か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

島原まで  4

2017年07月30日 | 日常

シチリア島原についた

 

料金表を見てくれよ。これを馬鹿らしいと言わないことがノブレスオブリージュなんだ。僕はばからしい。以前のクルマは約5メートル。長さは1.5倍なのに料金は3倍した。累進課税を教えてもらった。半額以下になって、なんか助かった気がするが、軽トラが3000円とか4000円の税金とはどうも納得がいかないが。お百姓さんは大変だからか。勤め人も大変だったけど。なぜ15倍の税を取り3倍のフェリー料金を取り2倍の高速代を取るか。FIATは貧乏人の部類だ。素直に喜ぼ。

顔を出さないからということで、この姿で妥協して写真に納まった。自爆テロ犯だ。内縁の娘かも。

choke(チョックストン) 木製だが。昔、ピンチヒッターで時々8トンを動かしていたころを思い出した。

ラウンジは自由に使え冷凍室みたいに冷えていた。250円というのがとてもかわいい。僕とテロ犯はロゴ入りの水にした。白川水源の水だ。地震ごときでびくともしない。数百年のタイムラグを経てこんこんと湧き出している。島原もそうだ。

中央上部左にトンボが写っている。昆虫学者が言う昆虫の飛翔能力は間違っている。東シナ海の真ん中で何度もトンボや蝶にあった。ちゃっかり僕の船で休憩していった。

 

 

 


島原まで  3

2017年07月29日 | 日常

もう少し焼けてきたら、僕の太ももほどの腕をしたおばちゃんが来て高専ダゴをひっくり返す。

魚粉と青のりをこれでもかと振りかける

力を入れて切り取るが

食っても食ってもなかなか減らない。控えめに見て30センチ✖50センチのお好み焼きだ。が、残したら損だと思い全部食った。人間だれでも金が絡むとギャル曽根になれる。

それから長洲港までは15分ぐらい

フェリー乗り場に一番についた。というのは錯覚で、船が出たあと一番についたのだ。3隻でピストンしているので30分ぐらい待つことになった。

くまモンも充実している

あまりうれしくない先頭だ

船の内部はなかなか豪華でJR九州のローカル線か廃止前の田舎バスのようだ

写真の上部にあるカーブした乗り込み口から乗った。よく見ると船が見える。FIATだからシチリア島にわたる気分がした。いや、曇りで35℃で湿度はたぶん70%。これは間違いなく日本だ。(つづく)

 

 

 


BAKA(桜花)

2017年07月29日 | 国際・政治

 

大戦中帝国は最後のあがきとして、気が狂った兵器を間に合わせに作った。

一式陸上攻撃機の下に分離式のロケット推進人間爆弾を下げ、敵艦に体当たりしようというものだ。時速900kmで落下する桜花の操縦は困難を極めた。

ただ操縦ができたのは練習のときだけであり、母機(一式陸攻)から分離されることはなく全機もろとも撃墜された。戦果ほとんどゼロ。米軍は、なぜこのような自国(日本)の優れた将兵を殺すだけの作戦を自らとるのか、いまだに理解できない。バカのすることが分かろうものか。

米軍は、きっとそうだなバカなんだなと思い、桜花のコードネームを「BAKA]にした。

敵を一人も殺さず味方を確実に殺す兵器は、人道上最悪で敵にとって最高である。

いったいどこの誰が何人死んだのか。どんな訓練を受けたのか。本は出ているが感傷的で具体性に乏しく当該兵の苦しみはわからない。手紙が残ろうと遺品が残ろうと兵の苦しみはそんなところにはない。今回の国家秘密保護法で防衛研究所はプライバシーを盾に情報公開を拒むようになった。以前は簡単に教えてくれたことが国家秘密を盾に史実を得られなくなった。

帝国のまともな戦士であるなら、当たって死にたいのだ。選びに選ばれた最高の将兵の愛国心を巧妙に利用し死地に離陸させた。

死にたくないのにこんな運命になってしまった、ああ、平和だったらなあ、とかいう空想的平和主義に生きた帝国の兵は招集による最下層の兵だ。バカの洗脳は簡単だ。

 

とっくの昔に旧式になったぼろエンジン、ぼろ機体に姑息に加工したBAKAをつけ本日の戦死一号は乗り組んだ。そして母機もろとも撃墜された。700キロ/時速のグラマンは、400キロ/時速の瀕死の手作業寄せ集めでできた爆撃機を遊園地の射的より簡単に落とした。

 

北朝鮮。気は確かか。わずか5,6発のICBMまがいを作ったところで、米軍を平和条約のテーブルに乗せるという試みは成功したか。ああ?

むしろ敵対行為は増している。子分の日本も一様に効きもしない経済政策を始めたぞ。ミサイルの発射とともに国家崩壊の危機は増している。

核弾頭の小型化はそんなにあと半年ではできないが、できたら金日成の紙幣の代わりにムンジェインの顔が印刷される日が来る。

高い電力、ウラン、外国技術者、国家計画経済の修正。代償は大きい。

本気度はわかるが大事なことを忘れている。それは、BAKABOMBそのものだ。

 

米軍は一艦に150発のSLBM、それを100隻。北朝鮮が1発持ったところでどうなるか。ICBMなら5000発あるぞ。たまにしか打ち上げるタマがない、まるで日本軍の対空砲火のような北の花火だが、米軍は迎撃はできないかもしれぬからその時は先制する。それに対抗して北は漁船に核を積んで福井県に行くつもりだろう。

あまりにも代価が大きいぞ。大日本帝国のような真似はよせ。

 

日本は国民をだまし、わが国は盤石であることを示すため、幾重にも、お船からも撃ち、地上からも撃ち、アメリカさんにも撃ってもらうという。それこそバカ。マッハ15で落ちてくるものは欺瞞の弾道を描きつつかつダミーをその百倍飛ばし、それを波状攻撃したら、わが国には迎撃可能なミサイルが即座に底をつく。北朝鮮のICBMはバカ(BAKABOMB)ではない。幼稚なだけだ。

一発でももれなく打ち落とすことは絶対にできない。するとここで出てくるのは先制攻撃論だ。待っているのは第三次世界大戦だ。ゲームおたくは狂喜する。

安部。やっぱり国防軍だな。

 

ああ、ミサイル来たら怖い。北朝鮮なんだかこわい。餓死者もいるし脱北者もいるしなんかいや。楽しい韓国のビビンパがいい。東方神起ももうすぐ帰ってくる。・・・こういうウルトラバカが日本の戦略を台無しにする。

 

 

 

 


島原まで  2

2017年07月28日 | 日常

この頃の回るすしは回らない。新幹線やランボルギーニに乗ってさっと出てくる。佐賀県などは皿が回っていると一旦テーブルに置き、やっぱりやめたとレーンに戻しても何が悪いかわからない人ばかりだ。

不潔で決断力がないからいつまでも寿司がレーンを動き食欲が落ちる。かつ希望の品が手元に来るまで時間がかかり他人が獲ったりしている。もちろんそれも何が悪いかわからないでいるのは例の県の人だ。

若者並みの食い方だ

僕みたいに教養のある人は何かにせかされるように目的地に突進したりしない。久留米南部には無駄な公共事業の典型として立派な公園がある。自民党は波及効果をどう言い訳するんだろう。バカ。そんなものない。

しかし、ここの公園の展望台だけは公共事業の成果だ。登ったらいいエロ本が落ちていた。隠していると内縁の娘が見つけ、「あたしにも見せて」と言って取り上げると池に捨てた。

これで僕の今年後半の楽しみはなくなった。

 

気を取り直して大牟田で降りて高専ダゴを食った。学生3人分がスペシャルなのだが、僕ら,つまり爺と子供はそれを平らげた。

 

他のブログに書いたが、大牟田の最高の食事は港倶楽部である。反論の余地はない。もう一つ山之上倶楽部もあった。空襲で灰燼に帰したが、ここだけでも残り良かった、と思うのはアホな日本人で、進駐軍は自分達が使うためあえてここを残したのだ。

口にモノをためてしゃべる人にはここの違いはわからない。著名な額にたばこの息を吹きかける人、ほろ酔い加減で軽トラで来る人 ケバイ花嫁衣装を着る人,自分だけがいるつもりで叫ぶ人、庭の松がいかに価値あるかわからない人、額が読めない人、三井と政府と朝鮮中国情勢が分からない人は来てほしくないが、これが雲霞のごとく来る。

行くなら今のうちだ。 

 

旅は続く。

 

 

 

 


島原まで

2017年07月27日 | 日常

こんなもんで力がつくはずはない。しかもウナギの量が少ない。以前は大量にウナギが獲れた。そこらへんの小川に仕掛けをしておいて、学校帰りにその仕掛けを見るとたいてい一匹はかかっていた。

仕掛けは単純で缶詰のあき缶に糸を巻き付け、缶をさかさまにして浮かべる。糸の先には特定のミミズがついている。このミミズが問題で、〇〇君のうちの風呂の横を掘った時に出るミミズがいいとか、みんなそれぞれに情報を持っていた。

株の情報と似ていて各個人の情報網は明かさないのが流儀だった。

5,6個浮かべた缶の位置が、学校の帰りに動いてているとウナギがかかっているということだ。アナゴでもよかったが、ウナギは食うためにつっているのではない。料亭に売るのだ。小学生にしては大金の200円を得ることもあった。

カネにルーズな子の親は大抵貧乏で子供の勉強すら見てやる時間も能力もない親だった。そんな子と遊べば労せずして金を得ることができた。笑顔で脅せば金を出した。暴力の必要はない。仲間はずれは子供にとっては死刑だ。

僕たちはそんな不労所得よりも頭脳の限りを尽くした魚類との知恵比べが面白かった。

 

今、マリアナ海溝まで回遊するシラスウナギを閉じ込め、養殖が盛んだ。これは自然に反している。こんなバカなことすら分からない痴呆が川でシラスを根こそぎ取り上げていた。シラスをとれば天然はいなくなるだろ。当たり前だ。シラスをとってウナギにして食う。一方通行の略奪漁業は、やがて資源の枯渇を生む。

今や国連のred dataに載るウナギを一網打尽にする根拠が土用の日だ。

ウナギはマリアナ海溝に返せよ。

 

自分さえ儲かればいいと夢見てばくち漁業をする。そのばくちに勝者はいない。

そんなことするよりオスプレイが来るので膨大な漁業補償金が落ちるぞ。漁民は魚なんてとるな。補償金をとれ。船も網もいらんだろ。口だけ民進党と一緒に自然保護を叫べばいい。

 

この申し訳程度にウナギが乗った悲しい蒸籠(せいろ)蒸しを食った後、僕は、九州旅行に出発した。酢酸ビニルの効いたタレは最高だ。その後は次回。

 

 


ちゃんぽんはすべてを語る

2017年07月23日 | 食・レシピ

で、今回はちゃんぽんは登場しない。昔、長崎でちゃんぽんを食った。今の値段は知らない。30年前だから。当時は約1000円。

長崎の友人がいった。長崎でちゃんぽん食うならリンガーハットよ。

なるほど、同感だ。昔、中華街に行ったら僕の子供たち(5歳、3歳)を見て、言葉遣いや行儀がよくいい子供たちだとほめてくれた人がいた。当たり前だ、僕が育てたのだから、漂う品の良さ、りりしい顔つき、父親に似た着眼点の良さ、控えめな態度、公共の場では走らない、食事は音を立てない、相手が聞き取れる最低限の音量で話す、・・・などは十分体得していた。さて少しづつ勉強を仕込むかという時期だった。

栴檀は双葉より芳し。

僕の子供をほめてくれた人が帰り際、子供たちに50円づつくれた。子供はどうしたらいいか心配そうに僕の顔を見た。兄は僕の許可を心から喜んだ。弟は、しっかり勉強しますと言ってもらった。人からものを貰ってはいけないと教えていたので例外中の例外の事件だ。子供たちは例外であることもよく自覚していた。今や当時の賑わいはない。

栴檀は双葉より芳し。

言い換えると、雑木は双葉より臭い。

案の定、小学校に入ると雑木は栴檀をいじめた。学校なんか人生のおまけだ。本質ではない。教育されてたまるか、という気概を持てといつも僕は言った。下賤の民のヒガミに負けるな。高貴であらねばならない。ノブレスオブリージュだ。生活保護をインチキして喜ぶ非民は、日本の文化を継がない。自覚と能力に欠けるからだ。

いじめ人殺しが野放しになるところに文化はない。モスルに何の文化が残ったか。「みんな楽しく」というウソつきの学校は迷惑だ。先生は現状を取り繕い子供は殺される。冗談じゃない。ちゃんとした私立に転校し上品さを失わずに今社会の中枢にいる。

 

そんな高貴な僕は、最近、「王将」という大衆がいく食堂に行ってみた。決していつも行くのではない。詳しいはずがない。庶民の外食の実情に触れようと思っただけだ。

僕は試しに行っただけです、みなさん。誤解なきよう。僕は高貴ですから。

この朝鮮式ご飯の盛り方は気に入った。これだけで長崎市はほぼ合格点。たぶん今後良い町として登場する。残念だな佐賀県。

酢豚は気取った店と異なり一個一個が大きい。上流の人間の口は小さい。丹念に作られた料理を食してきたからだ。不思議に僕は噛み応えに快感を感じた。

この中で絶品はスープ。塩分がどうしたとか騒ぐような非科学的無知蒙昧は嫌いだ。そいつらは小学校の時、石綿付き金網で遊んでいたくせに。僕はそれをアスベストというと思うが。オーガニックの野菜じゃないとかも言うな。さんざんスミチオンまみれの野菜を食ってきたくせに。

鶏ガラでだしをとるが、あまりに出すと味は骨に逆流する。その勘所がプロであり、高い料亭でたまに作る卓袱料理が非人道的な味になるのは、休みなく作り続けないから味が一定しないのだ、どんどん作らないと腕は鈍る。

僕はソフトバーテンをしていた(アルバイト)。それでも一日造らないと勘が狂ってお客さんからクレームが来た。

細いそうめんのような溶き卵は中華料理にはまれに美しい。

 

残念なことは、社長が射殺されてから材料が少なくなり値段が上がったこと。子供や女性にもっと細かい対応があったと思う。なんか工場の食堂のようで嫌だった。カバがマントヒヒを連れてきていると思ったら親子連れだった。いろいろあるが、長崎の主だった中華は行った、王将に勝てる店はない。

卓袱は主要三件に行った。個性はあるが共通点のほうが多い。高い。せかす。うまくない。研究してない。生徒だったら学籍簿の「向上心」の欄にCをつける。

食レポは犯罪的ウソを言う。

 

 


ウソはしきりと絶叫する   31

2017年07月20日 | 韓国

(前回からの続き)

朝鮮を統治するようになった日本は、自国に引き入れた韓国人がどんな犯罪を犯そうと強姦をしようと彼らと自国民を対等に扱おうとしたし、朝鮮に自由民主主義を実現しようととてつもない近代化を通して祖国(朝鮮)の発展を成し遂げた。

鉄道とダム、そして農業技術の近代化。その当時、朝鮮の技術力では何百年かかっても不可能だったものをまさにその朝鮮の地で日本人たちが実現してくれたのである。朝鮮人にとって日本人は神であると言ってもいい存在だったし常に歓迎された存在だった。

そんなある日、金九のようないわゆる学のある気でいる一味が自尊心を押し立てて人々を扇動し始めた。日本は朝鮮を支配しているとか、いつのことだったか記憶すら確かではないはるか昔には多分朝鮮が逆に日本を教育したのではないかなどと、いわば独立闘士などと名乗る者の戯言に人々はなびいていった。

愚昧な民衆は、蝋燭を掲げデモを始めた。何もわからない6歳の子供にも自分たちと同じくJAPAN OUTを叫ぶようにした。6歳の子供がJAPAN OUTが何か分かるはずもなかろうが、愚昧な民衆は自ら扇動して社会不安を起こした。

しかし、妊娠したその時からDNAに刻まれた奴隷根性を持つ朝鮮人たちは、そのつまらない蝋燭デモすらできもせずアメリカがくれた自由に食らいついた。そうする間に再び共産主義だの資本主義、両陣営から互いに煽られ殴る蹴るの戦いをし二国に分断されたのだ。

出処 ケマクジャンの歴史の見直し2 日本は韓国を果たして強制的に占領したのか。

 

次回用メモ  18から

 

 

 


これを書くと必ず勘違いが遠吠えする (九州豪雨)

2017年07月19日 | 社会・経済

豪雨で道路が遮断されているところがまだある。豊かな水田は運動場のような平坦な粘土に変わった。友人の子供たちもボランティアで活躍している。

犯罪被害にあったら、加害者に自力で復讐するとそのこと自体が犯罪になる。ところが自然が相手のとき、今度はそのいけないとされた自力回復が原則となる。

ことは複雑で、今、朝倉地区の合言葉は、火事場泥棒に用心せよ、だ。これはコソ泥ではなく集団で来る暴力的窃盗団だ。ボランティアが水害で流されたアルバムをきれいにしている横で、金目の物をあさっている。

またそのボランティアの中に泥棒は混じっている。下手に注意しようものなら流れ着いた粘土で窒息することになる。でも事件化しない。命のためには、「自分で転びました」というのが正解だ。

警察を張り付けたところでとても手に負えるものではない。これが日本人の現状か。あまりにも悲しすぎる。

本当に日本人か。

腹を減らした無能は何でもする。まさか日本人が、と考える時代は過ぎた。国は、いろいろ名前を変えて統計の項目を増やし、一つ一つの事件は少ないように見せてきた。在日外国人、語学研修生、実習生、不法滞在・・・今や、その犯罪統計すら出さなくなった。

いやまじめな人もいるよ、と気違いは言うが、それがなんだ。安い金で土人を利用しようとして研修などの名目でタダ働きさせている。そのため彼らの犯罪を覆い隠す。不法滞在は野犬の群れだ。不安な日本が出来上がる。分からない人のために言う。これを本末転倒と言います。

彼らはカネが落ちているから拾って何が悪い、程度にしか思わない。

日本は、53位だった。social progress とは社会の進歩ではなく、公平で機会の均等さを言う。日本は何もない国になった。3本の矢が飛び地方が創生し一億総活躍する社会の実態がこれだ。

 

 

 


「祖先」(イタリア語)という名前のディナー店

2017年07月14日 | 食・レシピ

人生に一区切りついてやっと振り返る余裕ができた。

僕にとっては、人生というものがちょっときつすぎたなと思う。それでも僕より幸せな人が、要領よくこそこそ利権にしがみつく中、できる限り卑怯者、悪人をたたいてきたつもりだ。

そこで僕はプレゼントをもらっていいのではないかと考えた。人生のプレゼント。僕からのプレゼント。

僕はお店の紹介屋ではない。よくない店は皆さんが被害に遭わないよう詳しく書くが、美味しかったところは自らの努力で探すのが良い。いいとこどりをして食べログを見てどこか行こうというのは下賤の民のタダ精神、生活保護の不正受給と同じだ。

なあに、食い物屋ぐらいそんなにムキにならずともみんな美味しいところを紹介しあって…ばか。そんな酩酊した脳ではよい店に行きあたりもしない。

とんでもないことを考えるな。コース料理を考え商品、材料を選別し原価計算、仕込み、客をこっそり見て総合的に好みを判断し…と大変な作業をしているのだ。ところが、食堂のほとんどがいつの間にか消える。それは上の行に書いた研究心が足りないからだ。伝統とやらに甘んじ、独りよがりのおいしさに甘んじ、のぼせ上がった奴は私の味を理解しない客が悪いと言い出す始末。バカもここに極まる。

思い付きの、独りよがりの、悪い頭で始めた店もネットに載ると何とかなる。ただし半年ぐらい。生意気にも値段だけは一人まえだ。

そんな店をたまの休みに慌てて検索をかけ、いってみて失望する。バカはやめて自分の目と舌と足で探るべきだ。

確かにこの手の高級店は、気絶するほどのカネを取る。それがなんだ。うまくないラーメン200杯より、イタリアのディナーがいい。安いもんだ。

人のカネで交際費とかで料亭に行くやつらの舌に負けたくないものだ。現役時代は年を増すにつれ誰でもそうだが、お呼ばれの席が増える。それは卑怯な飯だ。どんなに高級でも乞食飯だ。退職してうれしかったのはもう乞食飯を食わなくてもよくなったことだ。

 

魚はイッサキが出た。ソテー。タイも少し。色合いを考えソースを考え皿に描かれている。野菜に隠れる姿は海藻の中にいるイッサキそのものだ。ライスボールはイカ墨で包んであった。いい発想だ。

日本料理は写実が基本であるのに対し、イタリアはデフォルメされシュールになり、そのものの姿はないがなぜか海やヒマワリや夏を感じた。一回二回じゃなく毎日盛り付けの発想を変えるには相当の修練がいる。

コースも半分を過ぎると、イベリコだ、とっておきのハムだ、黒毛何とかだと言われても、満腹中枢のAlartのが鳴り出した。マルゲリータはよしてパスタでよかったかも。

またどっさりのデザート。チョコが本物だ。粉っぽいし甘くないチョコはしばらくすると鼻腔に高級感を教えてくれる。皿が浅いのはゆっくり見て楽しんで食べるためだ。

 

貧乏人は食うのが早く、器も食いやすいように深く、炭水化物でごまかす食事は悲しいかな量が単調に多い。ここアンテエナートの皿はほぼ平面だがカトラリーは音を立てない。食堂はコンサートと似ている。みんなで作るものだ。だが個室はもっといい。夜がいい。僕は楽しみの半分ぐらいは帰りにいただくおみやげだ。

昼間の方も上品だ。見ただけで佐賀県の人ではないことが分かる。よい服と着こなし。両者を佐賀県でそろえることはできない。佐賀県が得意なのは当て逃げだ。

 

店の向かい側にある雑貨店は安売りの品があり女性には楽しいはずだ。old noritakeやルーマニアの花瓶があった。チャウチェスクの時代だ。僕は買わない。赤と緑のセットのコーヒーカップがあった。クルマの色もそうだが、絶妙な色は日本車にはない。永遠に無理だ。なぜなら違いが見えてないから。

食堂も同じだ。どんなにまねしようと思っても見えてないもの、味の違いを感じてないものはまねできない。

だからそこらのラーメン屋の婆がテレビを見ながら作ったラーメンが上品な空間のビシソワールをしのぐはずがない。

カップルで行けば万札では足りないが、それが男の甲斐性というもんだ。

静かだ。つまようじシーハシーハもいない。そこらの場末のモーテルに行くよりちゃんとした服を着てちゃんとした車で出かけるのはいかがかな。

 

 

 

 

 

 


怒る人は早く死ぬ 4

2017年07月11日 | 故人

俺はそこらのアホとは違うんだ。今でこそこんな掃き溜めにいるんだが、世が世なら〇〇の子孫だから、とか、〇〇大学の医学部に合格していたがカネがなかったばっかりに行けなかった、とか、今こそリュウマチで指が動かないがほんとならイボミのコーチぐらい軽くなれたんだ、コンペの優勝カップは100個もあって邪魔で捨てたばっかりだ、・・・

日本は、老人にはレゾンデートル(その人がそこにいなければならない理由)を与えない国だ。上に書いた老人の白昼夢は、悲しい脳の防御反応だ。

心底楽しいとか社会の役に立っているとか、レゾンデートルを獲得する年寄りは少ない。

 

そんな苦境のとき老人脳はどんな反応をするか。今回のタイトルのように「怒る」。みんなの注目を手っ取り早く浴びてみんなの中心にいるように錯覚し怒る老害。

管理職などにこんなバカがなっていたら会社はつぶれていた。会社はバカじゃない。早めに非正規にするか、解雇するかしないとガンは全身に回る。この無能老害は、永遠にどん底社員だったという都合の悪い現実は振り返らない。怒る老害は、あれ、ひょっとして管理職ってこんな気分かなと錯覚する。

法事の場、棟上げ式などで遠い親戚を怒鳴りあげたりして自分は社会に参加していると示す。ひどい時にはレストランのウエイトレスを些細なことで叱る。そうして錯覚した社長気分に浸る。

ぼくは心底思うのだが、怒る人はいやだ。実力ある人はみんな穏やかだ。とくに「みんカラ」なんかでは僕に対し怒っている人が多いが皆低能だ。その低能は、火病老人になるか、すでになっている。

 

脳のほとんどが腐れたウニになっているからもはやまともな思考は無理だが、それでも人類に位置するなら、あるいは人をだまして生きているチンピラでないなら、石にかじりついてでも、朝早くから小学生相手に旗を振るのではなく、喫緊の政治課題に議論を深めよ。つまり頭を使え。一度も使ったことのないものを。ボケ封じのくすりや神社はまやかしだ。

痴呆になる人は若い時からぐうたらだ。思考の怠け者である。だから早くボケる。悪いことに怒るぼけ老人になる。自分が偉く、頭がよく、みんなに慕われているときなど人生で一度もなかったのに、その夢を見て現実との区分ができなくなっている。

 

たとえボケても、精いっぱいボケの進行に抗(あらが)って人間性を守り続けていたら非常識な老人にはならないはずだ。

 

いつも僕に精神訓話をする人がいた。反論したかったが長幼の序に逆らうことは道徳ではない。

意味のない訓話は、支離滅裂になり、記憶があいまいになり、その頭で医学部に合格したはずはないのに、やがて幻覚を見、死んだ。

 

 


怒る人は早く死ぬ 3

2017年07月10日 | 故人

僕がもっとも尊敬する写真家が死んだ。彼とよく撮影に行った。Tobacco road in Kumamoto.

 

職人に徹した男だった。作品の芸術性を高めるということには関心がない。与えられた課題にいかに高次元で満足いく仕事をするか。彼はいつもそれを求めていた。金銭には無頓着で、あるときはアラブの王様のような生活をしているかと思えばまたあるときは乞食だった。

彼の言葉。

「計器が示す値を少しずらしたところに正解の写真があるんだよ」

この匙加減こそ写真の極意であり面白いところであり、人の老後のたくわえを蒸発させる魔の機械だ。エキセントリックであることを日本人は嫌う。日本人が精密であるからではなく、まわりと違う人が増えると何も考えない自分の位置が不安定になるからだ。それが怖いだけ。

「100点はからけん君が撮る写真だ。だからアマチュアさ。プロは80点。しかし一個でも75点はない」

素人俳句の偶然で本人すら意識しないのによいものができることがある。100点だ。だがそのアマチュアは30点が多いからと責められることはない。75点を取ったプロはその瞬間から依頼が来なくなる。

だけど僕はかわいがってもらった。あまり写真は撮らしてもらえず、通行人とか掛け軸を眺める後姿をした。豪華な食事をおごってもらったが、モデル料として。

毎日言っていた言葉は、「写真は引き算だ」

僕がカッコいいと思ったのは。露光計は軽自動車が来るほどの世界最高機種を持ってきたが写真機はバカチョンだった。偏光もなし。他のフィルターもなし。レンズ保護もなし。交換レンズもなし。F.35ミリで人物を撮った。

あるモデルさんの業界宣伝写真のコンペだった。みんな迫撃砲みたいなカメラを持ち込み落選した。彼は優勝し専属のカメラマンになり多額の賞金を手にした。バカチョンで勝つの、なんかすっきりする。

 

惜しむらくは、プロの宿命である勝負師であったこと。勝つことには異様な執念を燃やし鬼気迫るものがある。僕も自分の専門ついてはそうだが意地はなく負けはすぐ認める。それは給料取りであるからだ。一方彼は、狂気の意地を持っていた。それが残念だった。もちろん彼の腕前と表裏一体だったが。

80点をとり続けるには、狂気が必須の条件だ。80点をとり続けるため、彼はすべてに対し怒り続けた。

芥川の蜘蛛の糸のようにやっと一本降りてきた蜘蛛の糸には、どんなことをしてもつかまり這いあがらなくてはならない。アマではないのだから。当然彼は神経質になった。

高速でも無理な運転をし体操の床運動のように回転した。その後通った気功の会も彼を穏やかにはしなかった。ちょっとした言い違いで席を立ち二度と戻ることはなかった。

 

しかしそれがなくては勝てんのだ。その戦闘性が彼を今の地位に維持させている。大手カメラ会社の誘いを断り完全フリーとしてやっていくことを決めたその時に、賽は投げられた。

彼の周囲では争いごとが絶えなかったが、僕にはこういった。「からけんさん、そうカッカしなさんな」自分みたいな損な性格はやめろと言いたげだった。

死ぬときだけが穏やかだった。

今、彼の写真の評価は高まっている。死んでから、遅い。

 

 

 


怒る人は早く死ぬ 2

2017年07月09日 | 故人

僕のことから。

せっかくいいことを書いても不必要に人の琴線に触れる言葉を不用意に出す。たかが教員が、小学校レベルの人間が、一生ごますりしかしなかったアホ会社員が、カネでなった医者のくせに・・・まさに人をののしる言葉が百花繚乱だ。

これは言われた人が該当者であるときあまり気分がよくない。1億もいるから中には偏執的変質者がいる。異常な反応をする人がいる。

自分の存在の根底を否定するようなこと、最大の弱点(コネ入社、コネ採用、カネ採用教員)を突かれたとき、反発は当たり前だ。だがある程度の教養があると事柄を一般化できて客観的に自分の思想を整理することができる。

条件反射的にタダタダ繁殖するヒアリは絶滅してほしい。同様に、馬鹿にされたというところまでしか理解できないバカ。今後は、含みがある言葉遣いであることを理解してほしい。いや、無理だな。

個人攻撃はやめろというバカがいた。どこに個人を攻撃しているか、該当部分の抜き出せ。僕は因縁をつけてきた人のうちバカ以外には反論したが、個人が特定できる攻撃、反論は、僕を特定したときだけだ。

 

で、でも僕は怒っているようだ。前回のブログで登場したオオヤブ医師が、医者としては薬配布係しかしてないのに2000万/月の収入がある。最低だ。だが不思議な魅力があって、患者が「あのお医者と話すと治った気がするんですよ」とよく言う。村の祈祷師のたぐいだ。

怒る人は早く死ぬ。怒るということが数値化できないため法則にはなりえないが、逆に意味はないが数値化しやすいことが当たり前のことなのに新しい発見のように人口に膾炙する。

これは皆さんの周りを見渡すとわかると思う。誰ががんで死んだか。怒る人が死を迎えるとき、絶望は人一倍深い。

オオヤブ君のおっとりした白痴ぶりはプラシーボ以上の効果がある。低脳は異常に助け合いを強調する。そこに美学を感じるようだ。ばか。人間は、ふだん助ける人はあまりいらないし、助けが必要なほどに追い込まれたとき助ける人はいない。

人生に勝利するなんてありえない。負け犬が寄り添って傷をなめあっているだけだ。だからバカほど群れたがる。うんざりだ。敗者ファシズムの強制は孤独よりもつらい。

 

必要なのは、はわかってくれる人。自分のことのように嘆いてくれる人。いつもそれを気にしてくれる人。それがどんな薬よりも手術よりもよく効く。医学をはじめどんな科学もまだその段階である。

その証拠に、線状降水帯を果敢にやかましく言うが、朝倉で15人が死ぬ前の予報は曇り時々雨だった。大本営の空襲警報のようにB29が爆弾を落とし始めてから警報が出た。それが限界なのだ。スーパーコンピューター使ったんだろ。

ばかだな。そんなら5年後の僕を当てみろよ。地震の予知どころか雨も予知できんじゃないか。騙すな。信じた人が死んだ。

 

怒って死んだ僕の周りの有名人は次回

 

 

 

 


怒る人は早く死ぬ

2017年07月08日 | 受験・学校

医学部系

 

あるヤブがひとごとのように言っていた。医者は勉強しない。町医者は講演会だ学会だと理由をつけて遊びまわる。さらに地元でしか相手にされないチンピラ商工会なんかで大きな顔をしていい気分になる。薬屋がそのヤブ医者どもにコバンザメのようにくっついて無学な医者の御機嫌を取る。

その薬屋(製薬会社のセールス)は大抵地元の3流大を出た文系の落ちこぼれであり、医者のほうはその同じ大学の医学部に年間授業料1200万のカネを払って合格を買ったものたちだ。その医者とセールスが同じ高校だったりする。そして同じ成績だったり。

医者は心では見下しているが対等を装う。セールスも装う。頭が悪かったら仕方がない。バカにまで医者の収入を与えることができる国力ではない。カネなどの自分以外に起因する原因で天地に開いた不合理な格差に、涙を心にしまい込む。

子どもは短冊にこう書く。「お父さんの薬がたくさん売れますように。」

人はどうしてこの不条理に怒らないのだろう。僻(ひが)むことは人一倍得意で、僕がクルーザーや馬に乗っただけでひきつけを起こす。

若者が刹那な欲望に身を任せるところ、文系ともいう

ただ、貧乏人にとっては1200万を毎年6年間も出すのは困難だが、世の中金持ちもいるのだ。国立医学部も合格したが彼女とはなれるのはいやだから私大に行き1200万払う、というのが何ともないものもいる。お父さんが福大を出たので僕も行こう。とか、アホはアホなりに決めるのだ。どの医学部にするか、どの経済学部にするか。

どうでもいいことで悩むな。入学と同時に、看護師が列をなして色目を使う、もう一つの学部では、人生は終わっている。

こうして能力に関係なく貧乏人は貧乏人を生み金持ちは金持ちを生む。違うという人は反論しなさいよ。違うこともあるとかいった例外の話ではなく、社会の構造が能力主義になっていてカネは問題じゃない、という証拠を見せてくださいな。

そのオオヤブ君が、いいことを言った。彼は飯をおごったり学会と称する酒池肉林に連れて行ってくれるので名前は伏せる。

何の医学的能力も知識も経験もなく要するにただの馬鹿だが、地域では先生様だ。誰も僕を先生とは呼ばないが。

「怒りっぽい人は早く死ぬ。」  (長くなったので次回)

 

 

 


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2017年07月05日 | 日用家庭用品修理

画素が多いとよく写る。800万画素より1600万画素。最近はバカも極まって3000万画素が出た。

技術者自身はいかにごまかしをしているかよくわかっている。しかし、画質を落としてでも画素を増やそうとする本末転倒なことをせざるをえない。そのほうが売れるから。

国民は、よく写るということは一体どういうことかを振り返らない。800万より1600万が数が多い、単純にそれを判断基準にする低能が、低能用カメラを自慢する。

僕のはリサイクルショップで200円。画質を落として画素を増やす気違いじみた競争が起こる前のカメラだ。記憶媒体も電池も内蔵だが全く支障ない。単純なだけにパキパキ動くVistaのようだ。

5年もすれば30万円もしたカメラはリサイクルショップに2万で出て、本人は火葬場の煙突から消える。

なぜ僕は口を極めてののしるのだろう。

① 字が読めると錯覚しているミーハーはこの程度の文も読めない。バカに薬はつけたくない。

② 企業の宣伝はまず疑ってかかろうとする姿勢は科学的な態度である。コギトエルゴスム。デカルトは疑うことを近代科学の土台にした。それをしないでわずかの退職金でカメラだけそろえシャッター押すことはできても、写真は撮れない。

当たり前じゃないか。今まで不必要にこびへつらい、周りの嘲笑にも気づかず、ひたすら会社のために何も考えず生きてきた人間が、いまさら何が趣味だ。写真に失礼だ。

 

スマホは600万画素程度だ。これで半切(はんせつ、全紙の半分)までなら十分に伸びる。400万画素でも手札大(アルバムの大きい写真)までなら差は出ない。

そもそも、よく写るとは多くの要素の総合力だ。色は、収差は、コントラストは、周辺光量は、レンズ、コーティング、画像処理、そんな中の一つに撮像素子がある。

画素が、馬鹿にわかりやすく簡単な数字であるために、その数字が多いほど良いと信じ込んだ。ああ、画素。

帆が広いとヨットは速い。馬力があるとクルマはスピードが出る。・・・なぜバカは一度信じ込むと加減を知らず突っ走るのだろう。

あ、そうか、それがバカなんだ。

 

 

 


君は川柳を汲め、我は車の運転をせん がんばれFIAT 

2017年07月04日 | 日常

勢いよく流れる小川を見て豊かな気持ちになるのは農耕民のDNAが騒ぐからだろう。

農業をやめ流れ者として都市に住み着いた人間はどこか奇形で利己的だ。本質的に社会的に有用な労働をする機会を失ったものほど、わずかの現金にしがみつき非生産的な反社会的な公務員的な労働をしても恥を知ることはない。

地方創生という地方破壊によって今や町ごと不健全な地方が誕生してきた。このブログでは、今まで一つのトリックとして佐賀県に登場してもらっていたが、もちろん不良世界のパロディだった。

最近はもとよりあった泥棒が勢いを増している。当たり前だ。工藤会をなくせば町のチンピラは勢いづく。そこの中坊は、先生から頭を撫でられると不登校を決め込み市から1500万円取った。体罰で頭が痛くなったそうだ。

女は売春、男はアタリヤ。みんながナンバーを見て用心する。

 

高貴で清潔で教養のある僕は下賤の民とは接しない。

「あもうずのみず」は小川の横にあり、人とすれ違うだけで指が折れたと言って何百万も掠め取る鬼畜は来ないところだ。

とくにこの国の政府はいくら庶民がチンピラに追い詰められて死のうと関心はない。警察はせいぜいよくて何もしない。

爺どもがどこの水がうまいとかいうのを聞くのが嫌だった。H2Oはどこでも同じはずだ。ところが飲んでみるとここのはうまい。コーヒーにするとその差は歴然だ。

もっとおいしい水がある。日田の天領水。家の水を水道に変えたので、わざわざ汲みに行き水運びの重労働をすることになった。

FIATは水の重さにあえぎ何やら怪しい警告ライトが付いた。この程度で根を上げるなんて、そんな車を作る方が悪い。そのまま走ったら警告音が鳴った。台風が来ていたので車を止めるとすぐ冷えた。以後快調。