か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

学校の意味

2019年08月30日 | 思想

たとえば英語。

バカの言い訳は十年一日だ。「外人と付き合うことないから、英語を話す機会がないから英語の授業は必要ない」とか「何年習ったって会話ひとつできない、役に立たない」。

つまり無駄だというのだ。

こんな屁理屈を言いだす子供の親はたいてい子供と同じ頭脳である。しかし、アホ子と違いその子のアホ親は、学歴社会を身をもって体感し、もはや挽回不可能な位置にいることも実感している。小言は出る。

アホ子にはお説教にしか聞こえないがこう言う。「よか学校に行かんと一生苦労するとよ」

学校の成績が悪いと頭の訓練ができてないから社会はそんな人間に期待しない。牛馬に代わる仕事しか回さない。

 

親子の意見は平行線だ。

子。 「だって英語いらんもん」   親。  「母さんみたいになりたいとね」

 

ポイント

この親子の基礎認識は、じつは共通している。

 

学校の存在理由を目前の実用性で判断している。

 「なぜ古文やらあるとよ、要らんやん。助動詞の活用ば覚えたっちゃ、いつ使うとよ」


ぼくがそのアホ屁理屈をもっと強化してやろう。それを言うならぼくも「根の公式」は卒業以来使ったことがない。ましてやタイムスリップして平安時代に行ったことがないから助動詞の活用を覚えることも無駄だった。F=mαを考えながら運転することもない。

つまるところ学校は無駄なことを覚えるところだ、という。屁理屈はとどまらず、ついには、学校は間違った教育をした、だから学校の成績が悪いのは人間性と関係ない。そもそも成績で人間を判断するなんて間違ってる。・・・

 

こんなことに共感するからアホなのだ。

 

どこまでバカなんだろう。

 

学校というところには、実用性とか、たとえ応用性ですら、一義的に必要なものではないのだ。そんな実生活の些事よりもっと大事なことがあるから学校は存在する。自動車学校とは違うのだ。自動車学校は努力と免許が直結している実用的な学校だ。だが、名前が学校だからと言って混同するのは早計だ。

 

「もっと実用になるのを教えるのが学校だろ」

 こういう考えが蔓延する社会は下品だ。

 

たとえば、ある事象や物事があって、この物事の仕組みはどうなっているのか、と問われたとき、知識で対抗するのは簡単だ。だが感動はない。

 

物事を正しく深く認識したとき、なるほどなあという感動を覚え心が震える。そのとき、その人は少し良い人になる。

なぜなら、ほんとうに仕組みが納得できるにはそのものの歴史を知らなければならない。すると発明発見した人の努力の上にこんな機械や仕組みがあるのだということが分かる。これに感動しないはずない。

 

それが分からないならパスツールがしたことは単なる児童虐待だろう。フランクリンは電気事業法に違反した人か。ニュートンはリンゴが落ちるのを待ってた人か。

お分かりのように、断じて違う。サイエンスの先駆者たちの恩恵がいかに大きいか。いうならば、生活のすべてをサイエンスのおんぶにだっこだ。

当然に科学者に対する尊敬と科学に対する畏怖の念が生じなければならない。

 

何もそこいらのバカを学者にしようとして勉強を強制するのではない。

モノを考えるときの真面目さを育てたいのだ。

 

それでも、そんな頭は不要だという人がいるだろう。その人に言いたい。

そういうあなた自身、人類の文化遺産なくしては一秒も生きられないのだ。ならばその文化遺産に敬意を払うのは当然だろ。あなたがなぜそこにいて何のために生きるのかを知らせてくれる、知る能力が与えられる。そんな素敵な学校という場所に実用性が必要か。

 

現実の学校の実態は、その本質と程遠い。安部の写真を多く載せたら教科書に採用される。現実の制度に欠陥は多い。

だから学校は不要か。違う。だからまともな学校が必要なのだ。

 

 

 

 


子供を医者にしたい人へ

2019年08月26日 | 教育

「合法である」というのは単に法律がある、合致している、許容しているというだけであり、道徳性や公正、公平さが保証されるものではない。

いかにまともな法律ができようと世の中は絶えず変化していくものでありその行き先は予測不可能である。だから法は必ず時代に取り残される。(法の本質的後進性)

戦前は東大か京都を出ると自動的に弁護士の資格が来た。無茶だが合法だった。

最近まで司法試験に合格すると税理士の資格がついてきたし、どんな4流大の法学部でも長年教えると弁護士資格が来るし、裁判所職員を務めていると裁判官になる道が開けている。無茶だが合法である。

 

いやいや、医者には難関な医師国家試験があるというバカがいたが、問題を見てから言え。原付免許のほうがはるかに難関だ。バカはこういうと必ず向きになって痙攣して反論する。

あのね。レトリック。

 

それでもそんな医学部にすら、どんなにカネを積んでも息子が合格できないでいるお父さん。GSOMIAなんていらないというある国に行きましょう。言葉なんてランゲジスクールに行けば基礎から教えてくれます。そこを優秀な成績で出ると医学部に編入できるのです。

ひごろKの国をバカにしている人なら、そこの医学部のレベルも低いと判断しなければならない。簡単に卒業できるでしょ。

…まさか。

 

ぼくが「隣りの大学」に通っている間、多くの日本人の医学部浪人生がランゲジスクールを入り口として利用した。

バカ息子に医者を継がせるにはいい方法だ。 卒業できるなら。

 

「隣りの大学」はきわめてまともで、私立だが不正はない。ぼくより頭が悪いのには出会ったことがない。日本の大学には、どうしてこんなバカが合格したのか不思議な人間がときどきいた。

そのKの国の大学で、東洋史関連の授業のとき仲良しになった美人がいた。当時はあまり韓国語が上手ではなかったぼくは、英語で話すしかなくだいぶ日本人の評価を低くした。

なんとか彼女をものにしようと面白くもなんともない読書会なんかにも参加したりした。彼女はほんとに朝から晩まで勉強した。努力の人だ。努力に努力を重ねた。

彼女は院には進まずそのままKBSに就職した。

2年前、テレビを見ていたら彼女が出ていた。先日は河野をぎゃふんといわせた康京和外務大臣(長官)、その人だ。信じなくてもいいけど本当です。

 

人生には抜け道はないということ。まともな努力が必ず報われるとは言わない。だが、

それがなんだ。努力しない人には必ず道はない。バカに抜け道があると思って期待して読んだ人は自らを恥じよ。


ウソはしきりと絶叫する 57

2019年08月20日 | 韓国

<前回のつづき>

日帝時代、韓国の資本主義的転換が解放と戦争を通じて全面的に否定されたのではなくだいたいにおいて温存されたという事実も正確に抑えておくべきである。1940(5?訳者注)~50年代朝鮮南部に対する米国の直接間接の支配には日帝の残滓の清算よりは持続の側面がはるかに多かった。解放以降、冷戦と反共主義は真の脱植民地化を遮る最大の障壁であった。

そして、植民地近代化批判論は半島南部の場合とあまりにも対照的な半島北半部の現在の危機状況を指摘しながら全般的な日帝植民地支配の経済的効果を疑っているのだがこれは説得力がない考え方だ。なぜなら解放以後の南が日帝の遺産をごっそり継承したし、また資本主義的発展戦略を採択していたのに対し、北は最初から日帝時代を徹底的に清算したのみならず南とは正反対に主体(チュチェ)社会主義の道を歩いたからである。なので、日帝時代の経済成長の遺産が北の場合当てはまらない理由は自明であろう。

 

しかしながら、ここで植民地近代化論という概念自体が植民地近代化批判論者たちの誤解をみずから招いているという側面だけはよく考える必要がある。「発展」とはちがって「近代化」は学問的に見ると価値中立的な概念だ。しかしそれが通常の使用であるとき肯定的な意味を含んでいるのは事実だ。

であるからして、植民地近代化を「植民地工業化」という概念に代替させる必要がある。これは単純に「誤解」を避けるための戦略として意味があるのではない。かえって、植民地時代を多面的に、そして多次元的に理解するためにも「近代化」と同様の包括的な広義の概念は分析的な側面から適切ではない可能性があるからだ。

           出典  <特集2>韓国の植民地近代化   © からけん訳

 

次回用メモ  ‘새 친일파를 위한 변명’ 김 완섭 (46)

 


暑い夏

2019年08月07日 | 日常

夏はぼくを悪くする。暑いので福岡県の山間部に逃げていたら、迂闊にもそこは盆地だった。日本一暑かったとテレビが言った。暑かった。38℃

 

日本は今,太陽光線から受けるエネルギーの60倍のエネルギーを放出している。太陽の狂気もそう考えるとささやかなものだ。この爆炎の60倍が日本から宇宙に向かっている。

そんな中公園に行った。この公園は昔、焼夷弾で1000人ぐらい焼かれている。苦しみを共有できた。

そんな暑さは当然の地球からのおしかりだと考えるか。いやいや寒冷化に向かっているのだとか。CO2は気候変化を穏やかにするとか。地球の未来予想は百家争鳴だが、個人の取るべき行動はいろんな予想に関係ない。エネルギーの乱用は見苦しい。われらは本能的に道徳としての節約志向をそなえている。

昭和30年代、高度経済成長とはいえ、家庭の電気の契約は10Aが普通だった。シンクの水は庭に撒いた。鉛筆は繋いで使った。小学校の間、筆箱を新調したことはない。・・・

貧乏だったからではなく、捨てるとか、壊すとか、乱用するとかに対しては、身体的拒否感があった。

 

ひるがえって今や、いざ自分の利益になると判断するとどんなに反社会的なことをしても自分で自分を許す。部屋の温度を5度下げたら同じ体積の空気をひかえ目に言って15度あげている。

屁理屈はどうでもいえる。熱中症だ、病弱だ、高齢者だ、風呂は一日おきにした、庭には打ち水をしている・・・狂気の反論であり、巨漢ボンレスハム自体が温暖化を促進している。

 

体脂肪30%以上の人は冷房料金を加算して払うようにしよう。

 

よどむ熱気の中公園は静まり返っていた。

少し前同じ公園で、

ベルサイユのばらだそうだ。

坂本繁二郎のアトリエ、移築