すっかり掲載が遅れてしまい、いまさらながらという気もしないではありませんが、「君が代」条例は憲法違反!第3回口頭弁路を前にして、4月14日第1回口頭弁論で行った原告意見陳述文を掲載します。
「君が代」条例は憲法違反!
「君が代」不起立減給処分取消訴訟第1回口頭弁論
原 告 冒 頭 陳 述
2014.4.14
辻谷博子
裁判官をはじめみなさまへ、私が、なぜ、「君が代」条例を憲法違反と訴えるのか、冒頭にあたり、そのことについて述べさせていただきたいと思います。どうかよろしくお願いします。
私の両親は、中国からの引揚者です。敗戦後、着の身着のままで大陸から故郷であった熊本に帰って来たものの生活の目途は立たず、父も母も、大阪府警に職を得、夫婦二人で来阪し、お茶碗2つから買い揃えていく生活を始めたそうです。私は小さい頃から母が育った満州、大連の話をよく聞かされました。そのなかで特に印象に残っているのは、母が戦地にいる兄に「どうかお国のために死んでください」と手紙を書いた話でした。1930年生まれの母は見事な軍国少女だったのです。天皇陛下は神様、天皇陛下のために死ぬことが日本人の勤めだと真剣に考えていたと言います。そして、そういう風に自分が思うようになったのは、教育のせいだと言います。ご真影、日の丸、君が代、紀元節、海ゆかば…等々を通して、母は自分や肉親の命よりも日本のために死ぬことを理想としていったのです。「教育っていうのは恐ろしいものだよ」―私は母から何度も聞かされました。
そういう母とは違い、1952年生まれの私は、同世代の多くの方と同じように「平和と民主主義」の国、日本で生まれ育ちました。確か小学6年生の時だったと思います。
先生から日本の「憲法」の素晴らしさを教わりました。その前文を暗唱しながらとても誇らしい気持ちになったことを今でも覚えています。父母の世代から聞く戦争の恐ろしさや、冷戦時代を背景に、たとえば核実験による「放射能の雨」の恐怖はありましたが、「憲法」が私たちを守ってくれると本当に心から信じていました。今、振り返ってみると、戦争を体験された先生自身の、「憲法」に寄せる情熱が子どもであった私たちにそのまま伝わって来たせいだと思います。憲法観は世代によって違うかもしれませんが、私たちの世代にとって、憲法は、自分が「国」というものとつながる初めての体験であり、それはかけがえのないものという記憶から出発したように思います。少なくとも、小学生だった私にとって、日本は、世界にまたとない素晴らしい憲法を持つ「平和と民主主義」の国だったのです。
しかし、その憲法の下で、直接的ではなくとも、日本政府や日本企業がベトナム戦争に加担している事実を知ったとき衝撃を受けました。私が高校生だった、1960年末のことです。アジア・太平洋戦争における日本の加害責任も明らかにされていきました。私にとって、戦争は、被害者になることはもちろん恐ろしいことですが、加害者になる恐ろしさはそれにも増していました。憲法は、その第12条で、憲法が保障する自由や権利は国民の不断の努力で保持するものだと定められています。私たちが憲法の理念を実現するためには、そして私たちが、二度と戦争の被害者、それ以上に加害者にならないためには私たち自身が絶えず声をあげていかなければならないと感じました。
さて、大阪府立高校教員となり、教科は「国語」でしたが、人権(同和)教育を通して、私は「憲法」を教え続けて来ました。いや「教える」というより、差別を許さない前提として、人権を護るために「憲法」があることを生徒とともに確認する作業であったよう思います。被差別の生徒、在日コリアンの生徒、障害のある生徒、信仰を持つ生徒、経済的事情等で社会的に被差別の状況にある生徒、生徒らが世の中で生きていくとき、「憲法」こそが必要です。現行憲法に問題がないわけではありません。しかし、平和と民主主義を理想として実現した憲法の精神は、人権教育、いや教育全般について、最大にして唯一の拠り所でした。9条、14条、19条、25条、…私は、自らを守るものとして「憲法」はある、との確信と共に教員生活を続けて来ました。
学校では、1985年頃からだったと思いますが、「日の丸」「君が代」を卒業式等の学校行事で執り行うことについて、毎年議論をするようになりました。特に学習指導要領の文言が「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ『日の丸』を掲揚し『君が代』を斉唱することが望ましい」から「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」と改訂された(1989年)、その後の卒業式を巡っては、何日にもわたって議論が続きました。私は、「日の丸」「君が代」が果たした歴史的な過程もさることながら、人権教育を通して、学校に「日の丸」「君が代」を持ち込むことは、多様な生徒のあり方を無視して一元的な価値を生徒に示すこととなり、差別を助長することにつながりかねないと考えていました。世の中全体では、「日の丸」「君が代」問題はさほど顧みられなかったのですが、こと教育の現場である学校では、「日の丸」「君が代」の問題は公教育の本質にかかわる重大な問題でした。毎年毎年の議論は真剣そのものでした。しかし、その反面、時代の流れのなかで、「日の丸」「君が代」がオリンピック等を通して馴染まれていくにつれ、そして、管理職が、年々、その実施について強硬さを増すうちに、議論を不毛なものと考えだす教職員も出てきました。
1999年国旗国歌法が成立しましたが、卒業式において、生徒は無論、教職員にも「君が代」起立斉唱が命令されることはありませんでした。それが、立法過程における議論であり、強制はしないというのが立法趣旨であったのですから。しかし、強制の度合いは有形無形で進んでいったのです。
2004年四條畷高校卒業式において、担任する生徒が「なぜ、卒業式で『君が代』を歌わなければならないのか。嫌なら歌わなくてよいのか」と校長に質問をした際、私は、彼女をサポートしたことによって、校長から「評価・育成システム」で、学校でただ一人「C」評価をくだされました。大阪弁護士会に人権救済の申立をし、結果、弁護士会は大阪府教育委員会と四條畷高校校長に対し、「C」評価は憲法19条に違反した人権侵害であるゆえ撤回するよう「勧告」を出しました。法の正義はあると、とても嬉しかったことを覚えています。しかし、大阪府教育委員会は従いませんでした。このときほど、教育行政に対して不信感を持ったことはありません。当時2年生の担任だった私は、異動させられ、以後、担任は二度と持たせてはもらえませんでした。そして赴任した枚方なぎさ高校で、担任を希望し、教科会議でも決定していたにもかかわらず、私は担任ではなく人権教育推進委員長に任命されました。担任はできませんでしたが、入学する7期生を前に「憲法」の話をし、残された教員生活を7期生とともに人権教育を通してまっとうしようと考えました。
2011年6月、大阪維新の会は大阪府議会に「君が代」条例案を提案しました。私は、自分の目で確かめるべく仕事が終わってから議会に駆けつけました。わずか1時間も議論はされなかったように思います。形ばかりの議論の末、賛成59票、反対48票で「君が代」条例は制定しました。その時の虚脱感は忘れることができません。30年近くにわたって、生徒や、管理職も含めた教員間で話し合ってきたこと、教育委員会と組合を通して話し合って来たことがすべて反故にされ、政治の力で「君が代」起立斉唱が教職員に強制されることになりました。怒りや悲しさを通り越して虚しさがありました。いったい憲法はどこのあるのだろう、と。そして、「君が代」」条例制定後、懲罰規定を設けると宣言した橋下知事(当時)の言葉通り、2012年4月には、「君が代」不起立三度で免職にする職員基本条例が施行されました。
学校現場ではこれまでにない事、ある意味異常と思われることが次々と起こりました。生まれて初めての「職務命令」。しかも教職員全員に。そして「君が代」を歌えないと言えば、入学式や卒業式参列から締め出される事態。2013年の枚方なぎさ高校第7期生卒業式、私にとっては教員生活最後の、そして3年間かかわって来た生徒の最後の卒業式でした。ところが、校長は職員席を座席指定までして私に参列を断念させようとしました。その時、私が選ぶことのできた道は二つです。一つは、卒業式に参列することを諦めること。もう一つは、それでも卒業式に参列すること。私は考えました。どちらが後悔しないだろうか。これまで自分がやって来たこと、そして今自分がやらなければならないこと、それらを考えた時、私は教員生活の最後にかかわった第7期生卒業式に参列しなければならないと思いました。「君が代」条例が施行され、それに基づき職務命令が発出され、「君が代」が嫌なら卒業式に参列しなければいいという声もあります。しかし、そもそも、「君が代」条例がおかしいのです。それに目をつぶったままで、これまで自分がやって来たことを捨て去り、最後の卒業式に参列しない道を選べば、私は一生後悔することになったでしょう。
裁判長、どうかお願いします。全国で唯一教職員に「君が代」起立斉唱を強制する大阪府条例は、民主主義国日本の最高法規「日本国憲法」に違反します。どうか正しいご裁決を期待します。