グループZAZA

「君が代」不起立処分大阪府・市人事委員会不服申立ならびに裁判提訴当該15名によるブログです。

『「君が代」調教NO!松田さん処分取消裁判』:「卒業式・入学式の天皇制教化『装置』への転換過程の考察から」(日本大学小野雅章教授の意見書)

2022-02-03 21:11:05 | 「君が代」裁判

『「君が代」調教NO!松田さん処分取消裁判』

卒業式・入学式の天皇制教化『装置』への転換過程の考察から」(日本大学小野雅章教授の意見書)


――卒業式・入学式の天皇制教化「装置」への転換過程の考察から――小野 雅章(日本大学)

1989 年の学習指導要領改訂により、卒業式・入学式における「日の丸」掲揚と「君が代」 斉唱が義務化された。教育現場の教職員からは、激しい反対運動が起こり、これらを拒否す る事例が多数にのぼった。その時点では、「日の丸」・「君が代」は法律で国旗・国歌と規定 されてはおらず、法的根拠のない「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱の強制はあり得ないこと を盾にして取り組むこの拒否運動に対して、政府側は対応に苦慮した。しかし、自民党保守 派などの強硬姿勢により文部省・教育委員会を動かし、入学式・卒業式による「日の丸」・ 「君が代」の強制を幾度となく試みた。その結果、文部省・教育委員会と現場教員との板挟 みとなる学校長ら管理職の苦悩が表面化した。


広島県がその最たる例であった。県教委と現場教職員との板挟みとなった当時の広島県 立世羅高等学校長が自殺をするという悲惨な事件が発生した。当時の政府(官房長官野中広 務)がその解決策として採ったのは、「日の丸」・「君が代」を国旗・国歌として法制化する ことであり、1999 年 8 月 9 日に「国旗及び国歌に関する法律」(平成 11 年法律第 127 号) を成立させた。同法の審議過程で政府は、「法制化に当たり、国旗の掲揚等に関し義務付け を行うようなことは、考えていない。したがって、現行の運用に変更が生ずることとはなら ないと考えている」(「衆議院議員石垣一夫君提出「国旗・日の丸、国歌・君が代」法制化等 に関する質問に対する答弁書」衆議院 HP による)と答弁した。さらに、同法に成立に際し て、当時の小渕首相は同様の談話を発表したが、それが反故にされたことは周知のとおりで ある。「国旗及び国歌に関する法律」の制定以降、「日の丸」・「君が代」は学校教育のなかに 深く入り込むことになった。政府が「法規としての性質を有している」と主張する学習指導 要領に明確に記載された国旗掲揚・国歌斉唱の義務、および「国旗及び国歌に関する法律」 という、新たな法的根拠を得たことにより、各都道府県・市町村教育委員会は、それ以降、 入学式・卒業式における国旗掲揚と国歌斉唱を、強引に推し進め、その実施率は 100%に近 づき現在に至っている。


その間、憲法に保障されている「内心の自由」が蔑ろにされ、卒業式・入学式における国 旗掲揚・国歌斉唱を拒む教職員が各地で不当な処分を受けたことは、これも周知のことである。今回の松田幹雄さんの訴訟にあたり、筆者は、そもそも皇室や天皇・天皇制と無関係の 学校行事として成立した入学式・卒業式が、天皇に忠誠を誓うためのもっとも重要な学校儀 式としての三大節学校儀式が成立し、定式化されて以降、その三大節学校儀式に準じた内容 へと変容し、天皇に忠誠を誓う学校儀式へとその性格が転換する過程を実証的に論証する。 それを通じて、国旗・国歌を強制する東京都や大阪府・大阪市が推進する条例による画一化 された学校儀式が、天皇制教化の性格が強い戦前の学校儀式そのものであることの問題性 を指摘し、卒業式・入学式における国旗掲揚・国歌斉唱の強制が、いかに日本国憲法・教育 基本法にもとづく現行の民主的教育に抵触するのかを論じたい。


1.近代学校発足と学校儀式――近代化推進の拠点としての学校における儀式 1)学制による近代化推進と学校儀式


明治 5 年の学制発布により、この国の近代学校制度は発足した。明治政府にとって近代化 の推進は、何にも優先する重要課題であった。そのための人材養成の手段として、教育は政 府の近代化策の一端を担うことになった。全国に設立する学校は、近代化に寄与する人材の 養成機関であり、人々の新たな生活に必要な欧米の文化・技術を受容するための重要な「場」 であった。学制発布の前日に公布された「太政官布告(学制布告書)」は、「必す邑に不学の 戸なく、家に不学の人なからしめん」、さらに「自今以降......一般の人民、他事を擲ち自ら 奮て必ず学に従事せしむべき様心得べき事」と論及した。ここで示された教育の方針は、個 人の自立のための知的学習を身分・階層の別を越え、女性をも含むすべての人々の自主的努 力によって獲得することであった。

明治政府が構想した学校は、近代化に貢献する人材養成の「場」であった。明治政府は、 身分制を解体し、学校教育による人材育成に着手した。明治初期の学校は人材選抜の「場」 として設定され、基本的には個人の能力を基本にした競争の「場」であった。このため、学 校では「等級制」という編制が採用された。小学校は「上等小学」「下等小学」の二段階に 区分し、それぞれの内部を第八級から第一級の八つの「級」に分けた。各「等」(上等小学・ 下等小学)ともに第八級が入門段階となり、第一級の修了で「等」の全課程を修業すること とされていた。一つの「級」の学習期間は 6 ヶ月であり、6 ヶ月の教授・学習の修了後に試 験があり、「及第」すれば次の「級」への「進級」が認められ、そうでなければ(不合格) 6 ヶ月さらに同一のレベルの「級」に止まる仕組みであった。これを「原級留置」と言った。 新入学者は、全員が「第八級」に在籍し、半年の後の試験の結果により、「進級」(及第)か「原級留置」(落第)が決まった。 当時の学校では「試験」が何よりも重視された。「試験」は一般的に月次試験(毎月一回、「小試験」)、定期試験(6 ヶ月ごとの試験、進級試験で「中試験」)、大試験(全等科修了確 認のための試験)の三種類であった。生徒の側は二回連続して定期試験に落第して原級留置 になると退学処分になるという厳しいものであった。実際、途中で退学処分になる生徒が多 く、入学者が全員「卒業」するような状況では全くなかった。等級制のもとでの編制方式は、 半年ごとの試験により進級・原級留置が決定され、現在のように複数年を通じて学習集団が 一体することはなかった。学習集団は、半年ごとの試験により「篩」にかけられるので、現 在のように学級を単位とする計画的な生徒指導は不可能であった。学校における学習の成 果は試験の結果のみで評価され、学習集団を構成する生徒は、それぞれ競争相手であり、し かもその集団は半年ごとに解体することが原則であったため、学校に通う子どもを集団と して指導するという意識は、極めて希薄であった。


数々の厳しい競争試験に打ち勝ち、最終的な大試験に及第した結果が明治初期の卒業で あった。大試験の集計結果の後、及第と認められると卒業証書の授与が認められ、その場で 卒業証書授与式が行われる場合が多かった。明治初期の卒業証書授与式(卒業式)は、厳し い競争・試験に勝利した「勝利者」を祝う儀式であった。これは小学校のみならず、上級学 校でも徹底していた。卒業試験の成績によって卒業にも一等卒業・二等卒業等のランクが設 定された。特に、師範学校の場合は、卒業証書の外側の色でランク付けされた。
この時期の入学式(多くは開講式と称した)も、現在のそれとは異なる性格のもので、単 なる教授・学習を開始することを周知する儀式に過ぎなかった。これから学級が一致団結し て卒業までの、学級全体が一致団結・協力した「学び」により、立派な「臣民」となること を「誓う」儀式ではなかったし、そもそも学校教育にそのようなことを期待してはいなかっ た。当然のことながら、当時の学校には、祝祭日学校儀式も存在しなかった。

一方で、新たな元首としての天皇・天皇制を安定させようとする体制の構築は進められた。 1873(明治 6)年に制定され(た。)、同年に実施された太陰暦から太陽暦への改暦により、神 武天皇即位日(後の紀元節)、天長節(天皇誕生日)、四方拝(一月一日)の三祝日が定めら れ、それが大節となった。その後、残る祝祭日を含め、国家の祝祭日は、三大節一祝日七祭 日になった。これらの中で、1 月 1 日の四方拝、10 月 17 日の神嘗祭、そして、11 月 23 日 の新嘗祭は、近世の祭日からの継承であったが、それ以外は、「近世とは不連続に、維新後 新たに創りだされた」祝祭日であった。明治以降新たにし創出された祝祭日は、従来の民衆の間に伝承されてきた祭日とは異質なものであった。新たに創出された祝祭日そのものの なかに天皇制思想の教化機能が込められていたが、明治初期の学校と国家祝祭日とは全く 無関係であった。


2)森文政期における学校観の変化と学校儀式

「明治 14 年の政変」を経て、明治政府は日本の近代化について、プロイセンドイツに範 を求める方針にした。これ以降、教育も欽定憲法のもとにおける「臣民」養成機能を担うこ とになった。この任務の中心を担ったのが、初代文部大臣森有礼であった。森は生徒の分団 組織への編成や団体訓練としての兵式体操の導入を行なうとともに、国家祝日における御 真影に「拝礼」することで、天皇を媒介にして国家への忠誠を確認する祝日学校儀式の導入 を内密に指示し、これを実施した。森自身は、その立場を国体主義とは一線を画していたこ ともあり、この時点の学校儀式は各学校の自発性を重視したため、森はその実施に際し「内 命」にとどめたため、儀式の形態は多様であった。


森文政期の前後に、日本の学校教育のあり方は大きく転換した。これは、森自身が、学校 集団のもつ教育的機能に注目し、学校という集団の持つ訓練機能を意識的に取り上げた結 果であった。森有礼が文部大臣に就任する直前から、小学校の個別主義的な等級制は改革の 対象となり、1884 年に学齢未満児童の小学校就学が禁止され、1885 年に 6 ヶ月進級制を 1 年進級制に改編するなど、学習集団の集団性を重視するような方針転換の道筋をつけ始め ていた。


そのうえで、森有礼は、人々に国家の存在を意識させる手段として、国家元首としての天 皇の存在に着目し、天皇制と教育との間に密接な関係を構築ようとした。森文政を起点とし て、兵式体操、運動会、軍隊的生活規則、制服の採用など、学校の集団機能を通じての「臣 民」形成の基本的な方向性が示された。森文政以降、国家主義的観点からの「臣民」養成機 関としての学校の役割が殊のほか重視されたが、特に重視されたのが祝日学校儀式であっ た。しかし、森有礼が文教政策の責任者であった時期は、教育勅語発布以前であったことも あり、学校儀式における忠誠心を示す対象が国家と国家元首である天皇の何れに収斂する のか、あるいは、儀式の挙行は学校の自発性に依拠すべきか、あるいは法令により一律強制 にするのかなど重要な論点は、森が暴漢より暗殺されたことによって、政府内の意思統一が ないまま、次の時代に引き継がれることになった。


2.教育勅語の成立と学校儀式――「臣民」形成の機関としての学校における儀式

1)教育勅語の発布とその徳目

教育勅語の発布は、この国の公教育(学校)と天皇制との間にそれまでにない大きな変化 をもたらした。これまでに先行研究が明らかにしている通り、明治憲法発布後の立憲君主制 国家として歩む近代日本が急激に欧化することへの「足枷」をはめようとする時の権力保守 層の強い意図のもとに発布された。教育勅語発布の直接的な契機となったとされる、1890 年 2 月の地方長官会議における「徳育涵養ノ義ニ付建議」であるが、その建議までに至る議論 の過程では、「今日断然タル措置ヲ以テ、国家主義ヲ基礎トシテ十九年文部省達〔森有礼に よる一連の施策のこと―筆者注〕ノ精神ヨリ先ツ改メ」(佐藤秀夫編『続・現代史資料8 教 育1』みすず書房、1994 年、29 頁)との発言さえあった。教育勅語発布は、森文政を否定 する系譜に属する政策であった。

「徳育涵養ノ義ニ付建議」を受けた当時の首相山県有朋は、教育勅語の発布に向けて動き 出す。山県は当初その起草を帝国大学文科大学教授中村正直に依頼した。しかし、当時の法 制局長官であった井上毅は、中村の草案について、「君主は国民の内心の自由には立ち入ら ない」との原則に反しているとの理由で反対をした。井上の指摘を受け入れた山県は、新た な教育勅語の起草者として、井上毅を指名した。教育勅語は、井上毅が起草の中心となり、 その草案に天皇の側近である侍講元田永孚が意見を提示する形で進められた。完成した教 育勅語は全文 315 文字という短い文章である。また、その政治性を排除するために、天皇の 「個人的著作」としての意思表明ということで、大臣の副署がない勅語形式を採用した。そ のため、戦前の法体系のなかで教育勅語は低いものであったが、天皇の権威の確立とともに、 法体系とは別に重要な位置を占めるようになった。

教育勅語は、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ 臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」と、日本の教育理念を、「良心」とか「神」に求めるのではな く、神話にもとづく不確かな歴史的存在であると同時に現在の政治支配の構造の頂点に位 置づく天皇・天皇制に求めているところに大きな特徴がある。周知のとおり、教育勅語には、 「爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ」以下の諸徳目が示されている。これらの徳目のなかには、 「国憲ヲ重ンジ国法ニ遵ヒ」など近代国家としての徳目も含まれているが、その多くは、近 世以来民衆のなかで育ってきた定言であり、そのひとつひとつは一般から妥当と認められ る徳目である。しかし、そこに示された徳目のすべてが、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ以 テ天壌無窮ノ皇運ニ扶翼スベシ」と収斂し、天皇・天皇制への無批判での奉仕のためのものと位置づけられているところに大きな特徴がある。教育勅語は全文 315 文字の全てをひと つのものとしてとらえるべきものであり、部分的に優れた徳目が含まれていると主張する のは、教育勅語の性格そのものを理解していないことになる。

2)教育勅語発布と学校儀式上述の通り、教育勅語は近代日本の法体系のなかでは下位に属する文書であったが、学校 儀式と修身教育のなかでその趣旨徹底が図られ、次第に近代日本において最も重視される 文書に仕立て上げられて行った。なかでも、学校儀式における教育勅語の扱いは天皇の権威 を高めるために最大限に利用された。

教育勅語発布の翌日である、1890 年 10 月 31 日に文部省は訓令を発した。そこには、「勅 語ノ謄本ヲ作リ普ク之ヲ全国ノ学校ニ頒ツ〔略〕殊ニ学校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒 ヲ参集シテ 勅語ヲ奉読シ且意ヲ加ヘ諄々誨告シ生徒ヲシテ夙夜ニ佩服スル所アルヘシ」 (同前、40~41 頁)と、森の発案で開始された国家祝日の学校儀式に教育勅語「奉読」が加 えられることにより、御真影そのものも単なる国家元首の肖像写真から、国体主義にもとづ く国家元首として、「臣民」が生命を賭する「モノ」へと転換していった。
教育勅語発布の直前に発せられた「第二次小学校令」(1890 年 10 月 7 日)は、既に教育 勅語の発布を前提にして、その第 15 条で「小学校ノ毎週教授時間ノ制限及祝日大祭日ノ儀 式等ニ関シテハ文部大臣之ヲ規定ス」と、祝日大祭日に学校儀式を挙行し、その内容を文部 大臣が定めるとしていた。この条文にもとづき、翌 1891 年 6 月に「小学校祝日大祭日儀式 規程」(文部省令第四号)を制定し、ここに御真影「拝礼」と教育勅語「奉読」に式歌斉唱 を中心とする学校儀式の原型が成立した。

ここで規定されたそれぞれの儀式内容は、従前から行われていたものが多く含まれてい るが、それらを天皇崇拝のための儀式に統一したことに大きな意味があった。しかも、この 規程は、国家的な観点から祝祭日に序列をつけ、それが儀式の内容(式目)の違いとして明 確化した。この点について、特に注目すべきである。御真影への拝礼、教育勅語「奉読」、 校長訓話、式歌斉唱という儀式の全てを行なうのは、紀元節、天長節、元始祭、神嘗祭、新 嘗祭、の五祝祭日に限定した。孝明天皇祭、春季皇霊祭、神武天皇祭、秋季皇霊祭の四祭日 には校長訓話と式歌斉唱のみ、そして一月一日には御真影への拝礼と式歌斉唱が規定され ていた(同前、67~68 頁)。こうした序列づけによる儀式内容の違いは、その後にも影響を 与えることになった。
初代文部大臣森有礼が推進した国家祝日の学校儀式は、三大節(紀元節、天長節、四方拝)の国家の祝日に限定されていたが、「小学校祝祭日学校儀式規程」により式日として、三大 節に、国家神道の祭日である大祭日も加えた。これにより、学校儀式は国体史観にもとづく 天皇・天皇制の教化のための重要な「装置」になった。教育勅語の発布、さらに第二次小学 校令と「小学校祝祭日儀式規程」により、学校教育に国体主義が深く根付くことになった。 3)祝祭日学校儀式の定型化の過程「小学校祝祭日儀式規程」により原型が成立した学校儀式は、その後 10 年かけて、整備・ 精選され、三大節学校儀式として定式化した。最初に行われたのは儀式の持つ厳粛さを維持 するために、式日の統合であった。そもそも明治政府が定めた国家の祝祭日は、それまでの 民衆の生活慣行から全く乖離したものであった。その結果、「〔祝祭日〕儀式ノ如キハ一種学 校固有ノモノト考ヘ」る傾向が強く、その参加も「平常出席ノ五分ノ一ニ充タサルコトアリ」 (石川県『小学校実況諮問条項答申』1893 年)という状況に陥っており、天皇の権威の失 墜の恐れさえあった。祝祭日学校儀式には唱歌斉唱の実施が求められていたが、西洋音楽が さほど普及していな当時は、儀式に歌う唱歌が儀式の雰囲気を壊すような事例の報告もあ った。儀式にとって最も重要な内容のひとつである教育勅語「奉読」も、その読み方は区々 であった。何れも天皇制教化のための重要な「装置」としての祝祭日の儀式がかえって、天 皇や天皇制の権威を失墜させるものに転嫁しかねかった。

その対応は以下の通りであった。1893 年 5 月に「小学校祝日大祭日儀式ニ関スル件」(文 部省訓令第九号)により、儀式挙行を義務とする日を紀元節、天長節、一月一日(四方拝) の三大節に限定し、他は各学校の任意とした(同前、82 頁)。儀式用唱歌については、1891 年 12 月 29 日の文部省普通学務局長通牒「小学校ニ於テ祝日大祭日ニ用フル歌詞及楽譜ノ 件」により、「文部省及東京音楽学校ノ編纂ニ係ル唱歌集中ノ歌詞及楽譜ニシテ〔中略〕儀 式ヲ行フノ際唱歌用ニ供シ差支ナキモノ」を指定した。具体的には、『幼稚園唱歌集』(文部 省音楽取調掛編纂)、『小学唱歌集』初編から第三編(文部省音楽取調掛編纂)、『中等唱歌集』 (東京音楽学校編纂)のなかから 13 曲を指定した(同前、71~72 頁)。しかし、このなか には『小学唱歌集』初編所収の「君が代」と『中等唱歌集』所収の「君が代」という二種類 の「君が代」を同時に儀式用唱歌と指定する等、過渡的性格のものであった。その後、1893 年 8 月 12 日に「文部省告示第三号」として「小学校祝日大祭歌詞及楽譜撰定」を発し、祝 日大祭日学校儀式用唱歌として、「君が代」「勅語奉答」「一月一日」「元始祭」「紀元節」「神 嘗祭」「天長節」「新嘗祭」の八曲を指定した(同前、92~100 頁)。それまで二つの「君が 代」が式歌として指定されていたが、この時点で、現在国歌となっている「君が代」が祝祭日学校儀式の式歌に正式採用された。さらに、1895 年 5 月に高等師範学校は女子高等師範 学校との協議の結果として教育勅語の読み方を定めた。これが同年 5 月 2 日付の『東京茗 渓会雑誌』第 148 号に発表された。この読み方が国定教科書のルビに採用され、全国的に普 及した。

祝祭日学校儀式は、式日、儀式用唱歌、そして教育勅語「奉読」時の読み方が整備された。 それを整理・統合したのが 1900 年 8 月 21 日の「小学校令施行規則」(文部省令第 14 号)第 28 条に結実した。その条文は、以下の通りである。
第二十八条 紀元節、天長節及一月一日ニ於テハ職員及児童、学校ニ参集シテ左ノ式ヲ 行フヘシ
一 職員及児童「君カ代」ヲ合唱ス
二 職員及児童ハ
天皇陛下
      皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
   三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
   四 学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス
   五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス
〔以下略〕
この条文の趣旨は、その後「国民学校令施行規則」第 47 条にも引き継がれ、戦前の祝祭
日学校儀式の基本原則であり続けた。

3 祝祭日学校儀式定型化とその後の学校儀式

1)教育勅語発布以降の祝日学校儀式の定型化

教育勅語発布以降の学校儀式の在り方について方向性を示したのが、「小学校祝日大祭日 儀式規程」であった。「小学校令施行規則」第 28 条により、三大節学校儀式が完成し、さら にこの儀式の内容を基本にしながら、三大節学校儀式以外の皇室関係の儀式、卒業証書授与 式、入学式など全ての学校儀式が天皇・天皇制教化のための「装置」へと再編されたことは、 特に重要な事実である。以下、この点について指摘してみたい。


先ず、教育勅語発布の翌日である、1891 年 10 月 31 日に発せられた「文部省訓令第八号」 の別紙による文部大臣芳川顕正の訓示で、「殊ニ学校ノ式日及其他便宜日時ヲ定メ生徒ヲ会 集シテ 勅語ヲ奉読シ且意ヲ加ヘテ諄々誨告シ」(同前、40~41 頁)と述べたことにより、式日の儀式に教育勅語「奉読」が実施されるようになった。「文部省訓令第八号」にもとづ き、群馬県が制定した、1890 年 12 月 25 日の「勅語奉読心得」(群馬県訓令甲 190 号)は、 「勅語奉読式ハ毎年三大節冬季夏季休業後授業始卒業証書授与式当日及其他学校式日ニ於 テ執行スルモノトス」と規定している(同前、61 頁)。同じく、富山県が制定した、1891 年 1 月 9 日の「勅語奉読会心得」(富山県訓令第2号)でも、「勅語奉読会ハ毎年十月三十日並 ニ卒業授与学校紀念等ノ日ニ生徒ヲ学校ニ会集シテ之ヲ開クモノトス」(同前、61~62 頁) と規定している。このことから、教育勅語発布以降、卒業証書授与式や授業始め(始業式) 等の学校儀式に教育勅語「奉読」が導入されたことが確認できる。

「小学校祝日大祭日儀式規程」は、戦前学校儀式の定型化に向けてひとつの方向性を出し たものであり、その大枠を示した。先行研究によれば、1880 年代中頃より、卒業式に唱歌 が導入される事例も示されるようになるが、それは極一部の事例に過ぎなかった(有本真紀 『卒業式の歴史学』講談社選書メチエ 546、2013 年)、と指摘されている。この事例は、森 文政期に導入された国家祝日の学校儀式に唱歌斉唱が強く求められた時期にも重なる。し かし、森自身が学校儀式について、それぞれの府県や学校の自発性を重視したため、儀式そ のものが定型化するには至ってはいなかった。

1901 年 3 月 5 日に「中学校令施行規則」(文部省訓令第3号)が制定されたが、三大節学 校儀式について、「紀元節、天長節及一月一日ニハ職員及生徒学校ニ参集シテ祝賀ノ式ヲ行 フヘシ」(第 19 条)と規定した。また、同年 3 月 22 日に制定された「高等女学校令施行規 則」(文部省訓令第4号)は、三大節学校儀式に関しては、「高等女学校ノ学年、教授日数及 式日ニ関シテハ中学校令施行規則第十六条乃至第十九条ノ規定ヲ準用ス」(第 23 条)と規定 し、中学校と横並びの学校儀式を行うことにした。師範学校については、1907 年 4 月 17 日 制定の「師範学校規程」(文部省令第 12 号)で、「紀元節、天長節及一月一日ニハ職員及生 徒学校ニ参集シテ祝賀ノ式ヲ行フヘシ」(第 43 条)、「中学校令施行規則」第 19 条と同文) と規定された。中等教育機関については、儀式の次第を含む詳細な内容まで規定してはいな いが、学校沿革史などに記された事例を見る限り、「小学校令施行規則」第 28 条による三大 節学校儀式と同じ内容の儀式が挙行されていた。法令レベルによる三大節学校儀式の挙行 は中等学校にまで及んだ。

2)学校儀式全般の定式化――天皇制教化のための学校儀式の成立

これまでに検討してきた学校儀式の定型化には、教育勅語発布以降の学校観の変化が大 きく影響していた。近代学校制度発足時の学校は、近代化に対応する「国家有用の人材」を登用するための「場」であり、学校教育はその「手段」であった。そのため、「既存の社会 システムを無視した個人主義的・能力主義的な学校組織」(佐藤秀夫『教育の文化史1 学 校の構造』(阿吽社、2004 年、124 頁)が求められた。その個々人が学習を開始するための 開講式・始業式、さらには、個人主義的・能力主義的な比較試験の「勝利者」であることを 確認するための証書授与式は確認できるが、それ以外の学校儀式は普及していなかった。

学校観の転換の発端は、初代文部大臣による第一次小学校令の発布であろう。森有礼は、 学校集団のもつ国民養成機能に着目した。森は、学校集団の持つ訓練機能を重視して政策化 した。そのため、競争原理を重視した従来の編制である等級制の改革が進められることにな った。森文政による第一次小学校令、および「小学校ノ学科及其程度」の制定(何れも 1886 年)により、個人主義的・能力主義的な編制原理としての等級制が否定され、集団主義を前 提とする学年制(学年と学齢を原則一致させる施策)と学級制を公教育で同時に採用した。 この結果、同一学級で子ども達の集団性を強めることができるようになり、国家構成員とし ての資質を「教化」することが容易になった。

さらに、教育勅語、および第二次小学校令の発布(共に 1890 年 10 月)は、この国の戦前 義務教育のあり方を確定した。第二次小学校令にもとづく「小学校教則大綱」(1891 年 11 月 17 日)は、「徳性ノ涵養ハ教育上最モ意ヲ用フヘキナリ故ニ何レノ教科目ニ於テモ道徳教育 国民教育ニ関連スル事項ハ殊ニ留意シテ教授センコトヲ要ス」(第一条)と規定した。学校 教育は「徳性ノ涵養」を何より重視した。森文政期の学校とは異なり、すべての教科の教授 内容が「徳育化」された。修身科の目標が教育勅語の趣旨にもとづくものとしたほか、読書、 作文は「知徳ノ啓発」と規定し、地理は「...兼ネテ愛国ノ精神ヲ養フ」、日本歴史は「国体 ノ大要ヲシラシメ」などの方針を示した。「徳性ノ涵養」を第一とする学校は、教科以外の 教科外の訓練、すなわち訓育が重視された。こうした学校観の変化により、多くの学校行事 が登場し、なかでも儀式が学校のなかに多く取り入れられた。三大節の祝賀式はもとより、 それ以外の教育勅語や戊申詔書「奉読」式、さらに卒業証書授与式、入学式など学校に関す る儀式の国体主義的内容への転換が顕著になった。「小学校令施行規則」第 28 条に規定し、 定型化した三大節学校儀式の内容を基準にして、卒業式、入学式、始業式、終業式など、そ の他の学校儀式が天皇・天皇制賛美の儀式に再編されたのは、教育勅語発布以降の学校観の 転換によるところが大きかった。

そのことを示すひとつの史料として、滋賀県師範学校附属小学校『自明治三十五年四月一 日至明治三十六年三月三十一日 滋賀県師範学校附属小学校一覧』(1902年)を上げることができる。同書所収の「滋賀県師範学校附属小学校規則」の「第二十一章 儀式」では、同 校の儀式についての詳細が示されている。「小学校令施行規則」制定後 2 年後であり、三大 節学校儀式が定型化されて以降、かなり早い時期の学校儀式の実態を伝えている。同校の学 校儀式は、「一 一月一日の式 一 紀元節の式 一 天長節の式 一 勅語下賜記念日の 式 一 学校創立記念日 一 入学式 一 証書授与式 一職員送迎式 一 教生交替式 一 始業式及終業式」(第一条)であった。この規程からそれぞれの儀式内容を分析すると、 三大節学校儀式が最も重要な儀式であり、以下、それぞれの学校の判断により、儀式内容の 軽重をつけて実施した。儀式のなかで御真影への「拝礼」を実施するのは三大節学校儀式に 限られていた。教育勅語「奉読」は、勅語下賜記念日の式までなど、それぞれにおいて儀式 の内容に差異があった。また、この時点では、「君が代」斉唱も三大節学校儀式に限定され ていた。

鹿児島県師範学校附属小学校編『明治三十九年四月 鹿児島県師範学校附属小学校一覧』 (1906年)においても、同様の指摘ができる。同書の「第十章 儀式規程」は、「祝日、大 祭日、卒業証書授与、勅語奉読日、五月二十八日ノ諸式ハ学校長之ヲ挙行シ、始業、終業、 入学、職員送迎、教生交替、児童役員任命ノ諸式ハ主事之ヲ行フ」(第二条)と規定してい る。具体的な儀式内容については、紀元節、天長節には、「小学校令施行規則」第 28 条にも とづく式目全てを、一月一日は教育勅語「奉読」を除くすべての式目を行なう(第三条)な ど、滋賀県師範学校附属小学校とは若干異なる内容である。式歌も学校により異なっている が、天皇・天皇制との関係で儀式内容に軽重をつけている実態は、基本的に滋賀県師範学校 附属小学校と同じであると指摘できる。このように第三次小学校令発布以降、学校儀式全般 が急速に天皇制教化の「装置」の一環に組み込まれた。

3)天皇制教化の「装置」としての学校儀式の展開過程上述の通り、近代学校発足当初の 1870 年代の学校儀式は、学校そのものの性格が異なっ ていたこともあり、1880 年代以降の国民形成の場としての学校教育のなかで意味づけられ た学校儀式とは全く性格の異なるものであった。ところが、森有礼の教育政策により、学校 そのものが集団主義による国民創出の場として強く意識されるようになり、学校儀式もそ の方向性へと変化した。さらに、教育勅語発布以降、学校教育そのものが教育勅語の理念の もと、国体史観にもとづく天皇・天皇制に無条件に奉仕する「臣民」養成の場となり、学校 儀式全体も、国体史観にもとづく天皇・天皇制に奉仕する「臣民」であることを、教職員や 児童・生徒に強く意識させるものへと大きく変わった。学校儀式全体が、三大節学校儀式の内容の準じたものになり、皇室や天皇との関わりなど 儀式の軽重に応じた式目に収斂されるようになったことは上述の通りであるが、それ以外 にも大きな変化がみられるようになった。

儀式の性格そのものが天皇・天皇制、あるいは教育勅語に直結するようになったことが指 摘できる。そのひとつは、卒業証書授与式などの性格の変化である。先ずは、卒業証書授与 式の褒賞である。先述の通り、卒業証書授与式は、開講式などとともに近代学校のなかで最 も古い儀式のひとつである。その卒業証書授与式には褒賞があった。1870 年代から 80 年代 前半にかけて学校の編制原理が等級制であり、学校が個人間の競争の「場」であることが基 本であった。その卒業証書授与式は、厳しい競争・試験に勝利した「勝利者」を祝う儀式で あった。その儀式の際の褒賞は、試験の結果のみを基準にして、その序列によって褒賞が行 われた。ところが、学校教育の集団機能に注目されるに至り、状況に変化が現れた。初代文 部大臣森有礼は、「学校ノ目的ハ良キ人物ヲ作ルヲ以テ第一トシ、学力ヲ養フヲ以テ第二ト スヘシ」(森有礼「学政要領」大久保利謙編『森有礼全集 第一巻』宣文堂、1972年)との 学校観による評価を提唱し、教育評価の転換があったことを指摘した。

さらに、教育勅語が発布され、これが教育の基本原理となるのを境にして、褒賞の基準が 大きく転換し、教育勅語が提示する日々の実践が褒賞に基準に加えられた。それまでの学業 成績のみ褒賞基準に、学業成績に加え、精勤、善行などが加わった。卒業証書授与式の性格 の変化は、そこで実施された褒賞の在り方も変えといえる。まさに、「教育勅語の理念によ って貫かれた第二次小学校令下の特徴は、修身科の重視とともに、『操行』成績に重点を移 し、操行を選抜基準に加えた生徒賞与の方法によって、訓育・訓練の効果をねらっていると ころにあるといえよう。表彰の機会として、修業・卒業式のみではなく祝日大祭日の儀式の 際なども利用されるようになっていく」(天野正輝「明治期における徳育重視策の下での評 価の特徴」『龍谷大学論集』第 471 号)と、学校儀式全体が天皇・天皇制の影響下におかれ るようになった。
つぎに、皇室や天皇・天皇制に関わる儀式が、その後も学校に入り込むことになった事実 も指摘できる。1908 年に日露戦争後の体制の動揺と勃興する社会主義への対策として、戊 申詔書が発布されると、その趣旨徹底策として戊申詔書奉読式が導入されるようになった。 長野県更級郡共和尋常高等小学校「儀式ニ関スル規程」(1911 年)では、戊申詔書奉読式を 三大節学校儀式、教育勅語奉読式の次に位置づけ、その儀式内容は、「第三条 教育勅語戊 申詔書奉読式次第左ノ如シ/一 着席 二 敬礼 三 唱歌(君か代) 四 勅語奉読 五唱歌(勅語奉答) 六 校長訓辞 七 唱歌(皇御国) 八 敬礼 九 退場」と、教育勅 語奉読式と同様の儀式を行うことになっていた。戊申詔書の発布を契機にして、学校儀式の なかに「遥拝」が加えられるようになり、紀元節を中心にして、皇居に向かい一同が「最敬 礼」をする儀式が加わるようになった(『続・現代史資料9 教育2』みすず書房、1995年、 35~36 頁)。

1915 年 11 月 10 日に大正天皇の「即位ノ礼」が実施された。その「即位ノ礼」に際して、 同年 9 月 23 日の「即位礼奉祝学校儀式次第」(文部省訓令第七号)を発し、「即位礼奉祝学 校儀式」の実施を命じた。ここでは、儀式次第を提示しているが、それは以下の通りである。
     儀式次第
  一 職員生徒児童「君が代」ヲ合唱ス
  二 職員生徒児童
天皇陛下
    皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
  三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
  四 学校長ハ大礼ニ関スル訓話ヲ行フ
  五 職員児童生徒ハ文部省撰定ノ大礼奉祝歌ヲ合唱ス
  六 職員生徒児童
万歳ヲ奉祝ス
(同前、61 頁) この「即位礼奉祝学校儀式」は、最後の式目の「職員生徒児童/万歳ヲ奉祝ス」以外は、 小学校令施行規則第 28 条と全く同じ内容の儀式の挙行が命じられた。この「即位礼奉祝学 校儀式」は、その後、昭和天皇の即位礼に際しても挙行が命じられ、大正天皇の即位礼と全 く同じ儀式が実施された。三大節学校儀式が定型化して以降の全ての学校儀式はこれに準 じるものになった。その後、1923 年 11 月には、関東大震災による民心動揺を鎮め、そのう えで 1910 年代以降の体制不安を「国民精神」の作興によって対応するために「国民精神作 興ニ関スル詔書」が発せられた。戊申詔書と同様に広く国民全体の教化をねらった詔書であ ったが、三大節学校儀式に教育勅語と共にその「奉読」が求められるとともに、1924 年 9 月 に文部次官通牒「国旗掲揚方」を発し、「休日ト定メラレタル祭日及祝日其ノ他国家又ハ皇 室ニ重要ナル祝祭ノ典アル場合ニハ成ルヘク国旗ヲ掲揚スルコトニ致度」と祝祭日や皇室関係の祝典における国旗掲揚が命じられるようになった。1900 年の小学校令施行規則第 28 条で三大節学校儀式の在り方が確定し、1900 年代から 10 年代を通じて、三大節学校儀式以外の卒業証書授与式や入学式など学校儀式も三大節学 校儀式に準ずるものへと変容した。このように教育勅語発布以降、学校儀式のすべてが三大 節学校儀式の準じたものになった。このことは、学校儀式全体が、国体主義にもとづく天皇・ 天皇制教化、あるいは賛美のための儀式へと転化し、学校儀式を通じて天皇の神聖と絶対性 を強調し、「忠良」な「臣民」育成の場になったことを意味している。

おわりに

以上、近代学校制度の発足をみた 1872 年の学制発布から、1923 年 11 月の「国民精神作 興ニ関スル詔書」に至るまでを射程にし、学校儀式が次第に天皇制教化への「装置」になる 過程を考察した。この歴史的経緯から、以下のことが指摘できる。

1 近代学校制度導入以降、最も古い学校儀式は、開校式(現在の学校開設の開校式と年 度初めの始業式に相当する儀式も開校式が用いられた)と考えられる。設立当初の学校 は、近代化に資するための人材を養成する機関であることが強く意識された。それまで の封建的な身分制を解体させ、学習歴を唯一の基準にした人材養成の手段として、学校 の編制は等級制という能力を基準にした学習集団により、その成果を試験のみで判断 する明治期初頭の学校は、極個人主義的な性格が強かった。数々の厳しい競争試験に打 ち勝ち、最終的な大試験に及第した結果が明治初期の卒業であった。大試験の集計結果 の後、及第と認められると卒業証書の授与が認められ、その場で卒業証書授与式が行わ れる場合が多かった。明治初期の卒業証書授与式(卒業式)は、厳しい競争・試験に勝 利した「勝利者」を祝う儀式であり、天皇制や皇室とも全く関係のない、個人の学習の 成果を確認し、試験成績の上位のものを表彰する場であった。当然のことながら、皇室 や天皇に関する学校儀式など存在しなかった。

2 こうした儀式の性格に変化が生じたのは、学校教育を通じて国民、「臣民」を育成し ようとした森文政期以降のことであった。学校の持つ集団性に着目した初代文部大臣 森有礼は、生徒の分団組織への編成や団体訓練としての兵式体操の導入を行なうとと もに、国家祝日における御真影に対して拝礼することで、天皇を媒介にして国家への忠 誠を確認する祝日学校儀式の導入を内密に指示した。この時点で明らかに学校観の転 換が顕著になった。森有礼の学校教育の方針、「人物第一、学力第二」により、学校の 持つ意味が大きく変わるとともに、学校儀式が国民養成の「装置」として、その性格が大きく転換した。

3 その後、教育勅語と第二次小学校令とにより、学校教育は、天皇・天皇制教化のための教化の「場」として、教授活動よりも訓育活動(訓練)が重視されるようになった。 こうした構造について、天野正輝は、「教授の対概念としての『訓育』が、天皇制国家 に対する忠誠心の育成を主要な目的するようになり、一定の行動形式を器械的に反復 練習することによって、統制された人格の形成を図ることが強く求められる」(前掲「明 治期における徳育重視策の下での評価の特徴」)と指摘するが、その典型がまさしく、 定型化された学校儀式であった。教育勅語の趣旨徹底策の一つとして、式日における 「奉読」が求められ、その後、1891 年 6 月に「小学校祝日大祭日儀式規程」により、 国家の祝日だけではなく神道の祭日までも学校儀式を挙行する式日とし、その内容ま で詳細に定めた。さらに、式日の整理、勅語「奉読」方法の定型化、儀式用唱歌の指定 など儀式内容の定式化を徹底し、「一定の行動形式を器械的に反復練習すること」を容 易にする体制を整えた。その帰結が、1900 年 8 月の小学校令施行規則第 28 条による三 大節学校儀式の定型化であった。「君が代」斉唱、御真影への「拝礼」、教育勅語「奉読」、 校長訓話、式歌斉唱という学校儀式の基本がここに完成した。

4 三大節学校儀式の内容が定型化すると、それ以外のほとんどすべての学校儀式が、三 大節学校儀式に準拠するようになる。それぞれの儀式と皇室や天皇との関係の濃淡に より三大節学校儀式が最も式目が多く、ついで、勅語等「奉読」式、卒業式、入学式な ど、式目を減らしながらも、学校儀式全体が、皇室・天皇に忠誠を尽くすことを目的に したに関して三大節学校儀式に準じるものに統一された(〔〕。
1. 5 こうした傾向は、大正期以降も続き、戊申詔書発布、大正天皇即位関連の式典、 「国民精神作興ニ関スル詔書」(1923 年 11 月、関東大震災による民心動揺を鎮め、 なおかつ 1910 年代の社会主義台頭などによる対応のために発した詔書であり、教育 勅語、戊申詔書とともに教育に関する三大詔勅とされる)発布とその趣旨徹底策にお いても、学校における詔書の「奉読」、あるいは、各学校における即位の祝賀式を命 じた。その儀式内容は、即位の祝賀式は三大節学校儀式と同等の内容であった。さら に、「国民精神作興ニ関スル詔書」の趣旨徹底策とその後、昭和天皇即位に関する一 連の行事で、「国旗」掲揚が政府レベルから強く推奨されるようになった。1924 年 9 月に文部次官通牒「国旗掲揚方」を発し、「休日ト定メラレタル祭日及祝日其ノ他国 家又ハ皇室ニ重要ナル祝祭ノ典アル場合ニハ成ルヘク国旗ヲ掲揚スルコトニ致度」と祝祭日や皇室関係の祝典における国旗掲揚が進められた。 これらの事実により、以下のことを指摘できる。今回の裁判においても重要な論点であると思われるので、最後に指摘したい。 教育勅語発布以降に顕著になるこの国の学校観の変化にもあった。学校は「臣民」養成の「装置」に変容した。「君が代」・「日の丸」を強制する学校儀式は、国体主義にもとづく近 代天皇制イデオロギーを子ども達に徹底的に浸透させ、「臣民」として同質化するための重 要な「装置」になった。学校は、個人の学習や発達を保障する場ではなく、国体主義にもと づく天皇・天皇制に無批判に「奉仕」する「臣民」を養成する「場」であり、学校儀式その ものが天皇・天皇制に無条件に奉仕するための忠誠心と「臣民」としての統一意識を涵養す るための「装置」になった。卒業式・入学式に「君が代」の斉唱と「日の丸」の掲揚を命じ る行為は、戦前の天皇制教化のための儀式と同様に、生徒・教職員を戦前の復古的天皇観・ 天皇制に回帰させるための強制そのものである。祝祭日学校儀式よりも卒業式の方が歴史 的に古いとの指摘もあるが、この国が教育勅語の発布により、国体主義にもとづく天皇・天 皇制に無条件に奉仕する「臣民」を養成することを教育目的として以降、学校教育のすべて がこの教育勅語に収斂するようになったのは明らかな事実である。

戦後改革による日本国憲法、および教育基本法の成立は、これまでに指摘した教育勅語に もとづく学校教育や学校観そのものに大転換をもたらし、戦前的発想の学校儀式を完全に 否定した。そのため、戦後間もない時期に発行された『学習指導要領 一般篇(試案)』(1947 年・1951 年)には、学校儀式を含め学校行事に関する記述はない。学校教育法の施行(1947 年)により、四大節学校儀式の挙行義務はなくなった。さらに、「国民の祝日に関する法律」 の施行(1948 年)によって、従来の祝祭日も廃止され、四大節学校儀式そのものが消滅し た。新たな教育理念のもとに新たな学校観に転換し、新たな教育が開始された。生まれ変わ った学校のもと、学校儀式や行事もまた新たな学校観、すなわち、日本国憲法・教育基本法 による、民主国家に相応しい国民ひとりひりの成長に寄り添う学校にふさわしい内容へと 改革することが求められたと理解しなければならない。国会による 1948 年の教育勅語の廃 止決議がそのことを端的に示している。戦後初期にも、卒業式・入学式は慣行として続けら れたが、卒業式・入学式の次第から「君が代」斉唱が無くなり、「国旗」掲揚の必要もなく、 卒業式・入学式ともそれぞれの学校や生徒・教職員の手作りでそれぞれの学校にふさわしい 内容の儀式が行われるようになった。

このような歴史的経緯からみると、卒業式・入学式を含め学校儀式そのもののなかに「君が代」(国歌)、日の丸(国旗)を、政府からの強い強制で取り入れること自体が、戦前の天 皇制公教育への回帰にほかならず、日本国憲法下の民主的教育の精神に反している。特に、 石原都政で強硬に進められた東京都における卒業式・入学式における 2003 年 10 月 23 日の 10・23 通達、さらに大阪府の 2011 年 6 月大阪府国旗国歌条例制定・大阪市の 2012 年 2 月 大阪市国旗国歌条例制定による国旗掲揚と国歌斉唱の強制は、戦前の天皇制公教育へ回帰 であり、断じて許されるものではない。


【主要参考文献】
〔資料集〕
1 佐藤秀夫編『続・現代史資料8 教育1』~『続・現代史資料10 教育3』みすず
書房、1994 年~96 年。
2佐藤秀夫編『日本の教育課題1 「日の丸」「君が代」と学校』東京法令、1995 年。 3佐藤秀夫編『日本の教育課題5 学校行事を問い直す』東京法令、2002年。
〔図書〕
1 天野正輝『教育評価史研究』東信堂、1993年。
2 有本真紀『卒業式の歴史学』講談社メチエ546、2013年。
3 小野雅章『御真影と学校 「奉護」の変容』東大出版会、2014年。
4 佐藤秀夫『教育の文化史1 学校の構造』阿吽社、2004年。
5 永尾俊彦『ルポ 「日の丸・君が代」強制 「日の丸・君が代」強制現場を追う』
緑風社、2020 年。
6 山本信良・今野敏彦『近代教育の天皇制イデオロギー』新泉社、1973年。
17

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 大阪府教委、「君が代」起立... | トップ | 2.11集会中止のお知らせ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

「君が代」裁判」カテゴリの最新記事