か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

マイケル=サンデル 白熱教室 in 福岡

2012年05月31日 | 思想
   
RKBという地方の放送で7月22日4:00PMから放送予定だ。西南大学であったが、サンデルさんとは校門でばったり会った。少し雑談できた。この後、KOREAに行くと言っていた。お気の毒に。

西南大はいろいろ形式ばってないところが気に入った。お役所を始め中身のないところほど形式にキチガイのようになってこだわる。

サークル活動をする学生もいるしカップルがベンチでくつろいでいる姿もある。大学に絶対必要な自由がここにはあった。そんななかでハーバードのサンデルさんは講演を始めた。

本物は威張らない。本物は出しゃばらない。そしてこれが一番重要だが、本物はやさしい。彼の講演はハーバードでの授業形式で行われる。議論になれてない日本人は一貫性のある議論ができなくて情けなかった。僕はイライラして相手を攻撃したが、サンデルさんは議論のルールだけには厳しかったがそれ以外にはすべて寛大であった。

とっぴな話を持ち出したり、同じ話を繰り返したり、議論を理解不足のまま話し始めたり、・・・彼はすべてを笑顔で受け入れた。

東北の震災について彼は議論を始めた。これは民主主義の再生にとってプラスなのかマイナスなのかと問うた。つまり、政府に対する信頼が揺らいだとき、日本においては個人に判断を迫ることはなかった。

さて、そのことをして我々は健全な民主主義に近づいていると言えるのかと問う。彼は学生たちとの議論を踏まえ、議論自体が、民主主義の深化に貢献しようとそうでなかろうと、異質なものがぶつかりあうことは民主主義を深めていくものなのだと結論した。

コミュニタリアニズムの代表的論客であるが今回はそのことはおくびにも出さなかった。

席は前から詰まって行った。気が狂った髪形服装は一人もいない。終わってから高校生と話した。すがすがしいことこの上ない。僕以上に話の筋を把握している。僕はバカがいるとそれに気をとられてどうもいけない。頭の良し悪しは一言話せば分かる。気合を入れて勉強して、頭の良さを生かせる大学に行け、と言って別れた。

サンデルさんはなかなか自分の意見を言わない人だ。相手の矛盾を突いて相手が自分で悟るのを誘導する。日本にはここまで出来る教員がいないもんな、またしようとする人もいないもんな。

TVでは編集されちゃうかな。客席で一番発言しているのが僕です。
Posted at 2012/05/30 21:32:59

名張毒ぶどう酒事件(なばりどくぶどうしゅじけん) in dubio pro reo

2012年05月31日 | ニュース
1961年3月28日の夜、三重県名張市葛尾(くずお)地区の公民館で起きた毒物混入事件。5人が死亡し、「第二の帝銀事件」として世間から騒がれた。逮捕・起訴され、容疑者の奥西勝(おくにし・まさる)は死刑判決が確定している。                                          wikipedia

奥西死刑囚の裁判のやり直しを認めなかった5月25日の名古屋高裁決定は、再審のハードルの高さを示した。                                朝日新聞、2012,5,26

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日本は三審制度を採用している。一部の例外を除いて、3回の裁判により判決は確定するのだと決めている。もっともなことだ。一億人も住んでいるのにそんなに一つの事件に時間をかけてはいられない。現状ですら一つの事件に3回も裁判をするものだから、下級裁判所の裁判官はいきおい激務となる。

傍聴するとまるで工場の流れ作業のように裁判官と検事は息を合わせて多くの事件をさばいていく。被告人は不満を感じない。感じるほどの能力がない場合が多いからだ。何が何だか分からないまま窓のない部屋の儀式は進んで行く。国選弁護人は現場を見ることもなく15分ぐらいの弁論を仕事と心得ている。

裁判所には学生を連れて何十回も行った。「神」でもあるまいし、これじゃあ間違いも起きるな。というのが僕の傍聴しての実感だ。

クルマの下にもぐって修理をすると、どうしても早く終わらせたいという心理が働いて一万回に一回ぐらいは締め付けの甘いナットがあったりしてハッとする。

裁判所はそのようなときのため4回目の裁判として再審というものを開くことがある。この再審はみだりに開くと日本の三審裁判制度の根幹を揺るがすのでほとんど開かれることはない。

このように開かずの門であった再審制度に画期的なことが起こったのが白鳥事件再審の時である。最高裁は"in dubio pro reo"の原則(疑わしきは被告人の利益に)が再審においても適用されなければならないと1975年白鳥事件に関連して示した。

そこで今回の名張毒ぶどう酒事件だが勝手な判例変更がなされたようだ。名古屋高裁は再審棄却の理由として検察側と弁護人側との争点以外にも言及している。だが、恣意的な争点の取り上げ方には司法の傲慢さを感じる。まずは客観的合理的な棄却の理由を弁護側の再審請求に沿って提示すべきなのであり、弁護側が示した根拠には言及すらしてない点もある。

たとえば、名古屋高裁は弁護側の物証に対し、毒物が「ニッカリンT」ではなかったというほどの証拠能力はないと断じた。それは、あったかもなかったかもしれないという程度の言い訳だから、まさに被告人の有利に解釈すべきものである。

棄却の理由に、「自白」の信用性についても重きを置いている。調書の信用力を保障するため、可視化の必要性が常識となりつつある現代と、1964年当時をそのまま比較してはならぬ。その証拠に「奥西死刑囚」は、調書をとり終えるや否や自らの自供を否定しその後50年以上一貫している。調書をとる時点での一定の圧力を疑ってよい。そういった50年前の、瑕疵が予見される調書も被告人の有利に解釈すべきだ。

頑迷固陋をつらぬくと、たいていは恥の上塗りになる。再審開始をためらうほど名古屋高裁は、司法への国民の信頼をなくしていく。


Posted at 2012/05/29 09:27:52

ファシストの巣窟、福岡の公立高校 その5

2012年05月31日 | 受験・学校
   
さもありなん、さもありなん。福岡県の話だ。労働組合としての実態が全くなかった、第二組合ゴマすり低脳ひがみ集団は解散した。今後は校長を囲む会としてより一層低脳ちょうちん持ちの性格を鮮明にしていくようだ。

福岡県は0時間目とか朝補習とかがあって高校の先生は大変だ。よくバカにならないもんだ。いつ教材研究するんだろう。生徒を英単語テスト、古文の助動詞の活用テストで追い込んで、日曜には模試をしてホントみなさんよく頑張る。その結果、バカになるということが分からんから高教組も非組合員も今や大差なくなった。

お先真っ暗の絶望生産工場だ。親は親で吐きそうなほど品のない服装をして式典に来る。すこしは考えろ。朝鮮人の式ではないんだぞ。

あるとき、不良の服装をして公立高校に来るなといったら言われた親が逆上した。会議室にいたらPTAの幹部の親はサングラスをして入ってきていた。クルマもバリバリ改造のキャンピングカーみたいなのできた。ごろつきだから子供も多分ごろつきだろう。

僕は客人だったが、失礼な服装とクルマはやめろと言った。公立高校に来るときはバカ車はやめろ、クラウンにしろ、それが買えなかったら西鉄バスで来いと言った。30分ぐらいいあったが、バカはいつも馬鹿にされているので言い逃れが上手だ。いつも言い逃れだけ考えて生きているから。

しかし、ここでサイエンスが低脳に言い負けたら文明は崩壊する。とにかくおかえり願ったが、学校にミーハー車で来ることの異常性について理解することはなかったようだ。糸島高校、もっとしっかりしろ。他にも福岡市周辺には吐き気がする高校が多い。筑前、玄洋、香椎、須惠、宇美商。ただただ一人の進学者もないことを祈るのみだ。屑のくせに日本人づらをしてもらっては困るのだ。

日本の邪魔になっているその無教養、汚い字、だらけた生活。そんなことをして尖閣だ竹島だと言ってほしくないのだ。

たった15年しか生きてないのに、人間はこうも差が出るのかと思わせる素晴らしい高校もある。

福岡県の柏稜高校では、ほんの数センチ女子の髪が長いと言って血しぶきがあがるほど殴りつける。ところが仙台一校では髪の長さは自由だ。50にもとどかぬ柏稜高校の偏差値に対して仙台一校はおおよそ65以上をキープしている。制服もないのだ。生徒がポケットに手を入れないようにポケットを縫いつける玄界高校とは大違いだ。

テレビで高校生クイズを見て、僕は本当に安心した。仙台のナンバースクールは冴えている。昼休みにラーメンを食いに外に出てもいい。何が悪いか。僕は家に帰って昼寝をしてから午後の授業に行くぞ。何が悪いか。意味もなく研究室からでれないアホより僕はいい授業をしている。

一校の生徒の透き通ったまなざしを見よ。集中力を見よ。正当な論議をする力を見よ。
Posted at 2012/05/27 21:01:55

お石さんの小さなトンネル

2012年05月31日 | 思想

太宰府天満宮を抜けて裏手に回り、坂をのぼりつめたところに「梅が枝もち」屋がある。かたくなる前に食べたら大変おいしいが、家に帰ってチンしたら元の味がよみがえる。

真っ赤なカバーをかけた椅子と「バンコ」に、アジサイが冴えるのももう間もなくだ。中国人や朝鮮人の金切り声を避けて、ここは静かだ。かりに外人がいたとしても、ここまで来る連中は教養もあり話がとても面白くとにかく静かだ。

その一番奥の「梅が枝もち」屋を左手に折れると小さなトンネルがある。贅沢な造りだ。福岡東方沖地震にもびくともしなかった。昭和3年、麻生太吉が寄進した。

と、パンフレットをうのみにするような無粋なことをしてはならぬ。

小さいとはいえ山をうがち強度を確保するには気絶するほどのカネがかかる。参拝者の便利をはかっただと。ばか。トンネルの向こうにはほとんど人家はない。そのほんの数人のためにトンネルを掘ったというのか。あほ。

麻生太吉は惚れた女のために掘った。お石さんが茶屋に通いやすくするために掘った。炭鉱王、麻生財閥の総帥、太吉にはあらゆる賛辞が並ぶ。麻生のクルマを見て農民は土下座したという。その太吉が何の利益にもならない寄進なぞするか。信仰心からお石の茶屋の真横の出るトンネルを掘るか。天満宮から大きくそれたトンネルを掘るか。

孫の麻生太郎はともかく、ひいじいちゃんの麻生太一は男だった。何とでも言え、これは俺とお石さんとの問題だ。お石が雨に濡れないように造った、自転車に轢かれないようにわざと小さく作った。

今でもそのトンネルは寄進されていない。麻生家の所有だ。お石さんのためにつくった証拠だ。

太一がお石さんとそのトンネルを通った記録はない。また、通れるはずもない。噂が天満宮を押しつぶしたであろう。二人には、何もなかったのだ。性欲ダボハゼどもには想像すらできないことだ。

太一もお石さんにトンネルのことは一言も話していない。それでいいのだ。お石さんは十分わかっていた。

その後も、政界、財界、文筆家、学者。一流の人がお石の茶屋に通った。しかし、お石さんの気持ちが揺らぐことはなかった。1976年、お石さんは、トンネルありがとうと心の中で呟いて独身のまま亡くなった。

総理大臣の佐藤栄作、歌人・吉井勇、第29代総理大臣・犬養毅、詩人で作詞家の野口雨情、緒方竹虎、松岡洋右。

お石さんにとってはダボハゼどもにすぎない。「ガタガタ言うなら黙ってトンネルの一つも掘ってみろ。」言いたかったに違いない。お石の茶屋に行かれたら壁を見上げてください。彼とのツーショットがあります。


Posted at 2012/05/24 10:03:49

メクラチビクロゴミ虫(学名に対応する標準和名です)

2012年05月31日 | 日常
   
低脳バカ無教養無節操下品醜悪虚弱な、地を這う虫達。ああなってこうなって・・・と考える人間特有の思想は嫌いでしょ。ぶつぎりのA=B,C=Dといったなんの発展性もないその場限りのアハハと笑って終わりの知識がとても大事みたいね。

こらえにこらえて咬んで含んで書いてきたが、よく考えると日記なんだから何も読者にサービスすることはなかった。

先日「鯛生金山」(大分県)に行ったら鉱山の中に退化した虫がいるという説明があった。「メクラチビクロゴミ虫。」 おろおろトンネルの中を這いまわっている。宮沢賢治の詩の中で見たようなオロオロ這いまわる虫達がここにいた。

そういうめくらが300万程度のクルマをローンとやらで買い、不必要なスピードを出し何も見えずそこらの電柱にぶつかる。巻き添えを食う人間や哀れだ。

と、怒り心頭なのにはわけがある。先日、このブログに書くのを楽しみに三井住友銀行に出かけた。そこでの話し合いや質問やいただく資料は一級品でワクワクしながらブログを書いてきた。ただのクルマ好きしかいないと思ったら、やはりしっかり書けたときはちゃんといいネが多い。お土産ももらうし僕の頭では分からないところも多いが、博多駅のそばの銀行は僕のオアシスだ。

悲劇はそこで起こった。いつも行っているので地下から回る裏口を見つけた。何気なく今日はそこから行こうとした。身なりを整えていると一人の男が近づいてきた。

グダグダぬかしていたが要するに「ゆすり」だ。日本も落ちたな。こりゃまるで朝鮮だ。日本人がゆすられている人を助けるはずはない。みんな見て見ぬふりをしている。地下に向かう広い階段は、ゆすりの男と僕だけしかいない気持ちになった。

僕は見くびられた。たった一人の男からゆすられている。5、6人からゆすられたら僕は怖くてカネを出した。しかし、たった一人だ。たった一人。僕はとうとうたった一人からゆすられる男になってしまった。

僕は階段に腰掛けて男を見ないで言った。

「僕はもうとてもきついからよそに行ってくれ。」

もっとかわいそうな虫がいた。 チョウセンゴクツブシ科 チョウセンメクラチビゴミムシダマシ

Posted at 2012/05/23 09:40:29

太平燕(タイピーエン)

2012年05月31日 | ニュース
   
太平燕(タイピーエン)・酢排骨(酢豚)・干焼蝦仁(小海老のチリソース)・清作鶏(ハーブ鶏と夏野菜の揚物) ・炒飯 (パリパリ焼きソバも可)・杏仁豆腐 計6品で1575円だ。 熊本の紅蘭亭。

おいしいだけの料理ならどこにもある。その料理をいただきながら中国旅行、香港旅行、シンガポール旅行、台湾旅行をしている気分にさせてもらえなければ、わざわざ福岡から来た意味がない。杏仁豆腐の優しいこと。いやなことは全部忘れなさいと言ってくれる。太平燕は元気を出せよとしっかり歯ごたえのある肉をさしだす。酢豚はまろやかな肉だが噛むと「ころも」がはがれその肉の大きさに驚く。干焼蝦仁は、やや大味の辛みがきいている。家ではどうしても出せない味だから本当に食べていて楽しい。なんと言っても太平燕(タイピーエン)が圧巻だ。そこらのちゃんぽんみたいにどぎつくない。かといってうす味でもなく味の芸術だ。

熊本は戦前、九州の中心だった。今でもその伝統は生きていて肝心な古本、辞書、背広、時計を求めようとすると福岡ではダメだ。靴の技術者ももはや福岡にはいない。そのうち紹介していこうと思う。

青筋立ててタイヤを鳴らし、何かのひがみを振り払おうと狂ったように疾走する危険きわまりない族たちは、あまり中心部には近寄らないようだ。たしかに田舎は田舎だ。ピンヒールにソックスをはいていた。なれぬヒールにどいつもこいつもひざを曲げ猿のようだ。

みんなが移動手段としてクルマに頼ってないのがいいのかな。市電、菊池電鉄、バス、JR。都心に住めばクルマはいらない。

ところで、途中に植木という町がある。半年前の話だが、そこのスーパーで買い物をした。もう二度と来ないところかもしれないのであたりを散歩した。すると軽自動車がするすると人の歩く程度のスピードで歩道を走ってきた。その軽はそのまま直進して交差点の横断歩道を横切り、向かい側の電柱にぶつかって停止した。

僕は軽の進行方向にいたが、軽のスピードが遅かったので大丈夫だった。軽の運転手は女性で明らかに発作をおこしていた。なんの発作かは分からないが危ないと思った。ところが、駆け付けた警官は、あきらかに訓練をうけた人ではなかった。彼女の痙攣する腕を無理に押さえつけようとし彼女は泡をふきだした。舌を咬まないようにしないといけない。吐しゃ物が肺に入っては致命的なことになる。警官は二人もいてバカなことしかしなかった。なんと一人は記録をとっている。毛布があるのに使おうとしない。事件が少ないところかな。僕は気道を確保しないと彼女は死ぬと思った。

じつは僕は救命の資格がある。ところが使ったことはない。新幹線の中でも資格のある人を呼ばれることがある。僕は行かない。その結果死んだら僕のせいになるからだ。僕がどんなに努力して助けようと思っても、その結果死んだら僕の責任になる。日本はそういう国になった。

この軽に乗った女性がその後どうなったかは知らない。器具もない僕は立ち去ったから。

Posted at 2012/05/21 00:16:25

麦秋にのびる道

2012年05月31日 | 東洋歴史
西部軍司令部は現在の福岡高等裁判所跡地におかれていた。その司令部の裏に防空指揮所があった。福岡大空襲があり、たった一機のB29すら撃墜できずガソリンでアリを焼くように福岡市民は死んだ。

陸軍はわざと国民に米軍の実力を低く思わせることにより、自らの権威の延命を図っていた。

防空壕は自宅の庭に掘れ。この一言の命令により1000名が燻製になった。

焼夷弾が天井で止まらないように天井をはがせ。畳に落ちた焼夷弾はバケツの水で消せ。この一言の命令により、住民は即座に黒焦げになるか、ゼリー状のガソリンのケロイドにその後50年苦しんだ。それを避けるにはひたすら逃げて運が良いことを願うほかに道はなかった。だが、軍はそれを臆病だとして許さなかった。

身を鴻毛の軽きに置いた陛下の軍隊は、国民を守るためのものではなく、まさに陛下を守るため存在していたのだ。隣町の消防団は福岡に駆けつけ水でナパームを消そうとした。ところが、軍にはそういう施設すらなかった。

福岡大空襲の翌日になると時限爆弾が爆発し始め女子供が死んだ。

陸軍のレーダー網はお粗末この上ない。2か所の送信所の上空を敵機が通るとドップラー効果により反射波にうなりが生じる。この上なくバカだ。敵か味方か何機か方向も高度もとにかくなんにも分からない。そのころアメリカじゃ中学校でドップラー効果の実験をして教えている。

しかも、福岡に対空施設はなかった。空襲のあと天神(福岡の中心地)ではステーキの臭いがしたという。軍は戦闘機のパイロットに空襲あとを見せて回った。敵愾心を高揚させようという意図だ。19,20歳のパイロットたち、さぞや鬼畜米英に燃えたことだろう。しかし、低出力のエンジンでは体当たりすらできない。

最初っから全く勝ち目のない戦いだった。日本軍には蟷螂の斧すらなかったのだ。

ところが、軍は運よく被害のなかった軍管区司令部を、今のうちに移転させようと考えた。「徹底抗戦」のスローガンに軍自体が酔っていた。また移転したところで勝ち目はないのだ。敵は200倍の飛行機を持ち、20対1の比率でゼロ戦を落としている。つまり4000対1の力の差がある。

ならば、逃げるに越したことはない。どうせ軍にB29を落とす力はない。とどく弾がないのだ。とどく飛行機がないのだ。そう考えた時点で、軍は逃げ惑う烏合の衆に堕している。

山家(やまえ)という福岡の南30キロ程度の山を掘り司令部壕とした。つまり、B29の落とす紅蓮の炎に怖気づいたのだ。

僕は思う。だったら国民にエラそうなこと言いなさんな。自分だけ穴にこもって助かるつもりか。

壕の中には100式司偵(偵察機)が2機あった。やばくなったらすべてを捨てて逃げるつもりだったのだ。写真は臨時飛行場跡。

逃げる算段を第一に考えた高級将校という臆病ものの群れは、陛下の軍隊がみせた一つの実像だった。

Posted at 2012/05/19 22:05:39

考える兵隊

2012年05月31日 | 学問
日本軍の場合は、「おいちょっとそこの兵隊、このトラックを動かせ。」といっても、「免許持ちません。」となるのがオチだった。ところが、ヤンキーどもはほとんど免許を持っていた。クルマなしに彼女にモテるはずない。

こういうほんのちょっとしたことの積み重ねが戦場では大きな力となる。

太平洋の島嶼部における接近戦では手榴弾の投げ合いとなることもあった。ベースボールクラブの投球力はこんなところで役立った。

なにも体力ばかりではない。ヤンキーのphysicsの教科書を見ると日本軍の敗因が書いてある気がした。

「断じて行えば鬼神もこれを避く」とか何とか中国と戦争してるのに中国の故事に酔う能天気将軍たち。20世紀だというのに精神主義だ。勝つわけなかろ。

日本も憲法改正して軍隊を持ちたいそうだが精神力万能主義はごめんだな。

ところで、ヤンキーの物理の教科書は素晴らしかった。安易に答えを与えてない。また、とてつもなく難しい問題が平気で出ている。つまり、米軍は教育のなんたるかをよく理解しているのだ。教育で大事なのは答えではない。そんなもの出てもでなくても、正解だろうが間違っていようがどうでもいい。大事なのは、ああでもないこうでもないと考えることだ。

砲の仰角と二つの支持脚の開角度を求めさせていた。たいていどうでも弾は飛ぶが、照準に正しく飛ばせるにはちょっとした関数が必要だ。もちろんヤンキーたちがこんな問題解けるはずはない。ただ彼らは考える。ああでもないこうでもないと考える。かえって数学が得意なやつはいない方がいい。

いろいろ工夫してみることが頭の訓練になるんだ。そして、思わぬところでそれが問題解決の発想になったりする。

わけも分からず徴兵された尋常高等小学校上りが、意味も分からず丸暗記した軍人勅諭や戦陣訓は大量自殺する宗教集団を生んだ。勲7等とか8等とかでごまかされた、名誉の戦死の兵や哀れだ。

敵の弾と味方の弾の板挟みになって兵は死んだ。そして、その兵に死ねと言った下士官も死んだ。その下士官に死ねと言った尉官も死んだ。しかし、日本軍は佐官が最も生き残った軍隊だ。不条理に包まれた軍隊が勝とうものか。

米軍がわずか25万の死者で太平洋戦争を乗り切ったのは物量の差ではない。新兵訓練で叩き込まれたのが精神主義ではなくて合理主義だったからだ。
Posted at 2012/05/17 21:47:53

紫電改は邀撃に飛んだ。カラの掩体壕が残った。松山343航空隊。

2012年05月24日 | 東洋歴史
僕が松山にいたとき、そばに掩体壕があった。大村みたいに、勘違いして子供の遊園地にしたりしてない。血を吐く苦労、必勝の夢、それらが気絶するほど詰まった掩体壕だ。

とくに松山の掩体壕は変な格好をしている。紫電改が規定の掩体壕に入らなかったのだろうか。カブトガニみたいにしっぽが出た形をしている。必要以上にふんだんにコンクリートを使ってある。やけくそになっていたのが伝わってくる。あとがないことぐらい上層部は分かっていたな。わずか3カ月後に狂気の掩体壕づくりは終わった。

というのも343部隊が松山に来るのは昭和20年の3月19日だ。5月3日には去る。今はもう松山の人はほとんど知らない。

源田サーカスと言われた曲芸的飛行機乗りが、戦争の土壇場で米軍に一矢を報いたと考えたくなるのは当然だ。希望は語られるうちに事実になる。

あにはからんや、ペテン師源田は飛行機乗りとしてはすぐれていたが戦略家としてはもちろん、政治家として時代遅れの不用な人物だった。

「すぐれた搭乗員が戦線の各地に分散していて有効な運用ができないでいたので、一か所に集めて集中運用した。」

これは源田ファンの作りだしたまぼろしである。ほかのどの部隊でも優れた搭乗員を確保しようと必死になっていた。パイロットは3カ月程度で移動するのが通常であった。こうすることで錬度の平均化と情報の共有化を図るのだ。運動会で競争をしているのではない、帝国海軍は戦争をしている。

「無線機を有効活用した。」

これも違う。松山から飛び立ち豊後水道で戦う程度の無線機は、いくら日本の無線機の性能が悪いとはいえどの部隊でも可能であった。かりに優れた無線機があったとしても343部隊だけで独占することは許されない。他の部隊でも優れた無線機はのどから手が出るほど欲しいものだった。他の部隊が無線機に無関心であったかのように述べ、源田だけに先見の明があったように主張するのはひどい誤りだ。さらに、AM変調の無線機の性能はいずれにしろたかが知れている。

「偵察機、彩雲を飛ばし情報収集に努めた。」

なにをいうか、戦闘の前に偵察機を飛ばさないときは自殺攻撃の時だけだ。それにしては2回も原爆を積んだB29を見逃している。

しかもやってはならぬルール違反がある。国民は相当バカにされている。撃墜、被撃墜機数の操作である。被撃墜機数が米:日で62:34と源田は言った。戦後よく調べると34:50だった。こんなことがいくらでもある。大西瀧二郎に体当たり自殺攻撃を進言したのも源田だ。戦後国会議員になる。源田は上位4位の当選だった。息子を無駄に死に追いやったやつによくも投票したな。バカ国民。

紫電改自体が遅すぎた戦闘機だ。歴戦の勇士が整備不良製造ミスで死んだ。しかも川西のような中小企業では500機造るのがやっとだった。アメリカはコルセアのような欠陥機ですら、容易にゼロ戦を落とした。そのコルセアは25000機造られた。

空っぽの掩体壕が残った。(掩体壕:飛行機用の防空壕)

せめて俺を敵の弾で殺せ。機体不調、銃の不良で殺すな。真の寡黙な撃墜王は思ったはずだ。鴛淵少佐、 菅野中佐、僕は忘れない。

Posted at 2012/05/07 10:08:47

さあ、補助金出せるもんなら出してみろ。

2012年05月14日 | クルマ
タイカブ100EX 主要諸元 型式 HA05 全長×全幅×全高(m) 1.835×0.670×1.035 軸距(m) 1.185
最低地上高(m) 0.130 シート高(m) 0.760 車両重量/乾燥重量(kg) 93/89 乗車定員(人) 2 燃費(km/L)50km/h定地走行テスト値 73.0 最小回転半径(m) 1.8 エンジン型式 HA05E(空冷・4サイクル・OHC単気筒) 総排気量(cm3) 97 内径×行程(mm) 50.0×49.5 圧縮比 8.8 最高出力(PS/rpm) 8.0/8,000 最大トルク(kg-m/rpm) 0.83/6,000 キャブレター型式 PB88 始動方式 キック式・セルフ式併用 点火方式 CDI式マグネット点火 潤滑方式 圧送飛沫併用式 潤滑油容量(L) 0.9 燃料タンク容量(L) 3.6 クラッチ形式 湿式多板コイルスプリング・自動遠心式 変速機形式 常時噛合式4段リターン(停車時はロータリー式)
変速比 1速 2.833
変速比 2速 1.705
変速比 3速 1.238
変速比 4速 0.958
減速比(1次/2次) 4.058/2.466
キャスター(度)/トレール(mm) 26°30′/75 タイヤサイズ 前 2.25-17-4PR タイヤサイズ 後 2.50-17-6PR ブレーキ形式 前/後 機械式リーディング・トレーリング
懸架方式 前 テレスコピック式
懸架方式 後 スイング・アーム式
フレーム形式 バックボーン

これ以上のエコな走りをする乗りモノがほかにあるか。補助金出せるものなら出してみろ。条件はすべて満たしているぞ。1リッターで50キロ走る。ツーリングに行けばリッター60キロだ。

ほぼスクエアなエンジンからは最大トルク回転の低い粘り強いエンジン音がする。キックセル併用はとても安心だ。8000回転回れば十分だ。100キロ出る。低脳バイクボーイ達が馬力だ馬力だとわめくから、使いもしない回転数で力を出す奇形児バイクが増えた。

風防をつけていると冬もそれほど寒くない。88年に購入してから風防は3回チェーンも3回タイヤは数知れないほど交換した。およそあらゆる故障をした。しかし、8万キロ走った。

さあ、今からでも遅くない。エコに貢献した補助金もらおうか。

Posted at 2012/05/14 21:50:55

勇者は語らず。外村彰さん、やすらかに。

2012年05月14日 | 学問
戦後、実験物理で最高の業績をあげた外村彰さんが死んだ。70歳。理学博士と工学博士の称号を持つ。これらの称号を持つ者は日本に数千人しかいない。それを一人で二つも持っている。

たとえば医者は多い。弁護士も多い。しかし医者で弁護士は少ない。これを理系に置き換えたのが外村さんだ。

実験物理の人は早く死ぬ。地方の大学で高校の物理みたいなことやってれば長生きするがそんな人は科学者ではない。外村さんは自分をずっと最前線においてきた。10年前、お顔に死相が出ているのが分かった。知の最前線で戦う人に周囲の人はもはや何も言えなかったようだ。

温厚な性格をしておられたが、自分の能力対研究結果という対峙においては命がけで取り組んでおられた。

理論物理とは異なり、実験物理は頭自体の出来の良さが必要で、それなしにはものにならない。努力でごまかせない世界だ。


海外においては、二重スリット実験の追試者として有名だ。高校の物理でも出てくる実験だ。だが高校では一番面白いことを言わずに素通りする。

一個の電子が電子銃から打ちだされわずかに離れた2本の隙間の開いた壁に向かう。その向こうのスクリーンに電子がぶつかると電子のかげが写る。無限に近く電子を打ち出すと2本のスリットを通った電子どおし干渉が起こってスクリーンに縞模様があらわれる。

池に同時に同じ大きさの2個の石を近い位置に投げいれたとき、波の強いところとないところがあらわれる。これも干渉である。電子も池に投げられた石のように電子銃から発射された波なのである。

しかも電子の場合は一個でも干渉渦を作る。

ここまで読んできた人はかなり能力のある人だ。電子は波だから一個の電子であっても2個のスリットを通り抜けスクリーンに干渉渦を作るということ。外村さんはこの実験をきれいに行った。このような実験はきれいに行うことが肝要だ。真空度は十分か、電場磁場の影響は無視できるほど小さいか、電子銃は均質な速度の電子を打ち出しているか、スクリーンに不純物はないか。

ところがこのような実験を邪魔する不純物の影響を消し去ることはできない。そこで計算でそれを除外するのだ。これが実験物理の人の寿命を縮める。

外村さんはご存命なら確実にノーベル賞をとった人だ。

知らないトンネル

2012年05月14日 | 東洋歴史
 福岡県八女市立花町谷川1742に、戦時中、軍の格納庫として使用するために、全長112メートル、幅約4メートルのトンネル が掘られた。トンネルは軍事機密でもあり作業も危険なため女子供を動員したりしていない。陸軍の技術将校が入念な調査をしたのち、軍人軍属を使って突貫工事で掘られた。

112mの全長において、約5メートルおきに両側に枝線が延びている。

トンネルは未完成だと聞いたがそれは誤っている。完成するということはない。勝つまで掘りつづけるんだ。軍需物資秘蔵トンネルとして使いつつさらに掘り進めている。

ツルハシのあとが悲しい。小日本は近代戦をツルハシで戦った。いかに物資と技術がアンバランスであったか。物資。ドリルと電源があれば苦もなくトンネルは貫通していたはずだ。入り口だけ体裁をつけたべトン。

技術。見事なトンネル曲線と、全長の両側をわずかに低くして排水に考慮している芸の細かさ。自然の地形を利用して見事に入口を隠している。しかも50メートルぐらい離れてもう一本トンネルがある。それは村人の通行用の100mほどのトンネルだ。あまりにも目立ちすぎるそのトンネルはダミーの役割をした。二つのトンネルは中央で連結していた。軍はアリの巣のようにトンネルを掘り、火器弾薬の保管を目指していた。

枝線に入ると明らかに掘りかけのあとが見えた。終戦になったんだ。

今はワイン倉庫になっている。2月ごろ観梅会とあわせ、トンネルが開放されにぎわうようだ。

悲しいことにトンネルを正しく説明したものがない。こんなことではいずれ忘れられてしまう。「戦争中飛行機を格納したそうです。」という説明もあった。ばか。幅4メートルのトンネルに飛行機が入るか。

「軍の資材を入れたそうです。」というのもあった。ばか。そんなもん外に置いてカムフラージュすればよい。そんなことのためトンネルを掘るはずなかろうが。

亀の甲、岡山飛行場関連の火器類を保管したんだ。しかし、僕もこれ以上は分からない。知っている人と会うことはできなかった。

アホ八女市、きちんと資料を保存せんか。トンネルの中に竹の灯篭を置いて、ああきれいだと感激する能天気相手に特産品を売るばかりが能ではないぞ。


写真はダミーの方のトンネルです。本物のトンネルの入口は下品な赤レンガに変わり、まさに田舎の醜悪さそのものとなったので載せません。
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Posted at 2012/05/02 10:44:47

 

 

 

 


昭和18年。 遷都候補地の一つは、京城(ソウル)もう一つは福岡県八女市だった。

2012年05月01日 | 東洋歴史
 
昭和18年になると帝都東京に大規模な空襲が予想されるようになる。そこで中枢機能だけでも移しておく必要性が高まってきた。東条だけが帝都への敵機の侵入は一機もないと言い張っていたが、米軍機は毎日のように侵入し焼きつくすための資料を作っていたのだ。

貧乏国日本はただでさえ戦力の集中運用が必要なのに、陸軍と海軍と政府がそれぞれ違う夢を見ていた。

とくに海軍は、戦略的にも戦術的にも何の成果をあげることなく壊滅した。一年や二年暴れてみせますという大ウソを、天皇に対してついたのは連合艦隊長官山本だ。一億特攻のさきがけとなれと言われたら、軍令部はなぜか納得して大和の3000人は死んだ。

弱いくせにケンカを挑んで負けっぱなしで、あげくのはてに自殺攻撃しか手がなくなる。

陸軍は陸軍で明治にできたボルトアクションの銃で戦い、砲は大正時代の骨とう品だった。しかも海軍との連絡の悪さから多くの戦機を逃す。人口六千万の貧乏国が七百二十万の軍隊を抱えていた。その中に朝鮮軍、関東軍、内地、中支派遣軍、・・・など複雑な指揮系統になっており当の陸軍自体が混乱している。

政府も一部で終戦工作をするかと思えば、一部では徹底抗戦を叫ぶ者もいた。米軍が、言を左右にする島国のサルを信用しなかったのも当たり前だ。

遷都の予定地に京城(ソウル)が入っているということは、朝鮮の治安の良さを物語っている。京城市内龍山(りゅうざん)には、きわめて精鋭の部隊が無傷で残っていた。かといって大勢には何の影響もないが。やはり首都が外地に逃げ出すのはまずいと考えたのだろう。福岡県八女市が主たる候補地となった。

絶対に実現しない。計画だけでも何年もかかるのに、目の前に米軍が迫って何をしようとしたんだろう。多くの費用を使って結局遷都は取りやめになった。貧乏国こそ節約して事に当たるべきなのに浪費した。なんと言う倒錯した役人、軍人たちか。

おまけに陸軍はバカの上塗りをしている。

ちかくの亀の甲龍が原(地名、かめのこう たつがはら)に大刀洗飛行学校筑後分教場(岡山飛行場)を建設しようとして近くの学校の生徒たちを動員した。飛行場建設は昭和20年になっても続く。2キロほど離れた川から人力で石を運ばせた。トラック一台が10分で運べる量を、何千人がお国のためと信じて一日かけて運んだ。拷問にひとしかった。そして最後まで飛行場は完成しない。

頑張って負けたのならあきらめもつく。しかし、建設作業の途中から明らかに無駄だと分かっていることを強要したのは戦争犯罪だ。なぜなら、どこに飛行機があった。どこに戦闘にまにあう搭乗員がいた。どこに訓練や攻撃のための燃料があった。グラマンを撃ち落とす対空施設がどこにあった。

子供たちの終戦は、石運びからの解放だった。
Posted at 2012/04/30 21:07:44
 
 
 
 
 

大日本猟友会。まったく何も間違ってないぞ。クマ射殺は当然だ。

2012年05月01日 | ニュース
複数のヒグマがおりから逃げ出し、75歳と69歳の女性従業員2人が遺体で見つかった。遺体にはかみ傷とみられる複数の傷があった。おりの周囲には逃げ出したクマがおり、地元猟友会が6頭を射殺した。
                                      =20日午後3時8分、秋田県鹿角市

この事件に関しては、皆さんブログやコメントで書いておられるので、付け加えたい意見だけ述べたいと思う。しかも僕は九州のハンターだ。九州に野生の熊はいない。だからヒグマの怖さは実感として分からない。ただ、習性は知っている。

あまりにも銃と動物との関係を知らないでものを言う、アホ自然運動家に申し上げたくて書いている。ちょうど社民党の夢物語を聞いているようだ。世界全体には自分のようなお人好ししか住んでないと思っている。

猟友会のじいちゃんは泣く思いで射殺したんだぞ。山を愛する人はそこにすむ動物もみんな合わせて愛しているんだ。

「山に帰せ」と簡単に言うが、人を食ったクマは必ず里に来る。ここで能天気は反論する。「アメリカではピーナツと一緒に遠くに放しているぞ」なんてことを言う。ばか。そりゃアメリカの話だ。山に帰すといっても数百キロ離れた人跡未踏の地に放すのだ。

四足動物を撃つ時は必ず水平撃ちになる。獲物が空を飛んでいるなら筒先(銃身の延長線上、ほぼその線上を弾が走る)のむこうに生き物はいないが、水平撃ちは獲物を狙うだけでは必ず事故が起こる。獲物のむこう側に人がいることが実に多い。それを即座に計算しつつクマ撃ち銃で6頭も仕留めるとはすごい。

クマを囲んで撃つとクマの反対側にいる人に弾が当たる危険性がある。しかし半円形になって撃つとクマに逃げてくださいというようなものだ。

家の周りをうろつく狂犬は撃ち殺さなければならない。

犬に追い立てさせろという意見もあった。そしたらその犬は即座に天国に行くぞ。

ステーキは食うくせに、殺される場面を見るのはかわいそうだというのは、本当に身勝手な意見だ。

どこまで低脳なんだろう。事件事故はあまり書かないようにしている。よく落ちついて評価が定まって多方面からの意見が出尽くし、時がある程度流れると、よい議論ができそうだからだ。

しかし、僕は使命を感じた。今日も有害鳥獣駆除に山を駆け野を巡るじいちゃんたちを侮辱する論調は許さない。
Posted at 2012/04/24 09:19:42

六光星の修猷 五光星の陸軍

2012年05月01日 | 受験・学校
六光星の由来(福岡県最高峰の修猷館高校の校章)

 伝統に輝く六光星の徽章は明治28年,日清戦争直後の興隆する国運を背景に制定された。その由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであって,日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。
 なおこの星は,北極星をかたどったものであり,永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。  < 修猷館高校のホームページより引用

元来この高校は反骨の士を数多く輩出している。広田弘毅、中野正剛・・

ところが近来これと言った人物が出ていない。偏差値は気絶するほど高く、おそらくそこらの不潔高校が三年間かかって学ぶ量を一日で学ぶ。

それにしてはこのごろ腑抜けが多いぞ、修猷館。僕らの時代には、僕の高校はラグビーの試合となると修猷に絶対勝てなかった。ところがこの頃、簡単にそこらの私立に負けている。

「伝統に輝く六光星の徽章」、この意味をかみしめろ。女子生徒のセーラー服の背中に光る星はデザインではない。五光星ではなく六光星だというところに修猷の修猷たる大きな意味がある。

偏屈低脳で威張り散らすことしかできないお粗末陸軍は、その六光星が気に入らなかった。帝国陸軍より光が多いじゃないか。陸軍は五光星だった。

帝国陸軍は軍の中の修猷閥を利用して圧力をかけた。今なら、はいはいとしっぽを振ってよだれを垂らして軍に迎合するだろう。軍が消滅した今は県教育委員会にしっぽを振るか。

そうして県教委に平身低頭ゴマをすり、修猷の校長になるやつもいる。そういうバカのおかげで、学問は時の権力に迎合するのが当たり前になってしまった。

戦前、帝国陸軍の権力が絶頂のころ、学校に配置された配属将校は校長より強い権限を持った。

政府、軍、県、父母会、在郷軍人会、まさに四面楚歌の状況の中で修猷館は校章を変えなかった。

お国の一大事に、軍人さんに逆らうなんて、自分だけ違っていいと思うのか、・・ありとあらゆる罵声の中、修猷は校章を守った。

しょせん、校章なんてただのマークにすぎない。だが、ファシストたちの言いなり小僧と同列に扱われるのは悔しいじゃないか。なぜかって?1600年から続いた学び舎に、100年もならないひよ子がグダグダぬかすのは、バカの錯乱だ。4,5年したらそのバカは消滅した。