か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 70

2020年08月20日 | 韓国

<前回のつづき> 毎月20日発行

 

戦後朝鮮半島はドイツと同様にイデオロギー対立の象徴として成長するのだが、南北そろって反日勢力がいたために政権が掌握できたという共通点があった。韓国では政府樹立以後反共が最も重要な統治イデオロギーとして作用したのだが、反日ということもそれに劣らぬ統治イデオロギーであった。

 

政権以前の独立運動勢力は主として海外にとどまりながら独立運動を仕事として生活していたいわば独立業者という性格を有していた。その中でも一部、朝鮮民族にとって至高の善は独立することであると信じ献身した知識人もいたが、大部分は独立運動を建前にして仕事もせずに生きていくとか人民の財産を奪ったルンペンどもあるいは盗賊に近い者たちであった。彼らは日本軍に追い出されると日本軍と戦火を交えた。その時こそ独立運動家というスタンスを取ることができた時代状況を利用したので盗賊と独立軍を区分することはできなかった。

 

韓国(南朝鮮)では政府樹立以後、この独立運動ルンペン集団が帰国して政権を掌握したのち親日派を弾圧した。このため韓国ではどんな人も日帝時代の総督府に抵抗したとか少なくとも協調してはいなかったと主張するほかはなかった。このような雰囲気が次第に強まると反日は韓国の重要な統治イデオロギーとして位置を占めるようになった。

 

しかし、幸いにも日本統治時代のすべての制度的人的遺産をすべて清算してしまった北朝鮮とは違い韓国を占領した米軍軍政は日本統治の遺産を活用しようとしたし政府樹立以後にも親日派は反共運動に積極協力するという選択をすることにより韓国社会での居場所を見つけた。

 

 

日本統治期間中日本は大陸と近い北朝鮮地域を重要産業地域として育成した。このため北朝鮮は終戦以後はるかに有利な条件の下30年もの間韓国に対し国力の優位を遅ればせながら維持することができた。しかし、韓国は日本統治の遺産のなかでも多くの部分を継承したし、また1965年遅すぎたとはいえ日本と国交を樹立することで多くの経済的支援を置けたおかげで1970年代以降体制競争において勝利することができたのだ。

 

 

 

[敗戦の最も大きい被害者]

しかしながら、振り返ってみると2次世界大戦で日本が敗戦国になったことで最も被害者になったのは現在の日本人ではなく朝鮮半島に住んでいた朝鮮民族だったと思えてくる。とくに今日全体的な独裁体制下で植えつつある北朝鮮は朝鮮民族のなかでも敗戦の最も大きい被害者だといえよう。

 

終戦当時朝鮮民族は様々な理由で東北アジア地域に広範囲に散らばった。彼らは主要な5グループに分類されるが南朝鮮住民、在日朝鮮人、中国の朝鮮族、ソ連のカレイスキー(Coreanのロシア語発音)などである。

 

 

終戦以後の生活を振りかえると日本に残った朝鮮人たちが最も暮らし向きがよく、その次が南朝鮮=韓国人、ロシアのカレイスキー、北朝鮮住民の順に不幸である。これは今日歴史を振り返り日本が負けなかったとか敗戦以後であっても朝鮮が分断されなかったとかいう場合に例えてみると明らかなことである。

 

 

戦後韓国人たちは、日本統治時代にすべての朝鮮人たちが独立のためにし烈に戦ったのであり我々は戦争を通して自ら独立を成し遂げたという作られた歴史を学習した。その結果多くの韓国人たちは日本統治時代とはただ強大な侵略者に押さえつけられていた期間にすぎないのであると考えている。我らが日本から切り離されたことは民族の未来のどれほど不幸なことをもたらしたのか、あるいは今でも南北韓が日本の一部であったなら今よりいかほどさらに発展した国になっていただろうかと考える機会が消え去った。

 

 

しかし今年2002年初、上映された韓日合作映画<2009ロストメモリーズ>は若い世代にその後考えもできなかった視点から韓日関係を照らし出す機会を与えてくれえた。私は今年初め、ある集まりで ’日本から独立しなかったらはるかに幸せだっただろう’ という20代女性にあったことがあるのだが多分この映画がなかったら韓国人たちの間にこのような考え方を見いだすのは困難であっただろう。

 

 

この映画は、ボク=コイル韓国人小説家の1987年作<悲鳴をもとめて>という小説を映画化したものであるのだが、時代設定が多少斬新であるだけで小説自体のストーリーは極めて幼稚である。この小説はある日本人が朝鮮北部で過去を旅行することができる遺物を発見したのちそれを使って1909年ハルピン駅で暗殺を阻止することで歴史を変えてしまうという設定で出発する。

 

その結果日本は第二次世界大戦の戦勝国になり2009年ソウルは日本の3大都市となり素晴らしい発展をする。しかし、韓国の独立軍不逞鮮人が遺物を探し出し再び歴史を戻そうとし韓国は独立を果たすというストーリーだ。

 

この映画は今年はじめ多くの観客を動員するのに成功した。韓国の若者たちの間に ’今も日本だったら‥’ という多少懐疑的な発想が映画の影響であるにすぎない。

 

 

<次回用メモ>

[1-2] 상처뿐인 해방-일본의 패전과 한국 p39

 
[ 패전의 가장 큰 피해자 ]

の4段 2002년 초, 당시 한국의 경제 부총리인 진념씨는  から

 


ノモンハン事件

2020年08月15日 | 東洋歴史

<引用>

「君は日本軍をどのように評価するかね」(スターリン)

「われわれとハルハ川で戦った日本兵はよく訓練されている。とくに接近戦闘でそうです」と私は答え、さらに「彼らは戦闘に規律をもち、真剣で頑強、とくに防御戦に強いと思います。

若い指揮官たちは極めてよく訓練され、狂信的な頑強さで戦います。若い指揮官は決ったように捕虜として降らず、『腹切り』をちゅうちょしません。士官たちは、とくに古参、高級将校は訓練が弱く、積極性がなくて紋切型の行動しかできないようです(後略)」(『ジューコフ元帥回想録』)

<引用ここまで>

<さらに引用>

ノモンハン事件(ノモンハンじけん)は、1939年5月から同年9月にかけて、満州国モンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した紛争のこと。1930年代に、満州国を実質的に支配していた日本大日本帝国)と、満州国と国境を接し、モンゴルを衛星国としたソビエト連邦の間で断続的に発生した日ソ国境紛争(満蒙国境紛争)のひとつ。満州国軍モンゴル人民軍英語版の衝突に端を発し、両国の後ろ盾となった大日本帝国陸軍ソビエト赤軍戦闘を展開し、一連の日ソ国境紛争のなかでも最大規模の軍事衝突となった。

                                wiki

<引用おわり>

 

そして大日本帝国陸軍は大敗北を喫した。いまだに1万人の日本兵の骸骨が風雨にさらされている。2万人が不具者になりさみしく死んだ。

 

軍楽隊も幟も万歳の歓声もなく不毛の土地を取り合って日ソ両軍が宣戦布告もなく激突した。

その大衝突の前にも小競り合いは続いていた。小松原師団長は敵を侮りあいまいな情報や架空の情報を狂信し楽観的に戦局を解釈した。

小松原は、「うまくいけば私の手柄、失敗したら部下のせい」にするつもりだからこんなおいしい話はない。

 

彼は、この姿勢で一貫していた。この卑怯な態度は彼だけがとった態度ではなく、思想傾向として軍部、国内の言論、政治、学校、会社、…いたるところに蔓延していた。

この宣戦布告なき現地軍の独走を、国家として制御できない小日本は政府内部で責任転嫁するか見て見ぬ振りに終始した。

 

国民が軍を統制してない。軍が国民を統制している。

 

これが軍国主義でなくてなんだ。

 

 

どこの家庭も戦前はそうであったように私の祖先も男は全部軍人だ。

 

その軍人の一人、私の曽祖父は、1939年ハルハ川河畔の師団司令部にいた。司令部の参謀のなかでは最年少で、戦闘がまだ小競り合いであったころ、従兵を連れ陸王に乗り敵との停戦交渉に赴いた。

 

停戦が成立してホッとして司令部に帰ると、必ず敵機が襲来し爆弾を落とす。尾行して司令部の位置を確認したのだ。

 

仲間をやっとのことで砂の中から救出したのを見計らって今度は戦車や装甲車が来た。この裏切りと姑息さにおいてソ連軍は一日の長、いや、百年の長があった。

ロシア軍にすれば、

わがロシアは何年露土戦争をやってきたと思っているんだ、鳥羽伏見とは違うぞ。そういいたかっただろう。

ロシアの機関銃弾は小日本の戦車を貫通した。何が戦車だ。

日露戦争の敵討ちに燃えるジューコフは、日本軍兵舎や前線司令部を縦横無尽に轢きまわし兵が完全にひき肉になるまでやめなかった。

 

これを戦争といわずして何が戦争だ。日本は何とこれを「事件」と呼んだ。

 

戦争によって領土問題を解決するという能天気が現在も国会議員にもいる国では、この不条理が今も現実となりうる。。

 

下っ端はよい仕事をしてもせいぜいほめられるだけ。「よくやったぞ」、と。

そして成果は上がとる。

 

問題は、可能性の少ないことを押し付けておいて失敗したら部下のせいにする犯罪的上司の存在だ。

戦争の不条理は現代においても続いている。

 

おじさんは現場の小隊長クラスに責任を押し付けピストルを渡した。死ねということだ。

 

100倍近い戦力差に、もはやどう戦おうと勝ち目はなかったのに、下級将校や兵に責任を負わせた。現場の下級将校は自決。兵はその後起こる太平洋戦争で必ず死ぬ作戦に向かわされた。口封じだ。

 

死んで陛下にお詫びしろという自殺強要を嬉々として命じた人物がいる。小松原と辻だ。彼らは昇進した。

 

おじさんは、その後の戦闘で負傷し(盲貫銃創)太平洋戦争中は陸軍病院に入院していた。

ずっと悩んでいたのだ。敵弾の飛び交う中、最善の選択をした優秀な帝国の士官に自殺を強要したことを。

彼はその後数十年、隠れるように百姓をして、「申し訳ない」といって自殺した。