金魚世話係の日記(日常の小さな発見を金魚的な視野から探るナノ的な日記)

更新は毎週日曜日の一回ですが、20年目になりました!

車窓から

2012-08-25 08:21:46 | 何でもあり
朝の地下鉄の車内でカップラーメンを食べる20代くらい男、
同じく車内で制汗シートで腕や足を拭く10代後半の若い女、
JR東西線では大きなリックを担いだ、変わった臭いの汗男(かなり太め)に会い、彼は甲子園口で降りた(そう言えば、高校野球か)。

先日仕事で大阪へ出かけ、朝の電車の中で見かけた三人。
出張先の為、東京よりも余計に印象深く感じたかもしれない。
いずれも甲乙付けがたい迷惑な人だった。

共通点は臭いである。
電車の中では耐え難い時もある。
席を移動しようと思ったら、直ぐに電車を降りてくれたのでいずれも我慢できた。

汗は暑い日でかかないほうが意外だが、その臭いは隣り合うと辛い。
また自分も汗の臭いで迷惑をかけているのかと、気になる。
もちろん消臭衣類や消臭スプレーを利用して迷惑をかけない気配りはしている。

そして東京へ帰る時の新幹線で、さらなる試練が待ち構えていた。
汗を拭きながら座ってきた隣のビジネスマンも汗が臭う男。
新大阪から東京までの間は長く、気分が悪くても満員で席を移ることも叶わず我慢するしかない。

車内で食べよう買ったパンには手を出せず、少し水を飲むのがやっとできたほど辛い。
あとは車窓からの夜の景色を眺めて、気を紛らわす(窓側の席だった)。
東京で降りたあとは気分が回復したが、出張の重い荷物と貯まった疲れもあり、バスも使い帰宅した。
家に着くと、こどもが「何かお土産は無いの」という。
だが、腹が減ってそれどころではない。(笑)
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月と一緒

2012-08-19 08:08:22 | 何でもあり
そう言えば、月とスッポンという言葉も聞かなくなった。
比較の対象に成らないくらい、両者の価値はかけ離れている事の喩えである。
この比喩では、もちろん月が圧倒的に良いわけだ。

日常において月を観ることが少なくなってしまった。
だから月とスッポンは今はあまり使わない言葉となったのか。
つまり月の価値は下がっていないが、親近感が減ったのだと推察する。

街灯の少ない夜道を歩いている。
その時は月の光が足元を照らすことを感じる。
しかし街灯が多いと月の存在に気づかない。

夜の照明が多い街に暮らして居るとき、月の存在価値は余り感じないと思う。
しかし、昨年の東京電力・東北電力の計画停電でその存在価値を再認識したはずだった。
しかし1年以上経ち、月の存在価値はそれ以前に戻ってしまっていないだろか。

秋は月のきれいな季節である。
夜道を月と一緒に歩く。
そして月の光を感じよう。
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何か無気力

2012-08-11 06:29:39 | 何でもあり
感覚が麻痺したかのように思う。
何か達観した老人の気分もする。
そして思う。

応援する気力がないな、と。
高校野球を、オリンピックを。
勝っても負けても、まぁそんなもんだね。

頑張ったことは感動する。
でも勝ち負けはどっちでもいいよね。
でも、負けた要因をあれこれ考える。

冷静な性格が嫌になる。
まるで小説の人物を観ているようなもう一人の自分がいう。
これもまた嫌気がさす。

サッカーは韓国に負けた。
それは相手がニッポンだから必死でしょう。
それに大統領は竹島に行ったらしい。

でもニッポンだから負けても許されるのかも。
その寛容さで「次があるさ」、と言える。
韓国にないニッポンの(しなやかだが腰のある)強さだと思う。

ニッポンはいくつかの大震災においても、苦難を乗り越えることができる、またはできた。
その強い、鋼のような、心はみんなにある。
だから、見た目は無気力で傍観者と見えても、しっかりと自分を分析している。

今のニッポンの若者も鋼の心を持っているので、大丈夫である。
あとはどうやったら興味を持ってもらうか、その方法を考えよう。
ゲームやネットでは味わえない面白いことが、世の中には沢山あることを伝えよう。
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偶然

2012-08-05 08:39:33 | 何でもあり
世の中には偶然、蓋然、必然などの言葉がある。
因果関係があるのか無いのか。
それが区別の基準となる。

判断した基準は論理的の場合もあれば、直感的な場合もある。
道を歩いていて見つけた店の看板から、その文字の形から別の事を連想する。
それは(偶然思い出した)、と誰かに話す。

私が、突然思い出すことは本当は偶然か必然か?
仏教的には必然になるのかな。
突き詰めれば、因果関係は絶対に無いとは言えない。

でも人間の脳には解らない事があり、何を論理的とか定義して言えないと思う。
何を偶然思い出すのか。
その時の気分も影響しているようだ。

その閃きは特にリラックスした時に多いと云う。
例えば、入浴時とかトイレとか個室居る時に起き易いと聞く。

この暑さの中で閃きがあったとしたら、それこそ偶然ではないだろうか。
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