超人日記・俳句

自作俳句を中心に、自作短歌や読書やクラシックの感想も書いています。

<span itemprop="headline">東方のソフィアと「生む自然」</span>

2009-09-13 07:32:18 | 無題

ソフィアと言うのは、東方正教会(ギリシア、ロシア、ルーマニア、ブルガリア、グルジア正教会など)で大切に温められてきた考え方である。
その由来は旧約聖書の「箴言(しんげん)」にある。たとえば「箴言8知恵の勧め」が根幹にあって、そこではこう語られている。
「わたしは知恵。熟慮と共に住まい、知識と慎重さを備えている。(中略)わたしは勧告し、成功させる。わたしは見分ける力であり、威力を持つ。(中略)主は、その初めにわたしを造られた。いにしえの御技になお先立って。永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って。わたしは生みだされていた。(中略)わたしはそこにいた。主が天をその位置に備え深淵の面に輪を描いて境界とされたとき。主が上から雲に力を持たせ、深淵の源に勢いを与えたとき。(中略)私を見いだす者は命を見いだし、主に喜び迎えて頂くことができる。(以下略。新共同訳聖書)」
何と神は、天地創造に先立ってソフィアを造ったというのである。そしてソフィアは天地創造に臨在したという。ソフィアは神の随伴者であり、ソフィアに従って生きる者は神に迎えられる、というのだ。このソフィアの考え方は、ローマ・カトリックを戸惑わせた。ヨハネ福音書の「初めにロゴスがあった。ロゴスは神と共にあった。」という記述と一致しないからである。
ソフィアは女性形であり、ロゴスは男性形である。初めに神と共にあったのはソフィアなのか、ロゴスなのか。見方の分かれるところである。ローマ・カトリックに対して、東方正教会はソフィア原理を重視した。
ソフィアは神の随伴者であり、内なるソフィアに照らして暮らせば、命を見いだし、主に喜び迎え入れてもらえる。ソフィアは神と人との導きの糸であり、女性的な性格を持つ。ローマ・カトリックは父と子と聖霊の原理で教義を練り上げた。C・G・ユングは晩年の講義で、そこでは女性性が置き去りにされている、と指摘した。ちょうどその頃、カトリックの教義のなかに、神性の補助線として聖母マリアが正式に位置づけられたのである(1950年法王ピオ12世が「聖母被昇天」を公認の教義として公布した)。聖母マリアが加わることで、無意識の求める全体性が回復されるとユングは考えた。
では、マリアとソフィアはどう違うのか。マリアとは何よりも慎みであり慈愛である。ソフィアは、太初、万物に先立って創造され、天地創造に臨在したのである。聖ベルナルドは聖母マリアと幼子イエスの慎みと無私を観想して、神の道に至ったが、東方正教会は神の随伴者である内なるソフィアに照らして生きる意味を重視した。かなり隔たりのある女性原理である。
ロシアやギリシアにはソフィアのイコンもある。このような天地創造に先立つ知恵、そして神へと至る内なる導き手である知恵は、ロシアのコスミズムの思想家たちにも大きな影響を及ぼした。そんな流れにブルガーコフもいるのである。
彼は人間の活動はソフィアに発する、ソフィアの本質は「生み出す自然」である、経済も本来はソフィア的である、経済の究極の目的は経済を越えている、と考えた。東方正教会の伝統を踏まえた先鋭思想である。フィロソフィーはユダヤ・キリスト教的な起源の概念ではないけれど、フィロソフィアに東方正教会のニュアンスを込めるならば、美しいことばである。
参考 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/5868/Sofija.html



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<span itemprop="headline">絵馬と四次元</span>

2009-09-12 15:36:08 | 無題

ジョージ・ハリスンに「不思議な壁の音楽」と言うアルバムがあって、インド音楽混じりのインスト・アルバムで結構ご機嫌な作品だ。
壁の向こうに何があるか、という問いはロシア・アヴァンギャルドでも問題にされていて、ウスペンスキーという神秘哲学者が提唱した四次元論が、前衛芸術を大いに触発した。コリン・ウィルソンの「20世紀の神秘家ウスペンスキー」や桑野隆の「夢みる権利、ロシア・アヴァンギャルド再考」などにウスペンスキーの四次元論が触れられている。
「零の形態」に思想がまとめられた、ロシア・アヴァンギャルドの画家マレーヴィチが、この四次元論に強く影響されている。マレーヴィチは黒く塗りつぶされた四角や、白地に白の四角を盛んに描いた画家だが、現象すべてが無として感じられるという話の流れでこう言っている。
「ぼくは自分のまわりに、砂漠しか感じないんだ。ジャングルのなかにまぎれてしまったぼくは、跳躍への道をみつけるしかなかったんだ。そしてそれこそ、きみが今ここでみて、ほめているもの、白い地の上の白というわけだ。これらは最新作だし、ぼくの理想なんだ(本江邦夫訳)。」
彼が見ていたものは何なのか。「スプレマチズムの鏡」のなかでマレーヴィチは言う。「変化してゆくすべての現象のなかで、自然の本質とは不変である。そしていろいろな形をとって現れる現象の本質は、それ自体形がない、無対象としての世界である」と(私の要約)。
マレーヴィチは自分の描いた白や黒の正方形を見て、すべてを生み出す無の空間を感じ取ってほしい、と言っているのだ。
私は美大でその話を書いたので、この辺はよく調べた。全てを生み出す無の空間と言ってマレーヴィチの念頭にあったのは、ウスペンスキーの四次元である。私はブルガーコフの「全ての活動はソフィアに発していて、ソフィアの本質は『生む自然』なのだ」というソフィア論もここに繋がってくると思う。
不思議の壁の向こうにあるもの、それを全てを生み出す無の空間だと感じてみたり、四次元だと言ってみたり、「生む自然」だと言ってみたり、人それぞれである。
けれども壁の向こうに何かがある、現実の背後に働く何かがあるという予感は多くのものを生み出してきた。私は調布の深大寺に行って、絵馬を買って来て壁に掛けてあるが、絵馬の裏には願い事が何も書いてない。マレーヴィチの白い地の上の白、無対象としての万物といっしょである。何か書いたら願い事は一つになってしまう。何も書かなければ、何でもあてはまる。Everything is nothing、Nothing is everythingである。



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<span itemprop="headline">ミヒャエル・ギーレン、気まぐれな美音</span>

2009-09-05 03:10:37 | 無題

ミヒャエル・ギーレンは不思議な指揮者だ。クラシックを現代音楽風に響かせる達人である。顔はマフィアのドンみたいで一筋縄では行かない風格がある。私はyamagishiKenichi氏のサイトでギーレンを知った。現代楽器でオリジナル派に対抗できるのはこれしかない、すごい名盤だとベートーヴェン交響曲全集を紹介してあって渇望感が湧いた。最初に手に入れたのはユーロアーツ社の3巻のベートーヴェンの交響曲DVD全集(ばら売り)である。これが3曲ずつ収録されているのだが、一枚1500円ぐらいで買える。ギーレンは無愛想だが渋いオケを粒立ち良く鳴らす才に恵まれている。カメラワークも下手に小細工しないで、指揮とSWF楽団の演奏風景を実直に映しているところがよい。演奏も無愛想だが、2番の第二章など美しい旋律は丁寧に歌う。
このDVD全集は激安だし醍醐味を味わえていいのだが、問題はベートーヴェン交響曲のCDである。これは元々インターコード社という所から出していて、灰色を背景にギーレンの気難しい顔が写っていてサインが印刷されているCDだったのだが、この販売をEMIが引き継ぎ、無事発売したのも束の間、数年で廃盤になってしまったのでなかなか手に入らない。海外のサイトで買ったり、中古で高値で買ったり、5枚全部集めるのに苦労した。私が高く買ったのを中古CD店で安価で売っていて一喜一憂したものだ。
演奏はCDの方が残響が多く突き放したような爽快な辛口のテイストである。私の持っているのは全てEMI盤だが、ギーレンの写真が怖い。無表情なのをさらに強調して撮ったジャケット写真である。5枚なかなか揃わなくて、4・7番が未入手だったのだが、中古CD店でみつけて目を疑った。実物だ。
余談だがギーレンとアンセルメは顔と音の質感が似ている。アンセルメのベートーヴェン交響曲全集は長らく廃盤で、デッカのイタリア盤で聞いていたが、最近国内外で再発売されている。これもモダンな響きのベートーヴェンで、ギーレンの先駆けである。弦楽器が弱く、金属的な響きがする。アンセルメのようにギーレンの廃盤のCDもやがては再発売されるのか。クラシック・ファンは、そのいつか来る「やがて」のときが待てない性質の人々である。現代音楽風に突き放した質感のギーレンがDVDなどで時折見せる繊細さが、胸をぐっと鷲づかみにする。



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<span itemprop="headline">大混浴展、現代の暁斎</span>

2009-09-03 20:16:51 | 無題

漫画家畑中純さんの漫画家生活35年記念、「大混浴展」を見に行った。
今日9月3日が初日である。調布のギャラリーみるめで開かれている。調布は今水木しげるさん景気で沸いているが、調布在住の漫画家で忘れてはいけないのが、畑中純さんやつげ義春さんである。
調布は住みやすいのか、いい漫画家さんたちが住んでいる。この調布漫画家さんたちの共通点はフォークロア的なものを濃厚に持ち、自伝・私小説風の佳作を多く生み出していることだ。
運良く畑中純さん本人とご家族がいらして、しばし歓談させて頂いた。
私が話したのは「宮沢賢治記念館のイーハトーブ館に畑中さんの版画が大きく貼ってあったこと、夏目房之介さんの漫画評論は熱意が籠っていておもしろい、大本教の出口王仁三郎の伝記「巨人出口王仁三郎(出口京太郎著)」は詳しくて興味深い、」といった話だった。
畑中さんが話してくれたのは「宮沢賢治記念館の他に小樽文学館にも伊藤整の肖像を彫った版画が飾ってある、出口さんの末裔と最近会った、つげ義春さんとはこことか別の場所でたまに会う、ジャンジャン横丁で辻音楽家が展覧会に来て賑やかだった、」などである。
ギャラリーみるめの二階の珈琲は旨かった。
それからゆっくり、展示を見て回った。今回ほとんどが、新作である。
畑中さんが旅先で見たというサンショウウオの絵や、「まんだら屋の良太」の月子と良太が混浴している数々のペン画、水彩、それと何といっても百鬼夜行の大作絵巻が圧巻である。畑中純さんは河鍋暁斎の流れを汲む絵師だと改めて思った。
生き物たちと妖怪たちが楽しそうに跋扈する、エネルギー溢れる絵巻だった。そういえば妖怪繋がりで荒俣宏氏とも親交が深いという。今度鬼の活躍する漫画に取り組むという。
水木しげるさんを始めとして、調布は妖怪を培養する湿気が漂っている。
そのあと調布パルコのバケットという店でシチューを食べて、地下で洋梨のタルトを買って帰った。現代の河鍋暁斎に触れたければ、大混浴展に急げ、である。



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