「学びの共同体」シリーズ後半の3回目は更にスケールを拡大。ただし批判的な視点は一応ここで一段落とするつもり。
教育でよく用いられる言葉の一つに「振り子」がある。英語教育であればアキュラシーかフルーエンシーか、文法かコミュニケーションかなどといった二項対立がおなじみだ。これは日本に限られたことでなくSLAやTESOLの世界においてもまた然り。オーディオリンガリズムからコミュニカティブアプローチへの変化はまさにドリルから意味重視への大きな言語力観のパラダイムシフトであった。
ここに「有識者」の声が轟くと現場はややこしくなる。
新しい学力観や指導のあり方を唱える学者は決まってそれ以前の学力観を完全に否定する。今までのやり方はすべて間違いであったと強烈に批判するのだ。メディアがこれに乗ると事態は深刻になる。今までの蓄積をすべて排除し従来の価値観は一掃されてしまう。たとえば、日本の英語教育において、和訳や文法に対していまだに必要以上に強い嫌悪感が残っているのはそのせいだ。
学力とはそんなに一元的なものなのだろうか。
ドリルにはドリルの長所がある。知識の詰め込みは、それのみでは問題があろうが、学力をつけていく上で欠かすことができないものだろう。もちろん、コミュニケーション活動にもそれ独自の良さがあり、和訳にもきっと果たすべき役割があるはずだ。
それぞれをバランスよく組み合わせればよいではないか。
PISA型読解力が弱いからという理由で、それを伸ばすための指導に切り替えるのは本末転倒ではないか。行き着く先に知識の不足があるのなら単なる堂々巡りを繰り返すだけだ。
学びの共同体の理念は素晴らしいと思う。しかし、共同学習だけでは身につかない学力もあるのではないか。生徒指導上の問題を解決しやすいという側面だけでこの指導法を過大評価し、本物の学力がついているかどうかの検証を怠ってしまえば、いずれこの指導法も流行の波に呑まれてしまうだろう。素晴らしい理念だけにそれではもったいないと思うのである。
お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。
教育でよく用いられる言葉の一つに「振り子」がある。英語教育であればアキュラシーかフルーエンシーか、文法かコミュニケーションかなどといった二項対立がおなじみだ。これは日本に限られたことでなくSLAやTESOLの世界においてもまた然り。オーディオリンガリズムからコミュニカティブアプローチへの変化はまさにドリルから意味重視への大きな言語力観のパラダイムシフトであった。
ここに「有識者」の声が轟くと現場はややこしくなる。
新しい学力観や指導のあり方を唱える学者は決まってそれ以前の学力観を完全に否定する。今までのやり方はすべて間違いであったと強烈に批判するのだ。メディアがこれに乗ると事態は深刻になる。今までの蓄積をすべて排除し従来の価値観は一掃されてしまう。たとえば、日本の英語教育において、和訳や文法に対していまだに必要以上に強い嫌悪感が残っているのはそのせいだ。
学力とはそんなに一元的なものなのだろうか。
ドリルにはドリルの長所がある。知識の詰め込みは、それのみでは問題があろうが、学力をつけていく上で欠かすことができないものだろう。もちろん、コミュニケーション活動にもそれ独自の良さがあり、和訳にもきっと果たすべき役割があるはずだ。
それぞれをバランスよく組み合わせればよいではないか。
PISA型読解力が弱いからという理由で、それを伸ばすための指導に切り替えるのは本末転倒ではないか。行き着く先に知識の不足があるのなら単なる堂々巡りを繰り返すだけだ。
学びの共同体の理念は素晴らしいと思う。しかし、共同学習だけでは身につかない学力もあるのではないか。生徒指導上の問題を解決しやすいという側面だけでこの指導法を過大評価し、本物の学力がついているかどうかの検証を怠ってしまえば、いずれこの指導法も流行の波に呑まれてしまうだろう。素晴らしい理念だけにそれではもったいないと思うのである。
お願い: 今回の「学びの共同体」の実践については非常に先進的なものであると考えています。その素晴らしさに圧倒されることもある一方、自分の勉強不足からある種の消化し辛さも感じています。記事の中に批判的な部分もあるかもしれませんが、誹謗・中傷、攻撃などの意図は全くありませんのでご理解頂けますと幸いです。しつこいようですがよろしくお願いいたします。