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NHK BSプレミアム 英雄たちの選択 大村益次郎「武士よさらば 大村益次郎 常識を破壊する組織革命」を視聴して

2017年10月01日 04時12分47秒 | Weblog
2017年9月21日放送のNHK BSプレミアム 英雄たちの選択 大村益次郎
「武士よさらば 大村益次郎 常識を破壊する組織革命」を視聴した。

この番組からの情報を中心として「近代 陸軍の基礎を築いた大村益次郎」の足跡を
辿って見たいと思います。

まず、番組サイトが纏めた内容を引用紹介します。
幕末、10数万の幕府軍をわずか5000の軍勢で撃退し幕府崩壊のきっかけを作った
ことで知られる大村益次郎。絶望的な兵力差にもかかわらず、彼はなぜ長州に劇的な勝利を
もたらすことができたのか。実は大村は徹底した組織改革を押し進め、敗北続きの武士集団
を見事に近代軍隊に再生したのだ。しかし同時にそれは、長年続いた武士の誇りを破壊する
行為だった。猛反発を恐れず、常識破りの組織を構築した天才軍師の覚悟に迫る。



上の写真は大村益次郎の肖像画。
この肖像画はイタリア人のエドアルド・キヨソネ(画家・彫刻家)によるものです。
西郷隆盛の肖像画も有名で、同じくキヨソネの作品です
靖国神社に立つ大村益次郎銅像は上記の肖像画をベースに製作されたものです。

年表

文政7年(1824) 周防国の鋳銭司(すぜんじ)村(現在の山口市鋳銭司)で村医者の
 (5月3日)  村田孝益と妻うめの長男として生まれる。




上の2枚の写真は現在の山口市鋳銭司

天保13年(1842)防府(三田尻)でシーボルトの弟子、梅田幽斎に医学・蘭学を学ぶ。
 18歳

天保14年(1843)豊後国日田の広瀬淡窓の咸宜園(かんぎえん)に入塾。
 (6月29日)
 19歳

天保15年(1844)6月29日、咸宜園を退塾
 20歳     9月13日、長門国三田尻の梅田幽斎に再入塾

弘化3年(1846)大坂に出て緒方洪庵の適塾に入塾。
 22歳

上の写真は現在も保存されている適塾

嘉永2年(1849)、適塾の塾頭となる。
 25歳

嘉永3年(1850)、適塾を退塾。郷里四辻で医業を開業。村田良庵と名乗る。
 26歳     愛想無く物言わぬため、村医者としての評判は悪かった

嘉永4年(1851)、琴子と婚姻。
 27歳

嘉永6年(1853)宇和島藩(藩主は伊達宗城)から招請され夫婦で宇和島に移る。
 29歳  宇和島藩で西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけ、宇和島城北部に樺崎砲台を築く
        宇和島時代に長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い提灯職人の嘉蔵(かぞう)
        後の 前原巧山とともに国内初の蒸気機関の造船に挑戦。
        この頃、村田蔵六(蔵六は亀の意)と改名


上の写真は仕官先の宇和島藩の藩主 伊達宗城 (当代きっての蘭学好きであった)


上の写真は当時に大村益次郎が訳した兵学書「海軍銃卒練習軌範」


安政3年(1856)宇和島藩主伊達宗城の参勤にしたがって上京した益次郎は、麹町に
 32歳    「鳩居堂」を開塾。蘭学・兵学・医学を教える。

上の写真は大村益次郎が幕府の番所調所の教授手伝いの時代のイメージ

安政4年(1857)11月幕府の講武所教授となる。
 33歳

安政5年(1858)3月19日、長州藩上屋敷で開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義
 34歳

上の写真は講義に出席した人物一覧




この講義に桂小五郎も受講しており桂小五郎を通じて長州とのパイプが深くなる

万延元年(1860)江戸で故郷の長州藩士となる。
 36歳


上の写真は幕府の指導者「阿部正直」の肖像と大村益次郎の不満を友達に宛てた手紙

文久3年(1863)3月4日 徳川家茂上洛。将軍の上洛は徳川家光以来229年ぶり。
 39歳    4月20日 徳川家茂、攘夷期限を5月10日とする旨奉答する
        5月10日 長州藩、攘夷期限が来たとして、軍艦2隻で田ノ浦に
            停泊中のアメリカ商船ペムブローク号を砲撃する
          以降外国船砲撃事件が続く
      6月 1日 長州藩、アメリカ軍艦ワイオミングと交戦し敗北する
                       (庚申丸ほか2隻沈没)
      6月 4日 高杉晋作 下関防衛司令官に登用される
      6月 5日 フランス東洋艦隊(セミラミス号他1隻)、長州藩砲台を攻撃し、
             陸戦隊を上陸させ前田・壇ノ浦両砲台を占領 
              
      6月27日 高杉晋作 奇兵隊総督に任命される

上の写真は騎兵隊の写真
      7月 2日~4日 薩英戦争
      8月19日 長州派公卿7人、朝廷を離れ長州へ落ち延びる(八月十八日の政変)

     10月、萩に帰国。博習堂の洋学教授となる。この頃、山口の普門寺塾でも
       兵学を教えた。
       ※博習堂は安政3年(1856)洋学教育を目的に、明倫館より分離された。



元治元年(1864)2月24日、兵学校教授役に異動 その後様々な長州藩軍事関係要職に
        7月18日 禁門の変(7月20日まで)
 40歳    7月23日 朝廷は幕府に対して長州追討の勅命が出される
        8月 2日 幕府、長州藩征討令を35藩に命じる(第一次幕長戦争
              参謀として西郷隆盛が長州に恭順を働きかけ
        8月 5日 4ヶ国艦隊17隻、砲撃を開始
        8月14日 長州藩、4ヶ国艦隊と講和5ヶ条で和睦
         長州藩が四国艦隊に敗れたことで椋梨藤太らの俗論派が正義派を弾圧
        11月に長州藩は幕府に降伏
        12月16日 高杉晋作が功山寺挙兵(わずか50人での挙兵)
                翌年2月14日まで俗論派を追討

 文久3年(1863)から元治元年(1864)まで長州藩の内紛を下記ブログで詳しく記載
   下関事件と下関戦争 及び高杉晋作らの挙兵 on 1863年~1864年

慶応元年(1865)12月12日、大村益次郎と改名、藩政改革における軍事体制の整備を担当。
 41歳       ※高杉晋作がつけたあだ名「火吹き達磨」と呼ばれる。

慶応2年(1866)幕長戦争(第二次長州征伐)において石州口方面の指揮を担当、浜田城を陥落させる。
 42歳
   第2次幕長戦争(長州側からは四境の役)の開戦日
    *四境=芸州口、大島口、石州口、小倉口
     6月7日大島口幕府軍の軍艦が周防大島を砲撃し開戦となった
     6月14日に芸州口、6月16日に石州口6月17日に小倉口で
     戦いが始まりました。


大村益次郎は藩主の毛利敬親(たかちか/よしちか)に掛け合い次のような方針を
出してもらいます。
 (慶応元年(1865)5月28日)

 1)兵制は西洋陣法を採用

 2)御一門などの家老職は戦いの時は総奉行としていたがこれからは一部隊とする

 3)石高に応じて藩に兵を差し出す(人数は下の写真のとおり)



慶応元年(1865)長崎のグラバー氏よりミニエー銃4,100丁、ゲーベル銃3,000丁を購入し
参戦した。ミニエー銃はゲーベル銃より新型で筒の内部にスパイラルの溝があり
500m先まで殺傷能力があった、従来の銃は100m。


また新しい戦法の散兵方式により長州藩の20倍の兵を打ち負かすことが出来た

関連ブログ:芸州口の戦い1(封境之地---和木町)

      芸州口の戦い2(しゅう翼団団長品川清兵衛と彦根藩竹原七郎平の死)  


上の写真は四境の役の戦場となった場所を示した地図


上の写真は石州口で大村益次郎が立てた作戦図  


上の写真は石州口の幕府軍の本陣、萬福寺

下記サイトに戦いの跡が今も残っており解説されておりリンクさせていただきます。
幕長戦争 石州口の萬福寺に残る長州兵の弾痕

明治元年(1868)上野戦争において彰義隊を破る。
 44歳

明治2年(1869)箱館の五稜郭を制圧し戊辰戦争が終結。兵部大輔に就任。
 45歳   9月4日、京都三条木屋町上ルの旅館で刺客に襲われ重傷を負う、
        大坂鈴木町の病院に入院し蘭医ボードウィンの手術を受けるが、
        敗血症のため容態が悪化、
       11月5日 死去。
       11月13日、贈従三位。

番組では最後まで合理的に生きた大村益次郎の逸話の一つとして軍事病院の提唱
を取り上げていました。(下の2枚の写真)




下記サイトに大村益次郎の墓が紹介されていますのでリンクさせていただきました。
 http://www.rekitabi.sakura.ne.jp/H20/200507yamaguchi/03oomura.htm

明治15年(1882)山田顕義らにより、大村益次郎の功績を称えるべく銅像の建立が発議

明治21年(1888)1月17日、大村益次郎の孫寛人に子爵が授けられる。

明治26年(1893)6月、東京の靖国神社の境内に大村益次郎の銅像が建立され除幕式が執行

大正8年(1919)11月27日、追贈従二位。


上の写真は番組で示された大村益次郎関連の大きな出来事年表

司馬遼太郎氏著『花神(上中下3巻)』は大村益次郎の生涯を描いた時代小説です。

1977年、NHK大河ドラマで「花神」が放送されたようです。
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