「志」の英語教育

英語教育実践について日々の雑感を語ります。

「学びの共同体」・・・その8 Eclecticism

2009-02-26 19:23:06 | 協同学習
「学びの共同体」シリーズ後半の3回目は更にスケールを拡大。ただし批判的な視点は一応ここで一段落とするつもり。

教育でよく用いられる言葉の一つに「振り子」がある。英語教育であればアキュラシーかフルーエンシーか、文法かコミュニケーションかなどといった二項対立がおなじみだ。これは日本に限られたことでなくSLAやTESOLの世界においてもまた然り。オーディオリンガリズムからコミュニカティブアプローチへの変化はまさにドリルから意味重視への大きな言語力観のパラダイムシフトであった。

ここに「有識者」の声が轟くと現場はややこしくなる。

新しい学力観や指導のあり方を唱える学者は決まってそれ以前の学力観を完全に否定する。今までのやり方はすべて間違いであったと強烈に批判するのだ。メディアがこれに乗ると事態は深刻になる。今までの蓄積をすべて排除し従来の価値観は一掃されてしまう。たとえば、日本の英語教育において、和訳や文法に対していまだに必要以上に強い嫌悪感が残っているのはそのせいだ。

学力とはそんなに一元的なものなのだろうか。

ドリルにはドリルの長所がある。知識の詰め込みは、それのみでは問題があろうが、学力をつけていく上で欠かすことができないものだろう。もちろん、コミュニケーション活動にもそれ独自の良さがあり、和訳にもきっと果たすべき役割があるはずだ。

それぞれをバランスよく組み合わせればよいではないか。

PISA型読解力が弱いからという理由で、それを伸ばすための指導に切り替えるのは本末転倒ではないか。行き着く先に知識の不足があるのなら単なる堂々巡りを繰り返すだけだ。

学びの共同体の理念は素晴らしいと思う。しかし、共同学習だけでは身につかない学力もあるのではないか。生徒指導上の問題を解決しやすいという側面だけでこの指導法を過大評価し、本物の学力がついているかどうかの検証を怠ってしまえば、いずれこの指導法も流行の波に呑まれてしまうだろう。素晴らしい理念だけにそれではもったいないと思うのである。


お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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「学びの共同体」・・・その7 Chill out!

2009-02-26 08:07:00 | 協同学習
「学びの共同体」後半戦は2回目は、研修のあり方の話。今回、公開研修会に参加して強く感じたのは、「学びの共同体」は、すでにかなり教育現場に浸透し洗練もされているということ。その分だけ、いろいろな作法や決め事も細かに存在している。

指導者であった佐藤雅彰先生は指導者として日々全国津々浦々の学校を訪れ指導助言を重ねておられるようだ。また、集まった教育関係の見学者も「学びの共同体」に入れ込んでいるといったご様子の方もかなりいらっしゃった。

そこには、自分の入り込む隙間はない。外部の人間が異議を挟む余地はないのだ。これは、仮にその理念が絶対的に正しいものだとしても、結構危険なことではないか。

先日の竹内理先生の後援会でも佐藤学先生のお名前は何度か出てきた。竹内先生にしても佐藤先生と同じ考えである部分とそうでない部分を持たれている。例えば、能力別クラス編成はお二方とも認めないが、競争を授業に持ち込むことは竹内先生は必ずしも悪くないとされた。

今の「学びの共同体」は内と外の境があまりにも強烈で外からの意見は顧みられそうにない。このような「学びの共同体」のあり方が私には不思議にも思えるし残念にも感じる。あらゆることに対して批判的な視点を敢えて残すことが大切で、一つの価値観に盲目的に隷従することは避けるべきだと考えるからだ。

例えば、「学びの共同体」の考え方の中に、指導者はいわゆるテンションをあげるべきではないというものがある。落ち着いた口調で淡々と「つなぎ」役に徹するのが指導者の役割だということであろう。

研究授業をされた先生は忠実にその「教え」に従い粛々と授業をされた。そして、そこに私はえもいわれぬ違和感を感じたのである。

以前のエントリーで述べているように、私もそのような指導のあり方は理想だと思う。
http://blog.goo.ne.jp/zenconundrum/e/d62ecff36b21efa306cebe824bc29d27
しかし、指導者本人の試行錯誤の上それにたどり着いて初めて本物として機能するものであって、ただその有り様だけをまねしてもうまくいかないのではないか。

個人的には教育にエンスージアズムは不可欠だと思っているが、場面やステージによって、指導者はそれを抑えるように努めなければならないというのも分かる。外側からの「教え」によって価値観を強要された若い指導者に、その辺の機微はうまく伝わるものなのだろうか。教員側の熱意が伝わりにくい授業を目指しなさいと若い先生に伝えるのは害の方が大きいのではないだろうか。

何度も言うが、私は基本的に「学びの共同体」の考え方に賛成である。生徒に自分で考え自分で学ぶ力を身につけさせることは教育の基本であるはずだ。さて、指導者の方はどうなのだろうか。



お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。


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