超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">禅僧列伝で飛ぶ方法</span>

2010-08-02 19:07:29 | 無題

先日古本屋さんで田中博美氏の中国禅僧列伝を手に取った。現在入手困難と手書きで書いてあった。あいにくお金の持ち合わせがないので、家に帰って検索してみたら普通に売っている。これも何かの縁だと思って取り寄せた。読んでみると禅僧の系譜が書いてあって、どの僧がああやって政治家に取り入った、こうやって政治家に取り入ったという話が結構多く、禅の本筋ではないので余分に感じた。面白いのは体当たりで挑みあう師と弟子がいて、丁々発止の問答を繰り広げ、ある時は弟子が気づき、ある時は師が一本取られるという様子の生き生きとした描写のほうである。
この中国禅僧列伝でも面白いのは馬祖が出てきて弟子と丁々発止の問答をするあたりからである。
あるとき百丈懐海が師匠の馬祖と歩いていた。すると野鴨が飛んでゆくのが見えた。馬祖は懐海にあれは何だと言った。懐海は「野鴨です」と答えた。これは普通の会話ではないのである。馬祖は懐海を何とかして何気ない会話から見性体験に結びつけたいと願っていた。それに気付かずただ「野鴨です」と答えた懐海は不覚だった。そこで馬祖は第二問を発する。「どこへ行ったのか」懐海はまだわからない。「飛んで行ってしまいました」一緒に見ていたのだから馬祖はそんなことは知っている。馬祖はたまりかねて、懐海の鼻を嫌というほどひねり上げた。懐海は思わず「痛い」と言った。そこで馬祖は「飛んで行って何かいないじゃないか」と言った。ここでようやく懐海は問答の真意を悟った。
翌日、懐海は「昨日は和尚に鼻を嫌というほどひねられて痛かった」と言った。馬祖は「昨日お前はどこに心を留めていたのかね」と尋ねる。懐海は「今日は痛くありません」と答えた。これは今日からは目が覚めたという意味である。馬祖はそれを見て、「お前は深く『今日』の意味がわかったのだね。」と笑った。これは懐海も鴨になれて初めて心が開けたという意味である。修行者ではないのでわかりかねるところも多々あるが、自在に鳥にも雲にも岩にもなれて、大安心の心をつかむことが禅の修行の目指すところである、という。私は鈴木俊隆禅師が「禅者が鳥をみたら彼は言うだろう、あの鳥は私だ」と言って鳥の鳴き真似をしてみせたのをユーチューブで見たのを思い出した。秋月龍禅師も、星を見て俺が光っていると思わず口走るのが禅の境地だとどこかで言っていた。
分別が付く前の子どもも空を行く雲を見て、僕は空で雲で鳥のさえずりだと思うだろう。私と他者は未分化のままで、裸の知覚の戯れをともに分け合っている、そういう未分化の知覚の共有が後に他者の存在を認める原体験になる、とメルロポンティも考えていたようだ。
禅僧に鼻を手ひどくひねられて野鴨になって飛ぶ風を知る



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