か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

残酷なピカソ、さみしいルソー

2019年03月09日 | 芸術

画家のルソー(Henri Julien Félix Rousseau)は特別に絵を学んだ経験もなく、いわばアマチュアとして絵を描いてきた人だ。

死後その評価は高まるが、年金生活の中で書き続けるにはあまりにも収入が不足した。

そんな彼をひそかに応援したのがロートレック、ゴーギャン、ピカソ等である。お世辞にもうまいとは言えない彼の絵だが、人々は彼の絵の中に、静かな優しさや、誠実な彼の人柄や、懸命に生きた彼の人生が反映していることを感じ取る。

物は言いようでそんな彼は「素朴派」といわれる。


ぼくは直方の谷尾美術館に行き、いまや日本を代表する画家となった植木好正画伯から面白い話を聞いた。

40年前、まだ一介の画家だった彼から一枚の絵をかいてもらったことがある。Rousseau(ルソー)とはジャンルの違う絵だがタッチには不思議と共通性を感じる。ンなもんだから彼と話すうちなんだか彼とルソーがダブってきた。

世事に疎く、すぐ人を信用する。物事に素直に感動し、詐欺師にとっては絶好のカモのはずだ。ところが画壇とは、奸計、権謀術数が渦巻く世界なのだ。絵の世界も悪人に満ちている。


ただあまりにもおおらかで自分を飾らず無防備な人に会うと、こちらもいつの間にか浄化され神経をピリピリさせて生きる自分が恥ずかしくなる時がある。


ルソーの絵から人々はそんな心の浄化作用を感じていると思う。


ところが、そんなルソーを茶化し笑いものにしサンドバッグにしていたのがピカソだ。友達とか援助者とか理解者のふりをして接近したのだからたちが悪い。

世の中からは当時全く評価されないルソー。それどころか蔑視さえ受けていた彼にやさしく接近し、自分の使い古したり書き損じたりしたキャンバスをルソーに援助したのがピカソである。

あのピカソから援助を受けたことをルソーは素直に喜び周囲に言わずにはおれなかった。私にあのピカソ、あの世界最高の画家ピカソが目をかけてくれたのだと。


ピカソは計算高い。まるで公園のハトに餌をやるように自分にすがってくるルソーを楽しんでいたのだ。ピカソは友人とともに彼をバカにし面白がった。

下手が画家になったつもりで吹聴しているぞ。そういって無邪気に喜ぶルソーを面白がった。


篠山紀信 宮沢りえのちち 眼福眼福

2017年01月24日 | 芸術

福岡県福岡市博多区下川端町3番1号の博多リバレイン7階・8階にある。

アジア美術館に行き篠山紀信を見た。迫力をもって現代を切り取り、また遠い時代になって色あせていくものに丹念に光を当てた。

写真は常に新しい技法を模索し、見る側に衝撃を与えなければならない。彼の言葉にはなかったが、僕は彼の主張を言葉にすればこう言っているように感じた。

これは館内のカフェの椅子。

これを言うと教養のない奴らは条件反射的に反発し思考停止し、せっかくの面白いネタが相互の会話で発展することがなく、日本人の教養の低さを実感する。中国人も全部、韓国人はほとんど気が狂っている。低能な部類の日本人は、AKBの裸踊りコンサートにはいくが高嶋ちさ子さんのバイオリンを聞いても素養がなく感動する能力がない。

というのも僕は彼の変幻自在で発想豊かな作品群に、D.H .Lawrenceを感じた。小説に、きらめく言葉をちりばめながら常にDifferent next oneを追及した。人は激しく生きよ、同じことを繰り返すのは堕落への近道だ。彼の思想はいつか、ひがむ人がいなければ紹介したい。短編はあまり訳が出てないのだ。井の中の蛙はいつも自分が一番だな。

どこがやさしく強く礼儀正しい日本人だ。シナチョンと変わらない。雑魚日本人は自分の教養に無頓着で隣国ばかり非難する。雑魚国民に勝ってどうする。欧米の優れた文化を学べ。

紀信は努力し続けてきた。女の裸で飯を食ってきたのではない。一枚や二枚の女の裸ぐらい誰でも撮れる。彼のほんの一瞬のひらめきが「りえ」の裸であったが、完成したころ彼は次の作戦を立てている。

一生「りえ」の実物に会うこともない無教養、バカ丸出し、脳味噌が筋肉の雑魚日本人は、「りえ」の写真を使い続けて終わる。

篠山がこんなことを言った。なんといっても人の中心は顔です。顔の魅力や、顔に詰まった語りつくせない過去の蓄積や将来への思想、僕はそれを撮りたい、と。

福岡市が運営するので全く期待しなかったが、あたりだ、まぐれあたりだ。

 

 

 

 

 

 


The New Year's Concert in Wien (Neujahreskonzert)

2014年01月10日 | 芸術

日本が天保の改革などにより、幕府の威光に陰りが差してきたころ、欧州においてはナポレオンの連戦連勝の歯車が狂い始めていた。

日本では鼻がもげてしまい、一夜の過ちを悔いてもあまりあるスケベどもが人口の3割4割を占めていた。江戸は梅毒淋病その他疫病の巣であった。木やりの水はたやすく落下細菌を吸収し、井戸は細菌の培養器に等しかった。

西欧は、黒死病がはやるとみんなで病人を囲み祈った。感染は必然的に広まる。黒死病すなはちペストだ。怪しい女が魔女とされ、ときには男も魔女とされ野蛮な宗教裁判で黒死病の犯人にされた。

つまり日欧、おかれた状況に大差はなかった。死神はそこらじゅうにいたのだ。敵、味方の裏切り、疫病。

違ったのは、欧州の方が若干音楽に対する理解が、庶民レベルまで行き届いていたこと。昔のウィーンの城壁や街の細い路地は音響がいいので、そこでレベルの高いバイオリンを聞くことができた。わずかなことのようだが、普墺戦争の痛ましさに辛酸をなめた国民は心の潤いに飢えていた。

そんななか「楽友会館」はできた(Wiener Musikverein)。しばし人々は悩み多き日常を忘れた。また、忘れさせることができる力を持った音楽が、そこにはあった。

今や、床が木なので、歩くと音がして非常に気を使う。古い。狭くて音響はあまり良くない。ただ寒い季節なのでカネ持ちの防寒具は本物だ。だからそれなりのマイクを使う。日本では逆の意味でそれなりのマイクを使う。

150年。 僕のへぼバイオリンと同年だろう。下品な金ぴかや宗教臭い天井の絵、風呂屋の置物の様なレリーフ。たしかに日本人の感覚には合わない。

だが日本では、そのころの何かしら建築物らしきものは、今にほとんど残ってない。あ、神社の狛犬はいるけど。ホールは最初っからない。

音楽と言えば演歌しか浮かばない低級公務員の思い付きで箱モノが並ぶ国は、下品だ。ウイーンでは、千住 真理子レベルのバイオリニストがストリートで大道芸人として弾いている。そんな国には絶対にコンサートホールが必要だ。日本にはもったいない。道路工事の方がお似合いだ。景気回復にいいぞ。

日本の、とって付けたホールにオーケストラが来ると、なんとSが13000円だ。いかに根付いてないか分かる。楽友会館は4000円程度だ。

たとえばバイオリンの先生をするのは簡単だ。そんなもん僕でもできる。問題は、バイオリン自体で飯が食えるかということだ。日本では10人だ。

紅白バカ合戦は見てもNew Year Concertを見る人はいない。その素養の浅さは、そのまま政治的無能に結びついている。

新撰組が殺人許可証を持ち京都をうろついていたころ、ロンドンではネクタイをしてエスカレータに乗り地下鉄で通勤する労働者が、8時間労働をぼやいていたのだ。ウイーンのトラムはいまだに現役だ。上手にクルマと共存している。

一旦、砂漠のように過去にあったものを消し去らないと、次が始まらないと言う考えは、「造反有理」に通じる。つまり、バカ。

とにかく、今日は満足だ。楽団  Wiener Philharmoniker  指揮   Daniel Barenboim

(Eテレでまた再放送があります)