か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する   39

2018年02月20日 | 韓国

前回の続き

ある日本人から聞いた話だが、日本人が礼節が正しく社会が秩序整然としているのは天皇がいるからだという。つまり、天皇の国に住んでいるから深化した道理のもと静かに礼節を重んじ生きているのだということだ。今日、日本の発達した民主主義を見るとでたらめな話ではある。しかしながら時々韓国の騒がしい社会や政治を見て気分を害するときなどそんな庶民意識が起こってきて、我々にも王がいたらという気持ちになる。多分、こんな心情は少し年配の韓国人だったら誰でも一度は持ったことがあるに違いない。

それほど朝鮮王朝の滅亡は現代の韓国人たちにはいまだに同時代の事件として痛恨の極みなのである。この話になると韓国人ならだれでもこぶしを握り締め、朝鮮王朝に侵入した日帝(日本帝国主義)の蛮行を糾弾する。北朝鮮はいまだに日本を同じ太陽を仰ぐことのできない(不倶戴天)敵だという。もっともけしからん輩は日帝に協力して国を私物化した売国奴李完用たち乙巳五族だ。彼らにつけられた「売国奴」という地上最大の不名誉は100年が過ぎた今まで色あせない。

 

そんな事件を前にして韓国人たちが見せたこれ以上ない激烈な集団の激高した反応の底辺には、先ほど指摘した体面メンツ主義と民衆意識がおおもとにあると考える。再論するが私を産んでくださったおじいさんがその時代の民衆であったし、その民衆の主人である王朝の体面とは結局私の体面であるという論理だ。しかしながら韓国社会が文明的な先進国家であるためには、このような体面主義や民衆意識(百姓意識)から解き放たれる必要がある。そもそも朝鮮王朝が私と何の関係があろうか。

朝鮮王朝時代の国家の主人は王である。天が王を産みその王が百姓を産んだ。王は百姓の父母であり百姓は王の赤子である。これが朝鮮王朝を下支えした政治哲学であり王朝が滅びるときまで大きな変化はなかった。であるから私の曽祖父と祖父はその時代の主人公ではなかった。朝鮮の王は朝廷に参与する両班の特権を保護し支持した。百姓をてなづけるのはその両班である。朝鮮王朝が滅んだのはその王と両班の支配共同体が政治を誤り外交をしくじったからである。多数の百姓が何かをしくじりこうなったのではない。

                                                                                                    からけん訳

 

次回用メモ  22  1どのように見るか  反面、今日の韓国人は… から

 


高橋まつりさんを忘れない

2018年02月17日 | 故人

お母様の手記を読むとき、僕はなんて生ぬるい環境に生きてきたのか恥ずかしくなる。電通にわが子を殺されてなお他の社員を気遣う心の広さに、ああ、お母さんがいたから本当にまじめな子が育ったんだなと実感する。

東大なんて、わが子を通わせている親は日本人の平均所得の5倍もある。その中でお母さんは必死に働いてまつりさんもそれに応えた。そういう辞めるにやめられない人を狙ってくるなんて、なんて汚いんだ。いじめた本人、時として加担した同僚、上司。悪魔の巣くう最低の会社だな。

会社というものはそうしてまで生き残っていかなければならないものか。

そうだ。と社員たちは言う。そしてその社員がまた自殺する。電通は繰り返しているじゃないか。

 

予告する。いじめ体質は何も変わってない。配置転換でごまかすな。がん細胞が転移したに過ぎない。今年また死ぬ。

いくら死んでも会社は生き残るため何でもしていいんだろ。そして、来年も死ぬ。再来年も死ぬ。死に続ける。

だが、最初に、いくら死んでも会社の存続が優先だといったじゃないか。、それなら天孫降臨ののちまず日本列島より先に会社ができたはずだ。

 

会社はなぜ万能の力を持つか。ヨーロッパ中世の宗教裁判を考える。他の例を引くことによりそこに共通する概念を成立させるため有効なことがあるのに、安易に思考停止に走る人がこの島には多い。人間に向かない人たちだ。だがこの人たちは、中世にとどまらず現代にいたるまで重要な役割りを担うことになる。

魔女裁判(男もいた)で死刑、主として火あぶり、になった人が150万人いた。判決を決めたのは司祭のようで実はそうではない。民衆だ。思考停止した民衆だ。民衆は司祭から正義というお墨付きをもらい少しでも異常なものに石を投げ火をつけ殺した。

司祭は民衆を正義というオブラートに包んでやることにより教会の安泰を図った。

 

バカは何かしら正しい側にいるみたいだということで安心し必要以上にわずかな違いも許さず攻撃する。

 

やがて、泥酔した熱狂を深く反省することによって、個人の思想はさまざまであり教会も会社もおよそいかなる集団も構成員が異質なものを持つことを相互に認めることの重要性を知る。それこそが社会を健全にすることだと憲法に書いた。

その点電通はいまだに不健全で、人殺しを狙う、臭くて、汚い、腐敗した会社である。

そこに入社しようとする学生がいる。お前たちは人間ではなくて蝙蝠だな。人に電通に勤めているということを平然と言える社会だから電通は安心して人殺し体制をやめない。

 まつりさん。僕は仇を討ちますからね。


ジャンクカメラ

2018年02月09日 | 日用家庭用品修理

今週の生け花。とてもよくできた。

この頃は写真機をジャンクで買ってきて、家でじっくり修理する。そんな事に凝っていた。すると写真機が20個ぐらいになった。

電子回路の故障であれば修理は不可能である。しかし、カメラの頭脳はそう簡単には故障しない。相変わらず故障はメカニカルな部分である。

修理をするのは楽しいがデジカメの変遷が分かるようになり悲しい気持ちにもなった。初期段階のカメラはFINDERがついているし筐体は金属である。画素は400万画素あれば上等だ。しかもなかには新品もあり、5万円ぐらいしたから今から15年前の5万はなかなかの出費だ。

ぜーんぶ200円。

会社は無駄と知りつつ画素競争を始める。しかも新しいテクノロジーは小出しにしてなかなか現実の製品まで降りてこない。

 

車もおんなじだ。車をカメラで囲んで当たり屋を防ごうという魂胆だが、腕力の弱いのがドラレコ程度で助かった話は聞かない。

こんなロードレイジは主として九州の田舎の人間だ。強がって追い越したの、ガンつけたの、バカらしいことで人生をつぶしている。生まれてこなければ本人も被害者も穏やかに生きたのに、生まれて人に迷惑だけをかけて死んでいく。

いつかこんなロードレイジがいなくなるためのブログを書く。

早い話が、バカに車を持たせ産業の奴隷として利用しようと考える国土交通省と警察庁がクルマを生産の手段にした。低賃金は人を短気にする。

 

技術者は精一杯メーカーの特色度出そうと悪戦苦闘している。ホワイトバランスは太陽光から蛍光灯に至るまで全体の光の波長の感度を調整している。それがメーカーごとに特色があって面白い。

別にCARLZEISSを使う必要はなかった。落ち着いたやや青い色調はTessarの色ではない。ほとんどのメーカーのカメラを修理したが、その会社の思想が表れていた。

NIKONはもはや小型デジカメに対するやる気はない。ただ歴史を持つ会社はつまみやボタンの位置、メニュウに出てくる順序などに頻度の高いものを合理的に並べている。それとシャッターの絶妙なストロークの深さ。

この点昨日今日始めた会社とは長日の差がある。同時期にできたカメラではないのでそのまま比較はできない。

マスキングテープを貼っているのは冷たいから。黒テープは光って鳥が逃げないように。私は女のパンツは撮りません。汚い。

 

重要な技術やほんものの設計思想は、時間がたってもそんなに変わらないのである。NIKONは撤退するので今は中華のおもちゃを作る。CANONは頑丈にできていてタスク深く入ると高級コンデジ並みの芸当ができる。色がきれいだ。カシオはモニターの色が汚い。どういう回路にしたらこんなに汚いカメラができるのか知りたい。

ここ2,3年のカメラはレンズが完全に本体に収納されない。これを本体内に収納しようとすると難しく部品が増えカネがかかるのだ。使いにくい。1ミリも出っ張りのないIXYの高級バージョンを作ってみろ。20万出しても買う。

画素は600万あれば十分だ。嘘だと思うなら撮り比べたらいい。

 

民間がひそかに技術上のカルテルを結びバカな消費者に技術を小出しにして何回も買わせて儲けようとする。

だが、社会主義のでたらめはそんなレベルではない。旧ソ連製のブリキを打ち抜いたようなカメラを見たとき、そして東独製の戦後そのままのcopyLEIKAを見たとき、東欧の崩壊を予感した。

 

ファインダーを残したカメラを見ると精密な技術を追求した技術者の苦悩が見える。

 

あとはそれぞれ色の好みだ。しょせんFILMではない。色の立体感はない。ただ民衆に受けようと使いもしない機能満載で、この頃出てきたメーカーが売れているのが嫌だ。

 

僕は40年以上NIKON党だった。銀塩(FILM)はいまでも他の追随を許さない。デジカメはCANONの勝ちだな。SONYのボタンが小さいのが残念だ。女性ならいいかな。CASIOはカメラを作ったのが残念だ。発奮せよ。子供だましをするな。CPUの能力をどうでもいいことに割くな。僕でも言えることがある。

カメラは写真を撮る道具だ。