か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

酒井有紗 pf.

2020年02月08日 | 音楽

久留米市城島町のインガットホールで酒井さんのコンサートがあった。城島町は、ぼくが勝手に福岡のプロバンスと名付けている。美しい田園の中にある。

菜の花をたくさん摘んだ。

 

ぼくはピアノにとくに専門的な知識があるのではない。ピアノコンサート自体が初めてだった。

全般に日本はコンサート料金自体が非常に高い。しかし、だからといって教養のある金持ちが行くとは限らず、場所によってはマナーが諸外国に比べてすこぶる悪く、飽きてソワソワするガキ、それを注意しない精神薄弱の親、屁と老人臭を振りまく枯れ葉族。

茶の間で夫婦でテレビを見ている感覚だ。荒尾市では酩酊してくる者、嬉野では演奏中に普通の音量で話し出す夫婦。城島では演奏中に座席の上で飛び跳ねる子供。

 

ぼくには精神的な拷問だったが、だんだん僕は酒井さんの演奏に引き込まれた。プロとアマは断絶している。区別するのは天才性があるのか、十分な資力に恵まれたか、プロへの強い意志があったか、・・・などかと思う。

酒井さんは全部そろっていたのだろう。一番の条件としてとして大事なことは天才性。

次回の九州公演は響ホール。料金は今回が1000円、響ホールは500円。なんかこだわりがあるんだろうか。ふつう10倍。

実物と顔が全く違う。

いつも彼女は難曲を簡単そうに弾く。コンサートの後半は超絶技巧の曲が目立った。

ラベルの曲を常に仕込みの状態に保つということは大変なことだ。が、本人はそんなこと一向に意に介さず、おっとりとしていて、皆さんに感動とか満足を与えることに集中していた。ゆっくりと正確に話す姿に好印象を受けた。本人は「久留米ラーメン」と「ウナギめし」に感動していた。

10本の指がバラバラに動き、右手で3拍子、左で4拍子というところがあった。これをこなせる人は少ない。16分音符は何分も続いた。

曲芸を見に来たわけではないが、このすごさは驚く。しかも聞き手は安心して聞いていた。ここがプロだ。

に気持ちが乗ってくると大抵の人は演奏が速くなる。常に一定。そのこも聞き手の安心感に寄与した。ここもプロだ。

 

これはピアノに限らずいえることと思うが、一日でも弾かない日があると取り返すのに一週間かかる。天才はそんなことないんだろうか。コンサート前日4日間は、小学校を8校巡り音楽について語った。

パンフには自分の経歴など一切書かず、初CDを出しました、と謙虚だった。https://www.arisasakai.com/news

断言する。この人は今後爆発する人だ。

穏やかな身のこなしで楽観的な考え方だ。ぼくにぴったりなので、交際を申し込まれたらOKするつもりだ。

マルセイユ郊外、・・・いや、久留米市城島町。


松本蘭(Vn) 酒井有彩(Pf)

2019年12月16日 | 音楽

松本蘭さんは、高嶋ちさ子さんの「12人のヴァイオリニスト」に所属して活動されていたそうだ。「めざましクラッシック」でご覧になったことがある人も多いと思う。桐朋の出身。

高嶋さんが、やさしく、さわやかであっさりとした音であるのに対し、松本さんは大きめのビブラートの振れで、雄々しく情熱的な音を出した。

お子さん(4か月)がいらっしゃるそうで落ち着いた雰囲気をお持ちだった。

テクニックは秀逸で、完成度が高く安心して聞けた。

 

よくもこんな田舎まで来ていただいたと思う。会場の椅子はパイプ椅子だ。バイオリンをやってる人が大勢いた。

チケットは一人1500円。なかなかいばらの道は続くな。座席はパラパラだった。

 

いばらだと言った理由。それはバイオリンが高価になったこと。…①

日本という国が、先進国であるにもかかわらず「ゼニ」にならんことには関心を持たない国だということ。…➁

ぼくが習い始めたころ、1台の値段は高いものでも数百万円どまりだった。150万円出せば田舎ではお城のような家が買えた時代だ。だから当時でももちろんバイオリンは高い買い物ではあった。さらに、体の成長に合わせ4台ぐらいは買い替えるし、半年に一度必要な弓の張替には、練習用でも軽自動車が買えるぐらいの費用がかかる。

だが今や日本はよい音のためには、ほとんどいくらでも出せる国になった。なのに、目の前のすぐ成果が出る話には熱心に予算措置が講じられるが、バイオリニストの養成には気が遠くなるほどの時間とカネがかかる。だが日本はその気になればできるのに、文化にカネを使わない。

こういうところに国家は介入せよ。東京芸大? いや、すでに天才は見切りをつけ外国に流れている。文化に対する渇望があるのに政府はそれに答えない。

天才でありかつ同時に金持ちであることが良い音を奏でる条件になっている。芸術家を持ち金の目方で測ってはいけない。文化の途上国日本。

 

安部のどこが毛並みがいいのだろう。学問における基礎研究の重要さが分からず、中小企業が求める「即戦力」の要請を最優先課題とした。

そんな人間にどうして養成に30年かかる芸術の理解ができようか。バイオリン本体を別として養成費は一人2億円かかる。バイオリン本体は最近、中国人が弾けもしないくせに投資目的で買い占めるから、高いものは30億になった。もはや材料の松が存在しないのだ。最高の名器が理解のない中国にあるなんて。 日本では本当の音が聞けないのにどうして新人が育とうか。 (①について)

 

 

今こそ文科省は口を出さずカネを出せ。

貧乏国に対してはこんなことを求めようがないが、アメリカの武器をローンで130兆円も買い付けてトランプにへつらう安部の下品さからは、さらさら期待できないことだ。

自民党、とりわけ安部一味の銭カネ万能下品政策により日本はソフトパワーが弱い国になった。一番稼いでおきながらカネではもたらせない文化というものに関心がない。

 

芸術家が生きるには苦しい国だ。

 

 

民間の一介の演奏者が私財を投じて演奏家を育てるなんてことは、途上国においてはあり得よう。ところが世界に冠たる金持ち国日本が音に関しては途上国状態だ。(「12人のヴァイオリニスト」、②について)
 

 

 

世界の名器ストラジでもやはり寿命はある。400年ぐらいで寿命は尽きる。優れたコピーも含めて世界に500台。今後減るしかない運命だ。

今最大の保有国は、弾けもしない中国だ。中国人の優れた演奏家がいることは知っている。だが彼らは中国にはいない。

日本も含め、経済力が巨大であるからこそ、ゼニ以外に関心を持つ国であってほしい。

 

たしかに良い音は優れた環境がないと生まれない。だからゼニは必要だ。だが、日本のゼニはさらなるゼニの拡大にしか関心がない。ゼニはソフトパワーの養成に責任を負っているのに。

 

 

ピアノ伴奏を担当した酒井有彩さんがソロでコンサートをする。福岡県久留米市城島町。インガットホール。このホールは、どうしたらこんなにお下劣に作れるかと思う建物なので近くまで行くとすぐわかる。

来年(2020)、2月8日。

この方は難曲をさも簡単なように弾く。通常、プロは商売上の演技をして、難しくないところも難しそうに弾く人が多い。そうした方に拍手がおおく来る。

ピアノというくらいだから、ピアノの音の神髄はピアノ音、つまり弱音にある。ぼくは、ピアノに関しては素人だが、素人が惚れる音は本物だ。1000円 人柄もよくうちの娘と交換しようと思う。

 

皆さん、ぼくは来年2月8日、福岡県久留米市城島町インガットホールにいます。初めてピアノソロを聞きにホールに行く。

 


海老原光(Conductor)、松本さくら(Vn)、森下花蘭(Vla)、永野沙祐里(Vc)…11人

2019年04月23日 | 音楽

昨年8月に出帆した出来立てのフィルハーモニー。九州シティフィルハーモニー室内合奏団。

団員の皆さんは顔つきこそそこらのおじさんおばさんだったが、演奏はピカ一だった。

 

ピチカートは音がどうしても小さいのでVnとVlaとかVcとか異なる楽器で協力して音を出すことが多い。この時、相手が近くにいると相手を見なくても大体きちんと合うが、席が離れるとなかなか合わない。とくにゆっくりのときが難しい。

手拍子で考えるとわかりやすいと思う。二人で手拍子を打つときはよっぽどの音痴でない限り拍子は合う。ところが100人の手拍子はどんなに良い人が指揮をしても合わない。

ユーモレスクを100人で弾く催しに参加したとき、とても悲惨なことになった。演奏前のチューニングのようだった。

 

九州シティフィルの演奏は完全にあっていたので気持ちよかった。正確だった。でもよい演奏とは間違えず正確に弾くこと、要求された技巧をこなすこと・・・ではない。聞き手が感動してなんぼである。

曲芸を見に来ているのではないのだ。

音楽の世界で抜きんでるためにはただ一つ、感動させる実力のみが重要だ。他はあまり関係ない。驚かせる曲芸は全く必要ない。

 

その才能はたいてい持って生まれたものである。努力したことの無い人がわかったふりして99%の努力と1%の才能というが音楽はそんなあまい世界ではない。逆だ。

ある楽器の上級者が、子供の奏者を見たとき、その子が初歩であっても確実に将来を予見できる。上級者が100人いても意見は完全に一致する。絶対に。

 

最初に拍手の話をしたのは、それが言いたかったのだ。同じことをVnの上級者100人でしたとき、一人が拍手しているように拍手できる。ピアノで言えば、両掌で任意の鍵盤を同時にたたいても、ピアノができる人が聞くとすべての音を言い当てる。

これを努力の成果とは言えない。ダメな人はどんなに努力してもできない。しかもほとんどの人はその才能がない人の側にいる。ぼくはその筆頭だ。

 

ぼくが言いたいのはこれからだ。

1%の努力をいくらしたところで才能がほとんどを決める世界においては、大勢に影響ない。

本来、人は、努力は嫌だ、成果は得たいという気持ちで生きている。宝くじを見てみろよ。濡れ手に粟は常においしい話だ。そして、たいてい「ない話」だ。

 

ぼくは勉強の世界ではまあ何とかなったが、音楽の世界では最高の落ちこぼれだった。人の一年分の進歩を一周間でこなしていくやつがいる。そういうやつですらほかの天才を見て挫折するんだからとんでもない世界だ。

勉強とか試験とかならいろいろ屁理屈が通るし、日本ではカネやコネでどんなバカでも医者になれる。

音楽になぜインチキがないかというと、上手下手をいちばん見分けることができるのはその楽器を弾いている本人たちだからだ。

自分より上手が自分より点数、評価、成績で低評価だったら、自分はとても恥ずかしくてやっていけない。「腕前」というのはすべての口実、屁理屈、弁解を拒否する。仲間の音を聞き一流の音を聞いて自分の位置を正確に毎日意識している。

 

文句あったらこの音出してみろ。そのどや顔に、ぼくはただひれ伏すばかりだった。

 

ぼくは悟った。だからこそぼくにできるのは努力しかない、と。努力ぼくはボトムだったが、トップもやはりトップ同士で鎬(しのぎ)を削ってみんな1%の努力にかけている。演奏家は毎日7時間は弾いている。そうしないと仲間にすぐばれるのだ。

 

長くなったので演奏の内容と最近のバイオリン事情は、またそのうちに。

 

川井郁子(Vn) Musica reale : 千住真理子(Vn)&山洞智(Pf)

2017年11月24日 | 音楽

音楽会は帰りがかなり遅くなる。これがまたいいもんだ。人も車もDQNもいなくなった佐賀県を自分のライトだけに導かれて走る。楽器が鳴りやんでも至福の時間は続く。家につくまで。

川井さんの指は細かった。だけど気が遠くなるような努力と厳しい指導に耐えた指だ。やや大ぶりのビブラート、みなさんご存知の大仰なジェスチャー。別の日に千住(せんじゅ)さんを聞いたが、おおらかな人柄が出た演奏で、氏より育ちと実感する。

博多駅のコンコースの柱のデザインは千住さんのお兄さんの作品だ。

音響抜群 椅子が狭い

僕ら素人は誰の演奏を聞いても同じに聞こえるから、踊りながら弾くとはいい思い付きだ。だがこの世界は新しいことをすると決まって下手くそたちが僻む。やっかみや妬みに耐えることは実は練習の一部なのだ。とくに女性は陰湿な嫌がらせに耐えねばならぬ。

川井さんは、強い人だ。

僕の場合だが、人生にはこれでもかというほど緊張するときがあった。発表会。そんなとき僕は、意図的に外見も心も貧しい人々をまず憐れむ。そしてこう思う。そんなアホに比べたら、僕は何という素晴らしい努力をして、誠実に生きたことだろう。だからこそ、

負けられない。負けないではなく、バカくそと同じなんて死んだほうがましだ、負けられない。毎週バイオリンのお稽古に通った努力をここで無にしてはならないし無になるはずがない。もちろん天才ではないので苦しいこともたくさんあった。だから負けられない。

無理にでもそう思うと緊張は消えた。

演奏者は男が多かったせいか、あまり歪んだ競争心はなかった。僕は地底をはう虫たちと少しでも差を広げたかった。若干であれ他人より少しでも優れたいとは、みんな思っているはずだ。負けたい人はいない。負けたいなんて、負ける人の言い逃れだ。

 

まあ、平均的な練習生の気持ちだったろう。昭和30年代はまだまだ不潔虫がたくさんいて、はだしで学校に行きDDTを頭から振りかけられていた。

天才というものと上手というものは、さらに根本的に違う。天才は、のみこみとひらめきが連続している。川井さんも千住さんもそれぞれ個性があり、ストラジを弾いていたので二人の違いが際立った。川井さんほどになってもバイオリンは借り物だ。10億。1丁が10億円。いくら天才でも10億は困難だ。

公的援助は0である。

当然コンサート代は高くなる。貧乏人は行けない。千住さんのコンサートはSSで4万円。高い方からあっという間に売り切れる。

国家的援助体制が必要だ。WIENには1700年からある。安倍は大学予算を大幅に削減した。戦車や大砲で一等国になるのではない。安倍になってから日本の品格は確実に下がった。

会場付属の庭園

不潔虫が教養をつける日は来ない。ほんとは4万円が出せない人はいないがその無教養のせいで、エロDVD100回借りたほうがいいもん、と思うだろ。

クルマで追い越されたぐらいで腹を立て人の腹をノミで刺す人が、豊かで至福の時が人生にはあるのだと知ったら、日本は穏やかになる。

いいか。佐賀県ですらこんな素敵な世界がある。僕はアンコールで涙した。

国民の教養を高めるのに心を割いてない育ちの悪い安倍は、芸術の偉大さが永遠にわからない。

 

 


貧乏人のくせにマネするな

2017年11月11日 | 音楽

金持ちを見れば僻みたくなる。

負け惜しみに、貧しい男が金持ちの真の姿なんか知らないくせに、"フェラーリでその人を判断するなんて…”、とかいってイソップのすっぱいブドウの話しのように、無理に自分を納得させる。

金持は、お前らぐうたらなんかよりよっぽど真面目に生きているぞ。

その貧しい人。フェラーリは持たないだろうが乗ったことぐらいあるか。・・・・ない。まれにフェラーリは、間違えて金持ちになった一代限りのコガネモチが乗るから資源の浪費になっている。貧乏人はうつむいて歯をかみしめて絶望し、フェラーリの堅実さを知らずに死ぬ。

コスモスに買い物に行くときだけは不便だ。入口が入らない。(幅と段差)それ以外のときは便利で素敵な車だ。阿蘇の山並みはフロントガラスに映画のように映る。信じてもらえないが、フェラーリは堅実な車であり僕はその真面目さが好きだ。馬鹿にはもったいない。EUROPEでは品位のある人が乗っている。そのひと達は頭が低いがメカには詳しいので話して飽きない。

バカが運転するから燃費が悪くなるのであって。8~10は常に走る。250㌔/hour がなぜ必要かという人がいるが、どうぞFITにお乗りくださいまし。

最近のフェラーリはあれこれOPTIONSがついたが、世界的潮流であってもけしからん話だ。自動車が自動車文化を破壊している。だがまだ他車との差は歴然だ。100均で買ったスプーンの様な軽の方向指示器のレバーは悲しい。

 危険なのは何か。フェラーリは事故のときめったに死ぬことはない。

しかし他のクルマの話だが、宮城県の人は追い越されたことに腹を立てノミで刺した。ほとんど死ぬ。福岡県中間市のDQNは高速で停車させ後続車に轢き殺させた。

日本では4000人/年死んでいるからこの手のDQNはごく一部であると主張するあさましいのがいるが、最も防げる事故は防いだ方がよいのだ。

ところが、フェラーリに追い越されたからといってノミを持って刺す人はいない。いたとしても窓ガラスが割れるより早く警察が来る。そのDQNは半年後あたり、ふとした運転操作のあやまりで堤防から落ちて死ぬ。自損事故。これ本当の意味で自損事故。事件性はなしと警察は言う。

 モノは持つべき人が持ってはじめて素晴らしくなる、という話の続き。

いま中国人が、分かりもしないくせにバイオリンを買いあさっている。安倍は科学とか芸術の素養がなくあまり期待されない人間として育った。

そこで、明治以来日本人がその演奏技術を評価され、カネの力でなく実力で受け継いだバイオリンの名器(仮にここではストラジ)が、中国に消えている。10倍払うから売ってくれ。その一言に日本にせっかく集まった名器が消える。下品な日本人は、カネさえもらえばはいはいとうなづく。そんな奴はノミで刺し殺してよい。

よい楽器で練習しないと絶対に上達しない。ストラジは買った瞬間に値上がりする。100万が1000万になっても食指は動かないが、1000万が1億、10億になったらどうだ。

中国人は音をカネで買うのではなく、カネでカネを買っている。ストラジの相場は高騰し下がらない。

最も困る点は若い演奏家に良い楽器がいきわたらないことなのだ。千住さんや高島さんは個人的に活動されているが、オーストリアのような国家的支援体制がない。だからいつまでも3流国なのだ。

日本人よ。年末に意味もわからず下品な自己否定の第9をうたうな。NEW YEARS CONCERT IM  WIENを聞きなさい。コンサートはS席の中央で聞かなければ意味がない。家のCDごときで聞いても入場する音がするか。チューニングの音がするか。楽譜をめくる音がするか。

ストラジを構えるときのわずかな指の音。燕尾服の擦れる音。絹のドレスのフープがそよぐ音。観客の上質なwoolに包まれた最高の吸音材が奏者のアドレナリンになる。気持ちがのった時の奏者の顔は鬼気迫るものがある。

 

安部は芸術学問の分野に全く関心がない。関心は、産業の発展という昭和30年の蒸し返しと国防にしかなく、馬鹿の一つ覚えだ。

さらに下手ほどそうだが、芸術家は安倍が何をしようと関心がない。ここが世界の一流に追いつけない壁になっている。

 


(Vn) (Vla) (Cb) ”Ensemble Wien”

2016年03月29日 | 音楽

 

チェロVcの代わりにコントラバスCbが入った珍しいバンドだ。

 

Cbは、弦の仲間だが少し生い立ちが違う。Vcをそのまま大きくしたように見えるが、異なるものである。子猫がVnなら中猫がVla、大猫はVcだろうが、Cbはトラの子供だ。

4000年前のエジプトの壁画にある楽器は、現在楽器の主流ではない。2500年前のギリシアの彫刻にある楽器もそうだ。

さらに2000年たってヨーロッパの中世においても、現在の中核をなす楽器群とは異なる。ほんの500年前のことだが、楽器は、試行錯誤の状態だった。

いろんな不合理な生き物が地上を埋め尽くした時期がある。カンブリア期だ。Cbはいわばカンブリア期を細長く生き残ってきたといえる。

(Cb,コントラバス)

風船みたいに膨らんだVn、裏板が波打っているもの、魂柱が2本あるもの。百花繚乱に自由勝手な楽器が在った。が、このカンブリア期に淘汰される。

クラッシックとは古典だが古典的ではない。音楽はすべてロマン派であり楽器自体を考えても保守的であったことはない。

symphonyならともかくensembleで猫バンドを作るとき、大猫を飛ばしてトラの子供を入れたわけだ。このCbは音階が広くやはり低音すぎるのでharmonyになりにくい。音色が違う。デシベルは大きくとも人が感じる大きさとは異なる。早い音の変化にはついていけない。体力的に大曲を弾くには伴奏が限度だ。

などとハンディーはあるが、そんなら3/4とか1/2のCbがあればいいしこれで演奏する人もいる。そうなるとCbのよさも分かってきてCbは確固たる市民権を得た。

5本弦のときもあり4本弦のときもある。はじいても弾いてもよし。Vcの弓を使うのもよし。それどころか統一的な調弦の約束もない。

(Vc,チェロ)

 

つまり遅れてきたこのバイオリンの怪物はいまだカンブリア期にすみ自分のあり方を模索している。

大好きだ。大きい図体で弦の数からも自由に生き、調弦も作曲家にその身をゆだねている。

500年前に完成したバイオリンVn、ビオラVla。プラスCb。アンバランスな組み合わせだ。が好きに弾いていけない決まりはない。物事をひとつに決め付けないWienの風が心地よかった。

聴衆のレベルも高く、柳川市民会館のようにパシャパシャ手遊びをする気違いはいない。

文科省は学習せよ。音楽ではそろえないところにこそ芸術性がある。勝手に弾いていいのだ。下手ほどそろえたがる。

Vn,Vla,Cb. この奏者たちは世界最高の奏者たちだ。シュトラウスⅡの曲をなかなか弾き始めないのでどうしたのかと思ったら、楽譜(譜面)を忘れたそうだ。

本当はいやというほど頭に刻み込んでコンサートに望む。だから楽譜(譜面)のしわの位置まで覚えている。つまり譜面なんか要らない。彼らがためらったのは観客に失礼になるからだった。

 

 

 

 

 


Premium ensemble concert 原田哲男(Vc) 大山佳織(Vn) 井上真里(pf)

2016年03月21日 | 音楽

前二者は九響(九州交響楽団)の首席奏者だ。井上さんは大牟田で演奏活動をしている人だ。

大牟田とはなんてすごいところだ。昨日のコンサートは、ちょっと長い名前だが、第13回ありあけジュニアピアノコンクール上位入賞者特典コンサート、という名前だった。実はプロよりこのジュニアたちの腕前に感服した。

楽器も学問も、どんどん上達するものもいれば、いつまでも伸びずにやめていくもの、なんかのきっかけで急上昇するもの、あるとき打ち止めになるもの、様々だ。

残酷なことだ。小学校の勉強のように、まじめにやったものが最後は勝つとかいったウソを振りまく世界ではない。

どんなに頑張っても下手は下手だ。ぐんぐん伸びるやつは不真面目にやっても伸びていく。

ここからが大事なところだ。どうもこのブログの読者は最後まで読まない人が多い。みんカラは、とばして読むのか意味を取り違える人が多かった。

上手下手の話に戻る。実際は、伸びる人に不熱心、不真面目な人はいない。伸びる人は、そこまでピアノ漬けにならなくてもと思えるほどよく努力し、自分で自分の努力のコントロールができる。指の関節を悪くしたらあっという間に周回遅れのピアノ弾きになる。

ナイフエッジを歩くような修練を積んでいるのに、素人がよく言う「どうしたらうまくなるんですか。」という失礼な質問にも真剣に考える。

岡村 響(pf)さん。まだ高校生だが、音が光って流れているようだった。しかも、アンサンブルのとき、相手と息を合わせる音感は天性の才能といえる。異なる楽器が集まったアンサンブルというのは、本当はあまりやりたくない。どうしても相手が気になる。

弦と弾いているのにまるで連弾の様にアンサンブルに溶け込んで弾いた。しかもリハは2回しかしてない。

この人は大物になる。桐朋に行って各賞を総なめする。おうちの方は家土地をなくすことになるが人類のためだ。

来世紀になれば軍事費に8兆円も捨てる国は滅んでいる。本当の戦争抑止力は文化の力だ。Wienを守るため集団安保が大事だという人はいない。

Wienを守るためには楽友会館、Wien国立歌劇場があり続けなければならない。

 

 

 

 

 


宮本笑里(Vn)、金子鈴太郎(Vc)、加藤昌則(pf) "birth"

2016年02月28日 | 音楽

リサイタルツアーの最後は福岡県柳川市であった。汚く、照明が下品で、寒く、イスが小さく、響きが悪い、市民会館であった。どうしたらこんなに最悪なものの集合体が作れるのか。

だが、それは大体田舎役所のやることだから想像はつく。そこの人間はそれにも増して悪質だった。

年金は高すぎるのではないか。S席に座るカネがあるのなら、田の草取りでもしてカネは市役所に返せ。

農民や労働者階級も音の芸術に大いに触れてほしい。僕は願う。一度でいいから天才とは何か、努力とは何かに思いをはせろ。ところが、寝たり、手遊びをしたり、飽きてもぞもぞしたり、はたまた隣の席のババアと話し始める。手のかかる連中だ。

僕は一年前に決心をしてもう諍(いさか)いは起こさないことにした。が、せっかく1年続いたのに我慢のカウントはリセットされた。バカは誰でも知っている曲になると、なんとボールペンで指揮を振り出した。

何度か小さく小突いて注意していたが、分からないようだったので紙を丸めてスッパーンとはたいた。どうも悔しかったらしくこんどはボールペンのキャップを持って小さく指揮をとっていた。

自分はとても音楽に造詣が深いのだ、といいたいらしい。それにしては爪に泥が・・・

宮本笑里(えみり)については

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E7%AC%91%E9%87%8C

たとえば、勉強で貧乏人が努力して金持ちに勝つことはありうる。よく考えなければならない。それは貧乏人が勉強で勝っただけであり金持ちになったのではない。

金持ちに僕の様に喧嘩っ早いのはいない。数百年も金持ちが続くと一度ぐらい転落して貧乏になろうが、DNAに刻まれたものは動じない。すぐ回復だ。

宮本さんを見ていてそう思った。一曲ぐらいは仕込めば僕も弾ける。だが、そんなことでなんになる。一方僕は、痴呆と客席でケンカしている。

宮本さんはゆったりとした陽だまりのような雰囲気をステージに残し消えた。

ときとして激しいバイオリンになるとパンフにあった。違う。それは曲が激しいのであり彼女の弓は優しかった。

かたや僕は、絶望の土着民と天使のささやきの間でもがいていた。

お子様が生まれたので、birth だそうだ。彼女は、最高の音楽環境に囲まれて最高の指導を受けた。

たとえばバイオリンの弓は消耗品だ。いい弓で弾かないと上達しない。5年使うことはない。一本数千万。練習用で500万。聞く人には違いは分からないが弾く人は10センチ先で音が出ているわけだ。モヤモヤがのこると弾きたくない。

バイオリン本体は1台(丁)、10億をこえた。中国人のせいだ。さすがの宮本さんも借り物を使っている。日本最高のバイオリニストが最高の楽器を所有しようとして、ドサ周りをしている。

今後日本で演奏家たらんとすれば、あらゆる条件をクリアし、とにかく豊かでないと出来ない。それもハンパなく。バイオリンのことだけを考えて生きてきたはずだ。一日7時間、8時間練習するのが楽しくてしょうがない、それを用意する素敵な家庭。

貧困の悪循環があるということは、金持ちの好循環もあるのだ。貧富間に相互乗り入れの路線はない。これじゃあいかんし、なんか哀しい。

宮本さんはCMやキャスターに忙しいが、早く気に入ったバイオリンを所有してほしい。借りてきた猫の毛並みがよくても心からは愛せない。

 

 

 

 

 

 


三上亮(Vn)、金子鈴太郎(Vle)、藤島彩(pf) Trio

2015年12月21日 | 音楽

80年代に韓国の書店に行くととても寂しい思いをした。仕事上の本はよくそろっている。店員の中にはなかなか分かったやつがいるなと一人ニヤッとしていた。

ところが文系の本はさっぱりだめだ。父親に話すと、途上国とはそんなもんさ、と言った。つまり、劣等国は、すぐ役に立つかと言うことに関心を持つのだ。ところが生きる意味とか感動とかには関心がない。

まだ十分に国民が「食えて」なかったのだ。

今や、詩集や絵本や小説やノンフィク、絵のない雑誌などであふれかえっている。

(釜山、光復洞の書店。大体4時ごろ、僕はここにいます。)

ネトウヨには信じがたいだろうが、韓国人はよく本を読む。ひじょうに本が安い。それでも買えない貧乏人には古本があり、あるいは図書館に行く。

こりゃ、いずれ負けるなと思った。馬鹿には無理だが、韓ドラの中でどれほど高度で多くの四字熟語が使われていると思うか。バカ韓流かぶれのためにやさしい日本語の訳になっているのが哀れだ。

たとえば、「邂逅」。韓国ではこの意味がわからない小学生はいない。

日本はいまやGDP(一人あたり)が、貧乏国の集まるアジアですら5位に転落した。世界1位だったのがアジア5位。

理由のないことは起こらない。

何が狂ってきたのか。僕は、世の中が、途上国が掲げるような下品な価値にしか目を向けなくなったからだと思う。

即戦力、即戦力。コスト、コスト。電車の中ではスポーツ新聞。働いて働いて、発散して発散してを繰り返せば誰でも馬鹿になる。労働苦とデリヘルを繰り返したら馬鹿になるだろ。

イ・ウーファンレベルの画家とながらく友達だったが、パククネの父親朴正熙の独裁に我慢ならずNYに行った。「韓国は芸術家が生きるには苦しすぎます。」、と。1980年。

                                    

(家のもみじ。やっと紅葉)

タイトルの3人は世界レベルの人たちだ。3人ともヨーロッパで修行している。三上は芸大を首席で出た。金子はハンガリー国立音楽院に行った。藤島は、国立(くにたち)音大から僕の好きなWienに行った。Royal Collage of Musicの院をでた。

ポイントは3人ともそこでトップの成績を収めていること。とくに僕は藤島を教えたので身内のような気がする。腕前は私が3人とも責任を持ちます。

僕は怒っている。奇跡の3人がそろって世界最高の演奏をすると言うのに何と入場料は1000円だった。客はパラパラ。これで芸術家が育つはずがない。1000円なんていう金額で世界の宝をバカにするな。

 

コスト、コストの世界に生きるから分からんだろう。その下品な精神が日本を途上国に引き戻す。

韓国でウィーンフィルを聞けば5万した(円)。それでも席はコネがないと取れなかった。

両国の逆転の日は近い。理系ももはや韓国のほうがレベルが高い。違うなら新国立建ててみろよ。エンブレム問題も韓国ならホームベース顔を懲役10年にして、事故でかならず刑務所で死ぬことになる。

日本は、ホームベース顔のとんがりコーン頭を野放しにする。いやな国だ。

(私は、嵐にいければそれでいいの。)

 

 

 

 

 

 


上品な親子に佐賀を忘れた

2015年11月10日 | 音楽

塩田町には、言い訳がましく取ってつけたような狭い安普請のホールがある。僕は名前だけ気に入った。 

" Liberty " 

ばら撒き公共事業でバラックホールが立っている。いまは合併で嬉野市になった。

合併したら議員と住民のあいだは関係が薄れ自治は不可能になる。一部の拠点都市のみに利便性は集約され、その他多くの土地は弥生時代に帰る。

元来、地方議員は合併に反対してきた。地方自治を旗印にしていたが、本音は落選を恐れ既得権にしがみついた。イスがほしかったのだ。だが、議員報酬にイロ、それも大変なイロをつけると耳打ちされるととたんに、効率的な議会運営とかいう口実で、言い込められ、まるめこまれた。

結果、無理な合併が横行しかろうじて残っていた地方のオアシス都市は砂漠に消えた。自業自得。

そんな絶望地方をなだめようと、選挙も近い昨今、思い出したように公共事業が再び顔を上げた。

 

かわいそうにLiberty はパイプ椅子だった。土人の国でもいまはホールがパイプ椅子の国はない。隣の広い多目的コート(運動場)がLibertyを押しつぶす格好だ。写真のように奥行きのない舞台は演劇ひとつ上演できない。弦四+ピアノ、これが限度。あと3メートル奥行きがあればまともになったのに。

筋肉優先の佐賀県に憐れみを。

運動場がホールより大事ならそもそもホールなんてもったいない。

ただ、音だけはよかった。偶然だろうが。アクロスよりよい。

 

そこに上品な親子がいた。お母さんと中学二年の娘さん。バイオリンをしている人同士は何故か直感で分かる。僕はあまり弾かないほうのバイオリンを先日手放したばかりだ。このことを本当に悔いた。この娘にあげればよかった。

並んで開場を待っているとき、話はバイオリンからピアノ、ホール、音楽全般へと広がった。なんて素敵なときだろう。

静かなお母さん、静かな娘さん。人の話を目をそらさずじっくり聞く。子供は親の思想やしぐさをよく会得している。問われたらまとめて短くポイントを言う。それまでは相手の話をよく聞いているので話が早い。

ちゃんと一番前に座った。あまり一緒にいてはいけないので僕は離れた。小声で楽しそうにお母さんと話していた。

このすばらしさが朝鮮には分からんだろう。まさにここに日本があるのだ。低級低能コネ採用の癒着公務員がどんなチンケなホールを申し訳程度に作ろうと、客と奏者でコンサートは作られるのだ。

 

真知亜さんとピアノは安宅(やすみ)薫さん(映画「のだめカンタービレ」 のピアノ曲指導、録音)。真知亜は自身の生い立ちにそってバイオリンの苦しさについて語った。僕は何十年ぶりに思い出したくないものを思い出した。だが彼は、自信があったようだ。それは、極めるとこんなに楽しいものだ、という自信。苦しみの百倍も千倍もの楽しみがまっているのだと。

先生からけなされるのがこの世が終わるほど苦しい、ともいった。高いレッスン料とりやがって。これにも同感。音楽家は皆、利己主義だ。変人で自閉症だ。頭が狂うほど競争が激しい。狂わずには勝てない。

真知亜は最後にいった。「もっと楽しむべきだったかな。」

三井住友海上はいいことをした。チケットはわずか1500円だ。佐賀に音楽が響いた。塩田町(現 嬉野市)のホールLiberty が揺れた。

 

 

 

 

 

 


爆買いなんてどうでもいい

2015年11月04日 | 音楽

炊飯器、ゲーム器、化粧品、魔法瓶、お菓子の類。詳しくは知らないがそれぞれ一人5or6個買うから当然100万円程度にはなる。

中国は社会主義とは大嘘で、カネと、コネと、ナイフがあれば何でもできる国だったし、日本としても物が売れるからなりふり構わない。そこで中華旅行社と、物が売れるためには何をしてもいいという下種な商業道徳が野合した。

おかげで平穏だった太宰府も中国人のつば、ゴミ、嬌声にあふれる街になった。やがてその不道徳はおとなしい日本人を飲み込み犯罪の街になる。

観光客だからすぐ帰国するって。バカ。佐賀県の工業団地にはどれほどの中国人がいるか。我がもの顔の彼女らは、僕の大事なスーパーモリナガを蹂躙している。万引きを止めろ。

痴呆どもはその行儀の悪さに気づきもしない。結局注意するのは僕だ。おかげで汚い中国語に上達した。

日本人も常識を持てよ。炊飯器6個がお土産か。合計100万も貧乏労働者がお土産代か。上海政府や共産党とコネがあるやつが、タダ旅行しているのだ。お土産ではない。商品だ。

その支那人あふれる太宰府に国博(国立博物館)がある。天下り先が少ない文科省が何とか理由をつけて収蔵品のない博物館をでっち上げた。音の聞こえないホールもある。

そこでさわやかなコンサートがあった。

母親が1st,娘が2nd,viola,celloの弦四。母親はどこにも属されてないようだがもったいない。この四重奏団は西日本シティ銀行で定期演奏をもう30年も続けているそうだ。

音楽はいいな。肩書きや毛並みに関係なく、グダグダ言うなら弾いてみろ、というところがあって勝負が早い。

 

だが、せっかく育ってきた民間の奏者たちにあまりよろしくない影が落ちている。そう、ここでも中国人。

Ferrariがいくら高くても買った瞬間に値段は落ち始める。ところが絶対儲かる投資がある。1億以上のバイオリンを買え。どんなに気違いになって働いても追いつかない。

(入門バイオリンだが成長に合わせ、かならず4台以上いる。さらに、ほぼ同額の弓がいる。レッスンは5万/月。その程度ならいいのだが・・・)

1億のバイオリンは普通のバイオリンだった。しかし、中国人が目をつけたのだ。投資目的で、弾けもしないし、似合いもしないし、見たこともなかったバイオリンを買い占め始めている。

あるとき僕は、背中のリュックにバイオリンを差し込みバイクでバイオリンを売りに行った。多すぎたから。中古屋が卒倒した。

いま相場は10倍に上がっている。これに弓が加わる。

若い演奏家がこそこそコンサートで稼いだところで10億のストラジに触る機会は死ぬまで来ない。これではいけない。日本は若手では世界最高の層の厚さがある。

北京ダックの横にストラジ(世界に250台、2度と出来ない)をドンと置いてつばを飛ばし銭儲けの話をする。こんなやつが儲けるため、日本の才能ある演奏家が本物の音から引き離されてはならない。

Eの糸は切れやすい。僕だな。

 

 

 

 

 

 

 


Ich habe ein Konzert gehört.(コンサートに行ってきた)

2015年09月25日 | 音楽

ドイツ語で書いたのは時々使わないと忘れるからだ。

英語はこれでもかと目に入るがドイツ語はめったにない。映画が聞き取れるほどの能力もない。時々使おうと思っただけだ。

「僕はドイツ語ほど英語は上手ではない」というとなんかイヤミっぽく聞こえる。コンサートに行くとかならずいるのがこの手の人間だ。聞いてもないのに講釈を垂れる。そして人を不愉快にする。

人がおよそ知らないであろうドイツ語を不必要なときにだらだらしゃべる。人がおよそ求めていない曲の知識をだらだらしゃべる。同じことだ。

まだまだ日本は脱亜入欧のトラウマに悩んでいる。進んだフランス語、劣った沖縄語・・・のように。しかもそれをおせっかいにも知ったかぶりをする。

 

先日、貴族趣味をこよなく愛するたらけんは、コンサートに行った。車にワックスをかけ満タンにし高速を飛ばしS席を予約し2時間も早くついた。(Konzert は、一番前でないといけません。首がいたい人は家でCDを聴くのです)

日本は高速道路が有料でとても高い。Free wayはタダ道じゃないのか。ガソリンも高い。満タンで一万以上になる。コンサート代も2万だ。

ひがみなく読める人は一定の教養のある人だ。

Sに座る人は皆そんな人たちだ。本人あるいは娘はピアノをかなり弾けるし、コンサートにある曲目程度はすべての音符が頭に入っている。

だからそんな人からカネを取るとはどういうことか、奏者はよく考えてほしかった。アンコールに何曲弾こうとどうでもいい曲ばかりだ。しかし自分が力を入れて弾く曲はいわゆる「仕込み」に時間がかかっている。

天才的な人は一ヶ月、普通で半年から1年かかる。その間弾き込んで弾きこんで仕上げていく。だから2万も払うのだ。今回は「仕込み」をしていない。

客にはバイオリンが弾ける人は、大勢いたということを忘れていたか理解できないでいたようだ。

奏者はカネを採る以上、金額の多少に関わらず「どうだ、参ったか」というものを持つべきである。そうでないなら客は自分で弾いたりCDで間に合う。

「いやいや、音楽とは音を楽しむと書くじゃないか。皆で楽しもうという人もいる。」という寝言をいう人がいる。間違っている。はるか後方の天井桟敷で3000円でコンサートに来たつもりの人のみが言っていい言葉だ。

本来コンサートとは閉鎖的排外的な同好の士たちのひそやかな楽しみの場であり、一定の努力なしにはキリギリスたちが近づいてはならぬところだ。

いつも一曲のために5万が飛ぶ。しかしそれだけのことはあったと思うことが多い。Sで見るとその人の息まで分かる。その興奮をそのままに急いで家に帰って弾くと超絶技巧が少し引けた気になれる。

楽しみ方は聴衆それぞれあるが、弾くほうとしてはすべての人に感銘を与える気構えが必要である。

それができなければカネをとってはならぬ。

まるで大人のおけいこ発表会だった。同業の情けとして名は書かないでおく。

僕は1回/5日でコンサートにいく。秋だからだ。レッスン代だとしたら安いもんだ。

 

 

 

 

 

 


バイオリンを弾くな。  2

2015年04月27日 | 音楽

トップの奏者は代表なんだ。夢がかなわなかった人たちの代表なんだ。豊かさだろうが才能だろうがすべてに障害なく、かつ指導者に恵まれて初めて花咲くものだ。トップ奏者は心しなければならない。自分ひとりでそこにいると思ってはならない。(僕のブログ、バイオリンを弾くな、より引用。)

天才バイオリニストだとチヤホヤされるのが悪いわけではない。ほめられると悪い気はしない。きつくても、もう一歩、あと30分の練習がさほど苦ではなくなる。

楽しく努力し楽しく成果を得る。これは恵まれたごく一部の人達にしか降りてこない幸運だ。だからこそ奏者は客にしばしの夢を与える義務を持つ。

あと一つ、二つの条件さえそろえばこのステージに立っていたのはあなたなんですよ、という思いを忘れずに弾いてほしい。

才能は決定的な要因だが、調子に乗ってはいけない。決め手となるその才能だがたいていの人は持っている。正確には、逆にたまに、その才能を持ってない人がいるといえる程度のものだ。

このごろはいいバイオリンは投資目的で中国人が買い占める。バイオリンの寿命は400年ぐらいあるから中国人もちゃんと保管すればいいが弾かないとだめになる。絶対に損をしない投資だ。

5年前の3億円がいまや10億以上になった。これに弓や練習用が加わると気絶する金額で、やっとマイホームを建てたパパママが子供に希望を託せる楽器ではない。

先日楽器屋が来て買った値段の10倍で引き取ると言った。いやなこっだ。バカは僕が金儲けでバイオリンを弾いていると思っている。死んだらUNICEFに寄付するといったらきょとんとしていた。

コンサートで20億ためることの出来る人はごくわずかでありバイオリンの先生程度では皆無だ。

言いたいのは、才能も偶然にやどるものだがカネも偶然だ、ということ。金持ちを選んで生まれることはできない。

幸運にもそれらの条件を満足したものは、僕らに還元する義務を負うのである。

僕らは貧しい上に金を払ってコンサートに行く。

曲芸を見に行っているのではなく、しばし自分が弾いているような錯覚に浸りたいのだ。

僕はこのコンサートを聞くために日本に帰り高速を何時間も飛ばし一番前で聞いた。

これ見よがしの音がした。間違えるのは責めない。それくらいは誰にでもあり大勢に影響ない。いやな音がした。

その音のわけはもうひとつ。ヴァイオリンが若すぎた。300年以上のバイオリンでないと観客に失礼だ。なめてもらっては困る。どんな田舎にも超絶技巧はできなくとも超絶聴覚の人はいる。田舎者にはこの程度の音を出しとけばいいと思ったな。

よくある箱モノ、田舎に似合わない大ホール。

聴くほうも健全ではない。何もないところに新幹線の駅ができ、2000人規模のホールが3つもある。そういう愚行を許すアホ有権者こそ実はいい音で魂を浄化されるべきだったのだ。もう遅い。

 

 

 

  

 


本物はやさしい、いばらない、弁解しない、自分に厳しい。

2015年03月09日 | 音楽

徳永二男(つぎお)のコンサートを聴いた。まずは略歴から。

1958年、小学校6年生の時、第12回全日本学生音楽コンクール全国大会で第1位を受賞。桐朋学園大学音楽科に進み、斎藤秀雄に師事。1965年、第34回日本音楽コンクールで第3位を受賞した。

1966年、当時日本楽壇史上最年少のコンサートマスターとして東京交響楽団に入団。1968年、文化庁在外派遣研修生としてベルリンへ留学、ミシェル・シュヴァルベに師事した。1974年、チャイコフスキー国際コンクールに出場し、ディプロマ賞を受賞した。

1976年、NHK交響楽団のコンサートマスターに就任。その後、首席コンサートマスターを経て、ソロコンサートマスターに就任した。1994年、退団。

現、桐朋学園大学特任教授、洗足学園大学客員教授。                   by  Wiki

 

微動だにせず3時間半のコンサートに聴き入る小学生がいるかと思えば、しばらくたつと飽きてきて自宅のリビングでテレビを見ている気分になりしゃべりだすババア。

誕生したときは差がなくとも、生きているうちにバカとまともの差は広がる一方だ。金銭の格差より知能の格差を心配せよ。

演奏は「シャコンヌ」、「ツイガーヌ」という超絶技巧の曲。やはり才能か、と思うとガックリもした。

弾けるというだけなら若ければ何とかなる。だが何とかなってもその曲数に限りがある。あれもこれも一ヶ月ぐらいで仕上げて人の前で弾けるようになることは、絶望的に困難だ。

通常凝った曲を仕上げるには1年かかる。そうすると人生が500年必要になる。でも、もし500年生きてバイオリンの修練に励んだとしよう。

それでも無理なことがある。それは安心感。2重音、3重音、ときに4重音。あたかも3、4丁のバイオリンで弾いているような錯覚をする。それは、弓をはねさせて短い音を出すときと、上げ弓と下げ弓を激しく繰り返し短い音を出すとき実感する。

たとえ間違えなくても下手は下手なのだ。いつ間違えるか心配で見ちゃあいられない。どうしても何回に一回は雑音が入る。左手がおろそかになり音が不安定化する。

徳永にはまったく不安がない。まったくないと言い切れるまでにはいかほどの努力があったろう。

「僕のバイオリンは汗と涙でできています。」

1968年。日本人が海外にいけるようになってほどない頃、文化庁在外派遣研修生になるとはいかほどのことか分かるか、八女のくそババア。

最近NHK本体は、野にして粗であり卑であるのが来て非常に下品な雰囲気だ。ところがNHK交響楽団は世界レベルだ。50年昔から。そこのコンサートマスターを20年近く勤めるとはなんと言う才能だろう。

その才能をもってしても、思いどおりに動いてくれない指と格闘した、ずっと格闘し今も格闘している。

僕は30分弾けばへとへとだ。70歳を越えた彼は3時間以上引き続けた。

彼の力強い音を聞いてほしい。日本の誇りとか言うみみっちい考えでは恥をかく。ヨーロッパで道を訪ねるときのように、徳永を知っていますか、というとかならず、Ja、と答える。世界の徳永なのだ。

高嶋ちさ子の先生。ドラゴンクエストもコンサートマスターとして弾いた。

八女ババアは冥土で反省しろ。

 

 

 

 


The Kyushu Symphony Orchestra

2014年05月14日 | 音楽

歴史は長く、最初は九大フィルといって九大生を中心とする楽団だった。そこにOBが増え指導者が加わり名称も変更して現在の姿になった。

今度も5月20日にアクロスホールで定期演奏会をやるようだ。この楽団のいいところはべらぼうな料金を取るのではなく、庶民が楽しめる金額に設定しているところだ。

外人を呼ぶと大して上手ではないのに金儲けのため一人2万とか3万とかとる。僕は入り口で気絶している人を何人も見た。

日本人は繊細でつやのある音を出す。コトッとかギッという音を出されれると気持ちが元に戻るまでしばらくかかる。韓国人はその上、足をゴトゴトやる。ところが、日本人が不要な音を出したのを僕は一回も聞いたことがない。

ただ、重要な点を見落としている。曲は何のためにあるか。曲芸ごっこをしているのではない。隣の線を弾いてしまうと確かにぞっとするほどいやだ。

だから日本のバイオリンの先生は雑音に異常に神経質になる。

問題は、そこで曲がこじんまりとしてしまうことだ。激しい曲に多少の雑音は問題ない。

九響の演奏会は個性を消すことで「そつ」のない演奏を目指すスタイルだった。どちらがいいかは分からない。ただ、外人が弾くと、とくに朝鮮、立ち上がって止めさせたくなる。50年前に日本に多かったタイプだ。「小金もち」になったのをいいことに貧乏人を見下すために弾いている。こいつらは、楽屋でもうるさい。

技巧はかなわないが一ヶ月あれば朝鮮をぎゃふんといわせる演奏ができる。鮮人は芸術家と大道芸人を混同している。これでは半島に芸術が開花する日は来ない。

最後に面白いことがあったのでひとつ。

久留米市の城島ホールとか何とか言うところでこの九響の演奏会があった。期日直前にチケットを買ったので「F」だった。ところがS席ですといわれた。SはA ~Dぐらいだろうと思ったので、これはラッキーと喜んだ。

何のことはない。全部「S」席だった。ホールの、黒と赤の斜めの縞模様の内装は、場末のストリップ小屋のようだった。さらに、指揮者は手で押さえるしぐさをしてアンコールを断った。百姓をバカにしたな。いつから偉くなったのか。でもカリカリしてヒステリーを起こしちゃいかん。バカはどうでもいいことに悲鳴を上げる。アンコールはおまけだ。

観客にも責任がある。不要なところで拍手されるとどんなに迷惑か。ちゃんと拍手すべきところでも拍手のタイミングがちょっと、ほんの3秒早い。早く終われといわんばかりだ。モスクワやウイーンでは弾き終わって5秒して拍手が鳴る。だから録音場所に選ばれるんだ。間違っても城島で録音なんてしない。アンコールも当然にない。

客とオケと相互に作り出す、音楽という本質で感動しよう。

20日、アクロスはいいぞ。ぜひ「S」で。