か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

宮本笑里(Vn)、金子鈴太郎(Vc)、加藤昌則(pf) "birth"

2016年02月28日 | 音楽

リサイタルツアーの最後は福岡県柳川市であった。汚く、照明が下品で、寒く、イスが小さく、響きが悪い、市民会館であった。どうしたらこんなに最悪なものの集合体が作れるのか。

だが、それは大体田舎役所のやることだから想像はつく。そこの人間はそれにも増して悪質だった。

年金は高すぎるのではないか。S席に座るカネがあるのなら、田の草取りでもしてカネは市役所に返せ。

農民や労働者階級も音の芸術に大いに触れてほしい。僕は願う。一度でいいから天才とは何か、努力とは何かに思いをはせろ。ところが、寝たり、手遊びをしたり、飽きてもぞもぞしたり、はたまた隣の席のババアと話し始める。手のかかる連中だ。

僕は一年前に決心をしてもう諍(いさか)いは起こさないことにした。が、せっかく1年続いたのに我慢のカウントはリセットされた。バカは誰でも知っている曲になると、なんとボールペンで指揮を振り出した。

何度か小さく小突いて注意していたが、分からないようだったので紙を丸めてスッパーンとはたいた。どうも悔しかったらしくこんどはボールペンのキャップを持って小さく指揮をとっていた。

自分はとても音楽に造詣が深いのだ、といいたいらしい。それにしては爪に泥が・・・

宮本笑里(えみり)については

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%AC%91%E9%87%8C

たとえば、勉強で貧乏人が努力して金持ちに勝つことはありうる。よく考えなければならない。それは貧乏人が勉強で勝っただけであり金持ちになったのではない。

金持ちに僕の様に喧嘩っ早いのはいない。数百年も金持ちが続くと一度ぐらい転落して貧乏になろうが、DNAに刻まれたものは動じない。すぐ回復だ。

宮本さんを見ていてそう思った。一曲ぐらいは仕込めば僕も弾ける。だが、そんなことでなんになる。一方僕は、痴呆と客席でケンカしている。

宮本さんはゆったりとした陽だまりのような雰囲気をステージに残し消えた。

ときとして激しいバイオリンになるとパンフにあった。違う。それは曲が激しいのであり彼女の弓は優しかった。

かたや僕は、絶望の土着民と天使のささやきの間でもがいていた。

お子様が生まれたので、birth だそうだ。彼女は、最高の音楽環境に囲まれて最高の指導を受けた。

たとえばバイオリンの弓は消耗品だ。いい弓で弾かないと上達しない。5年使うことはない。一本数千万。練習用で500万。聞く人には違いは分からないが弾く人は10センチ先で音が出ているわけだ。モヤモヤがのこると弾きたくない。

バイオリン本体は1台(丁)、10億をこえた。中国人のせいだ。さすがの宮本さんも借り物を使っている。日本最高のバイオリニストが最高の楽器を所有しようとして、ドサ周りをしている。

今後日本で演奏家たらんとすれば、あらゆる条件をクリアし、とにかく豊かでないと出来ない。それもハンパなく。バイオリンのことだけを考えて生きてきたはずだ。一日7時間、8時間練習するのが楽しくてしょうがない、それを用意する素敵な家庭。

貧困の悪循環があるということは、金持ちの好循環もあるのだ。貧富間に相互乗り入れの路線はない。これじゃあいかんし、なんか哀しい。

宮本さんはCMやキャスターに忙しいが、早く気に入ったバイオリンを所有してほしい。借りてきた猫の毛並みがよくても心からは愛せない。

 

 

 

 

 

 


C'est si bon ((仏)おお、いいね。  (韓)三人はいいぞ。)

2016年02月27日 | 映画

この海苔巻きは忠武(ちゅんむ)の名産。のりの厚さが3倍ぐらいある。

フォークソンググループの話。実話。(もちろん少しは脚色) 映画、セシボン。海苔巻きを伏線にしながら。

仲が悪かった二人にもう一人加え緩衝材とした。やっと落ち着いてきた韓国。60年代の歌声喫茶がスタートの事件。

日本でも同様だったが、主に二つの点でもめた。

まづひとつ。

下手なら引き下がる。しかし蓄膿症の鼻づまりの歌がヒットして、そんな馬鹿よりうまいのはいくらでもいたのに彼らは消えていく。どう考えても理不尽だ。

ところが武田は一様に同水準で歌っているつもりでいた。ところがヒットするや否や仲間を切り捨てソロになった。

今思うと、下手の順にヒットした。歌は関係なく、策士の理不尽で不条理な、放送局とのコネがものを言った。

揚水はそんな中でも実力で這い上がった一人だ。それでもなお彼を凌駕する歌い手が久留米大や福岡大にいた。ただこいつらは、頭が弱く売り込みの能力に欠けた。

韓国は100%コネ社会だった。コネは実力を圧倒していたので、聴衆は音楽性の高い歌声に飢えていた。セシボン、すばらしい三人。(グループ名) 50年前の劣化した録音を現在聞いても十分感動する。

反共であることが社会のあらゆる場面で強要され、警察は女性のスカート、男の髪の長さまで統制した。なんと共産主義と自由は同義だった。警官は洋裁バサミでスカートや髪を切った。刑務所に行けばあまり帰ってくる人はなく、帰って来ても廃人になっていた。

そんな社会で唯一取り締まれないものが歌だった。朴正熙をたたえる歌のふりをして替え歌を歌った。

また、内地では根絶されたキリスト教も半島では生き延びていた。そこでの聖歌も歌える人を多くした。

韓国のフォークは、実力と、運と、コネがそろわねばならない。だが一旦それらがそろうと、そこで得た名声は、電波に乗り津々浦々に広がった。

今の韓流スターどころではない熱狂のステージの世界があった。歌い手は個性の強い奴らだ。ケンカも嫌がらせも日常のことだ。

 

もうひとつ。  「彼女」。 男は女に惚れると、相手をすばらしい人で純情な人だとかってに作り上げる。自分がやりたいだけの化け物であるように、彼女にも打算があり名誉欲があり夢がある。

若くしてこれがわかったら神だな。若い男は振られると裏切られたと断定する。彼女としては迷惑な話だ。「あたしだって男を選んでいいじゃない」

実在のグループ『セシボン』。の生き様に忠実に映画が出来た。

今韓国映画が力を盛り返した。ドラマは最低だ。あと4,5年は韓国映画が僕を泣かせる。

準新作で見られると思う。映画館はいかん。痴呆がしゃべりながら観る。韓国は老人はタダだが人に迷惑をかけると引きずり出される。3回見て3回泣いた。

韓国には30スクリーンのシネコンがある。韓国人用にイスも大きい。映画料金は500円。

 

 

 

 

 

 

 


ウソはしきりと絶叫する   15

2016年02月24日 | 韓国

「日本が戦争に負けたとき、反日感情はほとんどありませんでしたよ。日本人達が日本に帰ろうとしたとき涙を流し別れを惜しんだ人達もいたそうですよ。」

 

十数年前、日本の東京神保町の古書店の本を求めに行ったことがある。古本を何冊か購入して店の主人、60代のおじいさんとしばし話をした。私が韓国で仕事をしていると言うと、おじいさんはこう言った。

「韓国でお仕事をなさるとはご苦労が多いでしょう。まだ反日感情があるでしょう。日本が戦争に負けたとき、反日感情はほとんどありませんでしたよ。敗戦を迎え、朝鮮に住んでいた日本人達が日本に帰ろうとしたとき涙を流し別れを惜しんだ人立ちもいたそうですよ。朝鮮人の中には「なぜ日本に帰るのか。ここで一緒に生きていこう。」

と言って涙を流し別れを惜しんだ人立ちもいたそうだ。

ところが李承晩大統領の反日政策のせいで、手のひらを返すように日本を憎むようになったのだ。

植民地状況下では日本人と朝鮮人は仲良く暮らしていたし、解放されたときは涙を流し別れを惜しんだと言う話しははじめて聞いたし少しおどろいた。約4年後、韓国人の社会学の教授と話をする機会があった。彼は次のようなことを言ったと記憶している。

『植民地状況下では日本人と朝鮮人は仲良く暮らしていたようだ。解放されたときは涙を流し別れを惜しんだこともあったようだ。しかし、解放後、新たに国をまとめて運営していこうとするとき国民が皇国臣民の意識から抜け出すことができないでいたら、それは独立国家とはいえないでしょう。』

国民意識を皇国臣民から脱却させるためには、反日政策を取らなければ韓国人としての真のあり方を回復できなかったのです。

現代の韓国人には「反日洗脳政策」ということが解放後に韓国国民としての在り方を確立するため必要な政策であったと認識していただけるとありがたい。

しかし時代は大きく変わったのだ。いわば、「民主主義の洗脳社会」は、社会に多様な弊害をもたらすだろう。    <ソウル新聞  2011-01-31 >  からけん 訳

 

次回用メモ 10 水崎

開店と同時に行ったら誰もいなかった。ポイントだ、メール会員だと難しいのがないのがいい。すし屋のケーズデンキだ。特に、鶏小屋のエサ台のような方式でない。リニアカーが運ぶ。

早くも痴呆が入ったオネエチャンもいたが、要領よく、順序良く、すばやく、裁いていくオネエチャンもいた。

当分昼は寿司だ。(写真許諾済み)

 


絵馬  2

2016年02月21日 | 東洋歴史

秋月藩は福岡藩の支藩であった。福岡藩に比して決して豊かではなかったが、少人数ながらよく団結したここの武士階級は、明治新政府の強圧的な武士特権剥奪に反抗した。

西南の役のあたかも前哨戦のような士族の反乱は、北部九州を中心に西郷の大爆発の前の小さい火花のようにはじけた。神風連、佐賀の乱、そしてここ秋月の乱。

既得権剥奪に反対して自滅した日本社会党を見るような目で、ここの不平士族を見てはならぬ。わずか数百の士族で日本がどうこうなるわけはない。本人達も十分承知だ。

皮肉なことに、彼らは非道な財産没収に対し民主主義の論理で対抗した。

われらの財産など明治政府にくれてやる。問題は、事を行うに当たっては正当な手続きを踏めということだ。したがって、お上といえども非道なやり口に対しては刀を取る。

百姓も武士並みの教養を備えるものがいた。寺子屋であるいはお宮の境内で、のどの渇きを潤すように学問に群がった。

秋月の神社に昨日示した数学の絵馬がある。(算額)

そのそばにあるあまり有名でない神社の絵馬について書く。

 

 

1845年下の絵馬が奉納されている。源氏の横笛の場面だ。穏やかなときの流れを今に伝える。本来絵馬とは平和を感謝するものであり、江戸までは、戦勝祈願のために掲げられる性格のものではなかった。

家柄も悪くしつけもろくにされてない者が、妙にかっこつけて威張り散らす下品な政府が誕生してしまった。こいつらはやたら日本海海戦戦勝記念とか奉天大会戦祝賀とか、古来の穏やかな葦原の国を土足で踏みにじった。

今、絵馬の判読が困難になりつつある。古い絵馬ほどやさしい場面が描かれる。何はさておき字がきれいだ。震えが来るほどの書きなれた美しい字だ。

上の絵馬は、僕には何が書いてあるのか分からなかった。保存すべきだ。やさしい日本人が、天保15年にそこに生きたと分かるじゃないか。

わざわざアラブと敵対して、テロに備えて軍備増強だと安部は言う。今の日本は方向を誤り多くの敵を作った。他に道はいくらでもあったのに。

穏やかならぬ日本がそんなにいいか。

 

昨日の絵馬(算額)の解、②は略。

直角三角形の斜辺をc、他の二辺をa,bとおく。内接する円の半径をr。直角三角形の面積Sは、S=ab/2。ヘロンの公式よりS=√s(s-a)(s-b)(s-c)  ただしs=(a+b+c)/2とおく。

このとき、S=rs,S=ab/2なのでrs=ab/2 これに代入して、r(a+b+c)/2=ab/2すなはち、

r(a+b+c)=abだから   r=ab/a+b+c      もう少し簡単に出来ますがこれでいいでしょう。算額はどんどん難しくなっていきました。

 

http://www.nikkei-science.com/page/magazine/9807/sangaku-Q.html

 

 


絵馬

2016年02月20日 | 学問

ほんの3,40年前までよくみかけたことだ。都会で塾だ補習だ課外だと無理やり詰め込んで合格してくるガリ勉君は入学後は伸びなかった。確実に田舎ののんびり組が3年生になると差をつけて先頭を走っていた。

地方が創生するそうだからこう言う天才も増えるだろう。ばか。

人参をぶら下げて無理に走らせても、エサのために走る馬は息切れする。ダービーのどこに人参を下げた馬がいるか。

今、僕は、よく秋月に名水を汲みに行く。数十年前仕事でこの道を毎日通った。学校に勤めていたのだ。数学を解きあって、かならずのように参りましたと思う生徒がいた。こういう生徒は人間も出来ている。優れものの生徒も僕も、馬鹿のくせにかっこつける、細かいことが頭がいいと信じ込む、ポンスケ共を見てこっそり笑った。

数学の一行が延々と続く畑より広かった。

僕も解けないことが多い。僕は数学の先生ではなく趣味なだけだ。しかし二人で解いているといつしか外は暗くなり、送っていくことが多かった。翌日には解いてくるからとても悔しい。

たとえ僕が解けなかった問題でも僕が述べた大きな方向性が役立つと、彼はきちんと僕を尊敬した。解く苦しさや解けた喜びは、詰め込まれていないから心からのものだ。

頭のいいフリをしているかっこつけの先生は瞬時に見抜かれ相手にされない。哀しいことだがバカ低能教師は、そうでもしないと自分の居場所がないのだろう。

学問は、いい訳ばかりする目立ちたがりには向いていない。

江戸時代であっても、解ける喜びを共有したいというひそかな学究心は、目立ちはしないが確実に人々の中に潜在していた。

心得のあるやつはこれでもかという問題を絵馬にして出題した。

3月下旬までおかずはただだ。カラシナ 

明日「絵馬2」を書きますので数学との相性の悪い人は以下は飛ばしてください。ただし、問題に挑戦する人は、解けるまで明日の解答を見ないこと。

 

① 直角三角形abcに内接する半径rの円がある。rをabcを使ってあらわせ。(ヒント、ヘロン)

② 直線上に二つの円がある。この二つの円も相互に接している。二つの円が直線に接する接点の距離を求めよ。

絶対不可能と思われた問題も、どこかの誰かが翌年には必ず解いた。そうして年々この絵馬競争のレベルは向上した。明治以降の近代化の見えない力になったといわれている。

①は高校の理系じゃないと無理です。②は三平方の定理を知っていれば小学生でもOK。

 

会社にはゴミがいる。現場に来ないでただガンバレ、ガンバレと意味も分からず檄を飛ばす低能。僕はそんな奴に言いたい。僕と問題、解こうじゃないの。解法を見てから偉そうにバカが解説する。自分のバカを棚に上げちゃあいかんぞ。

ゴミのない会社は清潔だ。日本のためにも大掃除が必要だな。

 

 

 

 

 

 


『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』、旗艦三笠、三角西港

2016年02月17日 | 東洋歴史

「(るろうにけんしん めいじけんかくろまんたん)」の実写版は熊本県宇城市三角町の旧裁判所で撮影された。もともと三角は景色のよいところで、焼酎いいちこのCMや坂の上の雲などのロケが行われた。

右上が裁判長席、手前が弁護人。窓がいい。景色がゆらゆらゆがんで見える昔のガラス。

若い頃数ヶ月滞在したことがある。今ならそうはいかないが、町は、家賃電気ガス水道すべてタダの一軒家を与えてくれた。仕事は別になかったのに若かったので張り切って動き回った。が、いま思うと僕らしくなかった。

この僕がいた隣家が映画のロケに使われようとは何ということだ。


支離滅裂な映画だ。

旧裁判所の壁にロケを記念してこの絵があった。

「いいちこ」のCMの撮影もあり、いまやなかなかの観光地だ。


「坂の上の雲」にはオルドル邸が出てくる。小泉八雲が滞在したところで僕がいたときは一階が食堂になっていた。いまはコーヒーだけ。

このオルドル邸から20m進むと、もう海だ。この一帯は世界遺産。

それに含まれなかった重要な遺跡がある。赤瀬トンネル。かつて鹿児島本線の終点はこの三角であり、明治貧乏政府は全力で鉄道を通した。まだ100mのトンネルも掘れなかった時代に、日本の技師は雇われ外人技師から一言でも吸収しようとメモを取りつつレンガを積んだ。

三角線に赤瀬という無人駅がある。そこのホームからそのトンネルは見える。明治維新から20年もせずに、のぼり勾配のカーブしたトンネルをレンガで覆うことは絶望的な困難を伴った。100年以上、現在まで一枚のレンガも落ちてない。

外国の真似が出発点であったことは周辺国と違いない。ただ日本は急速にそれ以上のものを作った。

シナ人や朝鮮人にも真似だけならできるだろう。だが、100年前にできたのはわが国だけである。



西港に行くと潮が満ちていた。ここに旗艦三笠は来た。

右にある木は、アコウである。100年以上経つこの木は旗艦三笠を見たに違いない。

日本に敵対する国ですらその無謀な戦に同情した。日本は、船はおろか自動車すら作れない国であり、海軍兵学校の定員は時代により変動はあるが基本100人だった。つまり国はそれ以上は養えなかったのだ。将校は少なくともその10倍は必要だ。

ロシアと軍事力を比較するのは哀しい。国会議事堂とこの旗艦三笠は同額だった。

その三笠が上の写真の海峡に来たのだ。接岸する港すら満足にない国の戦艦がまさに威風堂々やって来て沖合い100mに投錨した。住民にとっては、しばし現実の貧しさを忘れる一瞬の花火だったに違いない。

天草の奥地から徒歩で、熊本から人力や徒歩で三笠を見に来た。

まことに小さな国が死力の限りをつくしてロシアに勝ったのだ。戦艦三笠に負うところが大きい。この船が誇らしかった。

たしかに、貧困にあえぐ国民をさらに崖っぷちに追いやる軍備増強だった。なぜなら小さな島の貧乏人と、かたやその数十倍の国土から数百年に渡り収奪を重ねたロマノフの富とは、比較するのも恐ろしい。

だが当時の日本人に選択の余地はないのだ。東郷が三笠に乗ってなかったら、今頃センター試験はロシア語で受けていただろう。

排水量15,140トン(常備)
全長131.7m
全幅23.2m
吃水8.3m
機関15,000馬力
最大速力18ノット
航続距離10ノットで7,000海里(約13,000km)
乗員860名
兵装主砲 40口径30.5センチ連装砲2基4門
副砲 40口径15.2センチ単装砲14門
対水雷艇砲 40口径7.6センチ単装砲20門
47ミリ単装砲16基
魚雷発射管 45センチ発射管4門
装甲KC(クルップ)鋼
舷側:9インチ(229mm)
甲板:3インチ(76mm)

<Wiki

 

 


千里眼千鶴子(三船千鶴子)、三角東港

2016年02月16日 | 思想

だれでも未来の自分がどうなっているのか知りたい。

現に足が悪ければ自由に町を闊歩する自分を想像し、それを願う。もちろんそれは無理からぬことだ。

だかその機会は通常来ない。われらは地を這う虫の様、今、目の前にあることに全力を注ぐしかない。成功者達が四つんばいの自分を見下すとき、くやしいがYes manであるほかない。

そして夢想する。明日の株価がわかったら、明日の小豆相場がわかったら。

そしたら今度は俺が楽させてもらうぞ、あるいは、俺も使用者の仲間入りだ。・・・ こんな潜在的希望は皆持っている。

明治中期、奇跡の少女が現れた。山師や財閥や役立たずの研究者が彼女に群がった。彼らはよってたかって少女を引きずりまわし大金を稼いだ。少女の能力とは、透視、予知・・・すなはち千里眼。

千鶴子はここで生まれた。宇城市松合地区、白壁どおりの素敵なところだ。松橋インターから20分。

引用開始

千鶴子は子供のころから勘が鋭かった。海辺でなくなった指輪を、目を閉じて見つけたことがあった。指輪は泥をかぶり貝殻がかぶさっていたにもかかわらず、千鶴子にはそれが見えたのだ。驚かされる話に、万田坑という炭坑の発見がある。千鶴子は大牟田に行き、とある海のほうを見て「あのあたりに大きゅうて真っ黒な塊が見ゆるとです」といった。半信半疑の三井炭坑は、とにかく探査してみると実際炭層が見つかったというのだ。
 霊能者千鶴子の評判は松合村から熊本全体に広まり、近隣の人々は御船家を訪れては霊感治療や透視を請うたりした。

http://members3.jcom.home.ne.jp/4232239801/site/KAIKIKOKUNAI.html

                                                 引用終わり

 

子供には負担が大きすぎたのだ。カネに目がくらむ大人たちの中に理性的な人はひとりもいなかった。千鶴子は、得たカネで三角港(東港)を改修し人々の乗り降りが便利なように工夫した。工費は天文学的数字になった。

そして、治療だ、相場だ、株だ、と押し寄せる守銭奴たちに押され自殺した。24歳。

 

僕が昔、三角に仕事で行ったときには海に向かって降りていく千鶴子の階段が50メートルぐらい残っていた。

僕には超能力はわからない。ポイントではない。おおぜいの浅ましい大人が、寄ってたかってせっかくの才能を殺してしまったということだ。貴重な能力を死に追いやった愚民にはこの階段も消えてほしいものだった。超能力に狂騒した醜態は知られたくなかろうが、ほんとうは残すべきだった。

何と三角駅から10メートルで船着場に至る。階段のおかげだ。日本最後の郵便船が発着していた。天草5橋が架かり車で行くのが早くて確実になったというのか。人にとっての速さとはなんだろう。

日本人は、教養のない、頭の悪い、育ちの悪い、ぐうたらな人、が多いのでバカな反論をする。「じゃあお前は車に乗るなよ。」

僕はそんな話はしていない。

行政は三角港の先を埋め立てその階段を水中に沈めた。それにあきたらず、「うんこ」の形をした物産館を作ったが、気持ち悪くて人が行かずすぐつぶれた。

白いうんこ

今回、さらに埋め立て公園を作りテナントを30軒ほど入れるという。気は確かか。海上交通は陸上以上に廃止され人通りはすでに絶えている。一日5~6人しか通らないところで商売できたら天才だ。

5億のカネはもっと有効に使えたはずだ。トバセ島への10人乗りの渡しが在った。高いカネださなくても十分遊覧船だった。廃止。

三角の人は自分達の宝を捨ててコンクリートで海岸を埋め景観を壊し、そのあげくに廃墟化している。

 

 

 

 

 


尹 東柱(ユン・ドンジュ)     2

2016年02月15日 | 韓国

尹 東柱(ユン・ドンジュ、1917年12月30日 - 1945年2月16日)は、間島出身の詩人

第二次世界大戦下の日本において治安維持法違反の嫌疑で逮捕され獄死した。朝鮮語での詩作を続け若くして非業の死を遂げた尹東柱は、大韓民国において国民的詩人として有名であり、北朝鮮でも一定の評価を受けている。          >Wiki

彼が死んだ日に注目してほしい。今日だ。昨日小さな慰霊祭があった。彼は、延世大出身でいわば僕の大先輩だ。校内には尹 東柱の碑があり、その前で文学部の連中が簡単な式典をした。

もともと韓国人は、今を生きる人たちで、カネにならないものをわざわざ保存しようとはしない。碑をたてて、尹 東柱を殺した憎き日本を忘れまいとする愛国心高揚記念にしたりはするが。

今は大学院として使う昔の校舎がある。当時学生のころ、英才館とか名前がついていて、入るのがこそばゆい気持ちになった。まだ彼が学んだ教室が残っている。

愛国反日プロパガンダを行うには、教室にプレートを置くよりもでかい石碑やぶきみな少女像が有効だ。「謝罪と賠償」のために。

僕はせめて、教室に彼の遺影か業績を記したものがほしいと思った。これ見よがしの石碑は要らない。政府はしきりと入試に出して認知度を広めようとしている。セコい。

慰霊祭に出た。多くの日韓のマスコミが来ていた。両国の溝の深さがわかった。両国民の間には思考の断裂がある。

日本人は、尹 東柱の詩のすばらしさに対し韓国に感謝するといった。難解だが僕もそう思いはする。

だが、日本人は歴史に痛みを感じない。

獄死であるはずがない。終戦が確実となった帝国はあわてて治安維持法関連検挙者を殺害した。不当な捜査やでっち上げや拷問の事実を封じ込めるためだ。

低能な特高(治安維持法にもとづく特別高等警察、裁判なしの拘禁が可能)が彼の詩を深読みし犯罪を捏造したのだ。そうして人類の財産である天才詩人を27歳で消した。

この事実に気を止める日本人は、ほとんどいない。

韓国人は歴史を捏造し、主要な論点と利益になる論点の区別もつかない。政府(韓国)は、尹 東柱の死を利用して低能たちが反日に狂うのを期待している。

だが僕は、確実に変化を感じている。パククネの思惑とは違って公平客観的に判断できる若者が増加している。日本の若者はどうだかよく分からない。

KBSの取材を受けた。韓国のNHKだな。一番冷静で、かつ政府寄りではない。お土産に5cm*20cmの重たい箱をもらったので期待した。クルーに後輩がいたのでかならず放送しろといっておいた。韓国の放送が視聴できる人は見てください。

重たいのは箱だけだった。

 

 

 

 


杉玉

2016年02月12日 | 日常

 

杉玉(すぎたま、すぎだま)とは、スギの葉(穂先)を集めてボール状にした造形物。酒林(さかばやし)とも呼ばれる。日本酒造り酒屋などの軒先に緑の杉玉を吊すことで、新酒が出来たことを知らせる役割を果たす。      >Wiki

杉の穂であるから、最初は青々としている。枯れ始めて褐色になる。そのなり具合で酒の熟成を判断する。昔の人はうまいこと考えたもんだ。上の写真の杉玉はもう少しだな。

人間と同じく、若く青い酒は、ぴりぴり来る。だが熟成したのは、飲んでも香りが舌ににのこり口腔と鼻腔を静かになでてそのまま脳を酔わせる。そんな芸当は青いのには無理だ。

佐賀県鹿島市。いくつもの造り酒屋が並んでいる。溝には、

溝に魚か、何だ、つまらない、と若い頃は思う。年を取れば誰でも溝に鯉が泳ぐことが、中国人の食用でないことに気がつく。佐賀県でありながら何とすばらしい町だろう。

この道を通って鹿島高校に通学したら、僕ももっと穏やかな人間になったに違いない。

ここからが重要だ。年を取れば誰でも持つかもしれない感受性だが、だからこそ一刻も早く教育をすべきだ。時を逃すと人は下品なままだ。たしかに、人の教養というものは別に必須のものではない。問題は価値あるものの峻別力と吸収能力である。それがあれば、教養はおのずと着く。

子供は親の興味を示すものに興味を示す。親が見るものを見る。重力波について一緒に考えてくれる親は尊敬を受ける。

無教養はよくこう言う。

人に迷惑をかけない。

そんなことが重要か?アホ。人として必要のないことだ。人に迷惑をかけないで生きることはできない。そんなことで子供の能力の発揚を抑えてはいけない。そんなことを言う親はきまって教養がなく勉強が出来なく自分という馬鹿をコピーした子を作る。

人に迷惑をかけない?サルでも分かることをわざわざ言うな。

この写真にあるようなちゃんとした家に住め。造り酒屋の裏。貧乏で無教養ほど家にガラクタが多い。

ふすまの雀が秀逸だ。修復(家全体)に一億かかったそうだ。350年経つ。一億は誰かの寄付。金はこう使え。腐れたミニチュアモーテルみたいな家を建てるな。

松田わこちゃんが、朝日歌壇に選ばれていた。中1。ぐんぐん上達する。「初笑い」の後の場面展開に才能を感じる。切れがいい。「雪」で止めるなんて。

 

オペレッタ「こうもり」を観て初笑い明日から本格的に雪

 

 

 

 


みんなで遼太君の仇を討とう

2016年02月06日 | 事件事故

引用開始

川崎市の多摩川河川敷で昨年二月、同市内の中学一年、上村遼太(うえむらりょうた)さん=当時(13)=が殺害された事件で、殺人罪などに問われた主導的立場とされる少年(19)の裁判員裁判が四日、横浜地裁(近藤宏子裁判長)であった。上村さんの父親が震える声で意見陳述し、「遼太を失った悲しみが減らされることは一生ない」と涙ながらに語った。

 「遼太はとても気の小さい子。複数に囲まれて抵抗できるはずがない」      引用終了

                                         東京新聞 2016年2月4日 夕刊  

13歳から見れば19歳というのは恐ろしいほど大人だ。2月の夜に暗闇の川を泳がされ数十箇所も殴られ切られ、あげくに首を切られて死んだ遼太君。

僕は求刑を見ておどろいた。一人殺しても残酷な殺し方をしたり面白半分に殺したら、死刑判決が下されてきた。ところが検察は、死刑廃止の動きが強まる中、当たり障りのない落としどころを探しだした妥協の求刑だった。

10~15年の求刑とは僕は怒りが心頭に達した。

これでは判決は必ず8掛けになるので8~13年の刑だ。間に3回のオリンピックがあるのでよほどのことがない限り模範囚になって恩赦もあり6年で出る。

これはおかしい。殺されたもののみが損をする社会だ。国家が、社会秩序を乱したものをこの世からちゃんと隔離したり殺したりしてこそ、われわれは国家権力のひとつである司法に信頼を置くことができる。

人殺しをほんの5~6年隔離してお茶を濁す司法なら、社会秩序は保たれない。

殺されたら殺し返すということが蔓延してはいけないので、十分犯人を懲らしめて労役に処するのではないか。(懲役)

それが機能していない社会なら、なんで敵討ちがいけないことか。

犯人は死刑を覚悟しているといった。ずるい。19歳は死刑になりにくいのを見越して反省したフリをしている。

たとえ反省しても、やっただけの苦痛は味わって死んでもらおう。

引ったくりの映像があっても、犯人の顔にぼかしが入り、被害者は顔をさらされる。おかしくないかい。

 

 

 

 

                                                            


柳川さげもん祭り

2016年02月01日 | 旅行

昔住んでいたところや、生まれたところを歩くのはとても穏やかな気分になる。上の写真の山車(だし)は踊りヤマといって各町内がひとつづつ出した。

人が多く元気なところは「どろつくどん」という祭りの名前にもなる特殊な山車がでた。興奮した民衆は各地でケンカをした。子供の僕は大人がサルみたいにひっくり返って殴りあうのが面白かった。

夏の祭りだ。冬は「さげもん」。2月14日から開始だが、すでに町はさげもんでいっぱいだ。客が多くなる前に行くのが得策だ。

名物、うなぎめし。蒸篭(せいろ)で蒸すので、味がしみこむまでどうしても30分はかかる。10メートルの行列でもちゃんぽん屋とはわけが違う。2時間は最低待つだろう。

その「うなぎめし」の老舗は、本吉屋である。どうせ酢酸ビニルのタレだとか、しらけることはいわないで食ってみることだ。

向かいに大松下の飴がある。子供用三輪車で行ったり来たりしたところだ。すべてが家から50メートル以内の箱庭だったが、僕には世界だった。

上記の写真を個室で食うと、5000円だ。車には10000円でガソリン入れてるじゃないか。穴掘って埋めたくなるブスと行けば資源の浪費だが、打てば響く絶妙の会話とともに食えるのならこんな安いものはない。

ぶらぶら見ていた。もうこの年になると誰も僕を知らない。もう何十年もここで商売をしている、さげもんもどろつくどんも頑張ってきました、という声を聞いた。たくさん聞いた。僕とは2世代も3世代も違うのだ。

ところがある眼鏡屋さんの店先のさげもんは、赤ちゃんを一番下にした伝統のさげ方だった。

ほぼ100歳のおばあちゃんがいて、僕のことを聞いてみた。僕は子供のころ、何度かここに遊びに来たそうだ。祭りがにぎわっていたこと、シャッターを下ろした店はなかったこと、僕があまりにもかわいい赤ちゃんなので協和銀行のオネエチャンが抱いて離さなかったこと。とにかく人が多かった。・・・

あたしゃ、からけんさんを柳川始まって以来の秀才とおもっとったよ。なんね、先生にしかならんかったね。・・・人がガックリすることを言うが、明治の学のある女性はスケールが大きい。

ばあちゃんとはまた話そうねといって分かれた。柳川と僕が繋がっている証拠の糸を見つけたようでとてもうれしい。

当時の鞠は、こんな刺繍ではなく、ぐるぐる糸を巻きつけていろんな幾何学模様を描いていった。その模様は、僕を大いに悩ませ、糸の順序や独特の模様が織り成す世界に魅了された。それができる人はもういない。柳川鞠はロストテクノロジーになった。