か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

「九州ろうきん」ありがと!

2020年02月12日 | 教育

先日、10年以上取引のない預金は銀行が巻き上げると聞いたので慌てて預金を調べた。

普通預金とはいつでも返すからねといって人からかき集めたカネのことだ。なのに、貧乏人の小銭は巻き上げてよいことになった。

休眠預金が出ることは預金を受け付けた時点で予想できたことで、必然的に生じるものであったにもかかわらず、今頃になって収益性が低いことを理由に銀行がネコババしてよいということになった。

ひどい話だ。「有銭無罪、無銭有罪」 あらがったところで貧乏人に勝ち目はない。

 

労働金庫(ろうきん)に忘れていた預金があったのを発見した。取り上げられるぐらいなら解約する。

 

手続きを待っている間に労金のロビーで、

とってもいいことだ。ろうきんは本を集めて施設に送っていた。

そして、ぼくはちゃんと本を読もうとする子供がいることに驚くと同時に安心もした。

本を読むことにはエネルギーがいる。ボーっとしていても「you tube」を眺めていれば刺激的な表現であきることなく情報を注入される。簡単に物知りになれる。

電子デバイスは簡単に真人間ぶることができる便利なツールだ。

 

ただ、人間の発明したものは何であれ、そう簡単に以前のモノを全否定するようなものはまず出てこない。

とくに本の特性は、効果音もなく彩りもない代わりに、物事を細かく正確に感じることができる力をつけてくれることにある。

双方向が我が物顔で闊歩する時代に、なんと地味なメソッドだろうか。読書とは、一見一方向の根気のいる作業に見える。

 

不幸にも、読み聞かせをされてない子供は乱暴な子供が多い。なぜか。物事をゆっくり多方面から解釈する力がないからだ。

ネトウヨのような学校の成績が悪い子は、「俺は頭が悪いから」と他人事のように言い、バカは遺伝のせいで自分本人は関係ないという顔をしている。いやなアホ顔。

物事を、「よい」と「悪い」とか、「好き」と「嫌い」とか、二分しかできない子供は本を読まない。音付き映像付きを間抜け顔で眺めるだけ。これでもかと押し付けられた感動に感動し、考えたつもりになっている。

みじめな話だ。

 

最初はお母さんか誰かが読んで聞かせなければ本の楽しさは知りようがない。しかし、一度知ったらそこに広がる世界には音も光もあることを知る。読書はくそ真面目がする退屈な作業だと決めつける人は真に不幸な人だ。

今、労金から本の寄贈を受けた施設の子は、まさにその喜びを知る波打ち際に立っている。

ぼくが書くよりお礼の手紙は雄弁だ。


捨てる給食持ち帰って何が悪いか 

2019年12月27日 | 教育

おまいら少し頭がへんだな。どうせ捨てる給食を持ち帰って何が悪い。

そもそも給食と言いつつそれは冷えた牛乳とパンだ。今どきの子供がそんなもん食うはずない。

定時制高校だ。夜中に冷えたパンと牛乳。これほどみじめなものはない。なんとか改善しようとすると、変化を嫌う同僚たちは反対する。業者も、おかみ相手の美味しい商売だから反対する。絶対売れて絶対売れ残りが出ないパンと牛乳。これが食ったらうまくないが、売ったらとてもおいしい商売だ。

ぼくもこの先生以上に持ち帰った。何十年も前の話だが、いまだに続いているとは驚きだ。ぼくは全日制の高校に勤めつつ定時制でも教えていた。

全部で100個の牛乳と当時は食パン200枚が提供されていた。数十年の間に変化したのは食パンが菓子パンになったことだけ。当時ですら80%は残った。

 

バカでも少しは考えろよ。生徒のパンを奪ったのではない。残りだ。食うはずのない冷たいパンと牛乳を前例主義のぼんくら公務員どもがことなかれ主義でダラダラ悪弊をつづけただけなのに。

コンビニもない時代、ぼくは持ち帰り、いろいろ工夫して料理のレパートリーを増やした。女子生徒はたくさん持ち帰るが、男子はほとんど見向きもしなかった。生徒の9割は男子。そのあとに残ったものをぼくが持ち帰るのだ。

冷え切った教室で、夜中に焼きもしない生の食パンを牛乳で流し込む。どういう気持ちか、考えろ。

業者も感謝する。残りが多いことがばれるといつ予算削減になるかわからないからだ。

教員も作り笑顔をして感謝する。教育行政のお役人様のおかげでこんなにたくさん生徒は食べています。勤労学生は感謝しています、と。

 

この先生を処分するなら僕を懲戒免職にしろ。

 

校長が低学年女子児童の髪をつかんで引きずり回しても懲戒処分は停職3か月。子供は恐怖で学校に来れなくなった。

総務省においてはもっとひどい。事務方最高職位の事務次官が、重要機密たる行政処分内容を処分対象の日本郵便幹部に漏らしても配置転換のみ。守秘義務違反は懲戒免職が通常だった。上級国民は人を轢き殺しても逮捕されないし、上級国民は機密漏洩しても処分がない。

警察がヤクの売人にガサ入れの時期を教えるのとどこが違うか。捨てるパンを食ったら処分か。

下級教員は余ったパンも食えない。

もはや国家の体をなしてない。

 

これを非難する国民はどこまで僻んだ性格をしているのか。それでも人間か。迷惑な劣等感は捨てろ。

せめて少なくとも人を不愉快にしないバカでいなさい。

 


階段の登り方  2

2019年11月25日 | 教育
タイトル画像の対岸は、戸馳島(とばせ)。この渡し船は廃止された。JR三角駅の目の前が、船着き場で集落に直結し非常に便利だった。
 
しかし、我々は資本主義に生きている。儲からないことは消えていく。儲かることは社会的に不必要でもできてくる。
 
渡しは消え、常識のない橋が、たった数百人の島民のため集落から歩いていけないところに2本も架かった。巧妙だ。離合もしにくい橋をまずかけ、ちゃんとした橋をつくれという声を住民から上げさせ、行政は「住民の要望に応えて・・・」と言って責任を逃れ、土建屋が喜ぶ。
せめて渡し船は残すべきだった。いかようにも観光開発で来た。温泉もあったし、静かな海水浴場、ゴルフ場もある。産業はミカンと花。
 
コネで入った三流公務員員は発想力がない、土建屋系列の議員の駒になる。隣り合う橋を二本架けるというバカな公共事業で当面はしのげてもそれは銭を海に捨て住民はバカ高い税金に泣くこと以外の効果はない。
 
島に唯一に小学校があった。その名も戸馳小学校。今はない。
ちょうど九州のど真ん中に位置するこの島は、いかようにも発展できた。世界最高水準の戸馳ミカンはぼくが食べたミカンの中で一番おいしい。農民は花き生産で豊かだ。
 
全国の義務教育諸学校を半数にする安部が意図する能率化、工場化、学校教育政策には反対に反対する脳もなく、ここではカネをばらまいたので廃校にあたり特段の反対はなかった。今やその町自体が隣りの市に吸収された。(こうして全国の小学校の30%がすでに消えた)
 
子供がいないという理由だが、それは嘘だ。明治、日本の人口が6000万のとき出来た小学校が、令和、1億2千万の現在、人口減を理由に半数も廃校になることはおかしい。
 
廃校であぶれた職員のうち、管理職には手当てが厚かったが、ヒラには何の手当もなかった。
 
その中の一つ、戸馳小学校が消えた。ほぼ最後の管理職として、ある男が児童数100人を切る学校に赴任した。
 
 
熊本県の教職員の給与は極めて安い。兼業農家が多いが兼業禁止の規定は適用されたことがない。県の人件費の節約になるのだ。
 
そんな消えかかったろうそくのような孤島の小学校に赴任することが、栄転であるはずないのだ。
 
その男は泣いた。しかも送別会の場で。熊本の男は見栄と意地に生きている。そのモッコス(肥後の男)が泣いた。定年までわずか数年をのこす男が見苦しくも自分の送別会で泣いた。
 
泣き顔で僕にこう言った。「からけん君もがんばれよ」と、気がつくと上からものをいいだした。
 
なんか様子が少し変。男は廃校寸前の小学校ですら、しゃくりあげながらこう言った。「私なんかにこんな過分な地位をお与えいただき・・・」
 
階段を上ったことがうれしかったのだ。
 
階段という仕組みはその不条理性をばらまきながら、社会のあらゆる差別構造と癒着し、人間の精神も食いつくしている。
 
 
戸馳側から三角を見る

子供を医者にしたい人へ

2019年08月26日 | 教育

「合法である」というのは単に法律がある、合致している、許容しているというだけであり、道徳性や公正、公平さが保証されるものではない。

いかにまともな法律ができようと世の中は絶えず変化していくものでありその行き先は予測不可能である。だから法は必ず時代に取り残される。(法の本質的後進性)

戦前は東大か京都を出ると自動的に弁護士の資格が来た。無茶だが合法だった。

最近まで司法試験に合格すると税理士の資格がついてきたし、どんな4流大の法学部でも長年教えると弁護士資格が来るし、裁判所職員を務めていると裁判官になる道が開けている。無茶だが合法である。

 

いやいや、医者には難関な医師国家試験があるというバカがいたが、問題を見てから言え。原付免許のほうがはるかに難関だ。バカはこういうと必ず向きになって痙攣して反論する。

あのね。レトリック。

 

それでもそんな医学部にすら、どんなにカネを積んでも息子が合格できないでいるお父さん。GSOMIAなんていらないというある国に行きましょう。言葉なんてランゲジスクールに行けば基礎から教えてくれます。そこを優秀な成績で出ると医学部に編入できるのです。

ひごろKの国をバカにしている人なら、そこの医学部のレベルも低いと判断しなければならない。簡単に卒業できるでしょ。

…まさか。

 

ぼくが「隣りの大学」に通っている間、多くの日本人の医学部浪人生がランゲジスクールを入り口として利用した。

バカ息子に医者を継がせるにはいい方法だ。 卒業できるなら。

 

「隣りの大学」はきわめてまともで、私立だが不正はない。ぼくより頭が悪いのには出会ったことがない。日本の大学には、どうしてこんなバカが合格したのか不思議な人間がときどきいた。

そのKの国の大学で、東洋史関連の授業のとき仲良しになった美人がいた。当時はあまり韓国語が上手ではなかったぼくは、英語で話すしかなくだいぶ日本人の評価を低くした。

なんとか彼女をものにしようと面白くもなんともない読書会なんかにも参加したりした。彼女はほんとに朝から晩まで勉強した。努力の人だ。努力に努力を重ねた。

彼女は院には進まずそのままKBSに就職した。

2年前、テレビを見ていたら彼女が出ていた。先日は河野をぎゃふんといわせた康京和外務大臣(長官)、その人だ。信じなくてもいいけど本当です。

 

人生には抜け道はないということ。まともな努力が必ず報われるとは言わない。だが、

それがなんだ。努力しない人には必ず道はない。バカに抜け道があると思って期待して読んだ人は自らを恥じよ。


勉強しなかった人は利己主義でひがみが強い

2018年10月23日 | 教育

すなはち正義感が全くない。脳のキャパが小さいのでとても自分の収入さえ確保できない。だから他人の心配まではできんだろう。

北欧の人々はとても倹約家である。兄が遊んだおもちゃで三男まで遊ぶ。👟に至っては3代にわたって履く。ジーンズもそうだ。

一方日本では、僕に関して言うと。高価だが脳の発育に定評があり皇室でも使っているので頑張ってあるおもちやを親戚に買い与えた。数か月がたっても袋から出しもしていなかった。勉強するということが人生をいかにまじめに生きる手段になるか、親が勉強したことがないからわからない。

バカの頭にはおもちゃは遊びなのだ。考える遊びがいかに人の頭の訓練になるか、もはや死ぬまで気が付くことはなかろう。こうしてせっかく素質のある子が生まれてもバカの悪循環に踏みつぶされる。

なぜ北欧の話を挟んだかというと、吝嗇といえるほどの倹約家ですら消費税や所得税が高くても社会保障が充実することを選んだ。かれらの生活は質素である。食い物はうまくない。服は父親のお譲りである。経済的には日本程度の豊かさだが、総合した税率が50%を超えても、学校病院がタダの方が人間にとっては重要なのだ。

配偶者の一人が病気になると会社を休んで介護する人には給料が保証され国から看護婦が派遣される。その看護婦を断ると看護婦の給料が介護する人に行く。

が老人ホームはおそらく日本のどの老人介護施設より充実している。看護婦と歌って踊って・・・の老人幼稚園ではない。無料。

フィンランドに老後資金を貯金する人はいない。いらないからだ。

僕はそんな国のホールで弾きたい。アクロスで弾きたくない。

 

僕の内縁の娘の歯が悪くなった。きれいにするため保険外に行くことにしたが、160万ということだったが200万を越えそうだ。

コンビニで食えば何%、持ち帰ると何%・・・バカは本質をとらえずどうでもいい事実、しかも細かい事実を面白がって消費税反対を唱和する。貧乏人の数%を当てにするほど日本は貧乏ではない。

僕は平均以下の生活だが一人当たり子供の学費は2000万を超えた。スウェーデンでは下宿費をを12万/月まで補助する。学費は本来無料。

だれでも大学に行ける国が僕はいい。2000万がいらない国がいい。税金は十分すぎるぐらい払った。

消費税が20%を超えるデンマークは世界幸福度3位だ。

安倍のせいでいま日本はアジアで8位だ。


偏ってる

2017年09月14日 | 教育

                    声楽部(ここもインターナショナルスクールだろ)

 

医者は一度医師免許を取ると、何科を開業しようと自由だし、免許に期限もない。

つまり、聴診器片手に分かったふりをしていた人間が、いきなり交通事故のけが人の手術をしても合法なのだ。

僕は医師免許の更新制度を創設する必要性と、「科」ごとの免許に改めるべきだと官僚に行ったことがある。官僚は顔色一つ変えず、「現在でも期限はございます。死亡による免許の失効の場合でございます。」と言った。

教員免許には3年目、5年目、10年ごと、の更新試験と40時間の研修が義務付けられる。これじゃあ低能がコネで集まる集会所ができる。まともな人間は学校の先生をしなくなるというわけだ。日本の頭脳を育てるところがなくなる。

教員免許は、嫌がらせのように意味もなく厳重だ。地理の先生が公民の授業をすると、クルマでいう無免許運転をした騒ぎになり、子供がかわいそうだ、とか内容が偏向したとか騒ぐ。同じ社会科で持ちつ持たれつしてその時の生徒数に応じて柔軟に持ち時間を決めてきたのでみんな他教科も経験ある。下手な奴は何を教えても下手だ。万能な人は、日本史と世界史とを同時に進学校で担当できる。

なぜ因縁をつけるか。その先生にやめてほしいのだ。法的理由を文部省は用意した。確かにやめてほしい奴はたくさんいる。大海人皇子を「だいかいじんおうじ」と教えるやつは昇進し、熱心な先生は組合員であったばっかりにちょっとしたクルマの接触事故を理由にやめさせられた。

教育は法律の条文で縛れない。生徒が眠り込む授業をする奴ほど早く昇進し、偉そうに「わかる授業」と題して講演をする。

しかし民衆はそれを偏向と言わない。日本の偏向はなぜか重罪で、右への変更はスルーなのだ。いったん「お上」が偏向というと、途端に「ええじゃないか偏向踊り」の狂喜乱舞で集団ヒステリーを起こす。

おとなになれよ。

 

(ここもインターナショナルスクール)

International schoolでは原爆投下を正当化している。おかげて多くの連合軍将兵の命を救った、と。それなら北朝鮮の原爆を否定できない。俺は殴るけどお前が殴ったら射殺だ…こんな理屈は偏ってる。

朝鮮学校(在日本)は、個人崇拝の偏った教育をしている。こんな馬鹿の一つ覚えほど困ることはない。個人崇拝はない。むしろ近代以前までの歴史は日本の暗記ごっこ教科書(山川出版社)よりはるかに先進的だ。今回は略。

なのに偏向を理由に朝鮮学校を差別するのはおかしい。譲ってそれが事実であった場合、日本人に何の関係があるか。我々が解放するのは、南朝鮮であり日本ではない。

わざわざ敵視される政策を取っておきながら、あてつけがましく核攻撃からの退避訓練をするな。

核攻撃のときにはここに隠れなさい (長野県談)

 

 


教育破壊の朝日新聞甲子園

2017年08月05日 | 教育

全国各地から優秀な野球選手を集め、勝って当たり前のチームを作る。そして高校はプロに続く進路を確保するための品評場。遊び半分や見込みのない真面目な使い捨て選手の墓場となる。

皆それをわかっている。しかし、ばか親は自分のような考える力のない息子ができれば満足で、ましてや野球しか知らない非常識な生徒であろうと野球強豪校を目指すことを進める。

ひどい時は年間授業出席が、ほとんど0だ。長嶋茂雄の息子の場合1日だ。これで高校を出たことになるのはあまりにも不公平だ。

 

受験校のように一日50個の英単語を記憶させるのを平均に置けというのではない。

何もしないで球だけ追って卒業したいなら、専門学校でそれだけ学べ。

そこらの野球バカ学校は破廉恥にも文武両道という。確かに東大に合格10人だし甲子園は常連だ。ただごまかすなよ。世の中ではおまいらみたいなウソをついてもすぐばれる。

東大に進学する奴が野球部にいるか。野球部でも漢字が書ける奴がいるにはいる。それなりに大したもんだ。ただし、自分の名前だけ筆順を問わない場合。つまり文武分業。

九州の鹿児島や福岡の野球強豪校では九州弁が聞けない。大阪弁だ。無教養な親は自分が何をしているかわからず子供を野球留学させる。そして子どもは使い捨てになる。

一つの高校部活がバスを持ちコーチだ監督だと破格の給料で雇っている。

 

ここで、間のぬけたいかにも頭の悪い私学の野球バカからの反論がある。進学するのにあたっても進学校をめざし全県全国から集まるじゃないか、と。

ことの本質が分からないとこのような気か狂ったことを言う。

 

(広報誌から 美人の多いいい学校だ 昔、短い期間つとめた 野球部がないだけまともだった)

 

 

銭湯と温水プールは似ている。だか銭湯の本質は体を洗いお湯につかりリラックスするところだ。存在するものは、すべてそれを存在させた理由がある。温水プールにせっけんとタオルを持って行ってはいけないように銭湯で泳ぐのは中国人だ。

学校は勉強をするところだ。面白半分に生活の技術を教えケーキを焼いて卒業したらいかんのだ。専門学校でやってくれ。生徒一人には年間150万円の経費がかかる。そのほとんどは公費であり来年からは、その全部が公費、国費によって負担する。総額7兆円(国)

 

学校は勉強が本質であり、勉強を与えることを条件に生徒を集めている。野球はオマケである。

一般生徒は音楽の時間が一時間でも足りないと留年なのに、野球バカはそもそも学校に行かなくても卒業していく。

これが異常でなくして何だ。

 

頭を使わんこと、学問でもないことをわざわざ予算を割いて生徒にやらせる必要はない。防衛費と文教予算はいつもほぼ同額だ。

大事なことは、戦後体育施設の不足を補うため文部省(当時)は何でもかんでも引き受けた。それが今日残る部活だ。本来スポーツは社会体育で受け入れるべきで、現在では学校以外の社会体育が受け持つことがが可能だ。低能な教師は家庭を顧みず部活の指導をして立派なことだとほめられる。

平均的な学校の部活動予算の内訳を明かそう。控えめに言うが、体育部予算800万のうちある一つの部が半分を使う。茶道部とか華道部とかECCなど文化部の予算は5万以下だ。

そのある一つの部に入ると勉強がない、留年しない。これじゃあクラス運営はできんだろ。

 

 

 


タダという餌を撒くのは安倍と共産党

2017年06月25日 | 教育

 

タダほど人を腐敗させるものはない。

行政を脅せばいくらでも金を出した時代があった。しかも役人は実際のカネの行方には目をつむる。

日本人はどこまで能天気なのか。田舎をドライブすると城がある。おかしいな何城だろうと思ってみると個人の住宅だ。カネもうけは悪くないようだが、程度を超え富にしがみつき、社会還元とか教養がないので、意味すら分からないすさまじい無教養は、浄化すべきだ。カネもうけは美徳でも犯罪に転化する。

下品な池にはコンクリートの鶴が水を吹いている。座敷には虎の掛け軸がある。客がその座敷に入ると必ず床柱を自慢する。

複雑に葺(ふ)かれた屋根から声がする。「俺はカネ持ちだぞお。」

一方で、貧乏人はその金持ちにはさほど反感を持たず、羨望とか尊敬のまなざしを向ける。なぜなら旦那様は職を世話して下すったから。

 

同列の貧乏同士になると殺しかねない勢いでその不平等を責める。日本には自動車運転免許がタダの人が住む地域がある。(この制度は社会党、現社民党が作った。共産党は反対した)

カネのためなら何でもしかねない貧乏人の御機嫌を取ると票になると思っているのが共産党だ。大学を無償化しますよ、と共産党は言う。安倍も言うが、それは憲法9条改正国防軍設立のためのカムフラージュであるので書くのもいやな気持ちになるのでここまで。

大学なんかタダになっても有り難くないのだ。どうせ行かない。行く価値のある所(大学)にはぐうたらに育てたから通らない。就職もないところに言って人生を無駄にしたい相当のアホの集会所という大学なら行かば行け。会社にとっても間抜け顔の、しつけの悪い、カネぐせまで悪いのをどうして採用するか。

税金が、ぐうたらでたらめチンピラ無能に撒かれる福岡県、こんなさわやかなJKもいるのに。

結論

以上の理由により、貧乏人に施しをしても、溝(ドブ)にカネを捨てたことになる。ありがたがられもせず、貧乏人同士のわずかの違いに、お互いに首を絞めあいカネを取りあう悲しい性癖は、未来永劫のものだ。憲法改正の目くらましにタダ教育というエサを使ってもいかんが、さも正義面(づら)し貧乏人の味方面(づら)する共産党は時を超えて悪質だ。

何のために特高の弾圧に耐え生き残ってきたんだ。貧乏人におもねってはいかん。

 

 

 

 

 


謝るときは、思い出したように謝ろう。

2017年02月15日 | 教育

<引用開始>

 福島第一原発事故福島県から横浜市に自主避難した中学1年の男子生徒がいじめを受け不登校になった問題で、横浜市教育委員会の岡田優子教育長は13日、男子生徒が同級生らにおごらされたとする金銭授受を「いじめと認定できない」としてきた見解を撤回し、「金銭授受もいじめの一部として認識する」と述べて謝罪した。…中略…

 男子生徒側は、金銭授受は2014年5月の約1カ月間で約150万円にのぼり、いじめにあたると主張。市教委に多数の抗議が寄せられた。林文子市長も「子どもに寄り添った発言ではなかった」と謝罪した。…中略…

 男子生徒は小学2年だった2011年8月に、福島県から横浜市に転校した。第三者委の答申では、小学2~4年の時期に「菌」と呼ばれるなどのいじめがあったと認定。5年になると「プロレスごっこ」でたたかれるようになった。男子生徒は威圧感を感じ、家からお金を持ち出しておごった。

 

バカはバカ顔をしている。なぜか。前頭葉が壊死しているか、そもそもないからだ。だから、きれいごとをいう能力など記憶力さえあればよく、霊長類特有の思考そのものは本来ない。

つまり、子どもに寄り添って、とか、子供の目覚めや気づきをどう引き出すか、などと言葉の言い回しで真実を覆い隠そうとするのが教育委員会であり広く役所というものだ。

教職員組合の教育研究集会には何回も呼ばれたが、そもそも結論は決まっていて、みんなそれに沿って発言し交通費目当てに人が集まり教育委員会は年次休暇を出さないで学校を出ることを黙認した。研究集会とは笑わせる。

委員会と組合を対立して考えるのは間違いだ。組合の目立ちたがり屋は必ず委員会に行くか校長になった。

つまり、卑怯者の自己保全能力は気違いじみてすさまじく、結果そのことで人が死のうと塗炭の苦しみを味わおうと何とも思わない。行政バカにあるのは前例と事なかれ主義とセクト主義である。

 

そこで庶民なら常識として正しく即断できるものを、横浜の教委と市長は5年もかかった。

 

話しはこうだ。いじめられていたという事実を認定するにあたリ、言葉の言い回しをして、なかったことにしてしまったのだ。

 

いじめられたくなかったらカネを出せ、と言われた少年は恐怖にかられ家の金を持ち出した。たたかれることはなくなった。ただ家の金が150万/月きえた。だから委員会はいじめは消えたと言う。これはチンピラの論理だ。ぼこぼこにされたくなかったら、カネを出せ。そこでカネを出した。自分の意志で金をだしたのだし、ぼこぼこにもならなかったから何の問題もない。

教育委員会の誰かを同じ目に会わせんといかんな。

僕だったら殺すぞ。僕が働いたカネを子供に持ち出させたら、僕のベレッタが火を噴く。

でたらめなことを言っている。いじめはなかった証拠に自分の意思で150万も持ち出し仲良くしているじゃないか、と。

いつプロレス技が来るかもしれんからその保険として家の金を持ち出すことを覚えた。それを、仲よく遊んでいるのでいじめは解決したとして事なかれに終始した。被害者は死ぬほど苦しかっただろう。4年も5年も放置したのは行政や教育関係ばかりではない。

最低の親だな。警察は何もしない。犯罪者を守るのが警察だ。なぜ犯人の一人も殺せなかったか。わが子が不当に殺されかけていたじゃないか。4年も5年も気づかないなんて親の屑だ。

 

 

 

 

 


月華祭

2016年10月08日 | 教育

ある近大の文化祭に行った。

ニュートンのプリンキピアがあり僕は実物を見るのは初めてだったので感激しだた。デカルトのものもいくつかあり、手に取りたいと申し出たところ、不愉快そうに許可してくれた。

お前も馬鹿と一緒だろ。表の屋台に行ってたこ焼き食ってろや、という表情を読み取れたが、実物の力はオーラのように僕を魅了する。フランス語はわからないが、「方法序説」を手にした喜びはたしかなものだ。「座標」がこの本から誕生した。

理系の本は簡単だ。「よって」「ゆえに」したがって」「なぜなら」・・・接続詞と数式なんだが、今やその数式は中学生が説く解く。だから誰でも読める。

問題は序文にある。プリンキピアも同様である。筆者は最後に序文を書く。そのとき、世にとう覚悟と自信とその論文の正当性の要約を序文に書く。静力学から動力学へ。量子力学が登場するまでニュートンは物理の世界の王者であった。400年以上。

 

大学の文化祭をたこ焼きとミスコンと芸人の発表会のようにいう人がいる。たしかにアッホ大はそうだ。

だが僕は原典に接した。このことをバカな大学生に話しても意味がつかめないでいる。が、偏差値60以上の高校生は「先生良かったですねえ」と一緒になって感激する。

 

今日、国際医療福祉大の大学祭に行った。世界各地に留学したようでそのときの様子を紹介してくれた。どの学生も楽しそうで、競争のみの青春だった僕はとてもうらやましかった。

男女とも、特に男子は誠実でこちらまでまじめな気持ちにされた。けっして打てば響くスピードは、無かったが、はっきりとした目標を持ち、ここまでしてくれた親に報いるんだという発言を、あちこちの学生から聞いた。

いい学生さんたちだ。初めて僕は自分からここで仕事したいと思った。

 

 

ところが、人が美女JDと話しているのに目の前5センチをすまして通り過ぎるもうろく教員がいた。トラブルになった。(内容省略)

こんなバカがいるところはごめんだ。誰が行くもんか。

 

木工祭もあっていた。痛ましかった。

 

 

 

 

 


凍土壁のような大学入試改革

2016年08月19日 | 教育

 

 

大学入試は行き詰っていた。80年代、将来の人口減を見据えた対策は私学こそ焦眉の課題だった。

「ああ、勉強のことは関係ないもん、僕にはモモのハンドルが大事だもん。」、という人は子々孫々無限の貧困低能の悪循環をなす。

子に対する責任としてできる限りの教育環境を準備するのは、まっとうな親の常識だ。

読解力の無い人は自分の思い込みと僕の文章を比較して反感しか持ち得ない。入学定員の限られたなかでの競争は必ず大部分の夢破れた若者を残す。

その若者はフリーターの格差社会を笑顔で受け入れ奴隷の様に働く。あるいは、4流大にやむなく進学する。

そんな仕組みは公正なものではない。社会の一員としてはこんな戦前以下の選抜制度を到底肯定できない。だが受験に打ち勝つことにとりあえず努力を注がなくてはならない。

日本は再チャレンジを許さない国だ。

 

私大についての僕の考えはそのうち書く。国公立。緊急の課題は(独立行政法人)大学入試センターが、また小手先の改革でお茶を濁そうとしている点にある。

2020年からの実施。完成は2024年。国語数学の記述式をふやした。暗記ゴッコの我慢大会で優れた人材が選ばれるはずは無い。予備校は、ラップのリズムで覚えろと真顔で言って丸暗記競争を奨励する。追い詰められた受験生はなんでもする。

そんな跛行した入試は改善すべきだ。

モンスターペアレントがいるはず無い。声だけ大きい無能な痴呆はもうド派手な服を着て学校に怒鳴り込むことは無い。さあ平均値の定理を証明してもらおう。

すると残る問題は何だ。

だからじっくりセンターで考えてほしいのだが、じつは高校側の希望は採用されない。高校側が、授業から遠ざかって20年にもなる校長や校長上がりが出す思いつきの意見は邪魔だ。

国語と数学は毎年解いてみるが、現行で十分良い問題だ。 大学入試問題の作成を各大学ばらばらに実施するより合理的だといって始めたのがセンター試験だった。

このときガラポンで選んだ学生が、地方の4流大学ならまだしも東大、京都に行くようになってはいけない。センター試験は現行でも十分な振り分け能力を持つ。独自試験は東大クラスのみに必要なことだ。

日本は、アジアのリーダたるには、学問研究についても世界一であるべきだいう大いなる夢を見た。百歩譲ってその夢が正夢になるにはどうしたらいいか考える。

まさに井底の蛙。

IVYリーグの学生が狂気を感じるほど勉強するのを見たか。プリンストン大学から小学生扱いを受けたことはあるか。屈辱も分からぬ有様か。

99%の大学は魑魅魍魎が行けばいい。しかし、本当に能力で選ばれなくてはならぬ1%が、入試センターの担当が変わるたび翻弄される。天下りどもは、入試制度の「変更」を手柄のようにして次の天下り先に向かう。

考えてもみろ。入試科目のごく一部が記述式になったとき、優れた学生を選抜する精度が上がるか。現行の入試問題の選択肢はよく考えられていて、誤答をありうる場合に分け、すべての誤答を選択肢に反映しようとしている。

問題を解いて反論してほしい。

 

 

私大合格者は福引会場にあるガラガラポンで選ばれたのと同じだ。全員が最低で均質な集団であれば、入試は意味を成さない。それでも学生不足に悩む絶望私大は中国人を入れた。

中国人の優秀さは、知っている。そいつらが来れば楽しいが、そうとはならず、頭も、マナーも、顔も悪いとりえの無いのが大挙する。4流大学は自分の大学の偏差値への興味が無い。別に人間でなくても学費を払えばなんでも歓迎だ。儲かる儲かる。

絶望した学生は暴力的である。

私大の苦悩についてはまたの機会に。

 

夏風邪でくたばってました。失礼しました。

 

 

 

 

 

 

 


障害児を褒め殺す養護学校 2

2016年07月20日 | 教育

ほーら、○○ちゃん、よーくできました。すごいね。上手ね。先生感心しちゃった。

一日中この言葉を浴びせかけるのが養護学校の教員の仕事だ。役者ぞろいで障害者を心配したフリがとても上手だ。

先生様の狙いは一つ。特殊教育手当て。これは毎月の給与のみならずボーナスにも退職金にも年金にも反映するから笑いが止まらない。

しかし笑ってはだめだ。腹黒い偽善者である自分がばれてしまう。難しいことは無い。チヤホヤ仲良しゴッコをしてほんの数時間をごまかせば、また帰りのバスが3時ごろ来てバイバイすれば、後はすることは無い。

ところがバカはその後、「子供の障害と向き合う姿勢」とか「・・・のきづき」とか「・・・と食育のあり方」とか「子供を伸ばす生き方の指導」などという訳分からんくだらん日本語のプリントを山ほど作り、何時間も会議する。

養護学校は最近特別支援学校とか言うが聞きなれたほうでいく。その養護学校にもっともふさわしいのはそこにいる先生たちだ。

脳が器質的に異常をきたしている。夢の給料を平気でもらい意味の無い会議で仕事をしたつもりになる、それが平気なのは偽善でありペテンでありそうでないなら気違いだ。

労働者は時給2000円もらえばいいほうだ。家庭が破壊される寸前までとことん働いているのだ。

子供は、体が植物状態なのに、ちやほやゴッコで教育と強弁してはならぬ。子供本人は迷惑している。犬をカラオケに連れていき、さあ歌えと強要するのと同じだ。

唖とかめくらとか言葉だけを使わないようにして意識から遠ざけ世の中はすべて健常者で成り立っているという仮想世界を作る。

その反対側の閉鎖社会では子供を褒め殺すという微笑みの残酷社会が毎日狂宴を開いていることを誰も知らない。

そこにいる子供達はきわめて横着である。当たり前だ。彼らは教育されたことが無い。お遊戯と洗濯ばさみを組み立てる実習とか言うのがあるだけだ。

何をしても怒られなかったら人はどうなるだろう。神で無いかぎり出来そこないになる。障害に輪をかけるのが養護学校だ。

あほらしくてやってられるか。そう思うのが人間だろう。

 

世の中の不正に怒ることが無い人は、自分の中の悪魔性にも気づかない。

 

 


福岡県の悪魔達

2016年07月11日 | 教育

 

写真は本文と関係ない盲学校です

事実引用

市教委によると、女性教諭は特別支援学校の教諭だった時、目が全く見えない生徒に「時計を見なさい」と発言したり、体調を崩していた生徒に適切な措置を取らなかったりするなど、不適切な指導を繰り返していたという。

 市教委は昨年6月〜今月、指導力不足として、この教諭に校外で研修を実施。しかし教諭は研修中にも「課題が改善されていないと言われる理由が理解できない」などと述べたため、改善が見込まれないと判断し、分限免職処分とした。

【岡崎大輔】毎日新聞2016年7月11日 12時37分(最終更新 7月11日 19時41分)

ここまで

 

盲学校とはそもそも、教員達の休憩所である。ましてや管理職になると何人もいるがすることが無い。学校の体制としては、何にもしないのが良い先生で学校の改善、新しい指導法の導入をしようとする人は、わざわざ天国を忙しくする邪魔臭い人間なのである。

学校全体にはよどんだPCBのような悪い「気」が蔓延している。目が見えない生徒はそれでも学校に来る。他に無いからだ。あっても親は知らない。学校は統廃合を恐れ生徒減を嫌い3年間お茶を濁してくれればそれでよい。

生徒は目が見えないか、ほとんど見えないから内向的であり、ちゃらちゃら動かない。それをいいことに教員はこの閉鎖社会でどんどん気づかないうちに異常になっていく。ましてや、状況改善などなされるはずが無い。校長は表ざたにならなければ特別支援学校手当が10%以上ついた最低5000万の退職金を得る。事なかれに走らないはずが無い。

県教委も自分らの落ち度だということになっては大変だ。まず揉み消し。次に内部告発者の遠方への転勤。それでもうわさが広がると、手を下した当該者だけ転勤させて幕引きを図る。

 

どこの話か。福岡県だ。散歩の時間には犬の様に首に縄をつけて住民からも見えるところを散歩した。いうことを聞かない生徒は裸にして便所に閉じ込めた。いずれも目が見えないのをいいことになされた蛮行だ。

 

怖かっただろう。親は文句を言うべきだったが、いいにくい仕事上の理由もあった。

マスコミが感知するところとなりやっと改善がなされた。しかし告発者は悲惨な異動処分を受けた。

 

弱者は青天白日の下にいる限り、かわいそうにとか、不自由なのに頑張るのねと、かたちだけ大事にしたフリをされる。そのとき、「ウソ」に満ちたボランティアの作り笑いに子供はうんざりしている。

一旦内部の閉鎖社会のとじこめられると、表現する方法を失う。これはいじめか、監禁、暴行、強要である。他の教師が、家に帰ってからお母さんにちゃんと話そうね、と言ったが最後、村八分が死ぬまで続く。

重複障害者は脳にも深刻な障害がある。お母さんに説明できるはずがなない。密室は暴かれない。

翌日学校に行けば、お前親にチクッたな、と、前にも増した、たとえば時計を読ませるようないじめが待っている。

教員の中で、あるいは県教委、知事部局、どこの誰も、一人として協力しなかった。この教員によるイジメは止めるべきだという簡単なことに教育界は揉み消しに走った。

仕方なく法務省にいって事情を言うとプロジェクトチームを作り問題解決に当たってくれた。

残念なのは父兄からのありがとうが無かったことだ。

 

 

 

 

 

 

 


やま滴(したた)る

2016年05月06日 | 教育

春の季語に「山笑う」があるということを、このgooか、みんカラに書いた。5月になりこの季語は使えなくなった。今、暦は夏なのだ。

あまり使われることの無い季語だ。  「やま滴る」

(桜の散った後。したたるほどではありません、みどり。)

 

能力が無い人間は、形式とか前例とか多数とかに盲従する。とくに、なんちゃって高校の若い教師にこの手のバカが多い。すると生徒は国語嫌いになる。形式ゴッコでは自分(生徒)に迫るインパクトが無い。

使いもしない、また、使えもしない助動詞の活用を覚えさせるのを仕事のやりがいにしている。ほとんど気違いの域だ。

夏井先生はきっと笑っている。

ごたごた細かいことを言わず、これがいいのだ、とバシッと切り込み、言われたほうはダイレクトに心で理解する。テレビによく出るあのおばちゃんだ。松山はのろまが多くうそつきの町だったが、文化的には日本最高だ。

要綱

5月22日 主催 松山市 17音が景色を変える  講師 夏井いつき

(もうすぐ睡蓮)

 

巷にも俳句の会があるが、痴呆が入ったジジババが、出来の悪い俳句をわざわざ額に入れ褒めあうところだ(松山以外)。やはりここでも国語嫌いは増幅する。旧制女学校出のきちんとした素養のある人は忸怩たる思いでいる。

間違いなく女性の句は秀でている。男は、わしは昔は偉かった、の話ばかりだ。まとめて爆破できないか。

今、高校では国語の教員の中に漢文の専攻の人はほとんどいない。授業のコストしか眼中に無いアホな高校が増えた。

つまり、国語科全員に平等な授業の受け持ち時間を配当するには、漢文しか持たない先生が混じると人件費がかさむという理屈だ。

なぜここで漢文か。俳句の話ではなかったか。あほ。山の緑が滴る様に覆っている(やま滴る)、わけだが、出典はMade in Japanではない。そう。おまいらの嫌いな、Made in Chinaだ。

”郭煕(かくき)”の著書である『臥遊録(がゆうろく)』とされている。

(ちゃんと枝垂桜を観にきている人たちがいる。有名ではないのに都府楼の奥の上品(じょうぼん)の桜をめでる人たちがいる。軍歌を流して日の丸を振るよりよほど日本を強くする行為だ。)

 

漱石が現代文から消え、「ばなな」が教材になる。漱石の漢文に対する深い造詣に接すると、かならず人は謙虚になる。現代のわれわれも彼を学び、自らの日本語力を高めることができる。ばななの文にはその素材すらない。

漱石に何が何でもこだわるということは、ない。ただ、真摯な日本語の世界観を知らない人は教科書に載ってはいけない。

現代文の授業が、早く進む先生ほど良い先生とされる何ちゃって高校が、生徒の国語力を奪い、国語嫌いを増やしている。

灘の橋本先生は、3年間たった一冊のテキストでほぼ全員を東大に通した。

 

 

 

 

 

 


小、中学校は消えてはいけない。

2016年04月15日 | 教育

 

まず自治体の話から。平成の大合併は、ほとんど支障なく進行した。町や村は隣の大きな市に吸収されていった。自治省(旧)は学習したのだ。国のお役人は地方議員を意のままにした。

福岡で言うと、春日市や大野城市こそ存在理由は無い。福岡市への合併機運が高まったときがある。両市民はこぞって賛成したが、議員報酬にしがみつく議会と自動的に失職する市長のみが反対し、実現しなかった。

消防、警察、学校、・・・100万福岡の横に5万の春日市がわざわざ存在する理由は無い。多くの公務員が無駄な2重行政をして高給を取り笑いが止まらないでいる。

国は、そのような煩雑で不合理な地方行政を能率化、合理化しようとしたという。ウソつけ。自治体が握っていた利権や天下りを、国が独り占めしようとして大合併は進んだ。x

エサが無いことにはどんなに高尚な理念も無力だ。自治省は、正当性のみで合併を押すことのむなしさを知る。ことは簡単だった。1ヶ月に10日しか出庁しない田舎の眠った議員達にはカネをつかませればいいのだ。その上次の選挙までは議員の地位を保証した。

このやり方で合併を推し進めると計画以上に合併が進み日本の1/3の地方公共団体が消えた。

春日、大野城という盲腸市=生活保護公務員をかかえる市は合併せずに残ったが。

(古後中の近く)

 

何が起こっているか考えてほしいのだ。地方公共団体が消えるということは「民主主義の学校」(Jブライス)が消えるのだ。住民は、近くに議会があり議員がいるから、自身の生活と地方政治が直結し、ひいては国政にも関心が向くようになる。

その自治の主体を消滅させておきながら、何が地方創生だ。あー?安倍。

(安倍は日の本を汚している)

教育も同じだ。今日、250キロ程度ツーリングに行った。古後中学校という小さな中学校を見つけた。生徒は20名。いいじゃないか。

あまりにも田舎だから、スクールバスを通わすことも出来ないのか、幸いなことだ、と一瞬思った。違った。消える前のろうそくだった。

あるいは玖珠中学校。昭和22年に開校している。最初は生徒の数が多いのは当たり前だ。外地からおおぜいの日本兵が復員したからである。

当時は都市でこそ食っていけなかった。農村にいけば死ぬことは無かったのである。人々は開墾しようと日本の奥地を目指した。当然家族に中学生もいたわけだ。さらにベビーブーム。

玖珠中は昭和22年に314名の生徒がいる。ところが今も242名いるのだ。(H11)

文科省の子分である、田舎の、学のない、教育委員会は、生徒数が2/3になりましたとか言う。ばか。それは廃校にするほどのことか。

経費がかさむなら校長の僻地手当てをなくせ。年金退職金にも跳ね返る30%という数字の恐ろしさを知れ。不要な管理職を置くな。そもそも授業の無い先生こそ無駄の象徴だ。遊びの出張をなくせ。給料より高い旅費を無駄にもらっている。

なんと大分県は玉突き統廃合をする。まず森高校を統廃合して校舎を空ける。そこになんと7校(中学)を集約しようというのである。

現在何の問題があるというのか。子供はおおぜいの中で学んだほうがいいとでもいうのか。ばか。古後中も、玖珠中も全国統一テストの平均を上回っている。第一250名は少数ではない。

コミニュケーション能力が・・・、とか言い出すのもいるだろう。大勢の中で過ごしてきたおまえ自身コミニュケーションができているか。生徒数の大小は一長一短であり一方の意見の論拠とはならない。

僕の心をとらえて離さないのは、古後中の生徒会のスローガンである。生徒会だから生徒が中心で先生は補助である。少人数だからこそこんなすばらしいスローガンを考えることができる。

こんな素敵な中学を出たら一生の思い出の宝に出来る。古後中学が消えてはならない。

 

生徒会活動のテーマ

すまいる~まあるい心になって~

設定理由

まあるい心とは、やさしく太陽のような心のことです。ま
あるい心になるとみんなが笑顔になると思います。そうする
と古後中にみんなが集まり、和める場所になると思ったので
このテーマにしました。