グループZAZA

「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

「森友学園」疑獄を許さない集会・デモのご案内

2020-09-26 08:46:00 | 集会案内
ZAZAのメンバー山口広さんからの呼びかけです

みなさんへ、直近のお知らせで申し訳ありません。

第43回「森友学園」疑獄を許さない集会・デモは、

9月27日(日)11:00集会 11:40デモ出発

場所は野田中央第2公園〉です。 
阪急宝塚線「庄内」駅下車、北西に10~15分。元「瑞穂の国記念小学院」校舎前の公園です。

※デモの解散は12:30ごろ、「庄内」駅にほど近い場所です。

ピークは過ぎたとはいえ、まだまだ暑い日が続いています。熱中症対策、コロナ対策にご配慮の上、無理のないようにお願いします。アルコール消毒剤は実行委員会で準備します。ご参加、よろしくお願いします。

前回の8月の集会デモは8月25日(火)大阪城公園「世界連邦平和像」前広場で集会ののち、大阪府庁、近畿財務局、大阪府警に対して25名でシュプレヒコールをぶつけてきました。詳しくは添付の「星火」14号をご覧下さい。

なお、次回10月は10月26日(月)大阪城公園で集会(18:00)大阪府庁、近畿財務局、大阪府警に対してのデモ(17:00)です。









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再任用拒否国賠訴訟証人尋問補足説明:「意向確認」とは?「違反質問」とはとは?

2020-09-16 14:28:00 | 裁判
9月9日の再任用拒否国賠訴訟の証人尋問法廷は圧巻でした。それは原告梅原聡さん、そして被告側証人であった当時の管理指導主事の陳述書を読み比べてくだされば、いくらかは、わかっていただけるように思います。

ただ、そもそも「意向確認」とは何か?「違反質問」とは何か、少しわかりにくいかもしれません。原告梅原聡さんの補足説明を掲載します。どうかお読みください。


意向確認とは 


大阪府では卒業式などで「君が代」斉唱の際の起立斉唱の職務命令に従わず懲戒処分を受けた教員らに対して研修を受けることを義務付けています。内容は、関係する法令や条例の条文を読み上げることが中心で、30分程度の非常に形式的なものですが、この研修の最後に「今後、入学式や卒業式等における国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の職務命令には従います。とだけ書かれた文書を渡され、署名押印を求められます。


最初私達は、このタイトルも宛名もない文書を怪文書などと呼んでいたのですが、府教委の内部で「意向確認書」と呼ばれていることがわかりました。「意向確認書」は文面を書き直すことも、提出するかどうか任意とされ、担当する教員力向上要支援グループは、研修の結果を確認するためのものと説明していました。研修後に「意向確認書」を提出しなかったり、文言を修正して提出したりしても、とがめられたりすることはありません。退職してしまえば、そんなものがあったことはどこに影響することもないのです。


ところが、「意向確認書」を提出しなかったり、書き換えて提出したりした者が、定年時に再任用を申請した場合、再任用の可否を決める直前に校長から呼び出しを受けます。そして、その書面と同じ文言で「今後、入学式や卒業式等における国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の職務命令には従いますか?」とだけ尋ねられるのです。これに「Yes」と答えれば再任用が認められますが、それ以外の答えなら再任用が拒否され、事実上のクビがきまるのです。これが、私達が現代の踏み絵と批判してきた「意向確認」です。

 



違反質問とは 


厚労省は公正な採用選考のための基本的な考え方を示していて、応募者の基本的人権を尊重することと、応募者の能力・適性のみを基準として行うことが、その二本柱になっています。これに従って、採用選考時に面接・作文等で把握してはいけないこととして、本来自由であるべき事項(思想・信条など)や本人に責任によらない事項(本籍や家庭環境など)などの14項目をあげていますが、これを面接等で尋ねようとするのがいわゆる違反質問です。例えば、「尊敬する人物」や「愛読書」を尋ねるような質問も応募者の思想的背景につながる違反質問として、面接時の質問などについてはかなり厳しく制限をしています。大阪府教委は就職指導で違反質問を受けた場合には「学校で答えないように指導されている」と返すように指導させています。私達の再任用の審査に当たって質問された「意向確認」は、もろにこの違反質問にあたるもので、生徒に答えないように指導している私達が答えられるわけがありません。こんな質問を堂々とする府教委はどうかしてるとしか言いようがありません

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2020グループZAZA連続講座平井美津子さん講演会第1回レジュメ公開②

2020-09-14 13:57:00 | グループZAZA活動報告

  19531224日、広島児童図書館(今の子ども図書館)でのクリスマス会で、笑わぬ子らに衝撃受ける。→なぜ笑えないのか?彼らが見せる影はどこからきているのか。それを解き明かすこと。そして、子どもたち自身が自分で笑えない原因をいつかつきとめるしかないのだ。

  「笑わない子どものひそかな、というよりも一途な眼ざしが何を物語っているのか、その心の中にはいりこめない、ふがいなさが悲しかった。子らは、なぜ自分がこんなつらい子ども時代を過ごさなくてはならないのか、なぜおとうさん、おかあさんが小さい自分を残して死んでしまったのか、住むところも、何も彼も失ったのか、ナゼ、ナゼ、そういいたくて、その答が得たくて、一途な目をむけるのではないか。なぜ。その答を語らなくてはならない。」(『母さんと呼べた日』山口勇子、草土文化、1964年)

 

○再び原爆孤児を作るまい

  1954年第五福竜丸事件、1959年から安保条約改定への反対運動の広がり→子どもたちのなかに社会情勢への意識高まる。

  1959年。広島で安保改訂阻止広島県民共闘会議が結成。第五回原水爆禁止世界大会。

  同年84日、子どもたちは初めて「広島子どもを守る会」と書いたプラカードを持って、慰霊碑前まで行進団に加わった。「再び原爆孤児を作るな」というプラカードは年長の男子が持った。

  8月5日、原水爆禁止世界大会で被爆者代表として孤児の岡村広子が訴えた。

第5回原水爆禁止世界大会における被爆者代表の訴え   岡村広子

 

私は広島に住む原爆被災者の一少女です。

あの十四年前の八月六日、そうです。広島にあのおそろしい原爆が落とされた日です。

その原爆によって、父と母と姉の三人を失い、今は遺された姉妹三人です。その当時、たった二歳だった私は何一つおぼえているものはありません。もちろん父や母の顔もおぼえていません。でもいつもおばさんたちにその当時のことを話してもらっています。 私はその日、乳母車に乗せてもらって外にいました。私は大きな音におどろいて、ひっくり返った車のすみで小さくなっていたそうです。ですから、私は幸いにして傷一つしていませんが、後になって髪がぬけて丸坊主になり、血などを吐き、歩いていた私は歩けなくなったそうです。だのに現在このように大きくなって、健康に育ったのは奇蹟的だとみんなはいつもいっています。母は建物の下敷になりましたが、すぐはい出したので、そのときは助かったのですが、なにしろ母は子ども三人を抱えてにげ廻り、それに父が心配になって翌日市内をさがし廻ったのでそうしたことが悪かったのでしょう。三週間ぐらいして母は死にました。父はどうなったのかとうとう遺体もみつけ出すことができませんでした。父の魂もきっとこの慰霊碑の中にあるでしょう。

 

 このようなことを思い出すたびに父母と姉の一人、そして広島、長崎の人々を奪った原爆が憎らしくてならない気持ちでいっぱいです。そんなとき「なぜ私もいっしょに死ななかったのだろうか、なぜいっしょにいた母や姉は死んだのであろう」と思います。しかしその反面、「いや、私は生きなければならない、そしてあのおそろしい、悲しい思いを再び起こらないように日本中、いや、世界各国のみなさんに訴えなければいけない。私が訴えなければ誰が訴える者がいようか」という気持ちがあふれてきます。

 

 ちょうど七年前、私が小学校三年生のとき「広島子どもを守る会」の世話によってアメリカのニューヨークのブルックリンに住んでいられるスカンジナローさんの精神養子になりました。今ではスカンジナローさんとは、遠く海を隔てていても親子のように手紙によって心を通じ合っています。私とスカンジナローさんのようにみんなの心は、どこの誰とも知らない人でも、遠く離れていても、言葉がわからなくても、心と心は通じ合うのではないでしょうか。いやきっと通じ合っていると思います。その心とは、原水爆の無い平和な世界を願う心でしょう。

 私も、もちろんここに集まっていらっしゃるみなさんも一人ひとりでは、誰彼と区別なくこの慰霊碑の前ではなかよく手を結ぶことができるでしょう。私たち子どもの世界では、東西区別なく、手をつなぐことができます。それだのに大人の世界では国内、いや世界の国々がなぜなかよく手を結ぶことができないのでしょうか。世界各国、東西区別なく手をつなぐことができたならば、自然に原水爆を作らなくてもよいようになるでしょう。そうすれば、そこに世界平和が生まれるのではありませんか。どうかみなさん、この大会で世界、いや地球から原水爆がなくなるように手をつなぎあって、世界中の人々に訴えてください。

 私は、おとうさん、おかあさん、おねえさんの眠っているこの慰霊碑の前で心からお願いします。

 一九五九年八月五日

 

 

3.山口勇子と孤児たちの平和への願いを記録として

  取材の中で実感した孤児たちの願いは「二度と原爆孤児をつくらないために」ということ。孤児たちの人生の柱になった思い。

  山口勇子の核廃絶への取り組み・・・「二度と原爆孤児をつくるな」ということを実現する運動は、必然的に原水爆禁止運動につながる。

  1984年、原水協筆頭代表理事。1985年、核兵器全面禁止国際署名の協議会に日本原水協の代表として参加し、「ヒロシマ・ナガサキからのアピール」に署名。

  「人類と核兵器は共存できない」「核戦争を阻止できるのは人間」…勇子の原点。

  勇子の子どもへのまなざし…「人間は核兵器とともには、生きてはいけないのだ。核兵器のふとんの上で、子どもが生まれ、育つことはできないのだ」(「原水協通信」、一九九四年三月六日)

 

一九四五年八月六日、広島は死にました。人も、木も、草も、鳥も、動物も。

 けれど、ひとつだけ、のこったものがあります。人間の心です。その心は、すこしずつふくれあがり、きょうも、わたしたちに、よびかけています。

 ヒロシマを、くりかえしてはならない。

 世界じゅうに、ほんものの平和を。―――と。

(山口勇子「つるのとぶ日」の扉より、東都書房)

 

おわりに

敗戦で戦争が終わったのではなく、終わらない戦争の傷跡が国内にも国外にも今もある。その解決のためにも、戦争による被害者の声を掘り起さなければならないし、すでにタイムリミットが来ています。戦争の実相を私たちが掘り起こし、記憶し、記録し、伝えていくことが、ふたたび戦争をする国へとむかおうとしている政治の流れに楔を打込むことになる。

そのためにも、広島に長崎に原爆孤児がいたこと(日本の各地にも戦争孤児)を知ってほしいと思う。二度と孤児を生み出さないために、私たちに何ができるのか。戦争が起きれば一人ひとりの人生が踏みつぶされる。そのことを山口や孤児たちのたどった道のりを知ることで考えてほしい。

 

※『戦争孤児たちの戦後史②西日本編』(平井美津子・本庄豊編、吉川弘文館、2020年)

『原爆孤児 「しあわせのうた」が聞こえる』(平井美津子、新日本出版社、定価1700円)もお読みください。






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2020グループZAZA連続講座平井美津子さん講演第1回レジュメ公開!①

2020-09-14 13:47:00 | グループZAZA活動報告

9月12日、2020グループZAZA連続講座第1回を開催しました。多くの方々にご参加いただき、平井美津子さんの現職教員としての、また研究者としての素晴らしいお話をお聴きすることができました。平井美津子さんの了承のもと、当日配布したレジュメを2回に分けて掲載します。なお、次回は11月14日(土)14時より、エルおおさかにて開催しますので、ぜひご予定ください。







2020年グループZAZA・連続講座第1回                2020.9.12

原爆孤児と支えた人

子どもと教科書大阪ネット21事務局長 平井美津子

はじめに~新しい民主主義の夜明けを迎えて

 5年前のこと覚えてますか?「民主主義ってなんだ?」「これだ!」…昔のシュプレヒコールじゃない、新しいコールに夢中になった夏。あちこちでスタンディングが行われて、何かに組織されてじゃなく、みんなが自分の意思で安倍NO!を表示。

 安倍政権のもとでの数々の悪政、ようやく終止符をうった。これは病気のせいではなく、私たちの長年の闘いの成果だ。でも、残念ながら、まだまだ私たちを休憩させてはくれない政権が続く…らしい。でも、民衆の力は微力であっても無力ではない。希望を失わずに前へ前へと思う。

 

1.ふってわいた広島との出会い

2013年に本庄豊さん[1]元孤児施設「積慶園」(京都市)から大量の写真や史料を発見したことがきっかけで、8月「平和のための京都の戦争展」で「京都の戦争孤児展」を開催された。そのことが京都新聞に大きく取り上げられ、大きな反響を呼び、元孤児の方や孤児施設の方から続々と連絡が。真宗佛光寺派大善院で孤児たちの遺髪・遺骨8体が発見され、調査が開始されることになった。その調査をもとに、10月に大善院で「追悼・法要の夕べ」を開催。『平和を学ぶ戦争遺物』第3巻(汐文社)に本庄さんが戦争孤児の遺骨遺髪のことを書き、出版された。

この経緯の中で、汐文社より戦後70年企画として『シリーズ 戦争孤児』全5巻の編集・執筆の要請があり、本庄さんを含め歴史教育者協議会の仲間で20141月に執筆の会議を開いた。出版期限は、2014年度内。この会議の時点で1年余り。だれがどこをやるかでは、すでに本庄さんが京都周辺の孤児、エリザベスサンダースホームを決められており、平井の沖縄はすんなりと決定。広島・長崎の段になって、広島歴史教育者協議会の方にお願いするも…。最終的に平井が。


2.原爆孤児と精神養子運動

○ 取材と資料収集に難航

 沖縄に関しては、沖縄平和ネットワークの仲間や沖縄タイムスなどの協力があり、春休みや56月に集中的に沖縄取材。目途はついたものの、広島は?広島平和記念資料館にいっても、孤児に関する展示はほとんどなし、学芸員の反応も…。

そんなときに大きなヒントをもたらしたのが『歴史地理教育』688号(19958月)の特集「被爆60年 ヒロシマ・ナガサキを教えよう」。ここに登場していた山田寿美子さんの取材から始めることに。広島を調査する上でぜひともお話を聞きたかったのが広島歴教協の高橋信雄先生(現在は広島教育研究所・原爆遺跡保存運動懇談会副座長)。孤児調査でお話を聞けそうな方などについてアドバイスをもらう。

その日がまさに歴史的豪雨災害が発生した820日。翌日は豪雨災害のさなか、高橋さんに紹介してもらった小西さんを取材。そこでめぐり会ったのが『おこりじぞう』の作者山口勇子だった。ここからどんどん証言者に出会うことに。


○原爆孤児とは

・ 疎開中に原爆で両親を失った子ども。

・ 親と一緒にいた、もしくは同じ広島市内にいて自らも被爆し、両親を失った子ども。

・ 片方の親はいるが被爆などにより、困窮している子ども。

推定で広島市内に6500名と言われているが、定かではない。

広島市及びその近郊にある11の孤児収容所と、市内の親せきや知人の家で養育されている原爆孤児の数は、推定1000名を超える。これらを原爆孤児という。

 

○原爆孤児精神養子運動

  始まりは、米国のノーマン・カズンズらによる「精神養子運動」(1949年)

  『原爆の子』の編著者で被爆者である長田新が国内での「精神養子運動」を提唱。

  1953年2月22日「広島子どもを守る会」発足。(会長・森滝市郎、副会長・山口勇子、土谷巌郎)。長田は「精神養子運動の仕事は慈善事業ではない。そういう方向に向いてはならない仕事だよ。平和運動のひとつとしてやりぬくのだよ」と言い続けた。

  最初は特別新教育をめざす学生から始まった。

  精神親は精神養子となった子どもに月千円の仕送りと手紙を送る。最高十八歳になるまで続ける。この手紙こそが重要な役割を持った。

 

○山口勇子と笑わぬ子ら

  「あの日から母は私たちだけの母ではなくなりました。」

  孤児たちを探す作業に難航する。

  孤児たちの置かれていた状況

 ぼくは原爆が落ちてから十日目の八月十六日に生まれ、母は八月二十四日に死にました。だから母の乳は飲んでいません。近所の人たちは、乳がないので育つまいと言っておられたそうです。でもおばあちゃんが米をたいたおも湯を作ったりミルクは当時何もかもみな配給だったので朝早くから行って長い間待ってもらっていたのだそうです。

  冬などはぼくの身体がなかなか暖まらないのでおばあちゃんの着物の中に入れて寝ておられたそうです。

  夜は泣いたらみんなが目をさますのでそっと外に出てぼくを寝かせていたのだそうです。こんなに苦労してぼくを育ててくださったおばあちゃんは今だに苦労しておられます。おじいちゃんが原爆のため病気で働けないのでおばあちゃんが働かないとぼくたちが食べていけないので、おばあちゃんは毎日毎日働きに行っておられます。

  おばあちゃんの働いておられる所は石切り場で大きな石をかつぐ仕事です。夏などは汗で着物がびっしゃこにぬれています。こんなにおばあちゃんが苦労さなさるのもみんな戦争があったからだと思います。戦争がなかったらかあさんも生きておられ光復に生活していることだろうと思うからです。

  ぼくは早く大きくなっておばあちゃんを助けてあげたいと思います。それにはおばあちゃんが長いきをして下さればいいがなあと思っています。

  こんなにぼくたちを不幸にした戦争が二度とおこらないように心から願っています。(十四歳、男子、中学二年生。祖父母・姉(十七歳・女工員)とくらしている) 






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再任用拒否国賠訴訟証人尋問府教委管理主事(当時)陳述書

2020-09-13 05:42:00 | 裁判


陳述書

令和2年7月17日

                                                                 ○○○○    

 略歴

(1) 私の略歴は次のとおりです。

昭和61年4月 大阪府公立学校教員に採用

昭和61年4月 大阪府立○○高等学校教員に採用

平成6年4月  大阪府立△△高等学校教諭

平成19年4月 大阪府立△△高等学校主席

平成24年4月 大阪府立△△高等学校教頭

平成27年4月大阪府教育委員会事務局教職員室教職員人事課管理主事

平成30年4月 大阪府立◇◇高等学校校長(現在に至る)

(2)本件で原告梅原聡氏(以下「梅原氏」といいます。)にーー校長が意向確認をした平成29年1月24日当時、大阪府教育庁教職員室人事課教員力向上支援グループの管理主事として勤務し、教職員の研修、指導等の業務を担当すると共に、教職員室教職員人事課が所管する再任用教職員採用選考審査会(以下「再任用審査会」といいます。)の庶務の事務をしていました。なお、教職員室教職員人事課の管理主事は、大阪府教育委員会通則第9条第5項に規定された職であり、教職員の指導、研修、再任用事務等の職務に従事するとされています。


 梅原氏の再任用に関する意向聴取について

(1)梅原氏が過去に受けた戒告処分

  梅原氏は、平成24年3月27日、同年3月8日に実施された勤務校である府立――高等学校の平成23年度卒業式において、職務命令に違反して国歌斉唱時に起立しなかったことが、地方公務員法(以下「地公法」といいます。)32条に規定する上司の職務命令に従う義務に違反するものであり、学校教育に携わる公立学校教員として全体の奉仕者たるにふさわしくない非行であり、その職の信用を著しく失墜するものとして、地公法29条1項1号及び3号に該当するものとして、戒告処分を受けました。

  また、梅原氏は、平成26年3月27日、同年3月6日に実施された勤務校である府立芦間高校の平成25年度卒業式において、職務命令に違反して国歌斉唱時に起立しなかったことで、同様に戒告処分を受けました。

 ( 2 戒告処分後の一連の手続きの流れ

府教委は、職務命令違反による戒告処分を受けた職員に対しては、資質向上研修を行っており、その研修後、「卒入学式等における国歌斉唱時の起立斉唱を含む上司の職務命令に従う」旨を記した意向確認書(以下、「文書」といいます)に署名・押印の上提出することを求めていました。そこで、何もなければ当該処分についてはそれで終了となりますが、「文書」を改変・加筆したもの

については、後日に「なぜ改変・加筆を行ったのかということから、元の「文書」に記載した内容の職務命令に従えるのかについて再度の意向確認を行っておりました。

梅原氏についても、平成28年1月に研修を行い、その研修後に前述の「文書」に署名・押印を求めましたところ梅原氏は「地方公務員法に定める上司の職務命令に従います。ただし、今回の研修では十分な説明が得られなかったため、憲法その他の上位法規に触れると判断した場合はこれを留保します。」と修正して提出しました。

そこで、府教委は、その後平成29年1月初旬から中旬頃、梅原氏が元の「文書」に記載の内容の職務命令に従えるのか確認を行うため、梅原氏の勤務校である大阪府立○○高等学校の萩原校長に指示し、同月24日朝に、――校長から、梅原氏に対し、意向確認を行ってもらいました。やりとりについては、――校長から、ほぼ訴状で書かれているとおりだった旨報告を受けています。

結局、梅原氏から、元の「文書」に記載の内容の職務命令に従えるのかの確認はできませんでした。なお、梅原氏は翌25日に、梅原氏からーー校長に「なぜ答えないかという部分をきちんと伝えたか」について確認し、府教委に「思想・信条に関わる質問を再任用に関連して聞くことは不適切ではないか」という点を聞くように依頼したところ、翌同月26日に、――校長から梅原氏に、「こちらからこの件に関して答えることはない」との府教委からの回答を伝達されたと主張していますが、梅原氏からーー校長への確認の要請は26日であり、――校長から梅原氏に対する府教委からの回答の伝達は27日のことでした。

(  大阪府商工労働部からの労政課からの質問と回答

その後、同年2月3日午後1時30分頃、大阪府商工労働部労政課の担当者が、教職員人事課に見え、教員力向上支援グループの◎管理主事と私が対応しました。そのやりとりは、本裁判で証拠として提出されている大阪府の同月13日付け部分公開決定通知書添付の文書のとおりです。

このなかで、労政課の担当者から前述の意向確認の理由を問われ、◎管理主事が再任用選考のために行っているのではなく、処分を受けた職員に対する一連の流れの中で行っているものであるとの回答をしたのは事実です。この回答の趣旨は、前述しましたように、職務命令違反による戒告処分を受けた職員に対しては、資質向上研修を行い、その研修後に、今後は職務命令に従うとの研修結果を確認するために「文書」に署名・押印の上これを提出することを求めているが、文書を改変・加筆した者には、かかる研修成果を確認できないことから、後日に元の「文書」に記載した内容の職務命令に従えるのかについて再度の意向確認を行っているところ、今回の意向確認もその手続きの流れの一環であることを理解してもらいたかったということです。

労政課の担当者は、最初に「厚労省が定める14項目は就職差別につながりやすい」云々を説明されました。私たちも、再任用するための質問の中で「思想」に関する質問をすることは違反であることは承知しておりましたが、処分を受けた職員に対する一連の流れの中で行っている意向確認は、それが再任用するか否かにかかわるものになるとしても「今後は職務命令に従うとの研修結果を確認する」ために行う意向聴取であって憲法で禁じられている思想信条の自由に違反する質問ではないと認識しており、そのことを労政課の担当者に理解してもらいたかったのです。

労政課の担当者が私たちに対し、意向聴取が思想・信条に関する質問に該当すると表明された事実はありません。「過去の処分歴について聞くことは違反質問ではありません。」と述べる一方、「聞き方については注意していただきたい。アドバイスです。」と単なるアドバイスにとどまるものでした。本件について意味のあるアドバイスではないと理解しております。


 平成29年度再任用教職員採用審査会について

(1)再任用の選考手続きについて

  大阪府の職員らの再任用は、地方公務員法28条の4、同法28条の5、及び、職員の再任用に関する条例に基づいてなされるところのものであるところ、梅原氏ら教職員の再任用の採用に係る選考に実施並びに任期の更新の手続きに関しては、「再任用教職員の採用選考等に関する要綱」に基づいて実施されます。

 梅原氏は、改正高年法の趣旨等を援用して、再任用制度が再任用を原則として制度であり、大阪府は再任用を義務付けられると主張していますが、再任用制度は高齢者の生活補償のための雇用の確保という点のみならず、公務の効率的運営の確保という趣旨も有していること、再任用制度であっても、公務員の新規任用のための選考である以上、府教委がその採否について広範な裁量権を有していることからすると、任用を義務付けられるものではありません。なお、梅原氏は、この府教委の裁量権の範囲に関連して、大阪府の再任用制度については高い合格率となっていることを取り上げていますが、そもそも大半の教職員は、通常の能力・規範意識を有しており、懲戒事由に該当するような問題行動を起こすこともなく、教師としての能力にも特段の問題がないから、結果として合格率が高いだけで、また、合格率が高いとしても、全員が再任用されるものでないことは梅原氏自身も認識していると思います同制度の目的等からして、再任用が適当でない事由があれば、再任用されないこととなること自体特段不合理不相当なことではありません。

梅原氏は平成28年度定年退職者であるところ、府教委は、梅原氏を含む同年度退職者に対し再任用希望調査を原則として書類審査によって実施し、梅原氏から再任用教職員採用選考申込書が提出されました。梅原氏は現勤務校のある2学区でフルタイムでの勤務を第1希望とされました。

これを受けて、各再任用希望者の所属校の校長等からの内申を経て、選考を実施することになるわけですが、選考に当たっては、公正を期するため、府教委内に再任用職員採用審査会(以下「本件審査会」といいます。)が置かれ、本件審査会において選考の合否及び任期の更新の可否、その他再任用に選考に関する重要事項についてあらかじめ審査し、その意見を教育長に報告することになっており(再任用職員審査会規定(内規))、再任用審査会の審査は、教育長による再任用または再任用任期更新の決定を補助する性質のものとなっております。

 ( 2 ) 梅原氏にかかる審査

梅原氏については、同年1月30日開催の本件審査会において審査され、懲戒処分歴、研修後に提出された「文書」や意向確認の経緯等もふまえ、総合的に判断して結果再任用選考結果を「否」とする意見となったものです。

これを受けて、府教委は、梅原氏について再任用しなかったものであります。


以上のとおり、間違いありません。

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