「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

なぜその活動か・・・

2008-02-08 22:17:30 | 授業
全国で盛況の英語教育セミナー、ワークショップに参加する。発明の才に富む達人講師が簡単に準備でき、且つ授業で受けそうな学習活動を紹介する。さあ、みんなでやってみましょう! 会場は大いに盛り上がり、「ほら、上手くいったでしょ。授業でもぜひ活用してください。」 

・・・で、現場に持ち帰り、やってみたら上手くいかない。「あの人は自分とは違うのだ。やっぱり、あんな方法じゃあできるはずない。」

あるいは‐‐‐‐

・・・早速、現場でやってみて、けっこう上手くいった。「生徒はノリノリ、活き活き活動。さすがは達人講師、いいこと教えてもらった。」

いわゆる、「真面目な側」の人々の話を聞いても、以上のような両極端の結論に行き着くことが多いような気がする。でも、本当にこれでいいのだろうか。

何であれ授業中に教育的活動を行う際には、その活動の理解が不可欠だろう。つまり、
① 何を目的としてその活動を行うのか 
② その目的を果たすためには本当にその活動がベストなのか 
③ その活動の長所と短所は何か
④ その活動を行う際に注意すべき点は何か
などを指導者が把握してないなら本当に有益な教育活動にならないのではないだろうか。

例えば、「音読をさせたいと思ってはいるがうまくいかない。ちゃんと音読させるにはどのような工夫が必要だろうか」といった悩みを聞いたりする。このような悩みを打ち明ける人は、なぜ音読させなければと自分が思ったのか真剣に考えているだろうか。

学習者は音読の効果が実感でき、それが有益だと思えばその活動を厭わないものだ。音読に真摯に取り組まないのは、英語力はつけたいが、なぜ音読しなければいけないか分からない、つまり音読の効果を疑っているか、英語力をつけたいなど端から思っていないかのどちらかだろう。

前者であれば音読の効果を学習者に実感させるプロセスが必要だろうし、後者であれば音読指導自体の意義を指導者の側が再考する必要があるだろう。

逆に、一見すると生徒が熱心に活動している場合も曲者だ。生徒が熱心に活動したからといっても良い授業だとは限らないからである。授業の狙いは英語力の向上のはず。生徒の熱中度と教育的効果は必ずしも比例しない。

活動が先にあるのではない。つけたい力に応じた教育活動があるだけだ。

何年か前、教育実習生を受け持ったときのことである。授業にシャドーイング活動を組み込みたいと言ってきた。おそらく大学で、注目の新しい学習法などと聞きかじってきたのだろう。なぜシャドーイングなのかを聞いても明確な答えは返ってこなかった。当然、授業で使っていただくわけにはいかなかった。