笠原小学校については前々回に書いた。
笠原東小学校。ここは廃校予定の笠原小学校に統合するという形で学校の火は消えた。その5年後笠原小学校も消えた。お粗末な学校配置計画により、子供たちは自宅が変わらないのに小学校を三校変わった。
真理(しんり)はまさかと思うところに潜んでいる。真理が見たままであるなら思考はいらない。
1953年に創立された笠原東小学校は、25名の新入生を迎えた。その後10年間は新入児童数はほぼ横ばいの25人前後である。1973年からの十年間は新入児童が20人を超すことはない。ところが1993からの十年間は新入児童数が一桁になった。
運動会、水泳、学芸会・・・すべて村民総出の祭りに子供は目立たなくなった。遠い黒木町から届く冷えた給食。分校ではないため校長、教頭、総括教頭、教務主任をおく必要がある。それにかかわる膨大な人件費。複式学級(1年、2年が同じ教室で授業する)を担当する先生の負担。
八女市および八女の教育委員会は、統廃合を避けるための努力をしたが仕方なかった、といった。
僕はここにトリックがあるというのだ。児童がいなくなれば学校があっても仕方がない。そのとおり。
ではもっと条件の悪い鹿子尾分教場(戦前)について考えてみようじゃないか。1879年創立。1906オルガンが来た。1907四年生から鉛筆を使えるようになった。(それまでは石版) 大正9年(1920年)ぞうり通学が可能となる。(それまでははだし) 昭和30年(1955)電話が通じる。
この分教場に通った生徒数(新入生ではない)1897年(明治20年)3人、98年2人、99年2人、以後順に4人、4人・・・。
ノートも靴も電話もないところのわずか数人のためにも学校はあった。あり続けた。
つまりあの貧乏明治政府が、一人でも子供がいて歩いて通えないでいるときは、そこに学校を作れと命じた。国家予算が一億円にも満たない政府が、「邑(ムラ)に不学(学校に行けなかった人)のなからしめんこと(が、いないようにすること)」のために決死の思いで学校を作っていたことがわかる。
こんな同じ話題に引きずられるのは、たくさんだという方も多いと思うので、これで最後にする。
明治時代に、学校が必要となりムラに学校を作っているときよりも、今、学校をつぶしているときのほうが、子供はその学校に大勢通っているのだ。
交通網が整備されてバス通学が合理的だとかいう官僚のまやかしを信じるな。バスの時刻を気にした子供に楽しい放課後は無い。学校が消えれば村も消える。地方を創生するどころか破壊している。
タイトルにあるこれら三つの学校は、今年3月までにすべて消された。
写真 笠原小学校でロケがあったそうです 「母さんへ」NHK 小学校の入り口にありました 横の時計はまだ動いていました