か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

松橋事件(まつばせ・じけん) 3

2018年12月21日 | 裁判

松橋事件(まつばせ・じけん)について書くのは三回目だ。

松橋事件の概要

1985年1月8日、熊本県松橋町(現・宇城市)の団地で男性(当時59)の遺体が見つかった。3日前の夜に男性と口論していたとされた知人の宮田浩喜さんが殺害を認め、殺人容疑で逮捕された。熊本地裁の公判中に否認に転じたが、地裁は懲役13年を言い渡し、90年に判決が確定。服役後の2012年、成年後見人の弁護士が再審請求した。 1985年1月8日、熊本県松橋町(現・宇城市)の団地で男性(当時59)の遺体が見つかった。3日前の夜に男性と口論していたとされた知人の宮田浩喜さんが殺害を認め、殺人容疑で逮捕された。熊本地裁の公判中に否認に転じたが、地裁は懲役13年を言い渡し、90年に判決が確定。服役後の2012年、成年後見人の弁護士が再審請求した。

出典 コトバンク (2018-10-13 朝日新聞 朝刊 1社会)

 

来年2月の公判で熊本地方検察庁が殺人罪の求刑をしないことを決めた。

出典 朝日新聞 12月21日 (からけんの自宅に配達されたもの)

 

「やってないなら自白しないといいのに。」と思うのは常識的な普通の人の実感だろう。そういう素朴な直観は時に恐ろしい冤罪を支持してしまう。

自白だけで人を有罪にできるなら何とかして吐かせようという心理が働き、警察検察での取り調べは当然に拷問となる。

「やってないなら自白しないといいのに。」という考えは能天気で甘い考えだ。警察検察は世界最高の検挙率を誇る頭脳集団だ。パワハラに対し、会社辞めればとか、いじめに対し逃げればというのと同じだ。そのひとの身になって言えよ。できはしないって。

それを戦前いやというほど経験した我が国は、憲法において自白の信用性を低め物証のない事件では有罪の判断ができないとしている。(自白万能主義、自白は証拠の王様という戦前の悪弊との決別)

拷問に限らず、「残った子供の面倒は俺が見てやるから」とか、「親がどうなっても知らんぞ」と脅し透かして証言を取ろうとする。違法な捜査だが、密室の不法行為をだれが証明できようか。

通常の先進国では手錠をかけたその瞬間から切れ目なく録画することが決まっている。(可視化、見える化)それを怠ると容疑者は嫌疑不十分で釈放される。
 
 
日本は民主主義を早産したといえる。いわば、棚ぼただったのだ。人々に民主主義を維持しようという思考はない。
 
拷問で廃人になったり殺されたり、うその自白で冤罪を生んだりした暗黒の時代が長かった国では、人々が肌で民主主義のありがたさを感じている。政府に対する発言力を持つ。ところが、日本人はその能力も気力もない。

うその自白は消し難い不要な住民間の対立を生んだりした。

それらのことを総合すると、日本の刑事被告人の人権は中世だというのが世界の常識だ。

 

再審(やり直し裁判)の開始は来年の2月だ。あの最高裁ですらやり直しを命じたのになぜこうも時間がかかるのか。

司法はやり直し裁判などしたくない。それには飯塚事件のように死刑にしてしまうか、死ぬのを待てばよい。自らの信頼が揺らぐことを進んでやりたいはずはない。

日本の司法が権威にこだわり、検察がメンツにこだわる以上、無学な民はその犠牲になる。これは立派な中世暗黒裁判だ。。

 

僕は留置場に行ったことがある。研修ではなく本当に密告されて現行犯逮捕された。不起訴になったので何とかもみ消してもらった。宇城市の留置場、今度の熊本地震で壊れた、ざまみろ。

実体験からいう。人は取り調べが長くなると、大体3日目ぐらいから本当に自分がやった気がしてくる。不思議なことに、俺みたいな人間のためにこんな大勢の人に迷惑をかけているという気がしてくる。それが申し訳なく感じてくる。

裁判所は警察が十分調べたのだからよもや間違いはあるまいと思ってしまう。友人の判事が言うには裁判とは先入観との戦いだ、と。

 

つまり、一度捕まればおしまいの世界がすぐそこにある。裁判員なんて感情で裁くに決まっている。検察はメンツにしか関心がない。国選弁護人は報酬が低く駆け出しがする仕事だ、つまり下手だ。

 

国民はみんな自分が加害者にはなるはずがないと思っている。そうだろう。しかし、間違えて犯人にされる可能性は、そんな善人にもある。

 

 

 

 

 


罪刑法定主義 自由心証主義 勘違いするなよ!

2018年12月14日 | 裁判

裁判所の地図記号は立て札=みんなへのお知らせ

東名あおり運転事件に判決が出た。

事件の概要

事件が起こったのは2017年の6月。パーキングエリアで駐車位置を注意されたことに腹を立てた被告は、神奈川の東名高速で危険なあおり運転を行ない、一家が乗った自動車をあおり運転で妨害して停車させ、直後にトラックが追突して、男性(当時45)その妻(当時39)を死亡させ、娘2人にけがをさせた。

懲役囚となった石橋和歩被告(以下石橋)は無罪を主張した。危険運転致死傷罪は成立しないという。相手が死んだときは運転してないということを根拠にした。

それなら謝る必要はない。悪いことはしてないんだろ?

巷のインチキ学者どもが騒いでいる。よく全体を見通して、どこで括って一つの犯罪とするか、ということは非常に重要なことだ。罪刑法定主義をはき違えている。罪刑法定主義の定義は次の通り。

いけないことをした時には、それ以前にいけないこととはどんなことか法律に書いておく。すなはち、法律に犯罪であると書いてない以上、何をしてもよいという考え方だ。

この考え方を我田引水し、危険運転致死罪の想定外のことが起こったから被告人は無罪であると弁護側は言う。

だから問題のポイントは、こうだ。犯罪の成立に必要な条件(構成要件)を欠くと主張する。「運転をしていないときに死亡した」から犯罪(危険運転)は構成されない、つまり無罪だと主張しているところにある。

思考力がない人はコロッと騙される。こんな法理が通用するならあらゆる犯罪は成立不可能になる。なぜかというと、以下の通り。

停止していたから危険ではなかったというなら、(判決はこの点に関しては肯定的で弁護側に同調した)「私は子供を殺してない。食事を与えなかっただけだ。」という理屈が通るに等しい。不作為であっても成立する犯罪はたくさんある。

ましてや今回の事件は被告人石橋が認める通り、カッとなっていた、のだ。どうなってもいいと思って停止させたわけだから、十分に殺意を含んだ未必の故意が成立する。

バカの屁理屈のために刑法があるのではない。刑法は体制を守るという至上命題を負っている。

判決は、石橋が被害者の車を追いかけた時点から死亡までを一連の事件ととらえている。この観点に立てば至極当然に犯罪は構成される。至極順当。

最高裁、たぶんここまで行くな

罪刑法定主義の考え方は古く、日本が鎌倉時代のころだ。西欧では王の恣意的な課税や徴兵に対し、合理的な根拠なしには行えないことを認めさせた。(1215年 マグナカルタ)これは罪刑法定主義の萌芽である。

この考え方が敷衍され、権力の恣意的な「人民の自由権」のはく奪を不可能にしている。ところが学習が足りないか能力のない人は、罪刑法定主義がまどろっこしいもので、悪人石橋を守るものだという主張をしている。

とんでもない。僕はむしろ、なぜ殺人罪が成立しないのかと思う。刑法は社会のごみをきちんと掃除してこそ存在意義がある。それができないなら僕なら石橋を殺すか人殺しを雇う。そこにあるのは強者生存の不条理の国だ。「人は人にとって狼である」というHobbesの世界観が具現する。

殺人罪の方が裁判官は選択肢が広く、自由に法の範囲内で判決が書けたはずだ。(自由心証主義)さらには余罪について、公判前整理手続きで弁護側は争ってない。それにしては判決、懲役18年の中に反映されていない。

合わせ技一本で4個の別個のあおり事件を一つの事件として裁いたので、余罪の刑期が量刑に反映してない。その他の3個の事件も公判を開き量刑を積み上げるべきであった。余罪の刑期が量刑に反映してない。検察は危険運転ばかりを見ていた。

量刑不当の声は消えない。両者控訴する。求刑から7年も減じた根拠を判決文はつまびらかにしてない。高裁は逃げないはずだ。逃げて、原判決支持、はないだろうね、まさかないよね。。

将来、恩赦が多いと予測される。即位の大恩赦、オリンピック恩赦、万博恩赦・・・確実にはわからないがとにかく15年では実質10年以内にまた高速であおっている可能性が大きい。

今度はこれを読んでるあなたがあおられて殺される。気違いを娑婆に出す世にもまれな国だ。10年なんてすぐだ

 


松橋事件(まつばせ・じけん) 2

2018年10月12日 | 裁判

松橋事件(まつばせ・じけん)について書くのは二回目だ。

 

裁判のやり直しを求めること自体おそれ多くもお国の司法機関が判断したことにたてつくことだ、けしからん、反体制的だ、左翼的だ、国家の転覆に加勢することだ。ふとどきものめ,と考える人が多い。なぜだろう。

社会科学的考え方には必ず時間軸がいる。アホにはそれがない。時間軸とは過去の事実の寄せ集めではない。ポイントとなる事象の論理的展開が必要でありそれ以外は付随的なことだ。

欧米では必ず人権の歴史から説き起こされて議論が始まる。再審事件がすべて冤罪であるとは限らない。種々雑多な事件が起きている中で、ありえないほどの、また恐ろしいほどの偶然というものがあるのだ。だからまっとうな判断と思えることの中にも誤判がおこる。

しかし、

そんな一般論で片付くほど事態は能天気ではない。

 

日本では、良心の呵責に耐えかねて死刑囚が別の殺人事件を告白すると、慌ててさも自然な予定だったかのように装いつつ首を絞めて殺し口封じをする。

日本人特有の形式論やお上絶対論がはびこっていて、その中でいい気になるのは、民主主義の何たるかをその発展とともに時間の流れの中で権利獲得過程として理解してないからだ。

 

検察は被告人の貧困に目を付けた。国選弁護人は、弁護費用を国からもらうが例えば500万の投げ渡しでその中から弁護活動をする。すると熱心に調査、資料収集、接見、訴訟組み立てを行うと自分の収入が減る。松橋事件の国選弁護士はわずか2回の接見しかしていない。無罪の線で行く(公判を進める)と公判回数が増えるので情状による減刑で公判をやり過ごした。そして失敗し何の減刑も勝ちとってない。

そうなることを見越した検察は賢い。物的証拠をありえないことに焼却、廃棄、紛失、隠ぺいした。そうすると自白のみが唯一の証拠だ。その場合被告人を有罪にできないことは憲法に書いてある。まだ憲法改正はあってないからこれは有効なはずだが、自白一本で有罪になった。

最高裁裁判官は内閣が任命する。つまり司法試験は関係ない。外交官や日銀総裁がなったりする。長官は安倍より給料が高い。…こういう特権的地位につけたのは安倍のおかげだから、逆らうはずはなく、駆け出しの国選青二才弁護士が国の子分になることを誘導している。国の言いなり小僧には甘い水を、逆らえば煮え湯を飲ませようという体制が着実に出来上がってきた。

そのような国に生きている貧乏で無学の民に救いが来る日はない。

今回よくぞ最高裁は判断した。

個人としては貧乏や無学を理由にぐうたらに生きるのは人間の恥さらしだと思う。ここではひとまず別の話だ。

検察は人の無知を良いことに物的証拠を隠し、弁護士は収入が減ることを嫌いまともな弁護活動をしていない。 ただスムーズに結審になることを期待した。

 

そして33年後、

おそらくこれだけの新たな状況証拠がそろえば疑わしきは罰せずの原則は貫かれるであろう。

恐ろしいことに、検察はこの期に及んで証拠をすべて出してはいない。検察に対し公判後ですら証拠の開示が義務付けられていない国が民主国家だろうか。可視化もまだだ。

検察は社会正義の実現が使命である。騙しやすい人をだまして犯人にしたてあげ、別の真犯人の証拠を握りつつもそれを隠して、いかに社会正義は実現するのか。


福岡地裁、計3件の傷害致死罪が成立すると判断

2016年08月10日 | 裁判

 

 福岡県筑後市のリサイクル店元従業員ら3人に対する殺人や傷害致死などの罪に問われた経

営者夫婦のうち、夫の中尾伸也被告(49)の裁判員裁判で、福岡地裁は8日、懲役28年(求刑・

無期懲役)の判決を言い渡した。平塚浩司裁判長は、妻知佐被告(47)=1審懲役30年、控訴中

=の判決と同様に元従業員男性(当時22歳)への殺人罪は認めず、計3件の傷害致死罪が成立

すると判断。「幼児を含む3人が死に追いやられた過程は陰惨で結果は重大」と述べた。

 

 平塚裁判長は、元従業員男性への殺人罪の成立について「死に至る経緯が不明で殺意の認定

は困難」と否定した。 

                            <毎日新聞 8月8日(月)19時16分配信 >

 

 

福岡地裁は高裁と同じ建物の中にある。バカのくせに威張りくさった帝国陸軍の師団司令部、防空指揮所があった場所だ。敵機は100機編隊で来るのに一機も落とせなかった師団司令部だ。

原爆を非人道兵器というが、それは間違いだ。反論に、わざわざ苦痛を長引かせて殺し戦後も後遺症に苦しめたというのがあるだろう。

そう言うのなら、放射器は人道的か。規模が違うとか言うな。東京大空襲の死者数は原爆を凌ぐ。ポイントを見失うのがバカの常だ。

非戦闘員への攻撃。これに尽きる。人道に対する罪は米軍こそ負うべきであった。

 

筑後リサイクル事件も同様だ。言いも言いたり。殺意が無かったと。そんなら死体を粉砕機にかけ川に流し証拠隠滅を図っても、殺すつもりはなかったということになる。大人の力で殺した男の子供(赤ちゃん)を焼き、埋め、地中で生きていると思ったわけだな。

厳罰化の傾向といわれるが、それはウソだ。死刑回避の傾向こそある。

(オリンピックだ、平成の終わりだ、・・・恩赦の機会は多い。検察側証人は後15年、生きるかな。出てくるぞ)

 

この場合死刑を回避する道は2つある。情状酌量がひとつ。被害者は重病を患っていた(ウソ)ので楽にしてやろうと殴ったら死んだ。というこの屁理屈はさすがの裁判長も採らなかった。

もうひとつは殺意自体を否定すること。すると自動的に殺人罪は構成されない。赤ん坊に対する正当防衛でも主張しろ。

つまり死刑回避事由は無い。じわじわ殴って殺すほうが、一度に殺すより罪が軽いそうだ。

相手は女だとか、二人でやればとか、反撃の機会があったかのように裁判所がいうのもおかしい。従業員は殺されてもそんな考えは浮かばない。弱者はどんなに数が多くても強者の言いなりだ。

よいこ育ちの人間は、その日の飯を賭け殺し合う阿修羅の群れを知らない。わが子を殺して妾に走る悪を知らない。筑後ではよくある。裁判官には思いもよらないことだ。

強いAがいて、部下のBとCに命じて目の前で互いにケンカさせる。B,Cは互いに友人だ。近所の学校で起こった。このリサイクル店でも起こった。調査したが誰一人真相を語らない。リンチは死刑より怖いから。

専制君主がいるということは、たやすく人がロボットになることだ。

 

 

 


松橋事件(まつばせ・じけん)

2016年07月02日 | 裁判

1985年1月8日、松橋町(現・宇城市松橋町)の団地で男性(当時59)が遺体でみつかった。県警は同月5日夜に男性と口論していたとされた知人の宮田浩喜さん(83)が殺害を認めたことから、殺人容疑で逮捕。熊本地裁は懲役13年の実刑判決を言い渡し、90年に確定した。宮田さんは刑期を終えた後の2012年3月、熊本地裁に再審請求を申し立てた。

(2016-06-29 朝日新聞 朝刊 熊本全県・1地方)

 

福岡高裁にきわめて親しい友人がいた。高裁判事ともなると仕事量は地裁の1/5になる。その分内容が濃い事件が来る。

彼が言うには、ちょっとおかしいなと思う事件も地裁であれほど審議を尽くし警察検察であれほど調べたのだからよもや間違いなどあるまいぞ、と思いがちになるそうだ。

つまり、1審が2審の先入観になり、2審は最高裁の・・・ そうなると3審制は意味がなくなる。貧乏国ほど1回か2回の裁判で結審する。カネがなく犯罪率が高い国では、見せしめ裁判として秩序維持を図る。

しかし人間の行動身体の自由を奪うこと(収監)を軽々に憲法の例外には出来ない。わが国は3回裁判をし、なおかつ拷問を防止する観点から自白の証拠価値を低くしている。

この事件の論点は多いが、自白証拠だけで、他にまったく証拠も無いのに、検察側は事件を捏造したことが犯罪の構成要件を崩すポイントだ。

現在なら、それと熊本ではなかったら、証拠不十分で無罪になっていた。熊本県民は選挙の意味も分からずAKBの総選挙のつもりでいるし、明治維新があったことに気がついている人は少ない。

免田事件がそうである(冤罪)ように、お上に逆らうことは犯罪であるからお上の判断に盾つく奴は死刑だと思う人が多数だ。

 

ところが、世の中は、低能ばかりが迷惑な存在ではない。変人がいるのだ。今頃になって、さも宮田さん(元服役囚)の人権が心配だ、余命がいくらあるのか、一刻も早い再審を、とよいこぶって運動するのが出てきた。一回は罪を認めたとき弁護士はサボっていた。だから話がこじれた側面がある。

無実の囚人の釈放運動は人権の実質化に欠かせないことだ。が、今回場合が違う。本人は出所している。じつにお気の毒だが、意識は無い。意思表示が出来なくなった責任は安易な裁判をし誤判をした熊本地裁にある。

だからといってそれを責めても、宮田さんの現状がどう変わるか。14年もムショ暮らしをしたんだ、静かにしてくれと、僕なら思う。

植物状態を集会に引きずり出し、戦うぞーというシュプレヒコールの中に寝かせるのは。むごい姿だった。

人権運動とはとってつけたように、あるいは思い出したように、あるいは感情的になってするもんじゃあない。

 

 

 

 

 


強制わいせつ致死罪が5年か

2015年03月23日 | 裁判

 

あなたの娘が強姦され殺され死体が川に浮かぶ。元気に家をでたかと思うと数時間後には川面に犬の死体のように浮いている。

池上彰は、凶悪犯は減っているし少年犯罪の凶悪化の証拠はないといった。ホームラン級の馬鹿とはこのことだ。

減っているということと、あっていいということは異なる。「ある」ということと「あっていい」ことを区別できないのはジャーナリストではない。こう言うと、僕の意見に怯えて返す言葉を持たなかった。

池上のような「解釈」はもうたくさんだ。強姦被害者が一人だろうが1万人だろうが関係ない。ポイントは、14歳で人生を消され川に浮いていることだ。

検事は通常こう言う耳目を集めない事件は、若手が担当する。練習の場だ。5年も経てば検事をやめ、依頼の多い検事経験の弁護士先生として稼ぎまくる。裁判官は世間を知らない。セキュリティ上夜中にドライブすることはない。

つまり、彼ら裁判官は暴走族を知らないのだ。単純な知的障害スレスレのマヌケたちがいかに凶悪であるか知らないので、担当する事件のみが突発的に起こったと判決を書く日まで信じている。

今回の判決で特徴的なのは「共感性の欠如」がキーワードとして論理が展開されていることだ。

共感性がないので被害者の悔しさ、無念さ、自己の残虐性に気がつかなかったそうだ。あふぉ。ホームラン級のあふぉ。ムショに5年いれば共感性が身についてよい子になると判断したのは誰だ。裁判所。お前だろ。

被害者の人権はどうなるんだ。死んだら人権も消えるのか。

確かに裁判所は今日の社会構造を守るところであり、被害者を救ったり加害者を懲らしめたりするところではない。だが、それではあまりにも「やったもん勝ち」の世の中を作る。いや、もうすでにそうなってしまっている。

政治家なら選挙がある。裁判官は可視化すら拒絶し身分保障の中からでてこない。だからこんな的外れな判決を出すのだ。

引用はじめ

三重県朝日町の空き地で2013年、中学3年の女子生徒=当時(15)=の遺体が見つかった事件で、強制わいせつ致死罪などに問われた少年(19)の裁判員裁判の判決が24日、津地裁であった。増田啓祐裁判長は「犯行は悪質で強い非難を免れない」と述べ、懲役5年以上9年以下の不定期刑(求刑懲役5~10年)を言い渡した。                                                    

時事通信 3月24日(火)

引用ここまで

「犯行は悪質で強い非難を免れない」ならなんで強姦人殺しを5年にした。

 もう僕は部屋から出たくない。

 

 

 

 

 

 

 

 


最高裁は、死ぬのをまっている。 大崎事件

2015年03月06日 | 裁判

1979年10月、大崎町井俣で農業中村邦夫さん=当時(42)=が自宅牛小屋のたい肥の中から遺体で見つかった。邦夫さんの義姉原口(当時は中村)アヤ子さんと兄2人(1人はアヤ子さんの夫)が殺人と死体遺棄容疑で、おいの中村善則さんが死体遺棄容疑で逮捕、起訴された。善則さんら3人は懲役刑が確定。原口さんは一貫して無罪を主張したが最高裁で懲役10年が確定し、服役後の95年4月に再審請求。鹿児島地裁は02年3月、原口さんの再審請求を認めた。                                  南日本新聞 2015年2月4日

(引用終了)


ところが、鹿児島地裁は、一旦認めた再審の開始を宮崎高裁によって取り消され、2月2日、最高裁も再審請求を棄却した。殺害されたとされる中村邦夫さんにくわえアヤ子さんの兄2人、計3人とも知的障害がある。兄2人に甥を加えた3人とアヤ子さんの共犯であるとされた。

懲役刑を受けた甥は自殺した。犯行を否定しつつ死んだ。

絞殺の判断をした鑑定人自身が、自分の鑑定をのちに否定した。物証となるべきタオルがない。つまり知的障害者を中心とする証言や自白のみで推定有罪の判決を出した。

アヤ子さん10年、兄たちに8年7年、甥に1年の懲役。

判決に対する反論はいくつでもあるが、前回のブログとも関連する自白の任意性に絞る。歴史的に、自白のみによって検事が描いた犯罪は虚偽であることが多い。任意性があっても自白の証拠能力は低いのである。

僕はある犯罪に関連し主犯として取調べを受けたことがある。その当時僕は、何故か起訴猶予(無罪)になった。

だがその直前まで続いた取調べと調書の作成は熾烈を極めた。「やっとらんなら自白せんとよかろうもん(やってないなら自白しないといいじゃないか)。」 世の中そんなに甘くない。人間は密室で追求され続けると自分が犯人かどうか分からなくなってくる。

自分を責める警察官に何故か媚を売ろうとする心理すら生じる。ラーメンをおごってもらうと、もうなんでも言いますという気になる。

違うという人は取調べを受けたことがない。警察は、バイク泥棒は野放しだが暴力沙汰には甘くない。

キャリアのくせに、俺はどんな自白でも引き出して見せると豪語する奴がいた。現場のノンキャリア組の中では常識だ。

だから自白に頼ってははならないという教訓を学んできた。そのはずだった。

警察は被疑者がバカだから簡単に落とせると思ったな。否。原口アヤ子さんは、抜きんでた芯の強さを持つ鹿児島の最高の女だ。

徳島ラジオ商事件、名張毒ぶどう酒事件、足利事件、飯塚事件、袴田事件。体面や組織のしがらみのせいで人が死んでいく。

 

 

 

 

 


時は戻らない

2015年03月04日 | 裁判
 
強姦(ごうかん)罪などで服役中に大阪地検が無罪の可能性が高いとして釈放した男性の再審請求審で、大阪地裁(登石郁朗裁判長)は27日、再審開始を認める決定をした。被害を受けたとした少女らの虚偽証言に加え、被害がないことを示す診療記録が判明した。

検察側は昨年11月、「再審開始を決定するべきだ」との意見書を提出しており、再審で無罪が言い渡される見通し。

決定は、「被害は虚偽だった」とする少女と目撃者の新証言について「大部分は整合し、信用できる」と判断。2人は昨年夏、弁護人を訪ねて新証言をしており、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠が新たに発見された」とした。

                                                                        2015 年 2 月 27 日 19:54 JST  Wall Street Journal

(引用以上)


男性はすでに3年半の服役をしている。地裁の判決どおりに確定し懲役12年の刑に服しているところだった。強姦の痕跡はないとする医療機関の診断書も、最初検察は存在しないと主張した。

ということは、検察自体、証言のみに基づいて架空の犯罪をでっち上げたのだ。国家権力がその当事者となるとき、すなはちひとたび権力が異端を排除しようと決心すると、いくらでも冤罪が可能な世界を作る。

戦後憲法はこの愚を繰り返さないために、自白の証拠能力を徹底的に低くした。証言についても同様である。

組織というものは一度走り出すと後戻りができない。日本的風土のせいにするのは低脳である。どこの人間でも性向として仲間はずれを恐れ、事なかれを好み、 invisible man(目立たぬ傍観者) であろうとする。

組織は本質として制動がきかないものだ。

検察が証拠を紛失するはずはない。しかも狙ったように被告人に不利な証拠のみが消える。ありえない。この点では検察も14歳のうそつき少女と同じだ。

男性はよく戦った。この不条理の監獄の中で一番つらいことは、時が返らないことだ。勾留と服役をあわせ、男性はすでに6年拘束されている。さらに6年の服役が待っているはずだった。

弁護側の地道な調査により診断書が発見され、ウソ被害少女や仲間のウソがばれた。

これは、すみませんではすまない。少なくとも男性と同じ期間は刑務所に行ってほしい。そうしないとJC(女子中学生)はいつでも誰でも刑務所に送る権利を持つ。

いま普通に思えば、どうしてこんな矛盾した証言が採用されたのか、ありえない話だ。被告人をのぞく全法廷が狂った正義感に酔っていた。

最高裁ですら一旦は上告を棄却している。だからこそ自白証言中心主義は厳に戒めなければならない。

事なかれ、成果至上主義の検察。面白半分のJC。このままいい気にさせてはならぬ。

時を返せ。

 

 

 


呉(くれ)女子生徒殺害事件

2014年12月10日 | 裁判

広島県呉市で昨年6月、高等専修学校2年の女子生徒(当時16)が殺害された事件。

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裁判員裁判の判決で、広島地裁は2日、強盗殺人と死体遺棄、監禁の罪に問われた住所不定、無職少年(18)に求刑通り懲役10年を言い渡した。(読売新聞)

強盗殺人、死体遺棄、監禁の罪に問われた無職少女(18)=広島市東区=の裁判員裁判の判決が24日、広島地裁であった。伊藤寿裁判長は「短絡的で身勝手な犯行だ」と述べ、懲役13年(求刑懲役15年)の実刑を言い渡した。(朝日新聞)

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犯行が主導的であったとして、少女に14年、少年に10年の判決だ。僕は二つの論点を示そうと思う。


① 殺された側は何の主張も出来ない。マスコミはこぞって殺された側の写真を載せ、興味本位の人生を送る低俗人間に娯楽を提供する。

なんて非道なやつらだ。家計を助けこんなに頑張ってるまじめな少女を。こんなに残忍な殺し方をして。・・・ と世間に話題を提供し儲ける。

そのために、殺されてなを顔を全国にさらされる苦痛を遺族に与える。一方、犯人の素性はベールに包まれ再犯を援助する。

いやまだ将来があるから、というよく考えず多数に寄り添うアホの声がするが、人の将来を奪っておいて人権とか言うと殺したくなる。

判決にも不満だ。生い立ちが不幸なら人殺しをしても刑が軽くなるというが、そんなら不幸な人は人を殺してもいいのか。

② 量刑について。 殺人罪は、死刑、無期、5年以上と裁判官の選択の余地が広い。

そこで、自首したとか、被害者からの加害行為があったとか、人違いだったとか、過剰防衛が成立しそうだとか・・・軽減方向の要件と同時に、人数、殺し方の残虐性、死ぬまでの時間、証拠隠滅を図ったか、反省の度合い、遺族の処罰感情・・・等の要件も考慮される。

とくに今回は裁判員裁判なので、過去の判例との比較考量で判決が出された可能性が高い。裁判員に専門知識がないのは当たり前で、その知識はにわか勉強で得る。今までの判例と違う判決は決して出ない。

これらを前提として、殺人犯少年の懲役10年を考える。逮捕されてからの10年だ。刑務所ではタダで高校にいける。いじめっ子もいない。今まで学費に苦労していたのにタダで飯もつき服もつき出前もとれテレビもゲームも出来る。

一念発起すれば大学通信教育も可能だ。出所時には、幻の戸籍を作ってもらい大卒として生きる。うその生い立ちを覚えこみ、さあ今度は良い子になって世間をだまそう。

何が10年が反省の時間か。僕が犯人なら出所して遺族を殺す。なぜ減刑嘆願をしなかったか。おかげで2年長く食らったぞ。犯人がどこにいるかは法務省が隠すが、遺族は逃げようがない。

しかも刑のカウントは通常逮捕時からだ。すると10-2=8年。仮釈放が2年あると8-2=6年。最近は、大きな行事をひかえ恩赦も出るだろう。

人殺しが6年で出てくる社会が日本だ。殺人犯は昨日のことのように殺した状況を覚えている。

人を食った熊を撃ち殺すのはなぜだ。まさか人が熊に復讐するはずない。熊が、いかに人が簡単に死ぬか知ったからだ。まさに味を知ったからだ。殺人犯も人殺しのたやすさや愉快さを学習した。


犯人たちは控訴した。これは必要な権利だ。(異論があれば論じる) 結果として刑はたぶん1~2年短くなる。さあ、あと5年で人殺しが町をうろつきいけないドラッグをするか組のパシリか老人詐欺の出し子をする。

こんな危険な前科者にシャバの空気を吸わせてはならぬ。

いやいやまじめに反省して会社員になるんだ。ばか。

家を出るとき注意しろよ。門の横にそいつが隠れている。


写真 大名教会 久留米聖マリア病院内 分からなくなったときに答えをくれるところと僕は信じる

 

 

 


冤罪。しとらんなら(やってないなら)自白ば(を)するな。大崎事件。

2013年11月10日 | 裁判

 

 

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 しとらん(やってない)なら、なして(なぜ)自白ば(を)したとか。死刑がえずなって(怖くなって)証言ば変えるちゃあ(とは)こすかぞ(ずるいぞ)。

根底に流れる被害者及び一般国民の偽らざる心情だろう。だが僕は返す言葉を持つ。

いつ自白ばしたか。おまえドンが(おまえたちが)はけち(じはくしろと)ゆうた(いった)だけじゃ。

ところが、戦後拷問が禁止されてからは、警察は検挙率をあげるため巧妙化した取り調べを行っている。それがいけないとは言ってない。アホは落ち着いて読め。

声を荒げることも机をたたくことも被疑者の人権を考慮して禁じられる。被疑者尋問は、送検までの限られた日数の中で、さらに限られた時間しか尋問できない。被疑者の人権保護の立場からだ。

検事が受理するに足る調書を作成したい警察と、なんとかしらを切りたい被疑者の戦いになる。

が、人違いの可能性をどうやって排除したんだ。これに反論するため警察は戦前からの伝統「自白」に頼る。つまり、本人がやったと言ってるじゃないか、と。乱暴な奴らは、その検証もそこそこに、被疑者の人権ばかり優先されていては、せっかく捕まえた犯人を取り逃がすことになるじゃないかと心配する。ばか。

ぼくは多くの反論がある。たしかに、よい子ぶった人権派なるものは、殺したいほど嫌いだ。人権派こそ人殺しだ。いずれ述べる。まってろ偽善者。有名になった事件にのみ、のこのこ出てきてお涙ちょうだいをぶつ。悪質この上ない。一旦おく。

冤罪の被害者は、法律の知識も十分でないまま自白調書を取られてしまう。あらぬ嫌疑は、その人の人生を奪う。警察は言う。「オマエ、やってないならここで判をつけ。検察庁、裁判所、弁明のチャンスはいくらでもある。」白紙に拇印をおさせられる。5,6人がかりで押さえつけるからどうすることもできない。自白調書の出来上がりだ。

第三者のいない部屋で被疑者の胸ぐらをつかもうと壁に打ち付けようと何が残る。

さらに知的障害がなくとも、何時間も厳しく言われたり、優しくされたりを繰り返されると、もう何が何だか分からなくなる。「これを言うたら釈放ぞ。」と言われるともう何でもよくなる。そして釈放されるが、警察の玄関で再逮捕される。あるいは、「別件逮捕をすればオマエを無限に拘留(留置)出来るんだぞ。」と、伝家の宝刀を出す。

もうこの後は、何でもしゃべる人間になっている。

大崎事件では、完全否認を通した女性がいる。ぼくも取り調べを受けたことがある。3日で音を上げた。なんて強い人だろう。「認めれば仮釈放で娑婆に出られるぞ。」という悪魔の誘いを断る。10年否定して満期出所。

警察は豪語する。俺は3日あればどんな調書も作れる。

精神薄弱者たちからまずウソの自白を引き出し、ウソの共犯者にし、交換条件として軽い罪にした。障害者を重罪にすると世論が反発する。外堀を埋め、一番世論が反発しない人(健常者)を犯人に仕立て上げた。

ヤクザがガタガタ言う奴を黙らせるために、みせしめをリンチにかけるのと同一だ。これが本質である。被害者は、警察や裁判所に仕返しを期待する。冷静な判断は不可能になり、法廷は人違いでも何でもいいから復讐の場と化す。

人権派の目立ちたがり屋たちが、ち密な論理構成で冤罪を晴らそうとしても無駄だ。ぼくの友人(裁判官)達は、「めんどくさい」という理由から再審、冤罪事件を棄却している。

自分の同僚が熟慮し判決を下したのだから、よもやま違いはあるまい。そんなことしたら先輩判事に悪いし昇進にもひびく。いつまでも地裁にいたい判事はいない。高裁に行くと仕事は1/10になる。

目の前の警察だけにしか目がいかず、「だって泥棒を、人殺しを、逃がしちゃあいけないじゃないか。」というのは、ホームラン級のバカだ。

権力を構成するそれぞれの組織は、いくら冤罪が起ころうと痛くも痒くもない。現に、飯塚事件(僕のブログを参照してください)で無実の人を死刑にしてどの権力が困ったか。泣いたのは誤判で殺された久間さんの遺族だけだ。

この大崎事件も同様だ。泣いたのは人生の10年を奪われた原口元受刑者(上記写真)だけだ。だが、原口おばあちゃんはただの一度も自白してない。

満期出所。相当の凶悪犯が受ける仕打ちだ。

冤罪とは誤判ではない。功を焦る警察の暴走を止めるシステムがないことによる、合法殺人だ。

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1980年3月31日、鹿児島地裁は長男の嫁を主犯として被害者を西洋タオルで絞め殺して牛小屋堆肥置き場に死体を遺棄した殺人、死体遺棄罪で懲役10年、長兄に懲役8年、次兄に懲役7年、甥に懲役1年の判決。長男の嫁のみ即日控訴するも、同年10月14日、福岡高裁宮崎支部が棄却。さらに即日控訴するも、1981年1月30日、最高裁が棄却して、長男の嫁の懲役10年確定。
?1987年4月25日、次兄死亡。
?1990年7月17日、長男の嫁が刑期満了で出所。
?1993年10月2日、長兄死亡。
?1995年4月19日、長男の嫁が鹿児島地裁に再審請求。
?1997年9月19日には甥も同地裁に再審請求するも、2001年5月17日、自殺。
?2001年8月24日、甥の母親が彼の請求を引き継ぎ再審請求(2004年に甥の母親が死亡後は請求の引継ぎ者は現れず、甥の母親の死後以降の再審請求は嫁のみとなる)。

冤罪が疑われる事件で、知的障害・精神障害の傾向がある共犯者らの自白の信用性が問題とされ、再審請求の範疇に入る。

第1次再審請求を受けて鹿児島地方裁判所は2人に対し2002年3月26日再審開始を決定したが、即時抗告において福岡高等裁判所宮崎支部は再審開始決定を取り消し、特別抗告において最高裁判所は即時抗告審の取り消し決定を支持した。

唯一の再審請求者である嫁は、被害者の兄嫁(義理の姉)にあたる農業を営む隣家主婦で、捜査段階から公判ないし受刑中を含め一貫して現在まで、事件への関与を否定している。                    

Wiki

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2013.7.18 宮崎高裁は宮崎高検に対し本件に関する証拠リストの開示を求めた。天空に輝く星が現れた気がする。84歳。時間がない。国は意地を張らず情けを見せろ。                                

関連情報URL : http://minkara.carview.co.jp/userid/849485/blog/24813380/           

仲間はみんな優しいぞ。

2013年08月12日 | 裁判

福岡地方裁判所にはかつて西部軍司令部があり、福岡の防空に責任を持っていた。威張るだけ威張る低脳将校は国民を奴隷のように見て、幻の優越感に浸っていた。とくに終戦も近くなると将校も粗製乱造となり、さらにその中でも前線に行かない奴は使い物にならないバカが多かった。

威厳を示したい陸軍は司令部の前にある福岡城のお堀に土橋をかけた。戦車を通すためだ。50年も遅れたリベット丸出しの粗末な鉄の寄木細工は、機関銃の弾が貫通した。戦車兵は乗り込む時遺書を書かされた。外からカギをかけられる場合もあった。

現在の裁判所の裏には防空指揮所がある。一機も落とせなかった防空施設だ。鹿児島と長崎に電波を飛ばしておいて、それを横切るB29が出すうなりを感知して空襲を予知しようとした。ドップラー効果という奴だ。方向も、機数も、高度も分からないで何が防空だ。

用事で裁判所に行った。僕は主役ではないので黙っていたが、アロハシャツはやめてほしい。刑事事件の80%は覚せい剤がらみだ。今回は単純な交通事故だ。だが僕の同窓生が裁判官をするので見に行った。

無免許を3回した。2回目の罰金が払えない。よく聞いていると若者は少し知的障害がある。会社の人が給料を管理してくれている。見るに見かねて管理している。でないと永遠に払えなくなり実刑を食らって懲役で払うことになる。社長は、こう言う社会の邪魔はいないほうがいい。首だ。と、いったんは言ったが従業員が何とか社長を説得して事なきを得た。

解雇に怯える若者は事故に遭う。婆あがミラーと若者の手をこすって逃げる。しかし、若者は無免許だ。駆けつけた警察は婆じゃなくて若者を逮捕する。

ここからが問題だ。数日後、国選弁護人制度を利用するかという問い合わせが裁判所から行く。その若者が意味を理解するはずないじゃないか。それどころか検事と弁護士の区別も分かってない。裁判官と検事の区別も同様だ。

最後は法曹三者が、身を乗り出すようにして若者を説得した。若者は消え入るような声で「はい」と言い続けた。しかし彼は何も理解してない。法廷に立って突然頭がよくなるはずはない。

意味も分からず国選を拒否した彼には莫大な訴訟費用が課せられる。

せめてもの救いは、裁判官が懲役5年を言い渡した後、執行猶予3年をつけたことだ。僕は5年がつくと思っていた。最後に訴訟費用は本人に負担させないと言った。

いろんな人が被告人側証人に立ち「みんなでカバーしますから何とか温情を」と搾り取るような声で証言していたのが印象的だった。

Posted at 2013/07/30
 
 
 
 
 
 

死刑だ。これで警察の落ち度ももみ消せる。

2013年06月19日 | 裁判

昨日、長崎地裁はいわゆる「長崎ストーカー殺人事件」について裁判員裁判を開き容疑者を死刑にする判決を下した。

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おととし、長崎県で、ストーカー被害を受けていた女性の母親と祖母が殺害された事件で、殺人などの罪に問われた28歳の男に対し、長崎地方裁判所は「何の落ち度もない2人の命を理不尽に奪った結果は重く、極刑を科すしかない」として、求刑どおり死刑を言い渡しました。
                                        NHK 6月14日 17時55分

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一見当たり前の判決のようだが僕はここにトリックが潜み巧妙な世論の誘導が企図されていると思う。まず量刑について。二人を殺害しているのだから死刑の判決が出るのは十分予想できる。

ところが、広島お好み焼き店夫婦殺害事件では24歳の容疑者は夫婦を殺害した。そのお好み焼き店には従業員として以前勤務していたにもかかわらず、64歳、61歳の夫婦を殺した。恩のある人を包丁でめった突きにしたわけだ。

裁判員と裁判官は更生の余地ありとした。この男が更生の余地があるなら、他の事件で相当の殺人をしても死刑にはならないはずだ。判決は無期懲役だった。

だが、長崎の殺人の場合には警察の失態が連続して起こり、本来なら殺されるはずのない人が長崎県警の怠慢により死んだ。以下経過を示す。

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【11月】

1日 長崎県警西海署に「傷害の被害届を出したい」と相談。同署は「事件が起こった場所の警察署へ」という屁理屈で不受理

4日 千葉県警習志野署に「被害届を出したい」と電話

5日 西海署に「無言電話が続く」と相談、対応なし

8日 親族が習志野署に「三女の部屋に侵入の跡がある」と通報。同署は対応せず

13日 この頃から筒井容疑者が三女の知人らに「三女の連絡先を教えなければ周りの人間を殺して取り戻す」などの脅迫メール

21日 西海署、習志野署に脅迫メールについて相談。両署とも「被害者の居住地の警察署に相談を」つまりやる気なし

同  三重県警桑名署に脅迫メールを伝え「筒井の実家巡回を」と要求。同署は「西海、習志野署に確認する」。以後連絡なし としてたらいまわしにする 

【12月】

1日 三女が習志野署に「被害届を出したい」と電話。生活安全課は「いつでもいい」と回答

6日 三女と誠さんが習志野署へ。「刑事課が一人も空いていないので1週間待ってくれ」。後に「12、13日に事情聴取する」

8日 筒井容疑者が桑名市の実家を飛び出す  習志野署は慰安旅行へ

9日 未明から三女宅のチャイムを鳴らしたりベランダでたたく音。習志野署に通報。警察官は「顔を確認したのか」「逮捕はできない」と言って帰る。その後、同署は筒井容疑者が三女宅前にいるところを職務質問。両親に連れ帰るよう指示。

12日 習志野署が三女と誠さんから事情聴取(~14日)

13日 筒井容疑者が三女宅近くをうろつく。誠さんが習志野署に通報するも「まだ書類がそろっていないので逮捕できない」

14日 筒井容疑者は実家に帰るが、父親を殴り、母親の携帯電話を奪って家出。誠さんは習志野署員からその事情を聞く

16日 久江さんと美都子さんが殺害される

17日 長崎県警が筒井容疑者を逮捕。習志野署が傷害容疑で逮捕状  

                              読売新聞 1月24日 23時47分(孫引き、一部加筆)

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この醜態を見るととても法治国家の警察とは思えない。全国の人殺しは思っている。人殺しは長崎で。

各県警間で問題をたらいまわしにして事なかれを決め込んでいる。署の慰安旅行には熱心に行くが事件性が明らかなのに解決の意欲が全然ない。殺人の前には傷害を起こしているのにそのまま自宅に帰し、自宅に帰ってないと分かっても被害者の実家には連絡していない。(上記の経過には省略している)被害者の家に向かったことは容易に想像できる。

つまり死人に口なしなのだ。警察、検察、裁判所は国民の非難をかわすため容疑者を早く殺してしまおうとしている。あほな国民は単純にも、悪い人を死刑にしてくれて警察検察裁判所ありがとう、と思うだろう。

ところが身寄りのない広島のお好み焼き屋が殺されても、死刑にしろという世論が高まらなかったので無期でお茶を濁す。

長崎西海町ではあきらかに犯人がそこまでやってくるのに被害届を受理しようとせず、犯人は堂々と人殺しができた。

他人事と思うなよ。広島のお好み焼き夫婦殺しは必ず出所する。まず初犯で満期出所はありえない。その間に恩赦、特赦がある可能性が高い。二人殺しという同一の条件なのに、片方は鶏のように首を絞められ片方はまた包丁を持って町を歩けるわけだ。その残虐性、更生の可能性、再犯の不可能性を鑑みると、逆なら分かる。広島二人殺しこそ死刑だ。裁判員制度の危険性はここにある。

写真は広島お好み焼き店夫婦殺人事件 無期囚 竹中誠司


人殺しは刑務所で反省する。まさか。俺なら復讐の作戦を練る。

2013年05月22日 | 裁判

当たり前だろ。とんでもないという人はそもそも刑務所にはいかない。

人生はだいたい80年だ。懲役20年を食らえば1/4の死刑に会ったのと同じだ。よくも俺をブタバコに、という恨みは常人の想像を絶するものだ。唯一大人しいのは死刑囚だけだ。僕は昔、研修で死刑囚と刑場を見た。

このとき僕は確信した。悪は悪として生まれ悪として育ち悪として死んでいく。作業に向かう長期囚のまなざしの奥にある殺意を刑務官たちは見ようとしていない。出所まで問題を起こさなければそれでいい。その無責任体制が今回の事件を生んだ。まさに体制の問題で個人は関係ない。

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女子高生コンクリート詰め殺人事件(じょしこうせいコンクリートづめさつじんじけん)は、1988年(昭和63年)11月から1989年(昭和64年)1月の間に、東京都足立区綾瀬で起きた猥褻誘拐・略取、監禁、強姦、暴行、殺人、死体遺棄事件の通称である。事件番号は平成2う1058。

この事件は、加害者が全て少年(未成年者)であったこと、犯罪内容が重大・悪質であったこと、犯行期間も長期におよび、少女が監禁されていることに気づいていた周囲の人間も被害者を救わなかったことなどの点で社会に大きな衝撃を与えた。       >Wiki


女子高生監禁コンクリート詰め殺人事件主犯格のMは(事件から25年後の)今年1月、東京・池袋で銀行からお金をおろす振り込め詐欺の「受け子(出し子)」として逮捕された。
ところがMは完全黙秘を貫いたため、実行犯、主犯など事件の解明ができずに1月31日に不起訴で釈放された。その後の足取りは不明という。   >4月24日 週刊文春(孫引き)

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つまり悪魔の殺人の後、出所してわずか4年後に再び卑劣な犯罪を犯している。余罪もたくさん抱えている。17歳であったことを理由に匿名扱いされ不定期刑になることが多く少年法に守られた著しく被告人に有利な法廷であったはずだ。なあそうだろう。Mこと宮野裕史。完黙(完全黙秘)はかなり難しい。僕はできなかった。彼は20年間の刑務所でそのテクニックを学習してきたのだ。娑婆の4年間では困難だ。証拠不十分で釈放とは犯罪者の人権のみに配慮した判決だ。彼は今この時間もあなたのうちの前をうろついているのだ。

こういう人殺し野放し社会は、社会の成立自体を危うくする。そもそも刑法の存在理由は何か。弱者に代わって悪人を征伐してくれるものではない。今日の生産関係を維持するものの代表として社会の上部構造に君臨するものだ。僕はこれには大いに反論があるが、通説だから仕方がない。百歩譲ってそうだとしても、人殺しが闊歩する社会においてどうして生産関係が維持できようか。

社会は、子供だからと言って罪を軽くしようとする傾向を優しさとか思ってないか。

この17歳はもっと残忍なことをしている。

関連情報URL : http://personalsite.liuhui-inter.net/aoiryuyu/198901adachi.htm

  Posted at 2013/05/15

広島夫婦殺害に無期判決  公平でもなく公正でもない

2013年03月19日 | 裁判
僕は死刑制度に反対している。だが、今度の無期判決はきわめて不公平だ。無期の根拠も「更生に期待することができる」と裁判官は言ったことぐらいだ。

お前更生しないと殺すぞと言われればだれだって更生する。更生しないといって死んだ奴がどこにいたか。これらについては3月15日のブログに乗せた。今回は「公正」という側面から僕の考えを述べる。

前回予告していた「② 裁判員裁判に適合する事件であったか。」について。

重罪であるので裁判員裁判が行われた。

裁判官は多忙である。微罪を含めると50~100の裁判を抱えている。法廷の指揮を見ると人格も職見もタダモノではないなと思う。だが少しでも労力軽減しようと裁判員が導入された。判決に合議制を導入した。ただ、裁判は本来合議制で行われる。裁判官同士の合議だ。

だが、裁判官の質の維持の観点から、すべての裁判を合議制にはできない。そこで住民が参加して多数決で判決を出そうということになった。

また、このことには住民の司法参加という一部に長年くすぶっていた意見を実現する意図もあった。

多数決の細則は立ち入ると面倒で意味がない。僕は多数決自体に瑕疵があると主張している。いくら優れた裁判官でも重罪にかかわるにはかなりの経験を経たものだけだ。十年以上。その間遊んでいるわけではない。該当判例、判例変更について追いまくられるように勉強している。知らない人が住民参加とやらの美辞麗句につられ半端な気持ちでできようはずない。

たとえば、思い出したようにひょっこり出てきて魚屋ができるはずない。セリの動向、鮮度のみかた、・・・だから同様に思い出したように裁判をするな。

それをくじで選ばれた人がさらに多数決で判決を選んでいる。人相の悪い犯人には判例を越えた判決が現に出ている。今度の広島二人殺しはイケ面だったが判決と無関係か。

さらに、「公判前整理手続き」により犯行の動機や事件の背景は整理されている。裁判員は生の調書や証拠を見ることなしに選ばれた証拠を見る。僕はここに冤罪の危険性を見た。

弁護士は勝った、犯人はうまいことした。

僕が自動車を整備するとき整備士の技術には到底かなわない。だから、僕の学校にくじで選ばれた人が来て授業をしてもらっては困るのだ。
Posted at 2013/03/18

広島夫婦殺害に無期判決 「計画性なし」死刑回避

2013年03月19日 | 裁判

2011年8月に広島市中区のお好み焼き店舗兼住居で夫婦が殺害された事件で、強盗殺人などの罪に問われ、死刑を求刑された住所不定、無職竹中誠司被告(25)の裁判員裁判の判決公判が13日、広島地裁であった。伊名波宏仁裁判長は「強盗も殺人も計画性はなく、更生可能性がないといえない」として無期懲役を言い渡した。 平成13年3月14日 中国新聞

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このようなことが起きると、世論はまず二人も殺しておきながらと激昂し一週間もたてば忘れる。思考はすべて一過性でせつな的で軽薄だ。こんなバカにはパチンコがお似合いだ。きっと楽しかろう。

① 量刑は正当であったか。
② 裁判員裁判に適合する事件であったか。

①について。僕はいまさら刑罰としての死刑の是非を論じるものではない。問題は刑罰の階段において、喧嘩で相手を殴り殺し死刑判決を受け、刑罰の最高の階段に登って刑死したものもある。あるいは二人で一人の金持ちを襲い、協力して首を切り落とし、その二人は死刑になった。それらの人殺したちと今回の広島二人殺しを比較する。従業員として働き顔見知り以上の親しさがあったはずなのに、残忍性および悔悛の情のありえないことにおいて情状を酌む点は全くない。「強盗も殺人も計画性はない」と裁判長は言いきっているが、背中から何十回も包丁を突き立てる残忍性は到底更生の余地はないと見るべきだ。しかも二人。

ところが、刑罰の階段は一段低いところに決まった。無期だ。そのうち仮釈放がある。恩赦がある。とにかくそのうち世の中に出すので更生に期待したんだろう。ばか。

これ以上にむごい犯罪があろうか。夫婦でお好み焼き店をつましく営んでいるのに何の罪があろうか。何十年もこうしてお好み焼きを焼き、苦しみや喜びを経ながら老後に差しかかった夫婦がこんな人生の終わり方をしなければならない理由はない。

裁判官は何十回も包丁で刺されて死ぬむごさを知っているのか。

確かに日本の裁判は多くの冤罪を生んできた。統計的に明らかなように冤罪は増えている。こういう間違った裁判によって間違って死刑にされた人も多い。再審の門を開くことによって司法が恐れているのは再審請求の増加による司法行政の混乱である。

しかしそれは論理的に矛盾している。正当な裁判が行われ高裁や最高裁の差し戻し審が機能しているなら再審の必要性はない。差し戻し審はある程度機能しているが、耳を疑う違法な捜査、思い込みによる明らかな誤判。これらは後を絶たない。

そうでないというなら検察庁での取り調べに可視化がどうして必要か。そこに誘導、脅迫、規定以上の長時間の取り調べが行われるからだ。人間は長時間の拘束には耐えられないようにできている。すなはち、何でも自白する。

検察に無知なモノはこういう、『だったら自白しなければいいじゃないか』。 ばか。お前留置されてみろよ。

それら一切を差し引いても、事実関係を争っていない以上死刑相当事件だった。

②については後日書きます。

Posted at 2013/03/15