7月26日、山田さんを支える会で高作正博さんの講演をうかがいました。高作正博さんから当日のレジュメをいただきましたので掲載します。なお、ピンク部分の記載については、私の聞き書きであることをご了承ください。
国家の「暴力」と市民の「非暴力」―市民的不服従の権利と「改憲論」
高作正博(関西大学法学部)
2013年7月26日(金)
序――3年後の日本社会
(1)自民党の改憲論が孕む「暴力性」
①立憲主義を否定する改憲論→個人を保護する憲法から義務づける憲法へ
②基本的人権を否定する改憲論→国家・公益のために制限される人権
③平和主義を否定する改憲論→軍事力の選択肢の解禁
自民党改憲案では、本来個人の人権・自由を保護するため国家を制約するはずの憲法が国民を義務づけるものになる。現政権は集団的自衛権については改憲をせずして解禁しようとしている。3年間国政選挙はなく、そういう意味で非常に暗い時代であると言えるが、私たちは憲法とは何か、その本質を言い続ける必要がある。
(2)日本社会における「異論」の否定
①自衛隊情報保全隊による市民監視→国家による「異論」の監視・情報収集
②いわゆる「スラップ訴訟」の現状→国家による「異論」排除の訴え
③自民党によるTBS取材拒否→国家による「異論」への恫喝
経産省前脱原発テント座り込みは敷地に対する占有権の侵害として訴えられた。沖縄高江座り込み訴訟は道路使用禁止で訴えられた。国家が司法に訴えて、国家を批判する勢力を排除しようとする。これらは一つひとつの単体の問題として考えるのではなく、全体として日本社会にどのような影響を与えているか。それは次の「共生」の否定にもつながっている。
※スラップ訴訟…威圧訴訟、恫喝訴訟。公の場での発言や政府・自治体などの対応を求めて行動を起こした権力を持たない比較弱者・一個人に対して、大企業や政府などの優越者が恫喝・発言封じなどの威圧的、恫喝的あるいは報復的な目的で起こす訴訟を言う。
(3)日本社会における「共生」の否定
①他国民・他民族に対する排外主義→ヘイト・スピーチの横行
②繰り返される「非国民」の罵声→思想・立場の異なる者の排除
③「引き下げ民主主義」の広がり→公務員、生保受給者、奨学金受給学生等
一つひとつ単体で出て来ているのではなく、全体として考える必要がある。住民運動に対する批判であったり、特権視し批判の対象にしようとする。
1 自民党の改憲論の問題性
(1)立憲主義の放棄――国民を義務づける憲法へ
①国旗・国歌の尊重義務
・「国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする。」(「草案」3条1項)
・「日本国民は、国旗及び国歌を尊重しなければならない。」(「草案」3条2項)
・「国旗及び国歌を国民が尊重すべきであることは当然のこと」(「Q&A」8頁)
自民党Q&Aでは、「当然のこと」というのみで、なぜそれが当然なのかは言わない。本当は、なぜ「当然」なのか説明が要るはすである。
②憲法尊重義務
・「全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。」(「草案」102条1項)
・「国民も憲法を尊重すべきことは当然である」(「Q&A」35頁)
現行の憲法では、第99条で公務員に擁護義務を課しているが、改憲案では、全国民に義務を課す。ここでも自民党Q&Aでは「当然である」と縛る。
(2)基本的人権の保障――人権を否定する国家へ
①人権思想の否定――人権=エゴイズムという理解の誤り
・「西欧の天賦人権説に基づいて規定されていると思われるもの‥‥は改める必要があると考えました」(「Q&A」14頁)
②「全て国民は、人として尊重される」(「草案」13条)――「個人の尊重」の変更
・「個人の自律」の尊重から「空気読む人」「秩序を守る人」の尊重へ
③人権の限界=「公益及び公の秩序」(「草案」12条、13条、21条等)
・「従来の『公共の福祉』という表現は、その意味が曖昧で、分かりにくい」。草案により「人権が大きく制約されるものではありません」(「Q&A」14、15頁)
④「家族は、互いに助け合わなければならない」(「草案」24条1項)
・「家族は、社会の極めて重要な存在ですが、昨今、家族の絆が薄くなってきていると言われています」(「Q&A」16頁)
「人権」を「エゴイズム」だと言う誤った前提のもとに考えられている。自民党は60年代から「人権」を否定する考え方がある。こう言った自民党の考え方に対する反論としては、自分だけがよければいいと言う考え方はエゴイズムであるが、思想・良心について自分の自由だけではなく、すべての個人の自由を尊ぼうというのが人権の考え方であると説明するのがよい。
「個人」から「人」へ。「秩序を守る人」というのはつまり国家に盾を突かない人と言うことになる。たんい道徳的な問題であれば条文に入れる必要はないわけだが、こういった条文を入れることによって社会保障は影響を受ける。育児、介護、生活保護も家族間の扶助義務が叫ばれるようになる。
(3)思想・良心を超える「公益」の承認
①思想・良心の自由の制限
・「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。」(現行憲法19条)
・「思想及び良心の自由は、保障する。」(「草案」19条)
・絶対的保障から「公益及び公の秩序」による制限へ
②起立・斉唱義務の正当化としての「公益」
・「国旗・国歌」の義務・「憲法尊重義務」=「公益」の優位
③軍事的「公益」の優位と「良心的兵役拒否」の否定
・「国防軍を保持する」「国防軍に審判所を置く」(「草案」9条の2)
・「軍隊を保有することは、現代の世界では常識です」(「Q&A」10頁)
・「軍人等が職務の遂行上犯罪を犯したり、軍の秘密を漏洩したときの処罰について、通常の裁判所ではなく、国防軍に置かれる軍事審判所で裁かれる」。「審判所とは、いわゆる軍法会議のこと」(「Q&A」12頁)。
・「『これは国家の独立を守るためだ。出動せよ』と言われたときに、いや行くと死ぬかもしれないし行きたくないなと思う人がいないという保証はどこにもない。だからそれに従えと。それに従わなければ、その国における最高刑に死刑がある国は死刑」(自民党の石破茂幹事長)。
そもそも現行の第19条は絶対的保障であり、例外や制限はない。ところが自民党改憲案では、他の人権と同じく「保障する」という言い方をすることによって相対的権利として扱おうとする。つまり公益や公の秩序に反する「思想・良心の自由」は認められないということになる。
また、現役の幹事長がそれを言っていることに驚く。事審判所が作られると、裁判官をはじめ全ては軍人。非公開で行う。良心的兵役の拒否も認めない。かつて軍隊を持った「ふつうの国」へと言う人がいたが、これでは「ふつう」をはるかに超えた強大な軍事国家ができあがる。
2 市民的不服従の権利の可能性
(1)不起立・不斉唱と思想・良心との関係
①判例の見解
A 「日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人、在日中国人の生徒に対し、『日の丸』や『君が代』を卒業式に組み入れて強制することは、教師としての良心が許さないという考え」 → 不起立・不斉唱の理由
B 「『日の丸』や『君が代』が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観」 → 思想・良心の自由
C AはBから「生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」
②「ルール」「人権」区別論(無関係論)は既に崩壊
最高裁は、不起立・不斉唱について、既に「思想・良心の自由」に関する問題だと認定している。今後の裁判でどれだけ実体的なものを作っていくことができるかである。
(2)思想・良心の自由の「制約」
①判例の見解
・本件職務命令は、「歴史観ないし世界観それ自体を否定するもの」ではない。
-「『日の丸』の掲揚」「『君が代』の斉唱」が広く行われていたのは周知の事実
-「起立斉唱行為は、一般的、客観的に見て」「慣例上の儀礼的な所作」
-「そのような所作として外部からも認識される」
-起立斉唱行為は、性質上、歴史観・世界観の否定と不可分に結び付かない
・本件職務命令は、「個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するもの」ではない。
-起立斉唱行為は、「特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難」
-「本件職務命令は、特定の思想を持つことを強制したり、これに反する思想を持つことを禁止したりするものではなく、特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない」
・本件職務命令は、「思想及び良心の自由についての間接的な制約となる」。
-起立斉唱行為は、「日常担当する教科等や日常従事する事務の内容」ではない
-「一般的、客観的に見ても、国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為」
-「個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められる」
②大阪の事案の特殊性
・全国的には「一般的」「客観的」に思想・良心の否定ではないとしても‥‥
・大阪では? 教員の思想・良心を否定するための条例制定・処分!
・エホバの証人剣道受講拒否事件の事実
「兵庫県教育委員会は1983年6月各県立高校宛に『格技の履修を拒否する生徒の指導について』と題する通達をマル秘扱いで出しており、信教上の理由での格技の履修拒否を認めないように指導している。(1986年3月2日付朝日新聞夕刊)。加えて同問題について兵庫県の県立高校長協会は1984年6月、格技の履修を拒否する生徒は体育の履修・修得は認められず、進級等にも影響が出る旨の統一見解を出した。(1984年6月12日付神戸新聞)。これらの暴挙は日本で唯一と思われ、文部省さえ『全く宗教上の理由を無視するわけにもいかない。人間関係を尊重して各校で解決しているはず』と柔軟性を求めている。兵庫県の各高校はその時々で対応の厳しさが異なっている。格技履修拒否者に進級を認める高専・高校も少数あるようだが、兵庫県の多くの公立高校・高専においては、格技履修拒否者は進級するのが難しかったり、自主退学を強いられたりしている。 格技を拒否しても進級が可能であると入学時に断定できる兵庫県内の公立高校・高専はほとんどないのが実情であるから、申立人が神戸高専に敢えて入学してきたとしても非難される余地は全くないのである。」(神戸地裁平成4年6月12日決定における申立) |
内面と外面とは違うと言うのが最高裁の論理。つまり、ヒトラーに万歳せよ(外部的行為)と言うことと、ヒトラーに心酔せよ(内心)とは異なる、と言っていることと同じ。裁判でどうやって、その最高裁の論理を崩していくことができるかだ。大阪では条例までつくって処分しているが、その大阪の特殊性を裁判で強調していくことは一つのポイントになるのではないか。例としてあげた判例は、兵庫県の特殊性をあげ最高裁で勝訴した事例である。
(3)判例変更への期待
①衆議院定数不均衡訴訟(1:2.30を違憲状態。最高裁平成23年3月23日大法廷判決)
・1:2.31を合憲(最高裁平成11年11月10日大法廷判決)
・1:2.4を合憲(最高裁平成13年12月18日判決)
・1:2.06を合憲(最高裁平成19年6月13日大法廷判決)
②参議院定数不均衡訴訟(1:5,00を違憲状態。最高裁平成24年10月17日大法廷判決)
③公務員の政治活動の自由
・猿払事件判決(最高裁昭和49年11月6日大法廷判決)
-職務上の行為と職務外の行為の区別、勤務時間内の行為と勤務時間外の行為との区別、職員の担当する職務の相違等に関わらず一律禁止・処罰も合憲
・社会保険庁職員事件判決(最高裁平成24年12月7日判決)
-管理職的地位ではない、職務内容や権限に裁量なし、職務と無関係に配布、公務員による行為と認識しうる態様ではない
④非嫡出子の相続分差別
・合憲判断(最高裁平成7年7月5日大法廷決定)
・しかし、判例変更の見込み
最高裁における判例変更の判例をいくつか紹介したが、大阪の「君が代」不起立処分についても、先ほど述べた大阪の特殊性をどこまで訴えていくことができるかが直近の課題となるであろう。そのうえに、国民の理解が得られれれば、判例変更も望むことはできる。
結び――もう一つの日本社会は可能か?
(1)問題の広がり;「日の丸」「君が代」とそれ以外の象徴、強制と非強制
①「日の丸」「君が代」の「強制」が問題 → 判例の理解
②「日の丸」「君が代」の「非強制」も問題 → 不起立・不斉唱の理由
③「日の丸」「君が代」以外の「強制」も問題 → 「象徴的言論」の問題
④「日の丸」「君が代」以外の「非強制」も問題 → 「政府言論」の問題
「国旗敬礼が発語の一形式であることは疑いない。Symbolismは、観念を伝達するに当たっての、原始的ではあるが効果的な一方法である。体系、観念、制度あるいは人格を象徴するために、紋章ないし旗を使用することは、精神から精神への近道(a short cut)である。」(Board of Education v. Barnette,319 U.S.624(1943)。蟻川恒正『憲法的思惟』(創文社、1994)32頁より引用。) |
「公立学校での政府の教化政策」が問題であり、「敬礼の強制という、行事の『特定のテクニック』のみ」が問題なのではない。「つねに囚われ、未成熟な聴衆を相手に、しかも教育の名の下にメッセージを送ることのできる公立学校は、government speechにとって、またとない環境を整備するものと云ってよい。その理想的環境性を構成する諸因子の中で、わけても緊要とされるのが、学校における生徒のcaptive audience(囚われの聴衆)性である。」(蟻川・前掲36頁) |
(2)〈親の自由と公立学校の対抗〉
①公立学校の役割 → 価値の植え込み(上記④の問題性)
②「親の自由」による対抗
・Meyer v. Nebraska,262 U.S.390(1923)
-反ドイツ感情がドイツ語の授業の禁止立法として定着。
-法律に反しドイツ語授業を行った教師の起訴事件。
-「アメリカ市民性を植え込む」目的、しかし、「親の自由」の観点から違憲判決。
・Pierce v. Society of Sisters,268 U.S.510(1925)
-8歳から16歳までの子どもの公立学校への就学を強制する州法。
-「親の自由」の観点から、違憲無効。
・Wisconsin v. Yoder,406 U.S.205(1972)
-16歳までの義務教育を定める州法。
-アーミッシュの信者が、子どもに第9学年以上の学校教育を受けさせることを拒否、起訴事件。
-「親の自由」の観点から、14歳をこえるアーミッシュへの子どもの公立学区への就学を免除。
最後に、「日の丸」「君が代」の強制が問題であるという、現在の訴えとは、別の角度から、この問題を考えてみたい。最初の囲み記事はバーネット事件の判決文から、これは③の例としてあげている。ここではシンボル(象徴)が精神的に与える影響を問題としている。ならば、徴兵カードを焼くという行為も象徴的言論つまり表現行為として認められることになる。国旗を焼くというのも表現の自由と言える。二つ目の囲み記事は④の例としてあげたが、そもそも、公立学校における生徒がどのような立場に置かれているかを述べたものである。これについては現在議論している。あと、親の子どもに対する教育権は認められた判例をあがたが、「君が代」の強制の問についても一律に義務付けるのは親の立場から教育権の侵害と訴える事例が出て来てもいいのではと考える。
―感想―
自民党改憲草案の問題性については、これまでもいろんな人から話を聞いてきたが、改めて、あれは国家の暴力性を肯定するものだと感じた。改憲に向けて、あらゆる場面でそれを先取りするかのような「国家の暴力性」は表れている。「君が代」強制もその一つだ。北九州「こころ裁判」を皮切りにいくつもの訴訟が起こった。市民としての教員としての不服従の権利を司法に問う裁判であった。最高裁小法廷では、「君が代」起立斉唱の職務命令は合憲としながらも、徐々にではあるが、その態度を変えている。さらに司法に訴えることを通して、憲法19条「思想・良心の自由」とは、制約や比較衡量によって保障されるものではなく、絶対的保障であることを大法廷の場で確認させたい。そして、それが自民党改憲すなわち壊憲を阻止することにもつながっていくはずだ。市民的不服従が今ほど求められるときはないのではないかと思われるほどである。