か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ファンを減らすいけない日々の告白   5

2014年06月29日 | 日常

普段は口数も少なくおとなしいのに、バイクに乗ると人格が変わるというやつがそこらじゅうにいた。たいてい死ぬかカタワになっている。

といいつつやはり相手のバイクの後ろは走りたくない。こっそり一人で練習した。リッター47円の時代。コーラのビンを10円で引き取ってくれたので、そのビンを合法、非合法に集めればガソリンに困ることはなかった。

もし、クルマだったら僕は人殺しになっている。

そうでないからよかったものの、刑務所に行くスレスレのことをしていた。だって、いつ人をはねたかも知れない。殺してたら今の僕はいない。だが、バイクとは人生をかけるほどのものではない。ところがメーカーはバカをおだててバイクを売ろうと、弾丸のようなバイクばかり作った。

そんななか、仲間内で『乗ったら半年以内に死ぬ』というちょっとオーバーな表現をしていたバイクがある。2ストで500CCで有鉛ガソリンを入れたら、あながち誇張した表現でもない。マッハⅢ。

小さい男がカッコつけてノーヘルでかなり吹かしてクラッチをつないだ。買ってもらってうれしかったのだろう。ズバーーンとバイクだけ飛んで行き、後ろにいた僕たちはあわててその男を抱きかかえた。

当時のシートはフラットなのだ。

このカッ飛びバイクはきちがいだった。カッ飛び、曲がらない、止まらない。ヤマハも同じようなものだった。トルクカーブが極端に変形している。おとなしいバイクかと思ったら急にヒステリーを起こす。

一方、学校はとてものんびり自由なところだ。課外とか補習とか掃除とか帰りのホームルームとか面倒なものはない。6限目が自習のときは帰ってよかった。その6限目になると放課になった連中がバイク置き場でカラ吹かしをするので、授業の先生の声が聞こえなかったほどだ。

しかし、ここが大事な点だ。バカではなかった。全員が秀才だった。体力も負けない。どんなに何ちゃって私立校が全国からラグビーバカを集めようと負けたことはない。

僕の中には二人の僕が同居していた。数学者ガウスは4歳までに2から300万までの中にある素数を求めた。オイラー、ガウス、ガロア・・・その透徹した論理の美しさにひれ伏し怯える自分。そしてもう一人。とにかく勝ちたい勝ちたいの一心で、人生を失い人の人生も奪うかもしれないむなしい夜遊びをして、一人前の気分でいる自分。

僕は、一概に悪い自分を否定しないのだ。聖書は言う。「光あるうちに光の中を歩め」

今の僕を支えているものは何だろう。僕はいまだに二人の僕が捨てがたい。

最近は、もっぱらこのバイクに乗っている。(画像 SUZUKI GSR)


 


植田少尉

2014年06月26日 | 東洋歴史

 

半島の食うや食わずの貧乏百姓が、身の程知らずにも帝国の軍人にあこがれた。帝国は、朝鮮人の手を借りてまでしてこの戦争を勝とうと思ったことはない。終戦直前は例外であったが。

そこで多くの朝鮮半島男子は、日本人の養子になることにより法の目をくぐり帝国陸海軍の一員になろうとした。高木正雄という赤貧洗う生活をしてきた男がいる。低脳でかろうじて(ビリで)教員養成所を出ると付近の小学校に着任した。

こうして、朝鮮人、低脳、さらにもうひとつ、彼の劣等感が加わる。帝国は彼など必要としなかったのだ。命をささげようとして断られる屈辱とは、いかほどであろう。つまり、軍人になる夢は断たれた、かに見えた。

それを救ったのは満州国軍だ。そこで気に入られた高木は、コネを使いこともあろうに帝国の陸軍士官学校に入る。

もちろん最下位だ。席次を発表しない伝統をいいことに成績を捏造し、帝国が瓦解すると同期の朝鮮人を集めて韓国の大統領になる。その娘がパククネだ。

高木正雄こと朴正熙(パクチョンヒ、ぼくまさてる)。

タイトルの植田少尉は生粋の日本人だ。高木偽日本人より数年先に、陸士に入学していた。今の防衛大と思ってもらっては困る。陸軍士官学校(以下陸士)と防大とは、東大と地方国立大学の違いだ。

満州、新京育ちの日本人は、受験のため上京し、帝国の威容に驚いた。植田は、皆がそうであるように一年弱で少尉に任官する。機関銃隊小隊長。内地勤務。

これは、僕の推測だ。もうこれ以上戦死者が増えたら、戦後自立した復興が不可能になる。兵は3割死んだが将校は9割死んでいる。将校が戦闘を避け兵を前線に追い立てたという風説は誤りである。

陸士といえばそのまま大学で教えることのできるほどの人たちだ。その彼らが9割死ねばなにがおこるか。戦争の行く末は、誰でも分かっていた。参謀本部も戦後の人材を考えたのではないか。植田少尉が戦地に行くことはなかった。

昭和18年まではどの任地に転属になっても弾は1千万発あった。最後に彼が勤務したのは、長崎県雲仙市愛野町。

敵の上陸に備えた。ということだが、配給された弾は一丁当たり5発だった。0.1秒撃てば弾がなくなる戦争をしていた。8月9日、わずか30キロ離れた長崎からの光と爆風は、彼の階級章を吹き飛ばした。

僕の歴史の先生だ。

 

 

 

 

 

 









ウソはしきりと絶叫する   10

2014年06月22日 | 韓国

僕はシナジン、チョンの悪口や、低脳ぶりや、失敗や、お粗末粗相の類を書いて、自分のコンプレックスをしばし忘れようとか、他人の低脳を喜び自分を見失うまねはしない。

精一杯のことをして、中韓の良心的学者は習近平やパククネにほとほと手を焼いていることを伝えたい。

『韓国人が知ってはいけない日帝時代の真実』からの引用の続き。

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「おじいさんが幼かった頃の話を聞くと、今とさほど大きい違いがあったわけではなく、かえって独立直後の経済状態が日帝時代(日本が占領していた時代)より悪くなったとおっしゃるんですよ。」

小さい頃から、日帝時代のおじいさんやおばあさんの生活状態を、いつも聞いてきながら育った平凡な高校生です。おじいさんが若かった頃の話を聞いてみると、学校で習ったこととは違って、そんなに生活がつらかったということはなかったそうですよ。教科書にあるように、(韓国は)日帝時代を通してずっと収奪されっぱなしであった、ということではなくて・・・

朝鮮人に対する差別も、とてもひどかったというわけではないようだし。日帝時代の小説なんかを読めば分かることです。中国人と朝鮮人が訴訟になるといつも朝鮮人が勝ったようですし、極端なことだと思いますが、おじいさんが住んでいた町である人が中国人を殴り殺すということが起こりました。しかし本人は無罪釈放されたということがあったそうです。(このように、とくに朝鮮人が差別されていたということはありません。)

朝鮮人に対する徴用も日帝時代全般にわたって行われていたのではなく、太平洋戦争末期に始まったことだとおっしゃって(おられました。)(おじいさんは1945年8月18日に徴兵されることになっていたのですが15日に独立(日本の敗戦)したので難を逃れたそうです。)

おじいさんが小さい頃の話を聞くと、食事に事欠くことはなく灯りも石油ランプを使いおかずもそろっていたし、ご両親(私からすると曾おじいさん曾おばあさん)にねだって運動靴を買ってもらい、学校に履いていって自慢したそうです。逸話として聞かせてもらいました。今とさほど大きい違いがあったわけではなく、かえって独立直後の経済状態が日帝時代(日本が占領していた時代)より悪くなったとおっしゃるんですよ。もちろん、私の家が親日派だったということは決してありません。

国史(歴史)教科書に出てくる内容などは、政府の反日政策から出た歴史の歪曲ではないのか。ホント、国史の教科書に出ていることだけ見れば、朝鮮人たちは血の一滴まで収奪され押さえつけられ苦しんでいたと書いてあるんですが・・・

どうしてこんなこと(事実とされることの違い)が起こってしまったのか解せない。専門家はどう考えるのか。

                              (からけん訳、カッコ内は訳者が付記しました)

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当店ではマイバッグの使用はおひかえください。

2014年06月19日 | 国際・政治

傘たての使用もご遠慮ください。傘は収納し買い物カートにお下げください。まず、この話から。

通常の清潔感なら、人が握った傘を握ってさしたくない。したがって、病院だろうがスーパーだろうが本屋だろうが、入り口の他人の傘を取ろうという日本人はいない。

エイズかもしれない、水虫かもしれない不潔野郎の傘をとろうという人は、その不潔野郎以上に不潔なはずだ。

盗られた傘は出てこないが、出てきたほうが気持ちが悪い。

安心して傘たてに傘を置くという当たり前のことができない日本になった。誰がしたか。

中国人だ。常識がないのでカットしたスイカをぐちゃぐちゃになるほど押していた。そして買わない。そして態度が大きい。そして声が大きい。

いすに座るときは足を引っ込めろ。店員はよく注意できないでいる。中国語でチイチイパッパがなりたてるので店員は圧倒されてしまう。店員は悪くない。

日本人を雑種にしようと最下層シナジンを移住させたのが問題だ。外人を受け入れるのが国際交流と思っている、安倍の楽観的対外政策のほころびのひとつだ。

もうひとつ。なぜマイバッグの使用ができないか。半透明のスーパーの袋に比して、一般にマイバッグは不透明だ。だから5,6人で取り囲んで監視カメラをさえぎると、マイバッグは何でも盗れる魔法のバッグになる。

注意しようものなら10人以上の支那人を携帯で集め、バイトのか弱い兄ちゃんを圧倒する。

ただで食料が手に入るのに誰が金など払うものか。

いくばくかの中国元は、確かに国内に落ちる。しかし、それはたかが知れている。それよりも治安経費の増大、環境清掃費用の増大、何よりも周囲の迷惑を顧みず大声で話す低脳の急増。誰が入れたんだ。

福岡県筑紫野市は捨てられた老人の町だった。ところが突然、若者の町になった。ただ、鮮人と支那人の不良の町になった。老後を安心して暮らす町は、支那人の生存競争に巻き込まれる。

必ず事件が起こる。見ず知らずの人の車庫にベンツが止まっていた。金持ちに違いない。ダンベルで打ち殺してそのダンベルをくくりつけ博多湾に沈めよう。と、一家4人を殺し急いで中国に帰った一人は、死刑を免れた。

国外犯、しかも日本でやった事件。中国がわざわざ厳罰にするはずない。

そういう不良、低脳、知的障害、貧困無教養を家族ごと入国させている。やつらは満足に中国語すら話せない。字が書けない。食うに困ったやつらが何をするか分からんか。

僕は鮮人はともかく、支那人には手を出さない。やつらはすぐナイフを出す。そして念のため殺した後は首を切り落としておく。

野放図な移住許可制度を採る外務省が悪い。




 


TOYOTAは売れる車を作ります。(工場見学)

2014年06月12日 | クルマ

とくにトヨタはそうだな。待合室に並んだいろんなカットモデルまがいのエンジンを見ていて思った。馬鹿はこのあたりで楽しんどけよという姿勢がありありと分かった。何なら86とか出せば喜ぶんだろ。

Made in Japanにかぎらず、190Eなども肝心なところはこれでもかというほどがっしり造っている。そして気絶するほど高い。190Eのワイパーは本来無理があったようだ。カバーが壊れたので買いに行ったら5万といわれ腹が立ったので作ることにした。

つまり、貧乏人は来るな、という姿勢だ。こういう考えもよい。なぜよいか。エンジンつきベビーカーで安売り商品に突進するために、車に乗るという人もいるだろう。そこにTOYOTAは付け入ったわけか。資本主義だな。

買い手は、夜叉のように髪を振り乱し、子供と親と叫び合いをして、悲しいいがみ合いの人生を送り、20%引きとかいうシールが、腐れかけの肉のトレイに貼られる瞬間、その狂乱に拍車がかかる。いったい、エンジンつき買い物カートのどこに個性がありどこに人間らしさを見出せるか。

IndustryはCultureである。産業の雄たるTOYOTAは社会的責任を自覚せよ。

決定的なことがある。四隅には必ず傷を入れた悲しい軽とか言う買い物カートは、文化を作ることがない。

いつかはクラウン、といった頃のクラウンには文化を作る意気込みがあった。性能がよければいいクルマか。アホには永遠に分からないことだ。

レクサスが文化を創ることはない。何ちゃってレクサスは論外だが、一応クルマといえるレクサスですら10年、20年たって何台走っているだろう。クルマ文化の一翼をになう前にくず鉄になる。

Assen工程を主に見たが、ハイアールが冷蔵庫を作るのとまったく変わらない。いや、不良品率がどうとか、稼働率がどうとかバカがいう。僕は製品に品位がないといっている。アホはすぐ違う話をする。

これは日本人が本当のいすに座ったことがないからだ。本当のドアを開けたことがないからだ。どうでもいいメーターパネルに異常にこだわる。携帯やスマホを見て育ったせいだ。

僕のクルマには三角窓がある。若い人は知らないし中年は笑い老人は懐かしがる。これで十分涼しい。笑っちゃいかん。

といっても渋滞したらとても暑いので乗る人からの文句が絶えない。何年ぶりかにクーラーをいれたらベルトが泣き出した。クルマの下にもぐってベルトを締めた。久々車を下から見るとホレボレした。電車のレールのようなラダーフレーム、ミルク缶を重ねたようなステアリング、昔僕が作ったグリスニップル。上手に隠したハーネスの処理。いたるところにあるサービスタップ、ホール。

クルマの作り手は、乗り手が機械音痴のバカではなく、ある程度の工作力とそのための時間のある人を前提に考えていた。昭和40年代は車庫に車を置いた。そしてその車庫には一応の工具がそろっていた。

クルマとゆっくり仲良く時を過ごした。

おまいらなんだ、会社か、早出か、仕事は休めないか、機械は分からないか、・・・

そんなおまいらは、向上心のない、他人のために人生をつぶす、思想上の怠け者だ。




  


Wrench(レンチ)

2014年06月06日 | 東洋歴史

Spanner(スパナー)と同一のものらしい。僕は比較的小さいものがスパナーで大きいものがレンチと思っていた。小さい頃、たとえ土間の上であってもレンチを落とすとひどくしかられた。いらいらしているときにはレンチで殴られた。 

父親がクルマきちがいであったので僕はよく修理を手伝った。たたかれた僕は鼻血が出た。原子力のせいではない。

普段はまったく子供に興味はなく、世間体のため思い出したように発狂し成績を上げろといった。

僕は思った。そんなら人の頭をたたくな。

だが、虐待したのと同じ回数ぐらい、物の仕組みはよく教えてくれた。その中でよく記憶に残っていることがある。本人が痴呆が入ってきたので、同じ事を何回も言うようになったせいもある。めかけ遊びばかりするので、僕と弟は梅毒だといっていた。いったい彼は何の仕事をしていたのだろう。ということを、ふたたび20年もすれば僕の子供が僕のことを書くだろう。

スパナには裏表がある。ワッシャアにもある。締め付けトルクはこうして覚えろ。・・・車庫から戻ると家には黒板があり、自分の言ったことを数式に直して納得させた。小学生の僕は泣きながらその式を解いた。無理無理。解くフリをした。以降、人生でこのときほど解きにくい式に出会ったことがない。

応力を一点にかけない。というのが大体の原則である。そこで写真にあるレンチの図を例にするので見てほしい。左を向いた片口レンチ。ボルトの頭をつかむところが左方にしかない。

その「口」が15°グリップ棒からずれている。ということはボルトに延びる2本のキャッチがそれぞれ異なる形をしているということだ(上側が下側より長い)。今ここで仮に上側の長いキャッチをA、短いのをBとおく。大きいレンチになればなるほど、A、B、逆に使うと、わりと簡単に壊れる。

とくに、モンキーレンチの場合は短い側(B)のキャッチがねじで動くから壊れやすい。現代でもモンキーは他に方法がないときのみ使う。

戦前は材質が悪かった。そう。そのとおり。そこで思考が止まるのがポン介だ。落としたら割れるダイキャスト、裏表のあるスパナ、ワッシャア。しかし、だからこそ物の性質をわきまえ、先人の苦労に感謝するということを知っていた。

なぜ15°曲がっているか。15°に行き着くにはどれほど多くの人がぼろ工具に泣いただろう。

宇佐の航空隊跡に行った。永遠のナントカというアホ用映画に使われたゼロ21型があった。掩退壕も見た。僕の気に止まったのは、一本のスパナだった。24ぐらいの片口。キャッチ(B)が折れていた。そこで5ミリ厚ぐらいの鉄板で両側から挟みこみドリルで穴あけしてリベットでとめていた。

つまりレンチ一本のゆとりもなく戦争をしていた。

戦争とは命と物資の使い捨てだ。ゼロ戦をはじめ戦闘機を9年も使う貧乏国に何ができよう。

この貧乏国では、レンチはおそらく20年は使われたはずだ。レンチで殴られ体で覚えた整備兵が、そのぼろレンチを万力とヤスリで修正し、リベットを使い継ぎ足しして使っていた頃、捨てるほど有り余るSnaponのワゴンからレンチを取り出し、アーミーのDJを聞きながらコーヒー片手にグラマンを整備したら、どっちが勝つと思うか。

このアメ公たちは、仕事が終わると基地の前にあるパブに行くのが楽しみだ。レンチをウエスで拭きジョークを交わしキンキンに冷えたビールを目指す。このパブは、沖縄上陸一週間後には営業していた。

一方、小日本の整備兵。ぼろレンチでもたたかれると体が痙攣する。8月15日を過ぎると、そのつぎはぎレンチは床に捨てられた。見たくもない。宇佐航空隊には将兵6,100名が勤務した。帝国海軍が解体したとき、怨念のレンチをひろう者はいなかった。





  

 


イオン交換樹脂

2014年06月01日 | 思想

また一人、ニューギニアの勇士が死んだ。汚いジジイだと疎まれ、話がしつこいと嫌がられ、間違っても彼を勇士だと尊敬した人はいない。僕以外にはいない。

僕と彼は30年ほど前、同じ学校に勤務したことがある。彼が校舎の中庭で芝生に水を撒いていると、4階から学生が彼をからかった。「水撒きジジイ!」

即座に彼の体は反応した。60歳をこえた体力とは到底思えない。4階まで駆け上がる。あと一息のところで学生を取り逃がす。そのとき僕は2階にいたが、状況は後になって分かった。

ニューギニアでは隣り合う蛸壺でアメ公と戦った。別の戦闘ではアメリカの弾を3発も食らった。僕とこの爺さんとは仲良しだったので、その弾を見せてもらったことがある。

負傷したので生きていられたのかもしれない。ラバウルに後送されたときこの世の天国だと思ったそうだ。その前は中共八路軍(パーロ)と戦った。何故か下士官にもならず一等兵どまりだった。

ガダルカナルに攻め入ることは誰がどう見ても間違いだった。そこに7ヶ月もとどまり、援軍を小出しにし、攻めるたびに負け、補給を考えず、ほとんどは戦死ではなく戦病死だ。つまり餓死。

爺さんは言う。最初の頃は一発撃つと100発帰ってきた。やがて、一発に対し3日間絶え間なく撃たれるようになった。

その中で赤痢になり食い物はなく負傷している手で銃を撃った。ここまでして戦う兵は勇士でなくてなんだ。尊敬しろ。

GEと三菱化学は、ほぼ同時期にイオン交換幕を発明した。銃だけで戦争するのではない。日露戦争以上の戦死者を出す上海事変では98%が銃以外で戦死した。きれいな水を供給することは日本軍にとってとくに必要なことだった。日本軍は火を使わずに食事はできない。

なのに、海水淡水化、有機質の除去(消毒)に目をつけ実用化したのは米軍のほうだった。

何も、ない袖を振れというのではない。日本はイオン透過幕の製造技術に関しては、まったく遜色ない技術を持っていた。その有効性にも技術者は気がついていただろうが、先陣を切って自分が意見具申しようというやつは今も昔もいない。兵を守るものだというと臆病者あつかいされ、そんな人間は陸軍にはいらん、といわれた。

結局、言わぬが花。大量自殺軍が出来上がった。

僕は不思議だ。これ以上ないという不利な状況で、わざわざ負けを早める作戦をし、だれも責任を取らず兵を殺す。

ニューギニアには、25万の勇士が骨も野ざらしで馬鹿な軍をうらんで眠る。

兵は語らない。語らないが死力を尽くして戦った。もっと知れ。