異なる状況が大阪府には存在しているのであり、本件については、起立命令合憲判決がそのままで先例としての意義を有するものとは認められない。むしろ、大阪府においては、憲法19条に対する直接的制約の有無を問う必要性があることになる(下記「3」にて検討)。
こうした本件の特殊性に鑑みた場合、本件で問われる論点に正しい解を導き出すためには、理論的背景に遡った考察が必要であることは疑いを入れないであろう。思想・良心に照らして斉唱参加が不可能であるとする教員に対して起立斉唱を命じる職務命令がどのような憲法上の問題を引き起こすのか、最高裁の判例においてなぜこれまで憲法違反が認定されてこなかったのか。こうした点に関して、正確な理論的位置づけを踏まえることが必須となる。本鑑定意見書は、考察の末尾において、思想・良心の自由の保障における君が代不起立問題の位置づけについて再確認を行い、その中での大阪府の状況の特殊性を指摘することとしたい(下記「4」にて検討)。
2 懲戒権者の裁量権逸脱濫用の有無
本件においてまず問われるべきは、前述のように、本件の事実関係の中に、処分権者において減給処分という直接の給与上の不利益を伴う処分を選択することを正当化する特別な事情が存在するか否かである。
(1)君が代不起立処分の特殊性に関する最高裁および下級審裁判例の認識
上記1に引用のとおり、不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決は、起立斉唱命令に違反したことによる懲戒処分に際しては、「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」を求めている。そして、過去の不起立行為による処分歴を理由として不起立行為に対して減給以上の処分を行うことは原則として相当性が基礎づけられるものではないとされた。この法廷意見の立場に関し、たとえば不起立減給処分違法判決に付された櫻井龍子裁判官補足意見は、こうした比較衡量過程の内容を具体的に明示する。
「本件の不起立行為は、既に多数意見の中で説示しているように、それぞれの行為者の歴史観等に起因してやむを得ず行うものであり、その結果式典の進行が遅れるなどの支障を生じさせる態様でもなく、また行為者も式典の妨害を目的にして行うものではない。不起立の時間も短く、保護者の一部に違和感、不快感を持つものがいるとしても、その後の教育活動、学校の秩序維持等に大きく影響しているという事実が認められているわけではない。」
ここに示されるように、職務命令が憲法19条で保障された思想・良心の自由に対する侵害を生じさせるものでないとしても、思想・良心の自由の保護領域に対する制約を生じさせるものであることが職務命令違反に対する処分量定の段階でも考慮に入るものであり、「やむを得ず」行う職務命令違反の行為という位置づけが意識されることになる。
だからこそ、処分対象となる非違行為が重なることによって処分が重くなっていく形の加重処分が、特に君が代不起立に対しては不適切であるとされるわけである。この点に関し、同じく櫻井龍子裁判官補足意見は、次のように理由を説明する。
「処分対象者の多くは、そのような葛藤の結果、自らの信じるところに従い不起立行為を選択したものであろう。式典のたびに不起立を繰り返すということは、その都度、葛藤を経て、自らの信条と尊厳を守るためにやむを得ず不起立を繰り返すことを選択したものと見ることができる。……毎年必ず挙行される入学式、卒業式等において不起立を行えば、次第に処分が加重され、2、3年もしないうちに戒告から減給、そして停職という形で不利益の程度が増していくことになるが、これらの職員の中には、自らの信条に忠実であればあるほど心理的に追い込まれ、上記の不利益の増大を受忍するか、自らの信条を捨てるかの選択を迫られる状態に置かれる者がいることを容易に推測できる。不起立行為それ自体が、これまで見たとおり、学校内の秩序を大きく乱すものとはいえないことに鑑みると、このように過酷な結果を職員個人にもたらす前記2(1)のような懲戒処分の加重量定は、法が予定している懲戒制度の運用の許容範囲に入るとは到底考えられず、法の許容する懲戒権の範囲を逸脱するものといわざるを得ない。」
このように、憲法上保障された思想・良心の自由で尊重されている世界観・歴史観などに関わる信条に基づく不起立行為は、たとえば児童・生徒の権利侵害に帰着するような職務上の違法行為とは大きくその性質を異にする。職務命令違反であるという点において一定の懲戒がやむを得ない場合があり得るとしても、それが起立命令合憲判決でいう「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」となることは許されない、という点が常に考慮に入れられる。下級審においてはこの点を受け、「自らの思想や信条を捨てるか、それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られる」こととなるような事態は「日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながる」ものであるとの認定がなされている(東京高裁2015年5月28日判決・判例時報2278号21頁。後に最高裁判所第3小法廷の2016年5月31日上告棄却・上告申立不受理決定により確定)。
この東京高裁判決は特に、加重された処分の結果が「更に同種の不起立行為を行った場合に残されている懲戒処分は免職だけであって、次は地方公務員である教員としての身分を失うおそれがあるとの警告を与えること」になるような形で処分の加重が行われる場合には、「極めて大きな心理的圧迫を加える結果になるものであるから、十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」としている。大阪府職員基本条例において、同じ内容の職務命令に違反する行為が累計3回となった場合に免職処分が想定されている(大阪府職員基本条例27条2項)ことを考えた場合、本件において2012年入学式の場合におけるのと異なって加重された処分が選択されたことは、同種の「心理的圧迫」を生じさせるものと見ざるを得ず、そこで求められた「十分な根拠をもって慎重に行われなければならない」という条件に合致していることが必要となる。
(2)本件における減給処分を基礎づける具体的な事情
原審判決(大阪地方裁判所2016年7月6日判決)は、本件減給処分の対象となった控訴人の行為が国歌斉唱時の不起立不斉唱というだけに留まらず、与えられた正門警備等の式場外における役割を放棄して、丸椅子を持ち込んで着席し、不起立不斉唱に及んだ点で、「規律や秩序を害する程度が相当大きいものである」としている。しかし、上記事情が直ちに不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決のいう「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」と評価し得るか否かについては、問題の少なくないものである。
たとえば前述の不起立停職処分違法判決に付された櫻井龍子裁判官補足意見は、不起立が「その後の教育活動、学校の秩序維持等に大きく影響」するか否かを問う枠組を踏まえている。それを考慮した場合、卒業式の進行が特別に滞り、生徒や保護者を始めとする列席者に対して直接的な影響が生じたとする認定がなされていない本件において、不起立行為の秩序侵害性は特別に大きいものであったと判断する根拠は存在しないことになる。また、丸椅子の持ち込んでの不起立についても、卒業生を送り出す式典に同席することに対する教員の教育上の利益を前提にした場合には、「本件不起立に積極的かつ意図的に及んだ」とする認定は適切ではなく、あくまで同席する場に国歌斉唱があったことによりやむを得ず不起立に及んだものと同視することが適切といえる。
いずれにしても、正門前警備の役割を終えた後に式場内に戻り、そこにおいて国歌斉唱時の不起立に至る点において、本件の処分対象は2012年4月の入学式における不起立行為と同種の行為と評価すべきものである。にもかかわらず、それが2回目であることによって減給処分へと加重されているわけであるが、前回行為と比較した場合に特別に重く処罰すべき事情は処分対象行為の性質それ自体の中には存在しない。そうである以上、本件減給処分は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」なく下されたものと評価せざるを得ない。
さらにそれよりも本質的な問題として、本件減給処分を選択した教育委員会の判断においては、比例原則違反が認められ、また、考慮すべき事項が考慮されていない点において判断過程における瑕疵が認められる。
大阪府職員基本条例28条2項によれば、同じ内容の職務命令に3回違反した場合には免職となる旨が定められている。そして本件は、君が代起立斉唱命令に関する2回目の職務命令違反による処分である。大阪府職員基本条例で「標準」とされているところに従えば次には免職となるべき場面において、1回目とは異なり、それに対して処分を加重する特別な懲戒処分が下されている。これは、被処分者である控訴人において、次は免職である点をことさらに意識させるものであった。実際には控訴人は2013年3月末で定年退職となり、次の機会は想定し難いところであったが、それでも控訴人にとって処分後の残された期間が存在し、また本件減給処分が他の同種の事例を想定しての先例的意義を持つことをも考慮に入れた場合、処分権者としては、「次は免職」としての意味合いを十分に考慮に入れ、そうした意味を持つ加重処分としての条件に合致する処分選択となっているかどうかにつき、十分な検討を行うことが必要とされる。
にもかかわらず、被控訴人大阪府教員委員会は、原審において本件減給処分が大阪府職員基本条例27条2項と無関係であり、本件に同条が適用されるものではないと主張しており(前掲の原審判決)、また現在もその主張を維持している(被控訴人準備書面15頁)。そして実際、本件減給処分を決定するまでの過程において、本件減給処分が大阪府職員基本条例27条2項にいう3回目に向けた第2回目の処分としての意味合いをもつものであることを十分に考慮に入れたことを証明する証拠は何ら提出されていない。これは、処分量定の判断において考慮すべき点を考慮しないままに決定が下されたことを明らかにするものであり、当該処分には手続上の瑕疵がある。
さらに処分の実際の重さを考えた場合にも、大阪府職員基本条例27条2項にいう3回目に向けた第2回目の処分として、第1回よりも重い処分が選択されたわけであるが、その処分量定は必然的に被処分者をして「次」を意識させるものであり、少なくとも前回よりも重い処分を選択する場合において、強度の「心理的圧迫」を生じさせるものである。そうである以上、そうした心理的圧迫をも正当化し得る「権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎付ける具体的な事情」の存在が不可欠であるはずだが、第1回目の処分の対象となった行為と質的に大きく異ならない本件不起立のありように着目した場合、そうした心理的圧迫まで正当化し得るような事情が存在するとは認められない。そうだとすれば、処分対象となる行為の悪質さに比して不必要に重い意味を持つ処分が選択されたことになり、権衡を失する状態に立ち至ったものと認められるのであり、比例原則違反を認定せざるを得ない状況にある。
以上の点を考慮すると、本件減給処分は、考慮することの必要な事項を考慮しないままに、事態の状況に比して著しく重い処分が選択されたものと認めざるを得ず、被控訴人教育委員会の裁量権の範囲を越えた処分であったと認めるのが相当である。
3 思想・良心の自由に対する直接的侵害の有無
(1)大阪府国旗国歌条例における特定思想に対する意図的攻撃
大阪府職員基本条例に定められた3回目で免職という構造は、元々、純粋な人事政策的な観点から導入されたルールではなく、国旗・国歌を尊重すべきであるという信条を共有しない教職員を大阪府の組織から排除することを狙って意図的に作られたものであった。
同じ内容の職務命令違反が3回累積したら免職という構図が大阪で浮上してくるのは、橋下徹知事(当時)に率いられた大阪維新の会が政治課題として学校における国歌強制の徹底を実現すべく立ち回り、そのための条例案を準備していた時期であった。たとえば2011年8月19日に大阪維新の会が発表した大阪府教育基本条例案39条1項が、5回の職務命令違反で免職、同じ内容の職務命令違反の場合には3回で免職という構図を採用していた。職務命令違反に関しては、以下のような定めとなっていた。
(職務命令違反に対する処分)
第38 条 職務命令に違反した教員等は、減給又は戒告とする。
2 過去に職務命令に違反した教員等が、職務命令に違反した場合は、停職とする。
3 前項による停職処分を行ったときは、第27 条の規定にかかわらず、教員等の所属及び氏名も併せて公表する。ただし、前条に基づく不服の申立てが有効になされており、停職処分が取り消される可能性のある場合は、停職処分が確定したのちに公表を行うものとする。
4 府立学校の教員等に対して、第2項に基づく停職処分を行ったときは、府教育委員会は、分限処分に係る対応措置として、第31 条第6項に基づき警告書の交付及び指導研修を実施し、必要に応じ同条第7項から第14 項までに定める措置を実施しなければならない。
5 府費負担教職員については、本条の規定に沿って、別に規則で定める。
(常習的職務命令違反に対する処分)
第39 条 前条第4項で規定される指導研修が終了したのちに、5回目の職務命令違反又は同一の職務命令に対する3回目の違反を行った教員等は、直ちに分限免職とする。ただし、第37条に規定する不服の申立てが有効になされている場合は、要件に該当することが確定したのちに処分を行う。
2 前項の規定にかかわらず、懲戒免職とする事由のある場合は、懲戒免職とする。
もとより、公立学校において職務命令違反が生じるのは当時の大阪府においても極めて例外的な場合であった。この大阪府教育基本条例案39条1項の規定は、同時期に進行していた、大阪維新の会による国歌斉唱強制の徹底を図る措置の一環としての意味を持つものだった。実際、2011年6月13日には大阪府国旗国歌条例が制定されており、公立学校の教職員の国歌斉唱は条例上の義務とされていた。大阪府教育基本条例案における同一内容の職務命令違反3回で免職という構図は、まさにこの公立学校教職員の国歌斉唱義務を実際に実効化するための制度として導入を図られていたわけである。
この時期に橋下知事は、公立学校教員の思想・良心の自由が尊重されるものではないという立場を常に明確にしていた。たとえば讀賣新聞大阪本社版2011年5月17日夕刊10面は、以下のように報じている。
「大阪府の橋下徹知事は17日、入学式や卒業式の国歌斉唱時に起立しない府立学校や公立小中学校の教員を免職する処分基準を定めた条例を9月の定例府議会に提案する考えを示した。府によると、同様の条例は全国でも例がないという。
知事は報道陣に、『府教育委員会が国歌は立って歌うと決めている以上、公務員に個人の自由はない。従わない教員は大阪府にはいらない』と指摘し、『繰り返し違反すれば、免職になるというルールを作り、9月議会をめどに成立を目指したい』と述べた。」
ここに表明されているのは、国歌を歌うことを是とする思想を絶対化し、少なくとも府内の公立学校教員に対してその思想の無条件の受容を要求するとともに、その思想を受け容れることのできない者を公立学校教員として排除しようとする、明確な思想差別の意図である。引用した橋下知事の談話が明らかにしているように、この法的な強制枠組の中においては、教員の思想・良心の自由が尊重に値しないことが前提になっている。橋下知事が自らを憲法を超越した権力的な高みに立つと誤認した結果であり、公務員といえども個人として基本的人権の尊重を受けることが当然の前提となっている日本国憲法の下においてあり得ない立場である。
後に、この教育基本条例を通じた国歌強制があまりに露骨に教職員の人権を否定している点に政治的な不都合を感じ取った大阪維新の会は、職務命令違反が累積すると免職という規定を教育基本条例案から落とし、職員基本条例の方に移していき、その際に対象を府の公務員一般に拡げていった。しかし、こうした対象の拡大は、この免職措置を通じて実現しようとしているのが国歌斉唱に思想的に参加できない教員を府の公立学校から排除することであるという目的設定を否定するものではなかった。
こうした制定の経緯を踏まえると、大阪府国旗国歌条例における教職員に対する無条件で国歌斉唱に参加できる信条の強制と、大阪府職員基本条例27条2項における免職条項は一体として構想されたものであり、後者が前者の手段として位置づけられて成立したものであることが明らかになる。
しかし、国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員を、その思想・信条のゆえに公立学校教員としての地位から排除しようとする権力的措置は、憲法19条の思想・良心の自由に対する直接的な侵害となる。国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員を、その思想・信条のゆえに公立学校教員としての地位から排除することを目的に法的な斉唱義務を組み立てることは、府政を担う政党の立場から見て好ましい思想・信条を各教員が有するかを判定するための踏み絵を踏ませるものとなっている。そうである以上、条例上の斉唱義務に基づく起立斉唱行為は、前記1に引用の最高裁起立命令合憲判決の用語法でいえば、「その性質の点から見て」当該教員の有する「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものであり、それを義務づける大阪府国旗国歌条例およびそれを実施するための職務命令は当該教員に対して「上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」に該当することになる。
その点において、大阪府職員基本条例27条2項は、国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員に対する適用を予定している限りにおいて憲法19条に対する直接的な侵害を構成する。もとより、思想・信条のありようにわたって強制を及ぼすことは何らかの教育上の目的からして必要なものでないことは、思想・良心の自由に対する間接的制約に留めた他の都道府県における実務が十分な教育上の効果を上げていることからも明らかであり、そのような直接的な侵害が必要かつ合理的なものとして正当化される余地も存在しない。従って、大阪府職員基本条例27条2項は、国歌斉唱に参加することが自らの信条に照らして不可能であるとする教員に対する適用を予定している限りにおいて、一義的に憲法19条に反し、無効である。
(2)本件処分の背景としての大阪府職員基本条例27条2項
もとより、本件処分は大阪府職員基本条例27条2項が直接に適用された事例ではなく、そのため、仮に同条が憲法19条違反であったとしても、本件処分がただちに違憲無効なものとなるわけではない。
しかし本件原審は、本件減給処分が大阪府国旗国歌条例の射程の範囲において下されたものであることを認め、同条例を判決に引用している。これは、本件減給処分が大阪府国旗国歌条例と大阪府職員基本条例によって作り出された思想強制システムが作動する中で生じたものであることを認めたものといえる。そうである以上、本件減給処分の法的な意味を考慮するにあたっては、当該思想強制メカニズムが憲法19条に照らして存在を許されていないことが考慮に入れられなければならない。
具体的には、前述のとおり、本件減給処分が2回目の同内容職務命令違反を対象としていることが問題になる。もともと、君が代不起立に関わる事例においては、教員に生じる不利益の背景は一回限りの不起立行為というよりも、その不起立行為の動機あるいは原因となる世界観・歴史観・教育観といった思想・信条の側であることが少なくない。だからこそ、ある種必然的に、君が代不起立を理由とする職務命令違反は累積する傾向が強い。その点を手がかりとして公立学校から排除するための仕組みを整えようとしたのが大阪府において国旗国歌条例と職員基本条例を一体的に運用することで作り上げられた排除システムだったわけである。そして本件が、この累積する傾向に基づいて発生した2回目の国歌斉唱命令違反の処分であった。
前記引用の2011年8月段階における教育基本条例案の38条2項では、2回目の職務命令違反に対して停職処分が下されることが想定されている。東京都で実務上確立し、そして最高裁の不起立停職処分違法判決・不起立減給処分違法判決で排斥された加重処分システムと同様の自動加重が、元々の大阪の教育基本条例案を手段とした国歌斉唱強制メカニズムの中にも組み込まれていたのである。それに対し現行の大阪府職員基本条例においては、表面的には、職務命令違反に関わる自動加重処分の枠組は明記されていない。しかし、実務において実際には自動加重的な発想が根底に置かれ、君が代不起立を行う教員に対して極めて強い非難あるいは排除の意図が感じ取れるような制度が運用されていることは間違いがない。本件においては、教員基本条例案で想定される停職処分と、職員基本条例をそのまま読んだ場合に想定される戒告処分の繰り返しとの中間を取って、1回目の戒告処分から1段階加重された減給処分が採用された。これ自体が、最終的に免職によって特定思想の持ち主を公立学校から排除するための仕組みが本件においても作動していることを表す証左である。
前述の東京高裁2015年5月28日判決は、信条を捨てるか教員としての職務を捨てるかの選択を突き付けられる状況における、思想・良心の自由に対する「実質的侵害」を問題にした。こうした選択を強いられる状況は、思想弾圧や宗教弾圧を前にして不利益を甘受するか自らの信条を放棄するかを思い悩まされる瞬間に生じる侵害状況と実質において変わるところがない。そして、本件においてこの強制的葛藤状況が侵害者である府政の意図の下に人為的に生じているのであるから、思想・良心の自由に対する侵害は、もはや実質だけでなく、その名目においても妥当することになる。仮に発令時の具体的な環境下において起立斉唱を求める職務命令が憲法19条違反でないとしても、その職務命令違反に対して過度に思い処分を課すことは、それ自体が独立して憲法19条違反を構成することがあり得る。職務命令と懲戒処分が一体となって、現実に公立学校教職員の一部の中に存在している世界観・歴史観・教育観などの思想・良心の内容を否定することそれ自体を目的として、あるいは否定する枠組として運用されている場合、思想・良心の自由に対する直接侵害性はいっそう明白であるといえる。
そうした前提で考えた場合、まず、本件における控訴人の君が代起立斉唱義務を法的に支えている点で、大阪府国旗国歌条例が憲法19条に違反している可能性は大きい。少なくとも、国の学習指導要領における国旗国歌指導の意義を敷衍して公立学校教職員の具体的な義務を作り出すことを狙う教育長通達は、それが個々の教職員の法的義務の直接的な根拠とされる限りにおいて、憲法違反の評価を免れない。そして、その延長線上で下された本件学校において卒業式の国歌斉唱時に列席する教職員に起立斉唱を命じ、同時に式場内・式場外における任務分担を確立する職務命令も、大阪府国旗国歌条例および教育長通達の実施を担うものとして、同じく憲法違反と評価せざるを得ない。
ただ、仮に職務命令の時点において、特定の世界観・歴史観・教育観などを否定する意味合いが確定しきれず、なおも憲法違反と判断するには十分な根拠がないとしても、大阪府職員基本条例27条2項の将来における適用を想定した2回目の職務命令違反に対する処分として1回目よりも加重された処分が選択されたことは、心の中の国旗国歌に対する教育上の考え方を理由に教員を排除することに向けたメカニズムが動き出したものと評価せざるを得ず、その時点において憲法19条違反の処分となっていることは否定すべくもない。その点において、本件減給処分は憲法に反し、有効に成立したものではないため、取り消しを免れない。
4 君が代不起立をめぐる憲法問題の配置状況における本件の位置
(1)行為領域における思想・良心の自由の効果をめぐる問題
信条に基づく君が代不起立が憲法19条に保障された思想・良心の自由に含まれるか否かは、長く明確にされてきていなかった。1958年学習指導要領改訂で国旗・国歌条項が導入されて比較的早い段階から、たとえば子どもが不起立を行う権利や、子どもが不起立を行うかどうかを決定する親の権利が憲法19条に根拠を有するという指摘は憲法学・教育法学の中に現れ始める(宗像誠也「教育行政権と国民の価値観」世界1959年11月号274頁、兼子仁「君が代、学校教育、情報人権」日本教育法学会年報21号〔1992年〕33頁など。議論の構図に関し、西原博史『良心の自由』〔増補版・成文堂・2001年〕433頁以下)。しかし、それが判例の中で明示的な承認を受けるためには、2011年の起立命令合憲判決を待たざるを得なかった。
憲法学にとってこの問題に難しさがあったのは、思想・良心の自由が行為領域において自らの思想・良心に反する法的義務を拒む権利を含んでいるか否かに関して長く争いがあり、通説はむしろそうした憲法19条の意義を否定してきたからであった。長いこと、憲法19条は内心領域に関わる自由権と理解され、内心における思想・良心が外部に表出した場面では憲法21条の保障が想定される、という枠組が採用されてきた(法学協会『註解日本国憲法 上』〔有斐閣・1953年〕555頁が典型。当時の外部的行為の自由否定論の構造につき、西原・前掲『良心の自由』23頁以下)。せいぜい認められていたとしても、内心の自由を「事実上制限することとなる外部的行為の制限」が最小限度に留められるべきであることを要請する、「不可分的行為」の理論があてはまる場面に限られていた(佐藤功『憲法解釈の諸問題 第二巻』〔有斐閣・1962年〕172頁、久保田きぬ子「思想・良心・学問の自由」清宮四郎・佐藤功編『憲法講座2』〔有斐閣・1963年〕110頁)。それに対し、憲法19条が内心における思想・良心の自由を破壊するような行為義務の強制を禁じると考える私見(西原・前掲『良心の自由』〔初版・1996年〕)のような立場は圧倒的な少数説の地位に甘んじざるを得なかった。
ただ実際には、最高裁は比較的早い時期からすでに、行為領域における憲法19条の意義を問題にし始めていた。謝罪広告の強制に関わる1956年7月4日最高裁判所大法廷判決(民集10巻7号785頁)はすでに、謝罪広告の形における謝罪の意思表明の強制が「債務者の人格を無視し著しくその名誉を毀損し意思決定の自由乃至良心の自由を不当に制限することとなり、いわゆる強制執行に適さない場合に該当することもありうる」ことを認めていた。学説上、沈黙の自由というカテゴリーが形成されており、謝罪広告に関わる問題がこの沈黙の自由に関わるようにも見えたから、この判例の位置づけに関わる深刻な議論が提起されることは少なかったが、最高裁の内部においては、この事例はすでに外部的行為の強制と思想・良心の自由の関係に関わるものと見られていた。田中耕太郎裁判官による補足意見では、法が「行為が内心の状態を離れて外部的に法の命ずるところに適合することを以て一応満足する」ものであることを前提に、「命じられた者がいやいやながら命令に従う」ことが良心の自由に関わる問題を提起するものではない点が強調されている。これは、憲法学において承認されていた、外部的行為の領域において憲法19条が具体的な帰結を持つものでないと考える通説に対応する考え方であった。にもかかわらず、前述の判決多数意見に現れた構図は、事例の構造次第では外部的行為の強制が憲法19条で保障された権利に抵触し得るものとする枠組を採用していた。
最終的には、1999年に国旗国歌法が制定される過程で、小渕恵三首相(当時)が「児童生徒の内心にまでわたって強制しようとする趣旨のもの」ではないことを確認し続ける(1999年7月28日参議院本会議答弁ほか)とともに、有馬朗人文部大臣(当時)から特に児童生徒との関係で「その人の良心の自由で、ほかの人に迷惑をかけない格好で、自分の気持ちで歌わないということはあり得る」(1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会答弁)ことが示されることによって、不起立が思想・良心の自由の現れであることが認められるようになっていった。
そうした過程を踏まえ、最終的に最高裁の起立命令合憲判決が「間接的制約」の枠組を承認していくことになる。入学式の国歌斉唱時におけるピアノ伴奏命令が問題となったケース(2007年2月27日最高裁判所第3小法廷判決・民集61巻1号291頁)でなおも当該職務命令が思想・良心の自由の制約を生じさせているか否かを明示せずに判断を下した最高裁は、起立命令合憲判決の段階では、一方において前述の不可分的行為の理論を採用して「歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付く」ものが直接的な制約となることを認めながら、不起立事案にそうした不可分的行為の制限ではないとし、ただ、国歌斉唱に付着する「敬意の表明」としての要素に着目しながら、「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある」ことを認めていった。
この間接的制約が生じる範囲については、仮に前述の謝罪広告事件判決田中耕太郎裁判官補足意見にいう「命じられた者がいやいやながら命令に従う」場面すべてを包括すると考えるならば、その範囲は茫漠たるものとなっていくであろう。一方において、そのように広範に間接的制約を認めた場合に憲法19条の保障がむしろ空転してしまう危険が生じることを意識する私見などは、行為が義務づけられた場合に内面的判断機関としての思想・良心を維持できなくなるような場面に射程を限る必要があることを指摘する(ドイツ憲法における解釈例を踏まえたその範囲の位置づけに、西原・前掲『良心の自由』78頁以下)。それに対して他方で、この間接的制約が設けられる正当性の証明手続として非常に簡便な理由の提示しか想定されていない点をもって、最高裁における間接的制約の軽さを強調する見解もある。
(2)君が代関連訴訟における本来の問題点としての思想差別目的の踏み絵
間接的制約が認められる範囲、そしてその範囲において制約が正当と認められるための条件に関して、なおも最終決着を見たものとは考えられず、議論は継続していくことになるだろう。それに対し、本件が提起する問題は、むしろ間接的制約ではない、直接的制約の認定方法に関わるものである。
前述の謝罪広告判決田中耕太郎裁判官補足意見は、良心の自由の意義との関係で、「国家としては宗教や上述のこれと同じように取り扱うべきものについて、禁止、処罰、不利益取扱等による強制、特権、庇護を与えることによる偏頗な所遇というようなことは、各人が良心に従つて自由に、ある信仰、思想等をもつことに支障を招来するから、憲法一九条に違反する」とする整理を行った(私はこれを「思想弾圧ターゲット論」と呼んで、旧式の解釈枠組のモデルと捉えるが、こうした規範モデルに現在も重要な意義があることは言うまでもない。西原博史『良心の自由と子どもたち』〔岩波新書・2006年〕21頁以下)。そして、1999年国旗国歌法制定以降に進行している学校における国歌斉唱強制、それもたとえば東京都教育委員会の2003年10・23通達以降の実務に典型的に見られるように、都道府県教育委員会のレベルで起立斉唱枠組を作り上げ、各学校において確実に職務命令が発せられるようにし、不起立教職員を炙り出しては必罰主義に服さしめるような動きは、特定思想を有する者を学校から排除することを狙った「偏頗な所遇」にほかならないものとして進行している部分がある(西原博史「思想・良心の自由 侵害された個人の痛みに敏感な解釈論に向けて」判例時報2278号〔2016年〕7頁)。しかし、最高裁は現在までのところ、各自治体における学習指導要領の具体化手続を善意の教育目的のものと捉えるスタンスを維持し、特定思想に対する狙い撃ち的な排除構想の存在を認定しようとしてこなかった。これは、下級審段階で入手可能な証拠の範囲において思想・良心の自由を違憲な形で意図的に無視して特定思想に対する排除を追求する邪悪な意図を立証する手段が入手不可能であったことにも依存している現実である。
しかし、大阪府の状況は異なる。上記の2011年段階における大阪府国旗国歌条例と(当初案では)大阪府教育基本条例案を通じ、教職員の思想を全面的に首長の選挙に表明された民意の方向性でもって拘束し、たとえば学校の思想的多元性を維持して子どもの権利保護に対する関心を優先させるなど、首長の方針とは相いれない世界観・歴史観・教育観を持つ者を排除しようとする政治的策動に典型的に見られるように、そこでは、教職員の基本的人権を無視した暴政が作動していた。本件に現れてくるような君が代不起立処分は、まさにその排除メカニズムが具体的に作動しているものにほかならない。これこそが、日本国憲法が19条を定めることによって防ごうとしていた権力の暴走そのものである。
5 おわりに
以上のように、本件減給処分は、第一に処分権者の裁量権の範囲を逸脱し、考慮すべき事項を考慮しないまま、比例原則に反する評価を前提として、瑕疵あるものとして下された決定に基づくものであり、効力を有し得ない。さらに第二に、大阪府国旗国歌条例、大阪府職員基本条例27条2項および大阪府教育長通達によって作り上げられた大阪府の公立学校における国歌斉唱強制の枠組は、無反省の斉唱参加を是とする立場以外の信条を持つ者を教職員から排除することを狙った意図的な思想弾圧の構造として導入されたものであり、本件職務命令という具体的な法的義務づけに具体化し、また本件減給処分という形で具体的な法的効果を生んでいる点において、憲法19条に対する直接的侵害として違憲の評価を受けざるを得ないものである。
すでに旭川学テ事件最高裁判所大法廷判決(1976年5月21日民集30巻5号615頁)で示されたように、子どもの教育というプロセスは「本来人間の内面的価値に関する文化的な営みとして、党派的な政治的観念や利害によつて支配されるべきでない」ものと捉えられるべき存在である。これは、教育の場を構成する教職員に対して、政治的な力学に応じて観念の一元性を作り上げることが非生産的であることをも明らかにする原理である。にもかかわらず、2011年段階で動き出した公務員や教職員を思想的に統制し、支配しようとする政治的な動きは、子どもたちの健全な発達の場を深刻な形で傷つけていくものであった。ここで教育のあり方に関する深甚な議論はとりあえず措くとしても、教職員個人の思想・良心の自由が憲法19条によって保障されたものであり、政治的多数派のその時々の恣意によって好き勝手に拘束されてよいものであり得ないことは確実な法原理である。
にもかかわらず、有無を言わさず教職員の思想を捻じ曲げようとした策動の具体的な帰結が、本件減給処分である。この本質に気づいた時、大阪発で日本全体を害しようとする危険な傾向の発露であることが見えてくる。本件の処理を間違えると、21世紀の日本で憲法に保障された個人の基本的人権は、暴力的なコンフォーミズムの中で有名無実化し、空洞化する動きを積極的に追認する意味を持ちかねない、危険な岐路に我々は立たされている。
思想・良心の自由が、あらゆる基本的人権の核心に位置し、民主的政治過程そのものの基盤であることを考えれば、本件で問われているものは重い。貴裁判所によって日本国憲法の真の意味が示されるよう、期待してやまないものである。
【資料】
1. 経歴について
[学歴]
1983年3月15日 早稲田大学法学部卒業
1985年3月15日 早稲田大学大学院法学研究科博士課程(前期課程)修了、法学修士
1992年3月31日 同大学 大学院 同研究科博士後期過程単位取得退学
1996年4月23日 博士(法学)(早稲田大学)
[職歴]
1989年4月1日 早稲田大学社会科学部助手
1992年4月1日 同大学 同学部 専任講師(「憲法」等を担当)
1994年4月1日 同大学 同学部 助教授(同上)
1996年10月1日 ドイツ・テュービンゲン大学客員教授(1999年3月31日まで)
1999年4月1日 早稲田大学社会科学部教授(「憲法」等を担当)
2004年4月1日 同大学 社会科学総合学術院教授 (改組により所属変更・現在に至る)
2014年9月21日 同大学 同学術院学術院長 兼
早稲田大学社会科学部長、早稲田大学大学院社会科学研究科長
(2016年9月20日まで)
2016年3月25日 同大学 先端社会科学研究所長 (2016年9月20日まで)
[兼務]
2005年4月1日 東京大学教育学部非常勤講師 (2008年8月31日まで、各年前期)
2007年4月1日 東北大学法学部非常勤講師 (2007年9月30日まで)
2009年4月1日 東京大学大学院教育学研究科講師 (2009年8月31日まで)
2010年4月1日 同大学大学院 同研究科 客員教授 (2013年3月31日まで)
2006年3月15日 日本学術会議連携会員 (現在に至る)
2015年11月27日 法務省司法試験考査委員(2017年11月30日まで) 兼
司法試験予備試験考査委員(2017年10月31日まで))
[所属学会]
1987年10月 日本公法学会会員
1987年10月 全国憲法研究会会員 (2003年10月~現在 運営委員
2003年10月~2005年10月 事務局長)
1987年10月 憲法理論研究会会員 (1998年10月~現在 運営委員)
1995年4月 日本教育法学会会員 (2001年5月~現在 理事)
2. 研究業績と専門研究について
[単行本]
『良心の自由』(成文堂・1996年, 増補版 2001年)
“Vom paternalistischen zum partnerschaftlichen Rechtsstaat”(Nomos [ドイツ]・2001年・Sung-Soo Kimと共著)
“Das Recht auf geschlechtsneutrale Behandlung nach dem GG und EGV”(Duncker & Humblot[ドイツ]・2002年)
『平等取扱の権利』(成文堂・2003年)
『学校が「愛国心」を教えるとき』(日本評論社・2003年)
『教育基本法「改正」――私たちは何を選択するのか(岩波ブックレット)」(岩波書店・2004年)
『良心の自由と子どもたち』(岩波新書・2006年)
『子どもは好きに育てていい』(生活人新書=NHK出版・2008年)
『自律と保護――憲法上の人権保障が意味するものをめぐって』(成文堂・2009年)
『うさぎのヤスヒコ、憲法と出会う』(太郎次郎社エディタス・2014年)
[編著書]
『子ども中心の教育法理論に向けて』(エイデル研究所・2006年)《戸波江二と共編》
『岩波講座 憲法 2 人権論の新展開』(岩波書店・2007年)
『監視カメラとプライバシー』(成文堂・2009年)
『立法システムの再構築(立法学のフロンティア 2)』(ナカニシヤ出版・2014年)
『新基本法コンメンタール 教育関係法』(日本評論社・2015年)《荒牧重人・小川正人・窪田眞二と共編》
『教職課程のための憲法入門』(弘文堂・2016年)《斎藤一久と共編》
『平等権と社会的排除』(成文堂・2017年)《浅倉むつ子と共編》
[本鑑定意見書関連論文]
「良心の自由と良心的行為」早稲田法学会誌32巻(1983年)399頁、
「良心の自由(1~4・完)――西ドイツ基本法4条1項における『良心』と『良心の自由』」
早稲田大学大学院法研論集39号(1986年)~42号(1987年)、
「公立学校と良心の自由(1~5・完)――西ドイツにおける国家の教育任務・親の教育権・子どもと
親の良心の自由」早稲田社会科学研究40号(1990年)~44号(1992年)、
「良心の自由と民主制」時岡弘先生古稀記念『人権と憲法裁判』(成文堂・1992年)107頁、
「良心の自由と国家の信条的中立性」奥平康弘・隅野隆徳編『(高柳信一先生古稀記念)日本国憲法の諸問題』
(専修大学出版部・1992年)3頁。
“Gewissensfreiheit in der Schule”, Der Staat, Bd.32 (1993), Heft 4, S.569;
「『君が代』斉唱の強制と思想・良心の自由」早稲田社会科学研究51号(1995年)77頁、
「社会権」大須賀明編『(現代法講義)憲法』(青林書院・1996年) 、
「〈社会権〉の保障と個人の自律」早稲田社会科学研究53号(1996年)109頁、
「良心の自由の法的保障」『法の理論 16』〔成文堂・1997年〕187頁、
「〈社会権〉の保障と個人の自律」憲法理論研究会編『憲法50年の人権と憲法裁判』〔敬文堂・1997年〕99頁、
“Funktionen der sozialen Grundrechte im japanischen Verfassungssystem”Zeitschrift für ausländisches öffentliches Recht und Völkerrecht, Bd.57 (1997), S. 837;
「表現の自由と裁判官の政治的中立――寺西判事補分限事件抗告審最高裁決定」法学教室227号(1999年)98頁、
「国旗・国歌法」ジュリスト1166号(1999年)44頁、
「学校における国旗・国歌指導と思想・良心の自由」季刊・人間と教育24号(1999年)127頁、
「国旗・国歌から見えてきた良心の自由」世界2000年6月号134頁、
「芸術の自由の限界としての国旗冒涜」自治研究2000年9月号127頁、
「(法律時評)不服従を讃える道--国旗・国歌の儀式的利用と教師--」法律時報72巻8号(2000年)1頁、
“Die Trennung von Staat und Religion in der japanischen Verfassung”, Der Staat, Bd. 39 (2000), S. 86-109;
“Nationalhymne als Problem des Rechts auf eine tolerante Schule in Japan” in: Classen/Dittmann/Fechner/ Gassner/ Kilian (Hrsg.), Festschrift für Th. Oppermann zum 70. Gebutstag, Tübingen 02/2001, S. 795;
「〈愛国心〉・〈国旗・国歌〉と憲法学」憲法問題12号(2001年)、
「思想・良心の自由と教育課程」日本教育法学会編『講座現代教育法1教育法学の展開と二一世紀の展望』
〔三省堂・2001年〕216頁、
「国定人格理念の設定と子どもの基本的人権」第二期戦争責任5号(2001年) 14頁、
「(対談)思想・良心の自由と国家」法学セミナー2001年4月号42-46頁(市川正人と)、
「(対談)思想・良心の自由と国家」浦部・棟居・市川編『いま、憲法学を問う』〔日本評論社・2001年〕
239-257頁(市川正人と)、
「『君が代』裁判と憲法」法学セミナー2001年10月号38頁、
“Die Tragweite der Gewissensfreiheit angesichts der Nationalhymne und Nationalflagge” in : B. Schünemann/
J.P. Müller/L. Philipps (Hrsg.), Das Menschenbild im weltweiten Wandel der Grundrechte, Berlin 07/2002,
「教育基本法『改正』問題を考える・顕れた能力主義と愛国主義」世界2002年12月号56頁、
「子どもを(再び)国家の道具にするのか?」教育評論670号(2003年)14頁、
「『主権者』を問い直す」季刊・教育と文化30号(2003年)6頁、
「『日本人としての自覚』を乗り越えて」季刊・人間と教育37号(2003年)38頁、
「(鑑定意見書)国歌斉唱指導の不実施を理由とした市立小中学校校長に対する市教育委員会の内申なき戒告処分は適法か?」解放ひろしま63号(2003年)42頁、
「教育における『能力』問題と『教育を受ける権利』」季刊・福祉労働98号(2003年)12頁、
「愛国主義教育体制における『教師の自由』と教育内容の中立性」日本教育法学会年報32号(2003年)105頁、
「教育基本法『改正』論におけるナショナリズム」全国教法研会報60号(2003年6月)139-142頁。
「『愛国心』教育と思想・良心の自由」季刊教育法138号(2003年9月)10-16頁。
「教育基本法を変えることがもつ意味」行財政研究54号(2003年12月)24-31頁。
「教師における『職務の公共性』とは何か」世界2004年4月号74-82頁。
「教育基本法改正の狙うもの」日本教育法学会編『教育基本法改正批判』(法律時報増刊)2004年4月8-13頁。
「教育基本法改正と教育の公共性」
日本教育法学会第34回定期総会・研究総会(2004年5月29日・神戸大学)報告、
日本教育法学会年報34号(2005年3月)21-37頁。
「国歌強制問題から司法の責務を考える」世界2004年9月号32-39頁。
「東京の『“生徒の不起立”で教員処分』を考える」歴史地理教育680号(2005年2月)72-81頁。
「愛国心教育と『君が代』不服従者弾圧」人権と問題735号(2005年9月)38-43頁。
「教育基本法『改正』問題について」アジェンダ10号(2005年9月)6-14頁。
「学校現場における思想・良心の自由――北九州ココロ裁判2005年4月26日福岡地裁判決をめぐって」
ジュリスト1294号(2005年7月15日号)102-108頁。
「国歌斉唱時不起立の教員処分とその限界――北九州ココロ裁判・2005年4月26日福岡地裁判決」
季刊教育法146号(2005年9月)88-92頁。
「教育基本法改正・心の自由・改憲問題」季刊・軍縮地球市民2006年6月臨時増刊38-47頁。
「(対談)これは『教育のクーデター』だ」世界2006年7月号89-99頁《尾木直樹と》。
「教育基本法改正案の投げかける問題」季刊教育法150号(2006年10月)24-29頁。
「教育基本法改正案の法的検討」教育関係15学会共同公開シンポジウム準備委員会編
『教育基本法改正案を問う』〔学文社・2006年10月〕12-28頁。
「(対談)これは『教育のクーデター』だ」辻井喬・藤田英典・喜多明人編
『なぜ変える?教育基本法』〔岩波書店・2006年10月〕126-140頁《尾木直樹と》。
「顕れた能力主義と愛国主義」辻井喬・藤田英典・喜多明人編『なぜ変える?
教育基本法』〔岩波書店・2006年10月〕181-200頁《=業績 4.18 を改稿》。
「法案の構造からみた教育基本法を改正した先」発達108号(2006年10月)82-88頁。
「憲法教育のジレンマ――教育の主要任務か、中立性の例外か」戸波江二・西原博史編
『子ども中心の教育法理論に向けて』〔エイデル研究所、2006年11月〕72-92頁。
「教育基本法改正はどんな問題か」自由と正義57号(2006年11月)62-70頁。
「国会での教育基本法改正審議を取り巻くもの」法律時報78巻13号(2006年12月)1-4頁。
「政府が求める『官製の愛国心』とおとなしい子どもたち」エコノミスト臨時増刊
『日本の針路』(2006年12月)72-75頁。
「教育基本法の改正を考える」法学セミナー627号(2007年3月)52-55頁。
「思想・良心の自由」小山剛・山本龍彦・新井誠『憲法のレシピ』〔尚学社・2007年7月〕58-66頁。
「(座談会)教育基本法『改正』問題と憲法教育の課題」民主主義教育21・1号(2007年5月)
46-64頁《杉浦真理・山崎裕康・吉田俊弘と》。
「『君が代』伴奏拒否訴訟最高裁判決批判」世界765号(2007年5月)137-145頁。
「新教育基本法を読む」人権と問題760号(2007年6月)28-35頁。
「教育を受ける権利の六〇年」法律時報79巻8号(2007年7月)86-90頁。
「改正教育基本法下の子どもと親と教師の権利」ジュリスト1337号(2007年7月1日)40-46頁。
「愛国主義教育体制における『教師の自由』と教育内容の中立性」大内裕和編『リーディングス
日本の教育と社会⑤ 愛国心と教育』〔日本図書センター・2007年7月〕261-271頁。
「データで見る教育格差」早稲田学報1163号(2007年7月)30-32頁。
「心の支配――子どもに何がおきるのか」藤田英典編『誰のための「教育再生」か』
〔岩波新書・2007年11月〕《分担部分を中川明と共著》。
“Das staatlich aufgezwungene Nationalbewusstsein als Verfassungsproblem im Zeitalter der Globalisierung (Japan)” 9
(1) Waseda Studies in Social Sciences (July 2008), pp. 17-24.
「教師の〈教育の自由〉と子どもの思想・良心の自由」広田照幸編『自由への問い5教育』〔岩波書店・2009年12月〕130-169頁。
「『君が代』裁判と外部的行為の領域における思想・良心の自由の意義」労働法律旬報1709号(2009年12月)。
「思想・良心の自由を今、考える」ジュリスト1395号(2010年3月)110-121頁。
「最高裁教育判例における教師像の展開」(東京大学院教育学研究科)教育行政学論叢32号 (2012年9月)113-180頁《佐藤晋平・葛西耕介・福島尚子・安原陽平と共著》。
「君が代訴訟の最高裁判決をめぐって」季刊教育法170号(2011年9月)14-20頁。
「学習指導要領の解釈における教師の裁量権と『不当な支配』――七生養護学校事件を手掛かりに」
早稲田社会科学総合研究13巻3号(2013年3月)41-61頁。
「親の教育権と子どもの権利保障」早稲田社会科学総合研究14巻1号(2013年7月)65-75頁。
「人権としての思想・良心の自由と『間接的制約』の実質」Law&Practice 7号(2014年3月)189-194頁。
「親の教育権と子どもの権利保障」日本教育法学会編『現代教育法の争点』〔法律文化社・ 2014年7月〕44-50頁。
「思想・良心の自由――侵害された個人の痛みに敏感な解釈論に向けて」判例時報2278号(2016年2月) 3~10頁。
“Zwischen Staatsabhängigkeit und Repräsentationsdefizit: Warum akzeptieren viele Japaner die anti-freiheitliche Verfassungsreform der LDP?”, Jahrbuch des öffentlichen Rechts, n.F. 64
(2016年4月), S. 815-837.
「判例評論・東京高判平d27・5・28:卒業式における君が代起立斉唱命令違反を理由とする停職三月・停職六月 の各懲戒処分が懲戒権者の裁量権を逸脱するものとして取消された事例」判例評論692号2-7頁=判例時報2302号148-153頁(2016年10月)。
等、その他多数。全研究業績のリストは、http://www.f.waseda.jp/nissie/biblio.html
[専攻領域]
思想・良心の自由(憲法19条)
平等権(憲法14条)
表現の自由(憲法21条)
基本的人権の基礎理論