グループZAZA

「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

田中伸尚さん著『憲法を生きる人びと』出版のご案内

2021-05-04 12:21:00 | 憲法
グループZAZAの一員であり、現職府立高校教員の増田俊道さんに取材された田中伸尚さんの新刊が憲法記念日5月3日に出版されました!!
ぜひ、皆さん、お読みいただければうれしいです。


増田俊道さんより

田中伸尚さん著『憲法を生きる人びと』が2021年5月3日に出版されました。田中さんは、『日の丸・君が代の戦後史』(2000年、岩波新書)、『ルポ良心と義務「日の丸・君が代」に抗う人びと』(2012年、岩波新書)など、私たちの先輩の反「ひのきみ」運動を丹念に追ってこられたノンフィクション作家です。

しかも、今回の出版社は、最近、下地毅さんの『ルポ東尋坊 生活保護で自殺をとめる』や、永尾俊彦さんの『ルポ「日の丸・君が代」強制』でもおなじみの「緑風出版」です。

この『憲法を生きる人びと』には、田中さんが取材された10人の生きざまが描かれているのですが、私もその中のひとりに選んでいただきました。学生のころからの被爆二世の会の活動、教員になってからの反「ひのきみ」運動、そして現在の組合活動など、とても丁寧に描写していただいています。私が生きてきた60年間を振り返る意味でも、大変貴重な機会になりました。

私以外の9人の方の生き方も、ワクワクするものばかりです。その中には東大阪で教科書問題に取り組んでおられる詩人の丁章さんもおられます。ぜひ、みなさんに読んでほしいと思い紹介させていただきました。

********************************

憲法を生きる人びと
  田中伸尚[著]
 四六判上製/272頁/2400円(2640円税込)

 日本国憲法は1946年に誕生して以来、ずっと揺さぶられつづけているが、市民のなかにしっかりと根を下ろしている。それはここに登場する10人の市民の物語が語っている。
 彼らは、海の汚染に立ち向かい、食の安全を求め、戦争孤児として国家に抗い、日本の植民地支配がもたらした分断の歴史のなかで「無国籍」を貫いて生き、思想・良心の自由を抑圧する「日の丸・君が代」に職を賭して抵抗し、親の侵略責任を背負って贖罪の営みをつづけ、生活の場を移してまで日米合作の新基地建設に反対し、南京に通いつづけて戦争とその責任を受け継ぎ、1人の法曹として憲法を実践し、天皇のための死から脱して主権者として生きる──戦後市民が戦争と敗戦によって生まれた憲法を生きて、鮮やかに闘っている姿だ。本書は、かれら憲法を生きる人びとを追った。(2021.4)

■内容構成
1 沖縄を再び戦場にしてはならないと琉球絣に惚れた越後の人(松井裕子さん)
2 海の破壊と漁村の女性史を追って「起承転々」(川口祐二さん)
3 隠された戦争孤児を追った戦争孤児(金田茉莉さん)
4 「平和の条」の輝きに託す無国籍の「在日サラム」(丁章さん)
5 南京へ通いつづける接班人(山内小夜子さん)
6 不当な命令への不服従は教員の責任(増田俊道さん)
7 食を通して大地に「平和の種」を蒔きつづける(森山幸代さん)
8 「五分の虫、一寸の魂」で実践する(岩場達夫さん)
9 父の侵略責任への自責と贖罪に生涯かける(吉岡数子さん)
10 「元・戦争ロボット」の主権者革命(原田奈翁雄さん)    
あとがき





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「振って、振られて」劇団 光の領地/ くるみざわしん作・増田雄演出のご案内

2018-08-06 16:45:11 | 憲法
「日の丸「君が代」の問題、それは本来日本人全体が考えるべき問題であった。それなのにどうして学校だけに閉じ込められてしまったか。それが僕の問題意識です。

かつて、「君が代」不起立の問題で取材を受けた時に、そう言われたメディア関係者がいました。

この劇を見れば、何かわかるかもしれません。

私たち日本人にとって憲法とは何か!?いったいなんなんでしょうね。

このまま流されていってしまっていいのか?考えるヒントがあるやもしれません。

多くの方々に観ていただき、ともに考えたいと思います。


「振って、振られて」劇団 光の領地/ くるみざわしん作・増田雄演出

◆ 2018年8月26日

◆ 13:30 開場 14:00開演

◆ 15:00トークセッション
『愛国でダイジョウブ?〜教育現場からの叫び〜

◉会場:学働館メインホール
(地下鉄阿波座駅下車7号出口より徒歩8分)
※本町通りと新なにわ筋の交差点を西に500m

入場料/一般前売り¥2000:(当日¥2500)
障がいのある人・学生 1500円

主催:大阪教育合同労働組合
協賛:「ひのきみ」大阪ネット
教科書の会 大阪
教職員なかまユニオン

問い合わせ・予約 TEL 06-4793-0633 MAIL info@ewaosaka.org




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集団的自衛権の行使は憲法上許されないー防衛省HPより

2014-07-07 13:30:14 | 憲法

集団的自衛権について、防衛省HPに掲載されている内容を転載します。ここには、はっきりと集団的自衛権の行使は憲法9条を超えるものであって許されないと書かれています。すなわち、集団的自衛権の行使は憲法違反というわけです。

今後、この記載はどのように書き換えられるのでしょうか。集団的自衛権の行使は憲法違反ではあるが、安倍内閣が閣議決定したことにより容認することになりました、とでも訂正するのでしょうか。

防衛省HP (黄色マーカーは管理人によるものです。)

http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html

1.憲法と自衛権

 わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍(さんか)を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久(こうきゅう)の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持及び交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。
 政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏付ける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えの下に、わが国は、日本国憲法の下、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として、実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。

2.憲法第9条の趣旨についての政府見解

(1) 保持し得る自衛力
わが国が憲法上保持し得る自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。
自衛のための必要最小限度の実力の具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面を有していますが、憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」に当たるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題です。自衛隊の保有する個々の兵器については、これを保有することにより、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かによって、その保有の可否が決められます。
しかしながら、個々の兵器のうちでも、性能上専(もっぱ)ら相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、これにより直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。したがって、例えば、ICBM(Intercontinental Ballistic Missile)(大陸間弾道ミサイル)、長距離戦略爆撃機、あるいは攻撃型空母を自衛隊が保有することは許されないと考えています。

(2)自衛権発動の要件
憲法第9条の下において認められる自衛権の発動としての武力の行使については、政府は、従来から、

  • ①わが国に対する急迫不正の侵害があること
  • ②この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと
  • ③必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

という三要件に該当する場合に限られると解しています。

(3)自衛権を行使できる地理的範囲
わが国が自衛権の行使としてわが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使できる地理的範囲は、必ずしもわが国の領土、領海、領空に限られませんが、それが具体的にどこまで及ぶかは個々の状況に応じて異なるので、一概には言えません。
しかしながら、武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであって、憲法上許されないと考えています。

(4)集団的自衛権
国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利を有しているとされています。わが国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上当然です。しかしながら、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、わが国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであり、他国に加えられた武力攻撃を実力をもって阻止することを内容とする集団的自衛権の行使は、これを超えるものであって、憲法上許されないと考えています。

(5)交戦権
憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領などの権能(けんのう)を含むものです。
一方、自衛権の行使に当たっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のことと認められており、その行使は、交戦権の行使とは別のものです。

防衛省の取組
防衛省の政策
 
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「君が代」強制が『良心』を侵害する 中島光孝弁護士

2013-12-15 19:13:51 | 憲法

昨日の「君が代」処分撤回・解雇阻止12・14集会で、中島光孝弁護士から憲法19条が保障する「良心」の自由について、ひじょうに示唆に富むお話をお伺いすることができました。本日、そのレジュメを送っていただきましたので、ここに掲載します。

「君が代」強制が『良心』を侵害する

2013年12月14日 弁護士中島光孝 

1 「君が代」の起立斉唱拒否にかかわる一連の最高裁判決*[1]は,いずれも校長の職務命令は思想及び良心の自由を保障した憲法19条に反しないとした。しかし,これら判決は「良心」の内容やなにが「良心」に対する侵害なのかについて適切に把握しているとはいえないのではないか。そこで,最近の笹倉秀夫早稲田大学教授の「良心について-憲法19条をめぐる考察」(『労働法と現代法の理論 西谷敏先生古稀記念論集上』所収)を参考に,「君が代」が『良心』を侵害するということの意味を整理しておきたい。また,「戦争と『日の丸・君が代』に反対する労働者連絡会・豊中・北摂」等主催の12.14集会における意見等をふまえることとする。

 

2 思想及び良心の自由に対する「間接的な制約」であっても違憲ではないとする論理

 (1)最判2011年5月30日は,「都立高等学校の教諭であった上告人が,卒業式における国歌斉唱の際に国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること(以下「起立斉唱行為」という。)を命ずる旨の校長の職務命令に従わず,上記国歌斉唱の際に起立しなかったところ,その後,定年退職に先立ち申し込んだ非常勤の嘱託員及び常時勤務を要する職又は短時間勤務の職の採用選考において,東京都教育委員会(以下「都教委」という。)から,上記不起立行為が職務命令違反等に当たることを理由に不合格とされたため,上記職務命令は憲法19条に違反し,上告人を不合格としたことは違法であるなどと主張して,被上告人に対し,国家賠償法1条1項に基づく損害賠償等を求めている事案である。」

  国歌斉唱の際に起立しなかったという外部的行為が不合格の理由となっている。

 (2)判決は,起立斉唱行為は,「国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であり,「日の丸」や「君が代」に対し敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面がある(引用者注:敬意の表明を要求することが思想及び良心の自由に対する制約であることは認めている)ことは否定し難い」とする。

  続いて,判決は,間接的な制約が許容されるかどうかをどのように判断するかという判断枠組みについて判示する。

  すなわち,「このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがある(引用者注:内心と外部的行動を分けて考える発想が現れている。外部的行動が「社会一般の規範等」と抵触することを前提としていることに注意)ところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である(引用者注:このような「総合的な較量」は憲法が有する規範力を弱める方向にも働く)。」

  そして,判決は,「職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められる」とし,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないとするのである。

 

3 「良心」と「思想,信念等」の同視,混同

(1)最判2011年5月30日は,前記のとおり,内心が外部的行動として現れ,それが「社会一般の規範等」と抵触する場面では,当該外部的行動は制限を受けることがあるとする。これは,「良心」と「思想,信念等」を同視ないし混同しているからではないか。

 (2)良心と信念等

  ア 判決は,上告人の主張は「日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人,在日中国人の生徒に対し,「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての良心が許さない*[2]。」ということであるとする。

  続いて,判決は,「このような考えは,「日の丸」や「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。」とまとめる。

  ここでは,上告人の主張する「良心」が「信念等」に置き換えられている。判決は「良心」と「信念」を同視しているが,これは「良心」と「思想,信条等」を区別する後述の立場からすれば「混同」していると評すべきものである。

  イ 良心と思想・信仰・信条・信念等と意味及び関係

  良心とは,自分の思想・信仰・信条・信念や道徳感情に照らして,ある行為をしてよいか,してはいけないかを判断し,その結論によって意志を方向づける,心の中の判断器官,すなわち〈自己の内なる裁判官〉*[3]である。したがって,良心の自由とは各人が自分の良心の命じるところをおこなう自由である。

  良心が作用する際に判断基準を提供するものが思想・信仰・信条・信念や道徳感情である。

  良心は,古来「共同知」だとされ,社会的に形成されるものであり,その意味で客観性を有する。しかし,良心の命令に従うかどうかは各人に委ねられている個人的なものであり,孤独な判断行為である。各人はたとえ他人が見ていなくても,自分の良心の命令によって行為する*[4]

  ウ 良心の自由はなぜ侵害されてはならないか

  ある教師Xが,「君が代」斉唱時に起立斉唱を求められた。その教師Xは,ある理由から起立斉唱行為をしてはならないという思想,信条等の行為準則をもっていた。Xの良心は,Xの思想,信念等に照らし,Xに対し起立斉唱行為をしてはならないと命じている。

  このような場面に遭遇した教師Xは,X自身の良心の命令に従うか,あるいは外部からの要求(職務命令)に従い起立斉唱行為を行うかという,良心の葛藤が生ずる。良心の葛藤の結果,良心の命令に従った場合でも良心の葛藤という精神的苦痛を受けた事実はなくならない。また,外部からの要求に従ってしまった場合には,良心に従わなかったという良心の呵責が生じ,精神的苦痛はさらに増す。

  良心の葛藤,良心の呵責は,自己の人格にかかわる重大なものであり,場合により心身の変調,人格の崩壊をもたらす。このような場面をあらかじめ回避しようとするものが憲法19条が保障する良心の自由である。

  良心を内面だけにとどまるものとし,その外部的行為が社会一般の規範等に抵触する場合は,当該外部的行為も制約される場合があるとする最高裁判決の論理は,「思想,信条等」とは異なる「良心」の意味,その機能を正確に捉えていない。

  エ 一般的な考え方

  最高裁の上記論理は,「思想」と「良心」を区別しない一般的な考え方にも影響されている。

  憲法19条は「思想・良心の自由」を保障する。一般的に,内心のうち倫理的・主観的な性格のものが良心であり,それ以外のもの,つまり論理的・客観的な性格のものが思想とされる。両者を明確に区別することは不可能で,また憲法解釈上の実益もない,とされる。このような考え方からすると,思想も良心も内心に止まっている限り,侵害されないことになってしまう。

  最判2011年5月30日は,「しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作*[5]としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない(引用者注:起立斉唱行為は内心の自由を侵害しないという発想)。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない(引用者注:起立斉唱行為の命令は内心の自由を侵害しないという発想)。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。」としている。

  上記下線部分は,思想も良心も同じものとみる立場からの発想である。思想も良心も内心にとどまる限り,これを外部から否定したり,外部から特定の思想を持つことなどを強制することはできない。「内心」にある歴史観,世界観,思想,信仰,信条,信念などは,内心にある限り,これを保持することは可能であるしている*[6]。 しかし,「良心」は,思想,信条等の判断基準や行為準則に照らして,ある行為を行うか行わないかを決定し命令するものである。したがって,良心が内心にとどまることは本来ありえない。良心の命令が外部的行動に現れるからこそ,良心の過重な葛藤や良心の過重な呵責を回避するため,憲法19条は思想とは別に「良心」の自由を保障している。

 

4 思想・信仰・信条等のあぶり出し

(1)戦前・戦中には,天皇の像,教育勅語,皇居,伊勢神宮を拝する集団行為が強制された。軍隊では,わざと捕虜や非戦闘員を殺害する命令が発せられた。これらの強制や命令は直接的には集団の志気を高め,精神をその方向に形成させるものであったが,間接的には,その対応ぶりをみて,「要注意人物」の思想・信仰・信条をあぶり出すことであった。これらの強制や命令は,良心の葛藤や良心の呵責を生じさせ,精神的・肉体的苦痛をもたらした。

 (2)現代にも同様のあぶり出しが始まっている。首長や教育委員会が,起立斉唱行為を公立学校の教師に命令し,さらに児童生徒や親に対しても同調を強要している。これらの命令もその対応ぶりをみて,思想・信仰・信条をあぶり出し,かつ,職務命令違反として処分し,再任用しない。このあぶり出しは,良心の働きを効果的に利用した卑劣な手段である。自分の良心は,自分の教師としての思想・信仰・信条に従い,起立しないことを自分に命ずる。起立斉唱行為を要求する職務命令は,自分の良心の命令に従う教師の思想・信仰・信条を次々とあぶり出す*[7]。あぶり出しを回避しようとすれば,自分の良心の命令に逆らうほかない。そこに良心の過重な葛藤と良心の過重な呵責が生ずる。

  憲法19条は良心の働きに対する制約を禁止している。「君が代」強制が「良心」の働きを妨害するものであることを改めて主張しなければならない。 


[1]* ①2007年2月27日最高裁判決(ピアノ伴奏拒否訴訟),②2011年5月30日最高裁第2小法廷判決(須藤正彦裁判長),③2011年6月6日最高裁第1小法廷判決(白木勇裁判長),④2011年6月14日最高裁第3小法廷判決(田原睦夫裁判長),⑤2011年6月21日最高裁第3小法廷判決(大谷剛彦裁判長)

[2]* 「教師としての良心」と「人間としての良心」のずれあるいは対立する場面もあるのではないか。

[3]* 〈自己の内なる裁判官〉は比喩的な表現である。思想等が判断基準ないし行動準則であり,これに照らして自己の行動を決定するものが自己の「良心」である。決定するという側面をとらえて「裁判官」という比喩を使っている。「ウソはつきたくない」という信条を持っている人が,具体的な場面で「ウソをいう」ことを迫られる場面に遭遇したとき,「ウソをつくな」と決定し,命令するものが自分の「良心」である。「ウソはつきたくない」という信条が強ければ強いほど,上記のような場面に遭遇したとき葛藤が強くなる。信条に反してウソをついてしまった場合には良心の過重な呵責が生じることになる。ハンナ・アーレントが「小心者で取るに足らない役人」として描いたホロコーストの中心人物アドルフ・アイヒマンは良心の呵責を感ずるほどの人間としての「判断基準」なり「行為準則」を形成せず,また自分の行動を決定する自分なりの「良心」も形成しなかったのではないか。この視点に立ったとき,結果としての大きな悪のなかに悪の凡庸さを見ることができるのではないか。

[4]*  「自意識に基づいて行動を決定する」という表現もありうる。各人は強弱はあれ,自分なりの思想,信条等の行動準則を形成している。そして,だれが見ていようと,また,だれかにアピールするというよりも,自分は自分の自意識において,自分の思想,信条に従う行動をとるといった場合,その自意識はまさに「良心」と同義である。

[5]* 判決は,慣例上の儀礼的な所作であるということを,起立斉唱行為が内心の自由を侵害しないことの理由としている。しかし,慣例上の儀礼的な所作にすぎないのではなく,権力的に儀式を強制するという側面に着目すべきではないか。儀式は,子どもを集団的活動や指示命令に馴化させる機能を有する。儀式は,人格の完成をめざすべきはずの教育活動において,「考えないこと」を押しつけることになる。子どもの立場からすると,上記のような機能をもつ儀式の在り方はたえず問題としなければならない。これを問題として提起するのは子どもとの人格的接触をしている教師ということになろう。

[6]* 表現の自由は内心領域と外部領域がある。出版,放送,デモ,集会などは外部領域における表現の自由である。これに対し良心は主として内心にとどまるとされるのが一般であるが,良心が発動された場合には良心は外部的行為となって現れると考えるべきではある。

[7]* 蟻川恒正・日本大学教授は,間接的な制約が許されるかどうかを判断する際の較量要素となる「職務命令の目的及び内容」について,「不服従教諭のあぶり出し」を企図して職務命令が出されたという消息が特に窺える場合等には,職務命令の「目的」の正当性が欠けると解される可能性があるし,口を動かして実際に歌うことまでを厳しく求める職務命令である場合等には,職務命令の「内容」が「慣例上の儀礼的な所作」の要求を超え,行為要求としての相当性に欠けると解される可能性があるとする(「憲法判例百選Ⅰ〔第6版〕87頁)。

 

 

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民主主義は首の皮一枚という状態だが幸運なことにまだ日本国憲法は残っている

2013-12-13 18:55:44 | 憲法

日本が民主主義の国である以上、問われるのは私たち市民の責任だ。そう、民主主義は手間がかかるものなのだ。私たち市民が手を抜けば絶大な権力を持った政治家たちはいつ刃物を振り回すかわからない。それに歯止めをかけるのが憲法であるわけだが、どんなにいい道具も使わなければ意味がない。おおいに憲法を使おう!

毎日新聞より

http://sp.mainichi.jp/shimen/news/20131211ddm041010049000c.html

 

特定秘密保護法に言いたい:「待ち」ではなく積極関与を−−ドキュメンタリー映画監督・想田和弘さん

想田和弘さん

 ◇想田和弘さん(43)

 民主主義は国民一人一人に権力があるが、選挙で選んだ政権に間接的に預けることで機能する。預けた権力は絶大で刃物を持たせるのと同じだ。

 自民党は昨年、人権の制約や言論の自由の制限を盛り込んだ憲法改正草案を発表したが、社会はさほど驚くこともなく、衆院選、参院選で大勝させた。参院選では有権者の半数近くが棄権して政権を育てた。

 選挙で秘密保護法制定を公約に掲げなかったが、自民党は国民から無言の承認を得たとみた。今の事態は私たちが招いたことを忘れてはならない。

 反対する人たちもマスコミも危機感が乏しく、出足が遅かった。野球で言えば、九回裏に10点差を付けられていることに気づいて慌てた。一方、自民党は試合前から態勢を整えていた。

 秘密保護法は「知る権利」や表現の自由を奪い、憲法21条に反していると私は思っている。今や民主主義は首の皮一枚という状態だが、幸運なことにまだ日本国憲法は残っている。

 選挙だけが民主主義の参加の機会ではない。憲法12条は自由や権利を保持するために国民に「不断の努力」を求めている。違憲訴訟を起こすことも、デモに行くことも、秘密保護法の下にできる「政令」のパブリックコメント(意見募集)でもの申すこともできる。

 民主主義の主人公である国民はヒーローを待っていてはだめだ。一人一人が街に落ちているゴミを拾ううちに、拾う人がいっぱいになれば街はきれいになる。【聞き手・青島顕】=随時掲載

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