か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

「ボーリング」なんてだれもしない時代が来るんだな

2012年04月17日 | 技術

僕の不注意でシリンダーをすり減らしてしまった。オイルはオイル上がりをおこしてガンガン減る。ブローバイガスも排気管のように真っ黒い煙を吐く。リングを変えたりしていたがもう限界だ。ボーリングをすることにした。

福岡には600万人が住む。ボーリング工場の一つや二つあるにきまっていると高をくくっていた。電話したがもうどこも辞めていた。ただ昔のエンジンは良心的だ。リングを少しづつ大きさを変えて5段階も用意していた。そうとうシリンダーを削っても適合するリングがあった。

5年、10年たつうちに、ピストンリングは3本になりついには消えた。それもそうだな。福岡県で何100万台というクルマが走るのに、シリンダーを削ってピストンリングを変えて走ろうという人はいない。

探しに探しまくって唐津(福岡から西方へ40キロ程度の佐賀県の都市)に磨いてくれる業者を発見した。僕はシリンダーブロックをはずして持って行った。漁船のエンジンが専門らしい。漁船は18気筒とかざらだ。4気筒のエンジンぐらい簡単だろう。

値段を非常に負けてくれた。会社の人はうれしかったのだ。昔はみんなリングを変えて乗った。ボーリングして乗った。こうまでして乗る化石のような人間がいたことがうれしかったのだ。

船のエンジンも使い捨てになりボーリング屋はあと5年したら姿を消す。低脳は、ショックだロッドだホイールだとなかなか熱心だが、面白半分にほんの5,6年のって飽きてしまってはクルマがかわいそうだ。言っとくけど流体の性質を理解してマフラーを変えろよ。

ブルーバードP510というクルマは65万円したんだ。お前らの給料が1万円にも満たないころだ。今でいえば一千万だ。面白半分に力学も分からず車高を下げるな。

とことん構造を理解してお前の旧車、長年可愛がってやれよ。それにこたえるクルマだ。

Posted at 2012/04/16 19:44:30
 
 
 
 
 

「みんなちがって みんないい」 みすゞ

2012年04月17日 | 思想

僕も大いに反省するところだ。「おまえ一人がレポート出さんけん揃わんだろが。」とよく言ってしまう。なぜか日本人はそろえて喜ぶ性向を持っている。原初的ファシズムだ。

我々の態度は、弱い者、貧しい者、障害のあるもの、虐げられている者に対しては、必要以上に高飛車だ。逆に、強い者の前ではなかなかおとなしい。BENTZに乗るとすぐ分かる。みなさんとても良心的な運転をされる。ところがCOPENで出かけると日蔭者のような運転を強いられる。

どこの人間もこうやってものごとを、上下関係にして見てしまうようだ。いいか。上下はない。あるのは違いだけだ。

大正から昭和にかけて、山口の片隅でひっそりと詩を書いていた金子みすずは見抜いている。

最高に無理解であり最高に妨害した夫、宮本啓喜の小人物ぶりに比してきちんと筋を通して死んだみすずの生き方に共鳴する。

宮本は結婚当初から女遊びに狂う。みすずが少し世に認められ始めると悔しさのあまり詩作を妨害する。ときの巨星西条八十と会うときも我が子を背負って会うしかなかった。さらに宮本は協力をしないばかりか、みすずに痳病をうつす。

離婚話が持ち上がる。決定的だったのは、みすずに対し子供を渡せと言われた時だ。日本でみすずのような詩が書ける人はほかにいない。それをさんざん妨害されてもみすずは死ななかった。子供をとると言われた時みすずは冷静に死を覚悟した。

髪を結い写真館に行った。それから母親に子供を頼むという手紙を書き、子供には菓子を与えた。全く道が閉ざされた時、みすずはすべてを受け入れる心境だったのか。翌朝毒をあおる。

これは自殺か。ここまで追い込まれて死ぬのは自殺か。

わずかの救いはみすずの作品が散逸を免れたものがあったことだ。児童文学者の矢崎節夫らの努力で遺稿集が発掘され、1984年に出版されるや、瞬く間に有名になった。現在では代表作「わたしと小鳥とすずと」が小学校の国語教科書に採用されている。東京大学の国語の入試問題(1985年国語第二問)に採用された作品もある。

26歳の死。もっともっと多くの作品と出会えたはずなのに、女を道具としか考えない戦前の教育の大罪もある。しかしなんといっても許せないのは、希世の天才を殺した宮本だ。


TBSテレビでは、童謡詩人・金子みすゞの生涯を描いた『金子みすゞ物語-みんなちがって みんないい-』(仮)を放送することが決定。上戸彩主演。

Posted at 2012/04/15 21:05:34

ねじ

2012年04月17日 | 技術

 

三井製作所からお誘いをうけ再び見学できることになった。とっても楽しみでワクワクしている。

前回の様子だが、大企業の工作機械とはとにかくでっかい。直径1メートルもある歯車を削っていたりする。消防ホースのようなところからオイルが流れ出ている。そのオイルの中でバイトは火花を散らしている。巨大な歯車とバイトはガリバーと小人のようだ。

そんななか一番出口の吹きっさらしに彼の旋盤はあった。10本、15本といった小さい単位での注文か彼のところには来る。しかもそのうち5本はインチで、とかいう注文だ。一台のミリ用旋盤でどうやって削るのかと思った。

5~6ピッチ進むとまた戻ってピッチを変えてまた進んだ。あまり進むとインチとの誤差が大きくなるので5~6ピッチで止め、最初の位置に戻り1~2ピッチ先からさっきと同様なことを始めついにはミリ旋盤でインチを切った。この工場にはこういう芸当ができるのは彼と他に数人しかいない。

いまどきインチの旋盤を購入するとしたら天文学的金額になる。彼は何も言わない。飲んで愚痴をたれることもない。会社は彼を利用している。

一度聞いたことがある。「韓国に行きませんか。」韓国は旋盤工の腕のいいのをかなりの高給で迎えている。現にほかの工場だが行っている人がいる。

ミリの旋盤でインチを切る。

彼はもっとすごいことをした。直径10センチの球体をX軸方向のハンドルとY軸方向のハンドルだけでバイトを動かし切りだしたのだ。誤差は2グラムだ。金属の誤差が2グラムというのはどれほど微量と思うか。

僕はまた聞いた。韓国に行けばおそらく彼の収入は5倍になる。住居は福岡の最高のマンション程度だ。とにかく学ぼうと目を輝かしている学習意欲の高いのがごまんといる。「韓国に行きませんか。」

彼は答えなかった。

僕は失礼なことをしたようだ。爪の間に入り込んだ油はとれにくい。髪は切りこで焦げてしまう。鉄の焼けるにおい。油のにおい。砂塵がいりこみ雪がいりこむ。社長は一度も来ない。そこに40年。

だれが教えるともなく体得した技術。軽々に人に渡せるはずはなかった。

Posted at 2012/04/07 23:22:51


 

 

 

 

 


"JODK"

2012年04月17日 | 東洋歴史

「大正14年3月、東京放送局開局にあたっては、第二文字と第四文字は明るく発音しやすいという理由で、“O”と“K”が、第三文字は第一開局局としてローマ字の第一字“A”が選ばれ、“JOAK”となったものです。
同年6月開局した大阪放送局は“JOBK”、7月開局した名古屋放送局は“JOCK”と、第三文字はA、B、Cの順になっていますが、その後は必ずしも放送局の開局順ではないし、使われなかった文字もあります。」  (NHK on line より)

つまりこのような次第でNHKのコールサイン(呼び出し符号)が決まったという説明だ。各放送局ごとに一つのコールサインが割り当てられその符号はその放送局を代表した。

ごまかしちゃあいかんぞ。JODKがないではないか。ちなみに福岡はJOLKだ。僕はJL6〇〇〇だ。

日本で4番目に開設された放送局が消えている。

すこし前、日本で6番目に開校した帝国大学は京城大学であったことを書いた。朝鮮総督府は設立予算獲得のためまさに粉骨砕身努力した。それを渋ったのは内地の帝国政府だった。

朝鮮の低能学者、学生、国内の低能学者どもはいつでも大日本が朝鮮侵略完遂のため血眼になっていたようにいうが、バカの空想である。

帝国政府としては、”JO”で始まるコールサインは国内用のものにしたかったので、逓信省は朝鮮にこの”JO”を振り当てたくなかった。内地の優位を保ちたかったのだ。朝鮮総督府はよく逓信省に対抗した。

総督府は内鮮一体を根拠についに”JO”のコールサインを勝ち取る。放送網はまたたく間に半島全土に広がり、朝鮮語専門放送の第二放送も始まる。母国語による放送は庶民の唯一の娯楽となった。

低脳左巻きが日本帝国主義は朝鮮から言葉を奪ったというが何をほざくか。朝鮮総督府は大日本の皇民化政策に抗しつつ誠心誠意朝鮮語の普及に努力した。以下に書く第二放送とは朝鮮語による放送だ。第一放送でも何割かは朝鮮語で行われた。

台湾も上海租界も関東州も”JO”のコールサインを持つところはない。唯一朝鮮だけが内地と同様の、しかも全国で4番目の放送が開始されたのだ。

ここまでしたのに何でわからんのか、朝鮮人。言葉を与え、教育を与え、およそ近代とか文化とか名のつくものはすべて与えた。

京城中央放送局(呼出符号JODK)
所在地: 京畿道京城府西大門区貞洞町1-10
周波数: 第1放送 - 710kc(1927年2月16日開始)、第2放送 - 970kc(1933年4月26日開始)
釜山放送局(呼出符号JBAK)
所在地: 慶尚南道釜山府大庁町一丁目7
周波数: 第1放送 - 650kc(1935年9月21日開始)、第2放送 - 1030kc(1941年8月開始)
平壌放送局(呼出符号JBBK)
所在地: 平安南道平壌府梧野里130
周波数: 第1放送 - 820kc(1936年11月15日開始)、第2放送 - 1090kc(1936年11月15日開始)
清津放送局(呼出符号JBCK)
所在地: 咸鏡北道清津府目賀田町8-3
周波数: 第1放送 - 850kc(1937年6月5日開始)、第2放送 - 1100kc(1941年8月開始)
咸興放送局(呼出符号JBDK)
所在地: 咸鏡南道咸興府山手町一丁目79
周波数: 第1放送 - 780kc(1938年10月30日開始)、第2放送 - 1050kc(1939年4月開始)
裡里放送局(呼出符号JBFK)
所在地: 全羅北道益山郡裡里邑南中町86
周波数: 第1放送 - 570kc(1938年10月1日開始)、第2放送 - 1100kc(1942年4月開始)
大邱放送局(呼出符号JBGK)
所在地: 慶尚北道大邱府院垈洞1169
周波数: 第1放送 - 800kc(1940年10月30日開始)、第2放送 - 1070kc(1941年4月19日開始)
光州放送局(呼出符号JBHK)
所在地: 忠清南道光州府社町117-2
周波数: 第1放送 - 780kc(1942年3月21日開始)、第2放送 - 1040kc(1942年3月21日開始)
大田放送局(呼出符号JBIK)
所在地: 忠清南道大田府北町15
周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 880kc(1944年11月10日開始)
元山放送局(呼出符号JBJK)
所在地: 咸鏡南道元山府栄町15
周波数: 第1放送 - 650kc(1943年7月15日開始)、第2放送 - 900kc(1943年11月10日開始)
海州放送局(呼出符号JBKK)
所在地: 黄海道海州府広石町
周波数: 第1放送 - 800kc(1943年8月開始)、第2放送 - 1080kc(1943年11月10日開始)

                                      ( ウィキペディア 朝鮮放送協会より )


はばたくな!はやぶさ2!

2012年04月17日 | ニュース

子供の線香花火にも劣る「はやぶさ」のお粗末ロケットの話と、JAXA自体が持つ官僚浪費無責任天下りセクト主義体質について述べたいと思う。

はやぶさの帰還は実に感動的なものだ。僕にはまるで日の丸を掲げて帰ってくるように見えた。しかし内実は、当時まだ性能が安定していなかったイオンロケットを無理に搭載し案の定失敗したものにすぎない。「イトカワ」の石を持ちかえったと言ってもほとんど嘘。何ミクロンかのモノが何個かあっても、常識的に石とは言わない。それは埃です。みんなが宇宙ゴミになったと思っていたものを偶然発見して誘導したことが快挙ですか。じゃあ、道で一万円偶然拾ったら快挙ですね。

「はやぶさ」は三軸のリアクションホイールを持っている。たいしたことはないただのジャイロだ。コマともいえる。回転する物体は軸を一定に保とうとするのでその性質を利用した。さっそくその3軸のうち2軸が故障する。

早い話がフライホイールで姿勢を微調整しようとしたがそれに失敗すると、帰還用エネルギーを使い12基あったスラスタ(エンジン)で体制を規定の姿勢にしようとする。しかしそんなおおざっぱなエンジンでは微妙な制御が不可能になる。当然に着陸制御はできない。メインのイオンエンジンが4機のうち1機故障する。コマンドミスにより姿勢が狂う。さらにコマンドミスによりハヤブサとイトカワの距離が狂う。強還元液ヒドラジンの漏れ。さらには交信途絶と続く。メイドインジャパンも落ちたもんだ。満身創痍とはこのことだ。

地上では、その後「はやぶさ」からかすかな電波を感知しても太陽電池の能力低下、さらにはリチュームの過放電という模型飛行機でも起こさないミスをおこし電波の受信が不可能になる。ふたたび追い打ちをかけるようにメインの別のイオンエンジンが停止する。

こうなるともはやロケットとはいえない。宇宙ゴミだ。

ありとあらゆる失敗、設計ミス、コマンドミス、そのコマンドの入力ミス、ロケットの製造ミス、ジャイロの製造ミス、そのミスや事故に対応する体制の欠如。

そのようなままごとロケット遊びすらまともにできなかったのはJAXAのお役所体質にある。意味もない膨大な自画自賛の報告書がある。

たわけ。何を言うか。失敗したくせに。6重も7重も失敗が重なっているぞ。素人だましの映画を作り予算をとろうと思っただろうがそうはいくか。

さらにはJAXAの体質自体に問題がある。反対する者の首を切り国鉄を分割民営化し中曽根に認められいただいた椅子がJAXAの初代理事という椅子だ。そうだろ、山之内秀一郎。その次にはロケットのことは何も知らないdocomoの社長が来た。そうだろ、立川啓二。こういうのに高い給料を払っておいて、何がお恵みくださいだ。国民をバカにしている。

日本のロケットは一番コストが高い。三千億のカネを1600人が使っている。2.1億/人。民間企業でもないのにどうして自家用機を持っているのか。いち早く種子島に飛ぶのか。一回飛べば数100万円も飛んでしまうぞ。

ポイントはJAXAが三つの組織の集合体であるということだ。形式上、一つになったとはいえそれぞれにプライドがあり連絡が取れてない、あるいは人の失敗を見越してわざと連絡をとらない。さあ、docomoの社長、なんとかしてみろよ。

(一部の文章は以前のブログから引用しました)

Posted at 2012/04/04 10:07:01

悲しい「天神」

2012年04月17日 | 東洋歴史

若者が集い、飲み、食い、買う、楽しい天神は福岡の中心だ。昔県庁があったところに大きなアクロスビルがある。このビルの周辺は背の高いビルが林立していて、夕方になると多くの労働者を吐きだす。

疲れて早く家に帰ろうとする人はいない。さあどこで食おうか、飲もうか。ここには不況はない。高いモノから売れていく三越、大丸。

しかし、なぜここが「天神」なのか。ときには考えてほしい。

アクロスビルの向かい側にある水鏡天満宮に由来する。天満宮ということでお分かりのようにここは菅原道真も祭ってある。

その菅原道真公の祟りによって藤原時平やその一派が命を落とし、清涼殿の落雷のショックで醍醐天皇が亡くなるなどの事態が展開するが、その後起きた平将門の乱・藤原純友の乱も、道真公の怨霊が背景にあるとされた。

道真公は北野天満宮に祀られたが左遷への恨みはすさまじく、菅原道真公のこれらの「怨霊」による「天変地異」は日本史上最大のもの、と言われてる。道真公は北野天満宮に祀られた天神様として信仰を集め、ここ水鏡天満宮も左遷途中の道真公が立ち寄った所とされている。

天神の地名はこうして生まれた。

あるとき水鏡天神は鳥居を新調しようと石工に頼んだ。明治時代の話だ。石工は十分に字を読むことができない。そこで秀才の誉れ高い少年に字を書かせた。「天満宮」。 少年はまだ小学生だった。大名小学校。石工のせがれはやがて修猷館から第一高等学校、東大へと進み外交官になり、その外交官のあと総理になったのが広田弘毅その人だ。

天神に行ったときにはみてほしい。「天満宮」の文字にはまだ幼さが残る。しかし、父の石工はなんと誇らしかったことだろう。

広田弘毅は最近の麻生太郎を除けば福岡県が生んだ唯一の総理大臣だ。当然に戦争責任を負うことになる。開戦時に商工大臣を務め軍需物資の采配に活躍した人間は上手にGHQの追及をすり抜け戦後総理にまで登った。このことについてはいずれ書く。

東京裁判では広田を右翼とみる風潮が強かった。右翼すなわち軍国主義であると。しかし、この時期戦前の軍人や政治家を右翼と見ない人が一人でもいたか。

立派なのは広田の妻である。こんな人に出会いたいものだ。後顧の憂いなく広田が死ねるように広田がGHQに連行されるとすぐ自刃した。広田は50数個の罪を背負ってさみしく刑死した。

東京裁判でヨボヨボになった陸軍と海軍の高官たちがお互いに罪をかぶせあう狂演はみていて恥ずかしい。

広田は何も言わなかった。分かりきったウソを言われても何も言わなかった。一言弁解すれば懲役ですんだのに。「一国の総理が弁解なぞしてたまるか。」

フィリッピンや中国大陸にはBC級として死んだ多くの「広田」がいる。「帝国軍人が敵に弁解などしてたまるか。」 彼らを犯罪者にしてはならない。




Posted at 2012/04/03 20:10:59

伝家の宝刀は指揮刀になった。

2012年04月01日 | 東洋歴史
宮崎県油津に油津始まって以来の神童がいた。この神童は、現在のバカでも通る東大と違い本当の難関の海軍兵学校に合格した。天下の秀才が集まるのに、合格者はわずか30名だ。戦局があやしくなって粗製乱造したころの兵学校とは違う。あやしくなったころは数千の単位で合格者を出した。ただの戦死者予備軍だ。

開戦後の兵学校を懐かしがるそこらの爺さんがいるが、単なる錯覚したノスタルジーだ。競争率はすでに数十倍に落ちていた。

油津の神童は悩んだあげく一般の大学に進んだ。これは大変な決断だ。兵学校は衣食無料であるが、理系の大学はそれなりの費用がかかり、親が資産家でないと下宿するのは不可能だ。
僕はここに「易」につかない戦前の学徒の純粋さを見る。この状況で、彼は学問の道を選んだ。殺すなら殺せ。ただ私は学問をする。

陸軍はここで嫌がらせをする。死の嫌がらせだ。学歴へのひがみもあったろう。お前だけ助かって、という悔しさもあり、純粋な、抜け駆けは許さんという意識もあったろう。招集して南方への兵員輸送船に積め込んだ。

これほど米軍にとっておいしい獲物はなく潜水艦は浮上して攻撃した。何も海中に身を潜めて魚雷を撃つ必要はなかった。小日本帝国の軍隊にはもはや浮上した潜水艦すら攻撃する力がなかった。輸送船は演習のようにたやすく沈み2000名の無駄な死の一つとなって彼も死んだ。

陸軍からのコネがあったもの、中島飛行機から要請があったもの、大学の推薦があったもの。これらの者は軍の嘱託になったり徴兵延期になったりして死を免れた。

そもそも小日本は戦争には素人だ。わずか6,7人の若者でも数万人から選抜されているのだ。みさかいなく徴兵されバカ攻撃させられなかったら、彼らの研究は50個師団に相当したぞ。アメリカを自分の目で見てきている者が多い。そういう人間こそ研究に使え。日の丸振らせて敵の的になって殺して靖国に祀っても敗戦を早めるだけだ。何もならん。

じっちゃんが話してくれた。油津の神童が招集に行く前じっちゃんに将校の指揮刀を渡した。これは数百年伝わる家の家宝だったが指揮刀用に軽量につくり替えてしまった。神童は言った、「俺はフィリッピンに着く前に死ぬから指揮刀はいらん。」

どうか家の油津にいるじいちゃんにこの刀を届けてくれ。俺の遺品はこれしかないんだ。

ところがこんな感動的な場面に遭遇しておきながら、僕の家のじっちゃんはすっかりそれを忘れていた。そこで僕が宮崎県油津まで届けに行くことにした。

宮崎は遠い。油津のご自宅に着くとご子孫の方が泣かれた。刀を抱いて額を畳にすりつけて泣かれた。

100年に一度、いやもうあんな神童は油津には永遠に出ないかもしれない。おばあちゃんになった妹さんが赤ん坊を抱くように刀を抱いて泣いた。座って腰を折り曲げて慟哭した。やさしい兄ちゃんを奪ったのは誰だ。
Posted at 2012/04/01 08:58:03

あら今度は「ゆとり」しないの?

2012年04月01日 | 受験・学校
文部科学省は27日、2013年度から使われる高校教科書の検定結果を公表した。「ゆとり教育」から転じた新学習指導要領に基づき、主な10教科の分量は現行より12%増えた。
                                              2012年3月27日朝日新聞
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学歴コンプレックスの裏返しで不必要にしかも執拗に、文科省を貶めるのが好きな勢力がいる。この「ゆとり」を言い出した文科省なり朝日新聞を攻撃する固陋頑迷な勢力は、今回の教育内容増には賛成するはずだ。12%増えたというのは分かりやすい。あたかも12%難しくなったというのと同義のようだからだ。

ある程度以下の人間は、「知っている」ということと「頭がよい」を同義としている。たまたま歴史の年代を知っている、ドイツ語の単語を知っている。すると心底感心する。頭がいいんだねえ、と。

そんなら知識の少ない原始人より知識の多い現代人は頭がいいはずだ。マイクロSDを脳に埋め込む時代が待ち遠しかろう。

「 学校教育にこそ『 ゆとり 』 を 」 ( 2月17日付朝日新聞 社説 )に賛成だ。地方のチンピラ役人か退職耄碌校長しかいない教育委員会。基本的に文科省の言いなり小僧であるから今度はころっと旗を持ち変え「ゆとり」を天下百年の悪行のようにいうだろう。

それこそがゆとりのない所作である。

とくに読解力のない方、よく読んでほしい。僕は高校教育の難化に賛成している。不潔な高校が中学の復習に終始しているのを見ると日本は危ういと思う。。中学の復習なんていうと中学に失礼だ。小学校の復習だ。

数学は27%増えている。そんなことで騒ぐなバカ。数Ⅰ、数学基礎が増えても退屈なだけだ。すさまじい難易度の微積を増やせ。偏微分を入れろ、重積を入れろ。

そうすると人間は過去の数学者に対して尊敬の念を抱く。さらに数学自体に対して畏敬の念を抱く。ゆくゆくは他の教科も頭の中に総合されSCIENCEに対して謙虚な態度が醸成されていくのだ。

不潔なバカ高校生ほどいかに人生楽して遊んで生きようかと汲汲としている。そんなバカだから一生アルバイトしかないんだ。

要は何%教科書が増えたかではない。高校生は学問の前にひれ伏さなければならない。すさまじい学問の波に圧倒され己の未熟さを恥じよ。しかる後にしか人生観の確立は不可能である。人生観なしの愛国心はファシズムである。そのファシズムの台頭を防ぎ各個の人生観の確立がなされるためには高校で学習する難易度が上がるべきだ。

バカが集まってお茶を濁す不潔高校生は日本には不要だ。

不潔高校は土人の腰巻のようなスカートをしてゲームとカラオケとセックスのことしか頭にない。親もほんの15年前同じような高校生だったのだ。きっとその親が身障者用トイレでセックスをしたとき生まれた子が今の不潔高校の生徒だろう。

日本人がそんなバカになっちゃあいかんのだ。すぐそばにある筑紫ヶ丘高校の生徒を見ろ。
 

「生きるぞ」と励まし合い、サメと闘い救助待つ

2012年04月01日 | 健康・病気
 遭難信号が発信された23日午後3時20分の直前、奄美沖を航行中の春日丸を右舷から大きな波が襲った。当時の波高は2~2・5メートル。船は大きく傾き、ほんの数分で横倒しになった。
転覆直後、北川船長ら乗組員6人は救命いかだに乗り移ったが、転覆の衝撃で破損したのか、少しずつ空気が抜けていった。いかだをあきらめ、北川船長と下池力さんは浮輪や木枠をつかんで漂流。村田さんら他の4人は発泡スチロールや漁具などをロープで体に縛り付け、離ればなれにならないように互いにつないだ。荒れた海で4人は漁船からどんどん遠ざかり、そのうちにサメの群れに襲われた。現場海域には、どう猛なイタチザメなどが生息しており、村田さんは両脚をかまれながらも、体長1メートルほどのサメ2匹と格闘し、両腕で締め付けるなどして殺したという。
 村田さんらは「絶対全員で生きるぞ」と声をかけ合って救助を待ち、約7時間後、巡視船「かいもん」のゴムボートにいったん救助された。しかし、ボートを巡視船に引き揚げる際、松山和則さんと佐々木弘さんが転落して行方不明となった。
 一方、北川船長と下池さんは転覆から約15時間後の24日午前6時17分頃、巡視船「くだか」の潜水士に発見、救助された。
                                          読売新聞 3月26日(月)
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村田さん、よく頑張られました。

ほんとによく頑張られたと思います。僕もSea Manとして新聞だけでは紙面の制約上十分ではないところがあると思い、また『みんカラ』読者の参考になることを願ってこの文を書いています。

波高。 2~2.5mは大したことなさそうに思えます。しかし波高とは大きな波の平均値を言うのであり2メートルの波ということは5個の波の平均が2メートルなだけで5個に1個はその2倍の波が来ます。5mの波を想像してください。しかも波はさまざまな波高の波がさまざまな方向から来て合成された複雑な波です。風も強く吹いていました。風の方向は波の方向と異なっていて舵はほとんど効かない状態だったと思います。舵はクルマのハンドルと異なり効くときは5cm動かしても船は豪快に舳先を回転させてくれます。しかし、効かないときは面舵から取り舵までフルにまわしても舳先にはたいして変化がない場合があります。

村田さんは機関の責任者でしたが操舵室で操船の手伝いをされたようです。それだけでもほとんどの体力を使いきっていたと思います。右舷からの波に関しては船を右回転させるのが鉄則です。これを波に立てると言います。波に立てようにもそうすると今度は船が左舷側に傾きます。そこで万事休すとなったようです。

救命いかだをだしMay Dayの信号をだし全員が乗り移ることができたのですから村田さん他乗組員の最後の最後までの努力と判断の正確さをたたえるべきです。船長の救命胴衣着用の指示が遅かったと海を知らない人は言ってるようです。周期1秒で不規則に5mも上下する操舵室で何かにつかまらずにいたら即座に海の藻屑となります。窓を閉めていたら?バカなことを言いなさんな。70キロの肉塊が5mの高さから落ちたらいかほどの破壊力になりますか。だれがそこでジャケットを着れますか。

7時間の漂流。この時期の海は真冬です。普通の人なら30分で死にます。絶望するからです。僕も遭難して巡視船「ちくぜん」に救助されたことがありますが、「神様何でもしますからここでだけは死なせないでください」と祈ったことを覚えています。

海では状況が絶望的になって、たとえば低体温症になったりして死ぬのではありません。孤独と絶望にその人の心が耐えきれず死ぬのです。

それを両脚をサメに噛まれながら戦い2匹も殺すなんてこと半端な精神力ではできません。釣り上げたばかりの魚の力はすさまじいものがあります。僕は金属バットを乗せていました。それが水中です。頭の悪いサメは見境ない攻撃をします。1mのサメはそり返る板ばねの強さがあります。

僕は思います。もう十分に最高の漁師であり機関長であった村田さん。できたらもう海には出ないでください。
ブログ一覧
Posted at 2012/03/27 10:37:56

性欲だけの低脳ダボハゼになるな。

2012年04月01日 | 日常

 

「ダボハゼ」について辞書を引くと絶妙な解釈があった。

「ハゼ類は貪欲で、体に比べて口が大きい魚であることから、転じて手段や対象を選ばず、ガツガツと飛びつく人」

この傾向がある人は少なくないと思います。とくに対象が女性である場合、まさにダボハゼ状態の男が集まってPVはウナギ登りですね。写真をならべただけのバカ丸出しの女性のブログを、よくもないのに褒めちぎり、できればオフ会で会うことを狙っている。ニョウボウのことなんか忘れ去っているだろう。

歩く生殖器よ。ここでイラッとして他のブログに行くかどうかが分かれ道だ。我慢して読め。

あるブログを見ると、おおぜいの人間がそうだが、見にくい道路標識があったとかいう、どうでもいいことに異常反応を示している。日本に一か所ぐらいそんなところ、あるさ。目くじら立てることではない。日本人がなくしている道徳に目くじら立てろ。そして僕のように戦え。

ほんの今日明日のことに関して異常に反応し結論をほしがる。だれがどうしたこうしたということだけに関心を持つことは、欧米では低級黒人か貧乏白人のすることだ。

記事は熟成の期間が必要だ。ガセである可能性。新たな反証の出現。etc なのにそれを待たず論じたがる。写真をならべて、文字を大きくして。それにダボハゼが群がる。

どこのねじをまわしてこの部品を取り付けたと言いつつそれでコーナーがよくなったとかスピードが出たとかで思考がストップしている。「だからどうなんだ」「自分との関係がどう変わったのか」に関して「速いのは面白いもん」という幼稚園児がジェットコースターに乗ったような感想しか持ちえない哀れさを嘆かなければならないのに先のことは思考停止している。

単なる一つの化学反応のように生きている。ダボハゼには哲学がないのだ。"Das Mann"そのものだ。、『存在と時間』(Sein und Zeit)。ハイデッガーが70年も前に示している。そこのダボハゼに対しのどをからして叫んだのだ。

「ダボハゼ」が日本文化を語るな。韓国文化も語るな。無自覚無指向無節操無思想で無定見の歩く生殖器こそ日本の邪魔だ。在日に負けている。

でも僕はこのSNSはましなほうだと考えている。理系が多いと話が論理的だ。気違いもいるがそういうのは遮断すればいい。ところがよその大手はひどいな。ありゃSEX倶楽部だ。僕は近づかない。ブスとやるほど落ちぶれてはいない。

昨日柳川のことを書いたら大不人気だったが山頭火の話とか大事なことを書いたのだけど。今後、不人気になっても大事なことを書こう。

今日、きゅうに柳川に行くことになった。柳川の和菓子「おめでとう」や「千代香」の写真がアップできたらいいなと思う。


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Posted at 2012/03/25 12:00:22

柳川和菓子めぐり

2012年04月01日 | 食・レシピ
もう柳川に僕の家はない。子供だったので何が何だか分からないままに、気がついたら福岡にに引っ越していた。福岡に来てからは楽しいことは何もない。

最近は、柳川での子供のころを思い出す。僕はブログを書けば書くほど書きたいことが増えていくようだ。

柳川は城下町だ。僕が住んでいたのは城内(しろうち)と言って、武士階級かそれに匹敵する大百姓が住んでいたところだ。その城内には城内小学校があり公立小学校にもかかわらず全国有数の大学進学率を誇る。

お堀に囲まれた狭い地域だが都会の尺度からするとかなり広い。僕の家から100メートルぐらい東に行くと「とらや」がある。ここの「おめでとう」や「千代香」はあまり宣伝していないにもかかわらず、全国の名家の御用達になっている隠れた銘菓だ。金持ちはいいものをよく見つけるな。

柳川に行かれたらぜひ一度ご賞味あれ。「とらや」とは反対方向に50メートル行くと日吉神社がある。僕はそこでお宮参りをしたそうだ。親は僕が生まれたのをあまり喜んでいない。写真を見ると運転手が僕を抱いている。写真を見るたび諦めるべき不幸なんだと思う。

昔はもっと立派な菓子屋があった。「嘉月堂」が群を抜いていたがやめてしまった。御殿様御用達の貴重なお菓子が消えた。数百年続いた職人の技が簡単に資本主義というカネに飢えた生き物の犠牲になっていくのか。辻町に「越山」がある。ここは洋菓子もとりいれることによりいまでも繁盛している。

他にもあるがまやかしだ。最近の旅行ブームに便乗しチンピラどもがビスケットみたいな和菓子を売っている。

じつは皆さん方は僕の家をご覧になったことがある。柳川の川下りとか放送されるとき僕の家があったところを撮っている。今は短期大学になっている。「とらや」と僕の家に間には木村緑平先生の家がある。この木村先生とか僕の家とかに居候する坊主がいた。居候の代わりに短冊に短い詩をのこしていきどこへともなく消えた。ところか数年するとまた乞食のような格好で戻ってきたかと思うと黙って家の掃除を始めていた。飯を食わせろというデモンストレーションだ。

緑平先生は人がいいのでその上俳句の指導までしていたようだ。家の曾婆ちゃんは死ぬまで文句を言っていた。その貧乏坊主は種田山頭火その人だ。

おおらかな時代だった。十時(ととき)先生のお屋敷を通って学校に通った。戸島君の家の庭では池に石を投げて遊んだ。立花君とは同級生だ。みんな柳川藩の家老の家だ。みんな持っている土地が一万二万坪ではないので、人間がぎすぎすしてない。この人たちがばらばらにならずきちんと街をおさえていたので空気が上品だった。

先日京都からお菓子が送ってきた。この味は日本にしかないんだ。なくしてしまうわけにはいかないんだ。下品な人はたかがお菓子というが、食べたあと豊かな気持ちに包まれたことがないから乱暴なことが言えるんだ。
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Posted at 2012/03/24 20:46:20

気違いたちの小学校

2012年04月01日 | 受験・学校
←写真は今日クルマから撮ったものです。
 
 ジェンダーとに関して書く。

気違いにもレベルがあろうと思うがこのあたりの小学校はホームラン級だ。なんとお粗末な日教組、マインドコントロールされたような左巻き教師。と批判すれば喜ぶ人は多い。

ところが現在は組合に加入する教員はほとんどいない。日教組の牙城であった福教組ですら崩壊の危機にひんしている。しかし組合に入れば組合に入ったバカが誕生するわけで、入らなければ入らないバカがいるだけだ。福岡教育大のままごと教育と学生たちの乱れた生活が毎年バカを生産しているが、このことはまたあとで述べる。

ジェンダーとか言って性の差をなくすことに情熱を燃やすバカは更衣室を男女同一にした。男子と女子が同時に同じ部屋で着替える。これは女子にとっては屈辱だ。

専業主婦は社会参加してない不完全な人間だ、ともいったな。じゃあ僕も不完全な人間だ。ひとつ教養の深さについて議論しようじゃないか。

それでもジェンダーはいいなあ、ということになってついには高校でまで男女同じ部屋で着替えるようになった。春日高校がそうだ。

話を小学校に戻す。じつはぼくは小学校は訪問したことがない。しかし近所の子どもが目を丸くして訴えるのをどうしてうそと言えるか。もちろんウラもとっている。

良心的な先生たちが大勢いることも知っている。ところが彼らもを前にしては戦えない。は極端に高額な予算を地区のために使わせるために、恫喝できるところはすべて恫喝した。

 
 
どうでもいいことを差別事件だとでっち上げのための予算に流用した。差別語が落書きされていた?。笑わすな、バカ。そんなもん夜中に来て自分たちで書けばいい。差別発言だ?。笑わすな、バカ。そんなもん言った言わないの水かけ論だ。しかし、騒げば金はとれるわけだ。

右翼。叩きやすいところを叩いていないか。数も少ない朝鮮人を相手にすれば勝てる喧嘩だからな。
 
「人権はカネになる」 名言だ。

朝鮮人が不当な生活保護をうけるのもおかしいがなぜの横暴を黙っているか。このから来た小学生は自分がどんなに悪いことをしても親はそれを応援してくれることを知っている。

中学生だったがいつも手のひらに卵大の石を持って人を脅す生徒がいた。かどうか知らない。僕はその学校に行ってまだ15分もたっていなかったからだ。その生徒はうろうろして女子がきゃあきゃあ言うのを楽しんでいた。ちかづくとその石を投げようとする。

僕は笑顔で近づいてサッカーゴールに座っていたそいつの顎を蹴った。不条理だなあ。そいつが舌を噛めば僕は殺人罪だ。ちょっとほっとしたのは親が「男」だったことだ。告訴はしなかった。


機械は単純になって完成形になる。

2012年04月01日 | 学問
その昔、三井三池炭鉱の切り羽(最先端の採掘現場)まで行ったことがある。サンダーバード2号みたいな機械が石炭を切り出していた。つるはしで石炭を掘り出していると思っている人が多いがそんな姿は戦前ですらない。

人の身長もある歯車、うちの風呂場より大きいモーターのたくましい動きに魅了された。そこに到達するにはエレベーターと電車を乗り継いで2時間以上かかった。有明海の海底からさらに300メートルも下だ。今はない。操業をやめ「切り羽」は海に沈んで久しい。

えらい人に会うので家の一番大きいクルマで行ったのだが、帰りにクルマに乗るときは地底のサンダーバードと比べるととてもチャチくて情けなかった。

男の職場だ。若いころ出会いたかった。三井三池炭鉱。

で、最近のクルマの話をこの後にするのはとても意地わるそうだ。しかしそんなことはない。基本工具から始める。

工具とかねじとか単純な形をしているモノは要注意だ。長年の試行錯誤のうえに落ち着いた形というものは信じられないほどの工夫が詰まっている。メガネレンチの角度は少し上を向いている。これが絶妙だ。たった数度の傾きを得るために払った代価は大きい。涙ぐましい努力の果てにあの角度は決まった。

工具を使うようなことはしない人が多いので述べても無駄だ。まれに旧車時代からの生き残りには大いに賛同していただけると思う。モンキやスパナはなぜ傾いてボルトをつかむのか。

ねじ一本締めることはできなくてもマルチリンクサスとかには詳しい人が多い。じつはねじを締めるというのは難しいのだ。いちいちトルクレンチは使えない。手に覚えてもらうほかない。

そういう僕もマルチリンクサスにあこがれて190Eを買った。一本のワイパーで四角に拭くのも気に入った。FRだったのでいわゆるチャッちく作るわけにはいかない。ダブルウィッシュボーンが消えゆく中で当時は意地でもマルチリンクサスにしてやると思った。マルチリンクサスといってもロッドを増やしただけのウィッシュボーンだが180キロ/時までは素直に吹きあがったし車体に不安感はなかった。2.6リッタあったのでもっと出ただろうが罰金が怖かった。

じつはそのわずか一本のロッドがタイヤと路面の関係を絶妙にコントロールしていたのだ。

ひるがえって小型車のはやりはリヤビーム式だ。グリコのおまけのように左右のタイヤはつながれ単純この上ない。あとはばねとショックだけ。いったいこれ以上はずせるものはあるだろうかと思えるほど必要最小限だ。またトレーリングアームの短いこと。ただタイヤをはめ込むだけに延ばされたようなアーム。

ところがこのビーム、捻じれているのだ。このぐにゃぐにゃがあたかも独立懸架のような効果を生んでいる。ブッシュはタイヤを揺らして接地性を確保できるようにビックリするぐらい大型なものが付いている。

つまり、無駄をそぎ落として基本性能を追求するという精神を持ちつづければ、カット&トライを繰り返すうちモノは単純化するのだ。それはそのモノの完成形に近づいていると言える。けっして複雑になって喜ぶようなバカになってはならぬ。
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Posted at 2012/03/19 00:22:45

回生ブレーキとデンマーク

2012年04月01日 | 学問
電車を例にとると回生ブレーキとは捨てる熱エネルギーを電気エネルギーに変え究極のところその分だけ発電所の負担を減らし、火力発電なら化学エネルギーの温存を図ろうというものだ。

どう考えてもエネルギーの変換点が多い。回生される電車の運動エネルギーは紆余曲折を経て化学エネルギーになると考えていい。発電機のρ、途中熱エネルギーとして捨てられる送電ロス、変電ロス、火力発電出力の調整ロス。じつはこれが大きいのだ。調整が簡単だと言われる火力発電ですら弱電ならどうでもいいが強電になるとものすごい手数と計算を踏まなければ困難を極める。

そこでデンマークはかんがえた。デンマークというと途端に拒否反応を示す低能右翼がいる。僕はそれが十分わかる。気違いババアがパンフレットを持って人の昼寝を邪魔しに来る。エネルギーといえば自然エネルギー、食い物といえば自然食。なにかの宗教みたいにこれを人にも強要する。この文明拒否集団は日本でも大いに迷惑していて僕も背中がぞくぞくするほど嫌いだ。

だけど全部を否定したりしない。そこが脳のキャパシタンスだ。

デンマークの地下鉄は駅のある部分だけを浅くつくり駅と駅の間は深く作った。おそらくサイクロイド曲線になっているはずだ。ここでは簡単にサインカーブを考える。

電車が駅に着こうとすると駅は地上近くにあるから自然とブレーキがかかる。電車は坂道を登る。つまり電車の運動エネルギーは自動的になんの機械も通さずに位置のエネルギーに変換されているのだ。乗客の昇降距離も短縮されたという副次的効果も生んだ。

上方に位置するという位置エネルギーは今度は発車の時放出される。ボルト一本つけない回生ブレーキだ。

一般に現代では精密この上ない姿をしている機械というものは、ほんの50年前はお粗末この上なく単純だった。いろんな不都合があり、あれをつけこれをつけしていくうちに怪物のような代物になってしまった場合が多い。

ほとんど死滅しているキャブレーターがいい例だ。お目見えしたころの霧吹きのような単純なキャブに比して最後のころのキャブはすさまじく複雑だった。しかしそのことと、それがいい機械になったというのとは違う。発想においては最初のころと何一つ変わりない。修正に修正を重ねた結果化け物のようなキャブが登場した。

も一つ例をあげよう。自転車。無駄なく洗練された姿は美しい。ビス一本無駄なものはない。クルマという怪物はその点自転車に大きく後れをとっている。根本において100年以上もレシプロいこだわっているからだ。こう言うとすぐ低能は、だからモーターがいいのだとか言うがそんな話はしていない。

デンマークの地下鉄はローテクだ。計画通りにはいかなかったところもあると聞く。しかし、それは本質ではない。では本質は何か。

日本はああでもないこうでもないと複雑なキャブを求めたのだ。デンマークは発想を転換した。
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Posted at 2012/03/16 13:23:20

回生ブレーキと原子力。

2012年04月01日 | 学問
回生エネルギーというのは車軸に発電機をつけ制動力の一部を利用してその発電機を動かし熱として放出していたエネルギーを蓄電池に保存したりして必要な時に再び運動エネルギーに転換しようというものだ。 

今までの自動車が一方向のエネルギーの消費への流れであったのに対しなかなか省エネでよさそうだ。 ただ僕は否定的だ。ものごとを実施するに当たっては無駄ではないということが分かっても、有効であるということとは即座に結びつかない。 

原子力発電がいい例だ。そんなに安全なら博多湾、東京湾につくれ。ド田舎につくるからどれほどの送電ロスが起こっていると思っているのか。 それは怖くてできんだろう。

目の前の補助金に目がくらむ田舎ものの玄海町は町の予算の数倍の補助金がちらつくところっと旗を持ち変えて賛成の旗を振りだした。あほ。核分裂型の発電は石油よりも寿命が短いことを知れ。 頭の悪いのはクリーンだと言い張る。なら浪江村にすめ。

さらに廃炉を処分する能力は日本にはない。そのうちできるだろうと思って始めてしまってこのありさまだ。 その程度の技術力でありながら国際的メンツにこだわって原子力船目で作る始末。「むつ」。ほどなくまともに動かず廃船になり海にカネをばらまいただけに終わった。

 高速増殖炉「常陽」はどうだ。動いてないじゃないか。「もんじゅ」は稼働停止してから10年以上になる。ところが、その費用は全部お国が面倒みるから、原子力の発電コストは低いとぬかす。 

六ヶ所村においてもそうだ。だれが1000年も管理できるか。今から1000年前は鎌倉幕府の時代だ。 自民党のポチたちがしっぽを振って原発賛成を述べるのは問題ではない。今やそういった荒唐無稽な原子力社会を夢見るのは一流大学の三流教授か三流大学のただのアホしかいない。 

天下りを大量に受け入れて己の地位を安泰にしようとする電力会社。まともに動く原子炉が一つもなくなる中で兆の単位でカネを捨てた「もんじゅ」。 それでも自民党のポチたちはエネルギー不足を叫ぶ。日本の人口は半分になるんだぞ。

そうでなくとも発電効率のいいエネルギーはいくらでもある。海底のメタンがどうしたとか言わない。LNGがある。自然エネルギーは地熱がある。日本は世界三位の地熱エネルギー大国だ。 自民党は本心を言うべきだ。濃縮ウランの技術を絶やしたくないのだ。潜在的核保有国の地位を政治力学上保持したいのだ。