か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

クリスマスリース 

2022年12月23日 | 日常
いっぺんにすると楽しみが半減する。すこしづつ。

松ぼっくりを拾ってきて塗装。雪の感じがうまく行ったが全体を真っ白にして金縁の松ぼっくりもなかなか似合う。

緑のボールは買った。30円。ベルは去年の使いまわし。プレゼントの箱は一個10円程度。いったいこの値段でどこで作っているのだろう。

意外にも最もむずかしかったのはそれらの配置。一日に2,3個と決めて一週間かけた。


リースの土台は山から蔦を取ってきて乾燥させておいた。ニス塗り、銅線で縛る。来年はもっと良いものを目指そう。

楽しいから。

ウソはしきりと絶叫する 98

2022年12月20日 | 韓国
<前回のつづき> 

1945年、日本が負けたという知らせを聞いて道に飛び出し喜んだ朝鮮人たち。以後、彼らは自分たちの前に繰り広げられる分断と貧困という残酷な未来を思い描いていたならそんなに喜ぶことができただろうか。実際、日本が負けたのち朝鮮半島に住んでいた日本人60万人は引き潮のように日本に帰国したが日本に住んでいた朝鮮人100万人はほとんど帰国しないでいまだ日本に住んでいる。


しかたない事情で帰国することができなかった人もいただろうが大部分の在日朝鮮人は貧しい祖国に帰り困難な生活をするよりは差別を受けつつも日本人として生きていく道を選んだ。このような意味から朝鮮半島に住んでいた住民に1945年の「光復」は(光を再び回復という意味の独立なのであるが朝鮮にいつそのような光があったのか)解放ではなく災難の始まりだった。連合軍はすでに第2次大戦が終了する直前日本が明治維新以後獲得したすべての海外領土を没収するという原則を立て日本を処理したのだから朝鮮半島が日本から分離されるというのは我々としては不可抗力だったのである。その処置によって日本はサハリン、朝鮮、日本列島などの5個の地域に分割された。


日本からの分離がどうすることもできないことだとしたら朝鮮半島は戦後モスクワ3相会議でアメリカ、イギリス、ソ連が決めた5年信託統治案でさえも同意した方がよかったのだ。当時朝鮮の左翼はすべて信託統治案に賛成する立場だったのだが金九、李承晩など右翼が反信託統治運動に固執するあまり朝鮮半島の分断を固定化してしまった。信託統治を受け入れていたなら強大国の力を借りて現代的な法体系と政治経済体制を備える過渡期を経て日本のように統一国家として独立することができたのではないかと思う。


そしてさらに賢明な選択は我々自らが日本の一部であるということを主張しつつ独立を拒否することだった。国家だ民族だという荒唐無稽な概念を持ち出して過去100年の歴史を新たに見なおすというなら、われらの「独立」イデオロギーのゆがんだ姿と出会うだろう。



[1-6]ハワイとプエルトリコの場合  p101

カテゴリー 「新 親日派のための弁明」 キム=ワンソプ 第1部 アジアの夜明け

ハワイに人が住み始めたのは5世紀ごろ。ポリネシア地域から渡ってきた民族が定着してからだった。帝国主義の時代欧州人は熱帯の太平洋地域を大きく3個に区分し赤道北部をマイクロネシア(小諸島)、赤道南部はメラネシア(色が黒い人が住む)、そして東方をポリネシア(多くの諸島)と呼んだ。以後ハワイ群島からは長い間部族間の戦争が続き平和な時期はまれだ。しかし、1782年にカメハメハ1世が史上初めて統一し統一王国をなす。


西欧社会にハワイが知られるのは1778年ジェームズ=クック船長がこの地を発見してからである。以後西欧人が進出し始めてハワイはアメリカと極東を結ぶ太平洋の交通の中心地として発展したのである。クジラ捕りのために出港したいろんな国の捕鯨船が停泊する港に利用したりもした。その後ハワイにはアメリカ人を中心にした外国人の足取りが頻繁になったが19世紀初に宣教師たちによるキリスト教が伝えられた。

<つづく>

大切なものは目には見えないんだよ

2022年12月18日 | 日常
タイトル画像はmoke treeというそうだ。色が少ない冬の玄関には貴重な色。



L’essentiel est invisible pour les yeux. カッコつけるつもりはなく、サンテクジュペリ、「星の王子様」から引用しただけ。


昨日から寒くなった。今朝は雪が積もっていた。九州の平野では一大事だ。2㎝。


雪が降って気がついた。
雪のなかで花が目立った。庭にはいろんな色があると知った。山茶花はお気に入りだったが、ほかにもいろんな色があった。少しの雪でこうも景色は変わるのか。
マンリョウ

雪が降って気がついた。
ありがたい庭の草木。普段気が付かないが頑張って生きている。

雪割草


雪の重さで山茶花は下を向く。


ぼくが書いてきたものはその多くが、
あれが不満、これが気に食わないと言いっぱなしのブログだが、ちょっと

stop the complaints.   look around. 

見方を変えると普段気が付かなかった姿や意味を教えてくれる。
 
L’essentiel est invisible pour les yeux.

今作りかけのクリスマスリース。たまたま教諭の資格があったので特別支援学校で4年間もボランティアした。そこで人間の抱え方と紙細工を学んだ。きつかったが「うつ」を治すため。4年で寛かい。巨乳看護婦さんと話せたので治った。他のことは効果ない。



クリスマスリース、
24日までには完成して紹介します。使いまわしもなく緑の玉以外はすべて裏山から持ってきたもの。あるいは新聞紙雑誌を切って縫って工作。

自慢できるよう頑張ります。
ほぼ完成状態



昨今の日常

2022年12月13日 | 日常
昭和のモノを集めている。なんだろうね。この気持ち。よくよく思い出すと、さほど楽しくもなかった気がしてくる。

だけど昭和のデッドストックを見つけると、モノの向こうに小学生のぼくがいる。汚いズックをはいて、「ふせ」があたったズボンをはいて、転んでケガをして、・・・。

アルマイトの弁当箱。

矢車弁当箱とある。図柄は矢車草。心がこもっていると思うのは僕の錯覚か。

昭和。路地には、よその子でも悪いことをすると叱ってくれるおじさんがいた。僕はそれを経験し判断力をつけた。僕は成績抜群の「できる子」だったが、学校の道徳の時間で学んだことはない。

男子用。一回り大きい。

昭和のぼくらはこのヨットを見て夢を広げた。海の男になった自分を考えた。ヤングスクール弁当箱。貧しい時代。バナナが入っているのは遠足のときだけ。バランとか金魚(小さな醤油さし)。そんなものまで貴重で当然使いまわし。


家に帰ると強いおやじがいた。その背中を見て僕もこんな大人になろうと思った。

地域にはゴロツキもいるしヤクザもいた。子供どころか大の大人がけんかしていた。少年は大人の暴力を見ておののいた。

だが今と違う点。一つ上げる。地域に自律性があった。わが子中心利己主義ではなく、社会正義を教えるおやじはそこらに大勢いた。もちろんチンピラも多くいたが子供はそれを見て、肌でどんな大人になればよいかを学んだ。



一方、現在の我が家。今家族のだれも僕の言うことを聞かない。

僕は庭の掃除は必要ないというのだ。だってこれ。
散った花びらがあるから風情が出るというもんだ。


分からないやつばかりなので、一計を案じる。

それは落とし穴。深く掘った。僕は庭から悲鳴がするのを待った。

計画は失敗し悲惨な報復が来た。



猫にも笑われた。



ほとんど病気です   @キャンプ飯

2022年12月04日 | キャンプ
ときどきキャンプに行って飯を食いコーヒーを飲み本を読みうとうとして帰る。

Book offは本の新しさだけで値段をつけているので、びっくりするような本が100円。ありがたい。


こんな画像は他人が見ても何ともないが、ぼくにとっては至福の時の記録。カメラがない時もあったので少なくともこの2倍はキャンプ飯した。ひと月で。

目に見えるものがつまらないものばかりでも、大事なものが潜んでいたりする。

星の王子さまは言う。
 L’essentiel est invisible pour les yeux.「たいせつなものは目に見えないんだよ。」