ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2013.10.6 義母を見送って思うこと

2013-10-06 18:59:08 | 日記
 9月29日に逝った義母を送る一連のセレモニーが滞りなく終了した。

 夫がぽつんと「この9月の入院費を払って、これまで長く続いた母親への仕送りも終了だね。」と言ったかと思うと、私に向かって「長い間ありがとうございました。嫌な顔一つせずに。」と深々と頭を下げた。
 夫から改まってそんなことを言われるとはゆめゆめ思っていなかったので、びっくりしてしどろもどろになった。
 「こちらこそ、毎月、高い治療費を払っているわけですし・・・」と訳のわからないことを言い出す始末。

 思えば、義父の亡き後、郷里で化粧品のセールスをしながら気丈に一人暮らしを続けていた義母に、結婚以来、ささやかながら仕送りを続けてきた。今、冷静に考えれば、夫も私も昇給しているにもかかわらず、20数年間全くベースアップもせず据え置きの額で・・・。
 義母が80歳を間近にした頃、郷里の家を引き払って近県の義妹夫婦宅に同居するようになった。以来、毎月分は義妹宅に、年2回のボーナスは義母宛てに、銀行振り込みにせずに現金書留で送ってきた。
 一昨年12月に義母が倒れ、病院や施設を行ったり来たりして以降は、日々の雑事は義母と同居する義妹夫婦のマンパワーに任せざるを得なかったので、入院治療費・施設費等について全てこちらで持たせてもらうことにしていた。

 100歳まで生きると誰もが信じていたほど丈夫な義母だった。私の再発後に「たとえあなた(私)がいなくなっても、私が2人(夫と息子)の面倒を見るから大丈夫。」とまで言っていた義母だったから、倒れて以後も、幾度も危機を乗り越えてきた。これまで何の根拠もなく仕送りがずっと続くような気がしていたが、本当にこれで最後なのか、と思ったら何とも言えない切ない気持ちになった。
 葬儀から戻って義妹と話したところ、10年以上一緒に暮らしてきて、こうして亡くなった今よりも、2年近く前に倒れて病院に運ばれた時の方が、喪失感が大きかったとのこと。今もまだ病院にいるような気がする。明日も病院に行かなくちゃ、という気持ちだ、とのことだった。
 本当にお疲れ様でした。ありがとうございました、と頭を垂れた。

 来月三十五日の法要が終われば、位牌が我が家にある仏壇に置かれる。今後、お盆やお彼岸、命日には義妹がお線香をあげにやって来ることになる。
 思うに片道3時間、往復6時間の距離は日帰りが可能なギリギリの距離だ。これまで私たちが見舞いに通っていた時も、土曜日に出かければ日曜日は休養に充てないと、という疲れ方だった。
 なるべく長い間今の体調が保てて、義妹の訪問を恙なく迎えることが出来ればいいけれど・・・と不安は残るが、そんな先のことは今から案じても仕方ないだろう。

 酷暑でもなく、厳寒でもなく、息子の受験にバッティングするわけでもなく、自分が身に着けて逝きたいと用意した単衣の着物を着るには寒くなりすぎないギリギリの9月末に逝った義母。毎朝、朝食の席に着く時には既にきちんとフルメイクを欠かさなかった本人の弁を借りれば「化粧が出来なくなったら私は死んだものと思って。」だったから、一昨年12月の初めに倒れてからの寝たきりの生活は、本人の本意ではなかったのだろうと思う。けれど、倒れてあのまま逝ってしまっていたら、遺された者の喪失感はいかばかりだったか、とも思う。1年10カ月の間、周りの者たちに少しずつ心の準備をさせてくれながら、人の最期というものを体を張って見せて逝った義母。92歳という天寿を全うした義母の生涯は、やはり天晴なものだったのだと思う。

 今は、ただ皆が元気な状態で義母を見送ることが出来たことに感謝したい。もし、昨年の同じ日に訃報に接していたら、入院中だった私は喪主の妻というお役目を果たすことが出来ず、夫に対して申し訳ない気持ちで一生悔いることになっただろう。この後の体調がどうなるかもわからない。
 不肖の一人娘としては、実家の高齢の両親の行く末も気が気ではない。次は何としても逆縁だけは避けて、両親をしっかり見送りたいと願わざるを得ないが、今頃天国で再会しているであろう義父母が、私のささやかな希望を叶えてくれるよう見守ってくれることを望みたい。
コメント (3)
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