ねこ吉のよしなしごと

どうでもいい事ばかり書いていますが・・・。すっかり備忘録になってます。

思い出したこと。

2024-05-01 22:13:09 | 思い出
今日は、雨が止まず気温が低い。
せっかく治りかけた坐骨神経痛が再発。

午前中、掃除をしていると、息子の部屋でドジャーズとダイヤモンドバックスの試合を見ていたたぬ吉が、「ハチが飛んでるから、試合が出来ないって。」と言っている。
ねこ吉は、スポーツ音痴だから、例え大谷選手が出場していても試合を見ることはほとんどない。

「え~、ハチが球場にいるの?」とテレビを見た。

たぬ吉が、「オマエは、妙なものに食いついてくるなぁ。」と呆れていた。



暫くしたら、この男性が完全武装で現れた。
ハチ駆除員だそうだ。手際よくハチを駆除し拍手喝采をあびていた。
ねこ吉は、ハチが駆除される一部始終を見ていた。

ドジャーズ戦でハチ駆除員が急遽始球式

「俺たちのヒーローだ!」と言われ、急遽始球式に出たそうだ。
こういう所、アメリカってユーモアがあるなぁと思う。

さて、試合が再開されるまで、ドジャーズの昔の映像が流れていた。

あ、野茂英雄だわ。日本人選手のパイオニア的存在だね。





野茂英雄と言えば、初めての「ノーヒットノーラン」の時、たぬ吉はスポーツ記者としてアメリカまで出張していた。
ネットも携帯電話もない時代、安いチケットを旅行代理店で手に入れ、ロサンゼルスの都ホテルに予約を取って出発した。

最後アトランタ?まで、各地を野茂英雄の試合について回り、チケットを取っているうち、クレジットカードの限度額を超えてしまった。
ねこ吉がクレジット会社で限度額を上げてもらい、それを連絡するのにたぬ吉の宿泊先に国際電話をした。
英語のできないねこ吉は、しどろもどろ。ルームナンバーを言い、後はプリーズを連呼。
電話が行き着いた先はバーにいる日本人のバーテン?だった。
たぬ吉に苦労して連絡したことを思い出した。
28年も昔のことだ。

今なら、LINEがあるのにね。

お土産の野茂英雄のサインボールは、カップボードの奥にあった。
ケースがすっかり黄ばんでいた。

今日から5月が始まりました。









道すがら・・・。

2024-03-04 21:58:50 | 思い出




今日は、苦労して仕上げた医療還付金の書類を郵便局に持って行こうと思っていた。

毎年「五月のバラ」のブログの写真を撮るマンションのバラの木に冬のバラ?が咲いていた。
ちょっと気が早いんじゃない?



(道端に植木鉢で囲ったお雛様とお人形。)

この家は、以前酒屋とたばこ屋をしていた。
かなり前に閉店してしまったけど・・・。

阪神大震災の2,3年後の事だった。
昔ながらのたばこ屋の店先によく三毛猫が座っていた。

ある日通りがかると、お爺さんが三毛猫を抱いていた。

「この猫の具合が悪なったから、お医者さんに連れて行ったらずいぶん高かったわ。
そやけど、震災の時危険を知らせてくれて助かったから、この猫に恩があるねん。」

とお爺さんが言っていた。

動物特有の感?で、何かを知らせたんだろうねぇ。

いつの間にか、三毛猫もお爺さんも見なくなった。

そして、いつの間にかお店は閉店。

普通の家になってしまった。

今日、通りがかったら可愛いお雛さまとお人形たちが並べられていた。

道行く人が温かい気持ちになるよね。何だかほっこりした。

きっと、あのお爺さんの親族が住んでいて、優しい気持ちのDNAが受け継がれているんだろうね。

郵便局に行って、銀行に行って、岡本方面まで北上。



昨日、お墓参りの帰りに自分のためにケーキを買おうと思っていたのに忘れて家に帰ってしまったから。

2月18日、娘に古いiPhoneを渡すために行った「ハルサクラオカモト」で買って帰ったアップルパイが美味しかったので買いに行った。

残念ながら、今日はアップルパイは無かった。その代わりタルトタタンがあった。

う~ん・・・。リンゴのシャリ感が足りないなぁ。
アップルパイの方が美味しかったわ。

アップルパイもタルトタタンも毎日ある訳じゃないので、電話で確認してから買いに行かなければならないそうです。

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先生の思い出

2023-12-22 19:41:57 | 思い出


スマホの天気アプリを見たら、何と0度だった。驚いてスクリーンショットしました。
風も強く一日中、温度が上がらないって。

今日は冬至です。
一年で最も昼が短い日です。

お天気はよく、陽は差し込んでいるけど外は寒そう・・・。

雪だるまが団体でやって来る。



昨日、夕食はお手軽すき焼きだった。
ねこ吉は、お豆腐を買うのを忘れたことに気づいて、近くのスーパーに6時頃買いに行った。

ダウンのジャンパーを着て行ったけど、手が冷たい。
ポケットに両手を突っ込みそうになって、突然、荒井先生の言葉を思い出した。

荒井先生とは、中学の社会の先生です。
おじいちゃん先生だと思っていたけど、あの頃の定年は55歳ではなかったか?
荒井先生は何歳だったんだろう?

授業は楽しいけど、余談が多くて授業の進み方が遅いのでPTAから槍玉にあげられていたなぁ。

その荒井先生が、

「ポケットに両手を突っ込んで歩いたら絶対にあかん!転んだら手をつくことが事が出来ないから顔から突っ込んで大怪我するぞ!」
と言っていた。

「小学校の低学年の時は、ズボンのポケットを手を突っ込めないように縫っておいた方がいい。」とも言っていた。

ねこ吉は、子供たちにも、「ポケットに両手を突っ込んで歩かないように。」と言って育てた。

義母の検診に病院に付き添って行っていた頃、冬場になると義母はポケットに両手を突っ込む。

「危ないから止めて!」と言っても、また突っ込む。何度言っても手を突っ込む。

たぬ吉も「手が冷たい。」と言って、両手をポケットに突っ込む。

遺伝やろね。


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やっぱり冬だった。そして、サザンカの道

2023-12-17 22:41:50 | 思い出


サザンカ、サザンカ咲いた道~。
たき火だ、たき火だ、落ち葉たき~。

午後から買い物に出掛けた。
道にサザンカが咲いていた。

毎年、サザンカを見たら、ねこ吉は、「たき火」を歌いながら歩く。

昨日まで、暖かなお天気だったのに、何と今日の寒いことか!

やっぱり、冬は間違いなくやって来たわ。

「北風ぴ~ぷ~吹いている。」

「たき火」の歌の通りやわ。今時、たき火なんかしたらエライ怒られるんやろね。

誰に怒られる?警察かな?消防署かな?



前にも、ブログにも書いたけど、ねこ吉は小学校1年生か2年生のとき、クラスから7,8人?選ばれて、尼崎文化会館(現在、アルカイックホール)に、「たき火」と、「お使いアリさん」を歌いに行った。
ねこ吉の学年は7クラスあった。
50人ぐらいが舞台に上がったのだろう。たくさんいたからアガリもしなかった。
小さいから皆に紛れて、客席からは何処にいるか判らなかったのではないかな。

母は見に来たのだろうか?覚えていないけど・・・。

目立たない子で、何をやらせても満足に出来ない子だったけど、合唱のメンバーに選ばれて嬉しかった。

サザンカの咲くころ、毎年同じことを思い出す。

追記

10時過ぎ、お茶を飲んだカップをテーブルに置いたつもりが、落ちて割れてしまった。
確かに置いたのに・・・。
一体どうしたんだろう。
大好きな水色、ブログの写真にも何度か出ているはず。
先日、たぬ吉が1個割り、今日はねこ吉が1個割ってしまった。
家族4人分、4個あったのに半分になってしまった。

嗚呼、ロクな事がない。悲しい。


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大阪大学中之島センターは・・・。

2023-12-03 20:42:05 | 思い出


(階段の壁面。左は緒方洪庵の肖像画。)

たぬ吉に、ランチを大阪大学中之島センターのカフェで食べたことをLINEしたら、

「あそこには昔、阪大の医学部があったんや。」と言う返事が返ってきた。

大阪大学中之島センターは、大阪大学医学部と、附属病院が移転した跡地に造られたらしい。

それで、階段の壁面に緒方洪庵の肖像画が掲げられてたんだね。

医学部があったということは、附属病院も中之島にあったということだ。

ねこ吉が小学校2年生の夏休み中、母(養母)は阪大病院で乳がんの手術をした。

ねこ吉は、加古川の叔母の家に預けられ、2学期が始まっても母は退院できなかったので、尼崎の家に帰って学校に通い、母が仲良くしていた隣のオバサンが食事を作ってくれた。
父(養父)は、当時名古屋に単身赴任をしていたのでいなかった。

夜は、一人で寝ていたと思う。怖かった。

一度だけ、隣のオバサンに連れられて阪大病院に母の見舞いに行った。

4,5人部屋で、母は編み物をしていた。
薄いピンクのタコ糸?で、ねこ吉のバッグを編んでいた。

同室の人に教えてもらったと言っていた。ちょっと変わったバッグだった。

リンパ節もとった全摘の手術だった。
一生、片腕がむくんでパンパンに腫れていた。
辛い人生だったと思う。

周りの人に、「ねこ吉のお母さん、ガンなんだってね。」といわれ、ねこ吉は小さいながらも「ガンは怖い病気なんだ。もし、お母さんが死んだらどうしよう。」とずっと思っていて、暗い子供時代だった。
ねこ吉は二十歳まで、自分が養女だということを知らずに育ったけど、もし、あの時母が亡くなってしまっていたら、ねこ吉の事は誰が育ててくれたのだろう・・・。
実父母の元に戻ったのだろうか・・・。

ランチを食べて、阪神電車の福島駅まで歩きながら、大昔のことを色々思い出してしまい涙が出た。



又、たぬ吉は、大阪大学の法学部を受験して、不合格で、翌年も不合格で・・・。

合格発表は、医学部でも見られるので、ここへ見に来たんだって!
さぞ、帰り道はがっくりして帰ったことだろう。

2人ともこの地にいい思い出は無いね。



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叔父さん、有難うございました。

2023-10-28 18:52:44 | 思い出


昨日は、京都に住む叔父のお葬式でした。
9月24日に、105歳になったばかりでした。

9月26日に、「いとこ会」をして、叔父さんの住む施設に皆で会いに行く予定だったのですが、誕生日前に急に体調を崩し、「いとこ会」は中止になりました。



9月30日のブログ「話題のモンブラン」は、26日に叔父の子供3人、いとこ3人がお見舞いに行き、施設の近くのエクシブ京都八瀬離宮でモンブランをご馳走になった時の話です。
叔父がご馳走してくれたんです。

コロナのためにお見舞いに制限がありましたが、15分ほど叔父に会いました。
叔父はパジャマ姿でも、胸のポケットには手帳を入れ腕時計をしていました。
毎日、今日は何日かの確認を欠かさなかったそうです。

耳が遠かったので筆談だったけど、みんなのことはしっかり判って、部屋を出る前には握手をしました。
握り返してくれた手は、力強かったです。

家族に、「来年の手帳を買っておいて。」と言ったそうです。



ねこ吉は、叔父には生まれたときからお世話になっています。

ねこ吉は、思いがけず生まれた双子の長女なんです。
心音が重なっていたとかで、先生も気づかず後産だと思ったらねこ吉が生まれてきたそうです。
ねこ吉が、今までブログに書いている母は、本当は実父の姉で伯母なんです。
そして、実父の兄が、京都の叔父です。

1人でも大変な育児だったでしょうから、実母は、「育てられない。」と京都の叔父の家にねこ吉を連れてきたそうです。
叔父は後年、ねこ吉に、「可哀想だったなぁ。」と涙をこぼしてくれました。

ねこ吉は8カ月まで、京都の叔母や、岡山の実家で育てられたそうです。

実父の姉に子供がいなかったので養女になって、20歳になるまで、ねこ吉は出生の秘密?も知らずに尼崎の家で育ちました。
養母は58歳で亡くなり、実父は、63歳で亡くなりました。

まだ、出生の秘密?については、書きたいことは山ほどありますが、今日はこのぐらいにしておきます。
色々な思いで息が詰まってしまいそうなんです。
では、書かなければいいのですが、書かなければねこ吉がどんなに叔父に助けてもらったかが判らないと思うので・・・。



養父が再婚するのと同時にねこ吉は家を出て、神戸で一人暮らしを始めました。
当時結婚前の娘が一人暮らしをするというのは、世間はよく思わない時代でした。
叔父、叔母、実父がアドバイスをくれ、全てを手伝ってくれました。

叔父に、「これからも相談にも乗るし、困ったときは助けるけど、どうするかを決めるのはアンタやで。」と言われました。
母を亡くして途方にくれていたけど、叔父の言葉をしっかり守ってこの年まで生きてきたつもりです。

実母は?と思われるでしょ。実母は3年前に亡くなりました。
優しい言葉をかけてもらったことも一度も無いし、助けてもらったこともありません。
実父の仏壇にお参りに行ったら、突然怒り出し家を追い出されました。

そんな実母のDNAを受け継いでいる自分が悲しいです。



「心配、迷惑をかけないで生きていく。」そう思っていたのに、阪神大震災に遭い、また叔父に世話になってしまったんです。
たぬ吉の甲子園の実家にねこ吉達が避難しているところに、京都からリュックに食べ物を詰めて、西宮北口から瓦礫の中を歩いて来てくれました。
当時、叔父は77歳だったと思います。

何日もお風呂に入っていなかったねこ吉と子どもを京都の家に連れ帰りお風呂に入れてくれました。

本当に有難かった。
養母、実父の分も、ねこ吉を心配し気にかけてくれました。

他にも書ききれないくらいお世話になったんです。

叔父さん、長い間有難うございました。

素晴らしい叔父さんでした。ねこ吉自慢の叔父さんでした。

追記

叔父さんは、歌手の藤山一郎に似てました。


→「長崎の鐘 藤山一郎


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誰かの落とし物、それから思い出。

2023-10-05 19:27:41 | 思い出


買い物からの帰り道、公園のフェンスに何か引っ掛けてある。
多分、中にはそろばんが入っているはず。
ねこ吉が上からそっと触ってみたら、やっぱりそろばんだった。
誰かが学校帰りに落としたんやね。

今でも、そろばんの授業ってあるってことにビックリ!

思い出話を・・・。

ねこ吉達も多分小学校4年生の頃、授業でそろばんを習った。
かなりの人が、習う前に「そろばん学校」に通った。
ねこ吉は、算数が大嫌い。そろばんなんか習いたくないけど、親に習いに行くようにと言われ、家の近くのそろばん塾に行かされた。
尼崎市役所に勤めている男の人が教えていた。
奥さんも手伝っていた。
夕方、週に2,3回通っていたと思う。

ねこ吉は、早さを競うということが大の苦手。徒競争は最も苦手。
「よーい、スタート!」といわれると、足も手も止まる。

嫌々通っていたけど、少しは級も進んでいった。
掛け算も、割り算も出来るようになった。

学校の授業でそろばんが終わる頃、そろばん学校もやめた。
掛け算、割り算のやり方も忘れた。

さて、高校に入学して1年の終わりころ、進路を決めなければならなくなった。

ねこ吉の通っていた高校は、就職組と進学組に2年生で別れる。
進学組は文系組、理系組の3コースに分かれる。

当時、就職組は、そろばん、簿記の授業があった。
そろばんは、検定試験を受けて3級?を取らなければならなかった。

アカン!そんな組に入ったら、ねこ吉は卒業できないわ。

卒業後のことなど何も考えていないねこ吉。つきたい職業もないし、何も将来のことを考えていない。
ボォ~と生きていた。ホンマに「チコちゃんに叱られる!」状態だった。

経済的に豊かな家庭ではなかったので、高校を卒業したら働くように言われていたけど。

「そろばんが絶対嫌!」という理由で、とりあえず文系組に行くことになった。

受験勉強も全くしていないねこ吉に、入れそうな大学も無い。
入れそうな短大の家政科に入学して、和裁で超苦労して卒業し・・・。

損保会社に入社したけど、「船舶課」という課に配属されて計算で苦労することもなかった。

今や、100均でも買える計算機がある。

たまに家計簿の集計をしようとスマホで計算したら1回目と2回目の合計が違う。
3回目をやったら、また違う。
もう、面倒になって、「大体このくらい」と書いておいた。

今年の1月から、スマホに「家計簿アプリ」を娘に入れてもらったので、いい加減な集計すらやっていない。


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阪神優勝おめでとうございます。そして、思い出話

2023-09-16 20:04:14 | 思い出


阪神タイガース、18年ぶりの優勝おめでとうございます。

と言っても、ねこ吉は阪神ファンでもないし、試合も見てなかったので決定的瞬間も知りません。

ねこ吉は、野球音痴、いや、全てのスポーツ音痴ですから。

阪神の優勝は凄い経済効果があるそうですが、とても怖くて阪神デパートに買い物に行く気もありません。



2005年阪神が優勝した年のブログです。→「阪神が優勝したので・・・。

阪神タイガースといえば、阪神尼崎の商店街が必ずローカルニュースに出てきます。



このオバサンは、当時有名だった「尼崎の虎のおばちゃん」です。
ねこ吉が商店街で見かけて撮らせてもらった写真です。

YouTube→「虎のおばちゃんも歓喜

おばちゃんも18年経って、老化しておられました。現在79歳だとか・・・。

18年前と言えば、ねこ吉がブログを始めた年。(昨日ブログ開設18周年の記事を書いたけど。)
ねこ吉もそれなりに若かった。

2005年と言えば、たぬ吉も現役の神戸新聞の社員だったし、息子は大学生だった。
ちなみに阪神タイガースの御用新聞とも言われているデイリースポーツは神戸新聞がだしています。

18年前、阪神優勝が決まって社員総出で号外を配ることになった。
たぬ吉は、阪神尼崎の駅前に行くことになった。
人手は多い方がいいので息子も連れて行った。

ぼんやり者でお人好しの息子は、阪神尼崎で号外持っていたら、配る前に盗られるのではないかと思い、ねこ吉は、「盗られない等にしっかりしなさいよ。」と言って家を送り出した。
阪神尼崎といえば、とてもディープな街ですから。

トラックが印刷したての号外を運んできて、阪神尼崎の駅前で受け取って、大いに盛り上がり無事配り終えて息子は興奮して帰ってきた。

息子は阪神ファンではなく、ヤクルトファンだけど・・・。

嗚呼、あれから長い年月が経ってしまったね。


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草刈正雄さん

2023-08-17 22:24:56 | 思い出


8月14日にNHKで放送されたファミリーヒストリー「草刈正雄」をねこ吉は見ていた。

草刈正雄は、ねこ吉より一つ年下。

デビューするまで、母一人、子一人で九州で苦労して暮らしていたことはねこ吉も知っていた。

当時、父親はアメリカ人、朝鮮戦争で日本に来ていた兵隊で、戦争が終わると帰国してしまい、日本に母親と子供が残されて、「混血児」といわれて苦労した人はたくさんいただろうね。

1970年、資生堂のMG5のCMでモデルデビュー。

カッコいい!ハンサム!可愛い!





団時朗と一緒に出てたんだね。

YouTubeでCMを見直してみた。→1970年資生堂MG5「紹介

資生堂のMG5や、BRAVASのCMにずっと出ていた。センスのいいCMだった。

草刈正雄はとても、ねこ吉好みの顔だった。
だけど、俳優に転向して、たくさんのドラマに出ていた頃をあまり知らない。

見ておけばよかったな。勿体ないことをした。ハハハ。

真田丸」の真田昌幸役で、再ブレークした。
ねこ吉は、「美の壺」の草刈正雄さんも好きだ。

今回のファミリーヒストリーで、死んだと聞かされていた父親はつい最近まで生きていて、再婚していたことが判った。
草刈正雄は、事情を知っていた伯母さんに会いにアメリカまで行った。
その後の話は、改めてNHKで放送されるらしい。

草刈正雄は、自分の出生の秘密を知って嬉しかっただろうか・・・。すでに両親とも亡くなっていて何も聞くことが出来ないし、何とも複雑な気持ちだろうね。



話がとても深刻になってしまったけど、ここでねこ吉の思い出話を・・・。

1975,6年ごろ、ねこ吉は会社の帰りに、「六甲勤労市民センター」で木彫の講座に通っていた。
そこで、Iさんという2つ年上の女の人と仲良くなり、講座の前後に食事に行ったり、お茶を飲みに行ってお喋りしていた。

2人とも、「芸能界で誰のファンか?」という話になり、今でいう「推し」だよね。

ねこ吉は当時誰のファンだったかどうしても思い出せないけど、多分誰かの名前を先に言った。

「Iさんは誰が好きなの?」

Iさんは凄くもじもじして、「う~ん、私の好きな人は全然ハンサムじゃないんだけど・・・。」と言ってなかなか言わなかった。

「誰、誰?」とせかすと、

「草刈正雄。」

ねこ吉は、「草刈正雄がハンサムじゃなかったら、誰がハンサムなの!」と即、言い返した。
あの時の衝撃は凄かったわ。

2人とも、何度か指を彫刻刀で切り、いつもバンドエイドを持っていた。

写真立て、お盆、鏡などを制作したが、残っているのは最初の作品、写真立てだけ。
母の写真を入れて、今もピアノの上にある。

講座が終わってから会うこともなくなったけど、Iさん、お元気ですか?


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「モノの棲み家、ヒトの棲み家」を見に行ってきた。

2023-07-08 17:07:10 | 思い出


昨日は、武庫川女子大学付属総合ミュージアムで開催されている「モノの棲み家、ヒトの棲み家」(中田静さんの「自宅」より)を見に行ってきた。

5月頃、パンフレットが送られてきて行こうと思っているうちに日が過ぎ、もうすぐ終了!

昨日慌てて出かけて行った。
珍しくたぬ吉もついてきた。

たぬ吉は、現在実家の片付け中。
ねこ吉は、このパンフレットで見る限りゴチャゴチャにガラクタが押し入れに入っている様子を見て何かを感じ取って、色々処分してくれることを期待したんだけど・・・。

ミュージアムは狭かったし、展示物は少なかったし迫力に欠けた。

砂糖や缶詰などは、中味を処分したようだけど懐かしいデパートの包装紙だ。
中田静さんは、もらった粗品も、ポケットティッシュまで使わずため込んでいた。



ねこ吉が中学生の頃か、お中元、お歳暮の頃、母の伯父さんの家にお裾分けを借りたカートを持ってもらいに行った。
緑と金の缶に入った大丸の砂糖。
伯母さんは古いものをくれるので、砂糖は岩石のごとくカチカチに固まっている。

玉杓子でガリガリ削って砂糖壺に入れるのはねこ吉の仕事だったなぁ。(→淡々と時は過ぎて


(武庫川女子大学の校舎の壁。)

中田静さんは、大阪の美章園に昭和から平成にかけて一人暮らしをしていたごくごく一般人だ。
出征されたお兄さんは戦犯となって処刑されたんだって。何と言うこと!
仏壇の引き出しに、手紙が残っていたけど、一言も恨み言も言わずに亡くなられたようだ。

戦犯にも色々あるだろうけど、絶対もっともっと悪い奴が生き延びていたやんか。
アイツとか、アイツとか、アイツが・・・。

着物の展示が無かったのは残念だったけど、展示された服の中にはタグが付いたままの物もあった。
買ったまま一度も腕も通さず・・・。
エライなぁと思ったのは、買った服などの特徴をノートに書き留めていたこと。
ねこ吉は、そんな事は絶対しない。

中田静さんが亡くなって、家を遺族が処分することになったんだろうね。

山ほど貯め込んだ食料品の数々、その他諸々にさぞビックリされたでしょう。

どういういきさつで、武庫川女子学院大学のミュージアムが引き取ったか判らないけど、まだまだ整理途中のようだ。

こうやって人の目に触れるモノたちは、ある意味幸せだとおもう。




(大学の近くに咲いていた大きなヒマワリ)

いつかは、たぬ吉もねこ吉も死んで、このマンションも処分するだろう。
どんなに懐かしい物も、愛おしく思う物も、子供たちが必要と思わなければトラックに積んでゴミ集積場に行く。

今回寝室のリフォームで、多くの物を処分した。
捨てられないたぬ吉は、甲子園の実家に古いレコードを運んでる。
愚弟の汚い布団をやっとゴミ収集車に取りに来てもらったらしい。

タンスに入った義母の着物類はそのまま。

たぬ吉は、展示物を見て何も感じなかったようだ。

有名人、作家の持ち物でもない限り、皆捨てられる運命なんだよ。

まぁ、ねこ吉もまだまだ捨てなければならない物が残ってるけどね。














住吉からの帰り道、それから「ある愛の詩」

2023-06-18 22:30:54 | 思い出
本日、天気はマァマァ・・・。
金曜日は「たぬ吉に負けじ!」と出かけ、土曜日はコーラスだったので掃除が溜ってる。
今日こそは、掃除をしなくてはいけません。



昼から、ちょっとパンを食べて慌てて掃除をして、2時36分のバスに乗った。
ネットで買ったユニクロのワンピースが、店舗に届いたというメッセージを受け取ったので取りに行くんです。

一番前の席。前のタイヤの上の部分の座席。
ねこ吉はこの席が好き。前方がよく見えるし下車しやすいからね。

「この座席は、高い為危険ですので、お子様、お年寄りはの方は、ご注意願います。」だって!

コロナの間、この席は何故か座れないようにヒモで縛ってあった。
最近、座っても良くなったので座ったら、こんな貼り紙が・・・。いつのまに?

まぁ、いいわ。座ったらアカンとは書いてない。
立派に年寄りだから、注意して座るわ。

ユニクロに行った帰り道は歩いて帰ることにした。

線路沿いの花壇には、アガパンサスが満開!





ルドベキアも満開!







この茶色い所に種が出来るんだろうな。ヒマワリそっくりだね。

この花を見ると、ねこ吉が持っていた夏物のワンピースを思い出す。
黄色のクレープ地に一面ルドベキアのようなヒマワリがプリントされたAラインのミニ丈のワンピースだった。

1970年の夏、どちらが当たった試写会だったか思い出せないけど、「ある愛の詩」を梅田まで見に行った。

1枚当たると2人行けるので、そのときは、またいとこのミサオちゃんと行くことになった。

ミサオちゃんは優等生で親戚の人たちの覚えがめでたい。
ねこ吉は、ミサオちゃんとあまり付き合いが無かったので緊張したことを覚えてる。

アリー・マグローとライアン・オニールの悲しいラブストーリーだった。

映画を見終わって、感想を話した事は全く覚えてない。
覚えていることは、ミサオちゃんも「トマトジュースが飲めない。」と言ったことだけ。
ねこ吉と一緒やわ。

ある愛の詩の主題歌は、フランシス・レイとアンディ・ウィリアムスで超有名になった。
映画音楽の王道やね。

アンディ・ウィリアムス→「ある愛の詩

フランシス・レイ→「ある愛の詩

ルドベキア見て、自分のワンピースの柄を思い出して、ミサオちゃんと行った試写会を思い出して・・・。

帰り道は、思い出が頭の中でクルクル回ってたよ。

ミサオちゃん、同い年だったよね。試写会以来あってないと思うけどお元気ですか?



エネルギー切れで、鈴木商店のソフトクリームを買って立ち食いした。


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尼崎に行ってきた。

2023-06-07 21:38:52 | 思い出


昨日、従兄から電話があって、「今、尼信記念館で、松尾の伯父さんのことが色々展示されているらしいで。」と連絡があった。

松尾の伯父さんとは、ねこ吉の母の伯父さんである。
だから、ねこ吉や従兄にとっては大伯父さんなんだけど。



右の胸像が大叔父の松尾高一である。
岡山から尼崎に出てきて、尼崎信用金庫の創立メンバーで、長い間、信用金庫の理事長を務め、尼崎に大きく貢献した人だった。



(2階にあった素敵なマントルピース。)

毎年節分に行く大覚寺の近くに尼信博物館はあるので、ねこ吉は何度も行ったことがある。

でも、上の写真のレンガ造りのレトロな建物には入ったことがない。
その建物が、創立記念日の昨日から3日間公開されるというので、行かなくっちゃ!とばかり本日行ってきた。



この窓からは、当時どんな風景が見えていたんだろうな。

尼崎信用金庫は、2021年に創立100周年を迎えたそうだ。



思い出・・・。

ねこ吉が小学校2年の頃、松尾の伯父さんは勲章をもらったので、御影の蘇州園という中華料理屋さん(今は結婚式場とイタリアンのレストランになっている。)でパーティがあった。
大きな門の前で、一族が集まって撮った記念写真をねこ吉は今も持っている。

ねこ吉は、中華料理と言えばラーメンぐらいしか食べた事が無かったので、蘇州園の中華料理は衝撃だった。
円卓が回る?次から次へと出てくるお料理は生まれて初めて食べるものばかり。

何、この黒い玉子?それは、皮蛋だった。
お箸で持って透かして見れば、黒いゼリー状の白身に微かに模様が入っていた。

ドォ~ンと大きな鯉のから揚げがやって来た。びっくりした。人生で鯉のから揚げを見たのはその時だけ。

そんなこんなを思い出した1日だった。

2008年に「ガーデンオリエンタル蘇州園に行ってきた。」の記事で、その時の思い出を書いている。
読み直したら、ほとんど同じような文章で・・・。
でも、書き直しませんわ。ここまで書いて疲れたし。

→「ガーデンオリエンタル蘇州園に行った。

上岡龍太郎さん

2023-06-03 21:49:31 | 思い出


上岡龍太郎さんが亡くなられていたことを昨日のニュースで知った。

ご冥福をお祈りいたします。

2000年に引退されて、テレビなどで見ることが無くなって正直忘れていた。
上岡龍太郎さんは、2000年に引退を発表して、二度と表舞台に復帰することがなかった。

「葬儀は近親者のみによる密葬で執り行って、お別れの会などの開催は故人が固辞した。」とのこと。
見事なまでに潔い去り方だね。

今日のテレビは、上岡龍太郎さんのニュースが多かった。
「漫画トリオ」で相棒だった青芝フックさんが思い出を語っていたけど、ねこ吉はフックさんのしっかりした語り口に驚いた。85歳とは思えないわ。

番組の最後に、漫画トリオの横山ノックさん、上岡龍太郎さんは亡くなったけど、青芝フックさんは、「自分はまだそっちにはいかないよ。」と言っていた。





「漫画トリオ」で思い出したこと・・・。

上岡龍太郎さんが「漫画トリオ」の横山パンチさんだった頃、ねこ吉は中学1年生だった。

当時、ねこ吉は漫才などは見ていなかった。
多分、友人の湘南いるかさんに勧められて見たんだと思う。

「パンパカパーン、今週のハイライト!」で始まる漫才は面白かった。
何回同じネタを聞いても笑える。

学校の帰り道、湘南いるかさんと喋りながら、笑いながら帰ったことを思い出す。

ねこ吉は「英語の勉強に使うからテープレコーダーが欲しい。」と親にねだった。
きっと、親もねこ吉がテープレコーダーを使って英語の勉強をするとは本気で思ってはいなかったと思うけど、小さなテープレコーダーを買ってくれた。
今思えば、親に申し訳ないことをしたと思う。

はたして英語を勉強したんだろうか?何も思い出せない。

「ザ・ヒットパレード」などを録音して、歌詞を覚えて歌を歌っていた。
当時、テレビの歌番組に歌詞の字幕は出ない。
テープを何度も回して耳で聞きとってメモをして歌詞を覚える。

勉強はしないのに、歌詞を覚える事には一生懸命だった。


そして、「漫画トリオ」の漫才も録音した。
湘南いるかさんを家に呼び、録音したものを何回も聞いて大笑いした。


YouTubeで「漫画トリオ」を検索したら出てきた動画。→「漫画トリオ

横山ノックがタコ踊りをするのがお約束だった。


追記



(ネットよりお借りしました。)

ねこ吉が買ってもらったテープレコーダーは、上の写真のようなものだった。
確か下の赤いボタンと、隣の再生ボタンを同時に押すと録音が出来た気がする。
録音したい番組が始まると、テレビの前にテープレコーダーを置いて構えてる。
ねこ吉のは、テープが小さいタイプなので録音できる時間が短い。

スイッチを入れたり切ったりガチャガチャやっていた。
番組だけを録音できなくて、母がねこ吉を呼ぶ声、耳が遠い祖母が文句を言う声、全ての音を拾うので困った。

レコードを直接録音できるカセットテープレコーダーが出来たのは、1970年代、ねこ吉が神戸でOLをしている頃だった。

レコードからCDになり、それすら廃れていく今。
ネット配信?Amazonプライムミュージック?

もう便利になり過ぎて、ついていけないねこ吉である。

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アルバムの整理

2023-05-21 21:04:15 | 思い出


(オリーブの花です。)

3月、リフォームをするために寝室にあったタンスを処分した。

タンス上部のガラス戸付きの戸棚には、娘が誕生した時から、2歳頃までのアルバムを入れていた。
誕生祝いにもらった豪華なアルバムで、ナカバヤシフエルアルバム。
台紙に写真を置き、上からシートを被せる。
当時、剥がすこともできる便利なアルバムと言われていた。

布張り、アップリケがしてあって重い重い豪華なアルバムが5冊。
出産祝いにもらった。

その後はファイル形式のものに変えた。
息子が生まれてからは、それぞれ各自のためにアルバムに分けて戸棚にしまっている。

タンスから出した5冊の大袈裟なアルバムを何とかしなければ・・・。

どう考えても、いくら自分のアルバムでも娘がこのまま引き取る訳がない。
あの子のことだから、捨てる可能性がある。

ファイル形式のアルバムを探して、アルバムから剥がして入れ替えることにした。

最近、スマホで撮って、印刷することも少なくなったようで簡単なファイル形式アルバムもあまり売っていなかった。

時代は変わってしまったんだね。

娘の部屋で、何の用事もない日に、新しいファイル形式のアルバムに入れかえる作業を始めた。
ずっとタンスに入れたままだったせいか、写真が剥がれない。

無理をすると写真が破れるので慎重に、慎重に剥がす。時間がかかる。

生まれたての我が子を見てるねこ吉は若い。当然だけど・・・。

何か小っ恥ずかしいコメントも書いている。
読み始めると作業が進まないので、出来るだけ読まない。

先日やっと終わった。古くて重いアルバムは、書いてあるコメントごと捨てた。まぁ、重かったわ。

色々思い出して、懐かしくも、切なかった。

その頃、ねこ吉は娘を着せ替え人形のように服を買ってやったり、作ってやったり。いつもニコニコ、何処に行くのも一緒。
まさに蝶よ、花よと育てていた。

3年半後に息子が生まれた。先天性心臓病だった。

子育てだけでも大変なのに、息子を東京の大病院に連れて検査、診察に娘も連れてねこ吉は右往左往した。
今から考えれば大してぐずりもせず、娘はねこ吉についてきた。

暮らしはごろッと変わってしまった。
たぬ吉が仕事に行ったら、親子3人暗い生活だった。

息子はよく発作を起こし、その度にねこ吉はオロオロして、娘のことなど抱きしめてやることもしなかった。
今まで優しかった母親が毎日怖い顔をして笑いもしない。
そのギャップにどんなに娘は戸惑った事だろう・・・。
甘えたい時期に全然甘えさせなかった。

娘は、幼稚園に入園して暫くして、

「お母さん、幼稚園の役員になって。」と言った。

「お母さんはとても忙しいから役員にはなれない。どうして役員になってほしいの?」と聞くと、

「お母さんが役員の子は、先生にたくさん抱っこしてもらってるから。」

ねこ吉は言葉もなかった。娘の洞察力は凄い。

また、「お母さんの目は、私を見ていない。」とも言った。

ねこ吉は、毎日の生活が辛かった。
息子は、体重を増やし、手術に耐えられる年齢になったら手術を受けることになっていた。
その日がいつ来るのやら判らず、悶々とした日を送っていた。

家族で出かける事は出来ず、たまにたぬ吉が娘をディズニーの映画に連れて行った。

息子は手術を受けて元気になったけど、何かと息子に手がかかったので、娘は母親の顔色を見てずっと我慢をしていたと思う。
さっさと自立してしまった。

そのせいか、娘は人に甘えるのが下手。
そんな風に育てたのはねこ吉です。

アルバムをめくっていると、色々昔のことを思い出して辛かった。

ずっと、娘に謝りたいと思っていた。
2年前の夏、娘のマンションに行ったときに、十分に甘えさせずに育てたことを謝った。
娘は、何も言わずに黙ってた。
「娘に謝る。」それはねこ吉の自己満足かもしれないけど・・・。

ねこ吉も、確実に「世に棲む日々」が減ってきた。

やり残した事、心残りなことを少しでも減らしておきたいと思っている今日この頃。

口ばっかりで、なかなか進んでないけどね。


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母校巡り(番外編)

2023-05-04 18:44:37 | 思い出


中学校から、小学校を目指して南下してきた。
まずは、ランチをしてから小学校に行くことにしたから、二人で地図を見ながら「グリル一平」を探す。

お店に着いたのは12時前。外まで並んでいた。
せっかく来たのだから、お喋りしながら並ぶことにした。

2階のテーブル席に案内された。
満席だった。

レディースセットを注文。
まずは、上の写真のスープが出てきた。



写真左上から、クリームコロッケ、隣はミニハンバーグ、サラダ、ハム。
オムライスの下には、ケチャップで炒めたスパゲッティ
結構なボリュームだった。ちょっと冷めていたのが残念。

話し込んだら尽きないのでお店を出た。

難儀な事が発生。

Aさんの靴がパックリ口が開いてしまった。ウソォ~!

Aさんは先日小指を骨折。
快復途中で、王子動物園の花見にやって来た。
今回も、ほぼ快復したということで「母校訪問」を企画。

Aさんは、歩きやすい靴ということで、2万8000円の注文靴を履いてきた。
それなのに・・・。

歩きにくそう。文房具屋さんで接着剤を買おうと探すけれど、周りは住宅街でお店はない。

昔、小学校の門の前には文房具屋があった。
難波小学校の校門の前に行ったけど、そんなものはなかった。時代は変わったんだね。

二号線を渡って、三和商店街に入れば、きっと文房具屋はあるはず。

三和商店街と言えば、ねこ吉の通学路だった。
人が多くてにぎやかだった。

ねこ吉は5,6年ぶりの三和商店街だった。
シャッターを閉めたお店が増えてる。「わが青春の三和書房」もシャッターが閉まってる。

何故か八百屋さんが一杯できている。
最近、元町商店街もハーバーランドにいく地下道も八百屋さんが多い。どうしてだろうねぇ。

店先に一杯靴を並べた靴屋さんに、「靴の修理します。」と書いてあったので中に入って聞いてみた。

オッちゃんに「この靴は凄くいい靴だから、修理も難しい。すぐに引っ付かないし、そこにある800円の靴買ってスリッパ代わりに履いて家に帰り。」と言われた。

黒のスリッポンのような靴だった。

Aさんは、「グレイが欲しい」といったけどサイズが無かった。
だから、安いんだって!

そうしたら、奥からグレイの革靴を出してきた。そこそこの値段だ。
履いてみたらピッタリだったらしいけど、クレジットカードは使えなかった。

Aさんが、現金をさらえてだしたら、1000円ほどまけてくれて、「これでお茶でも飲んで帰り。」と言われた。

阪神尼崎駅を目指して歩いた。

途中、サンマルクカフェで、Aさんはストロベリーカフェ、ねこ吉はコーヒーゼリーを食べて休憩。

阪神尼崎から急行で西宮まで行って、ねこ吉は普通に乗り換えた。Aさんは特急に乗り換えて三宮まで。

北から南へ・・・。

楽しい一日だった。

Aさんが、「また行こうね。懐かしい場所が一杯残ってる。」と言った。

そう、今度はお互いの小学校付近を探索。
友達の家も探そうね。

家に帰って万歩計を見たら、21,678歩だった。
まぁ、良く歩いたものだわ。Aさん、足大丈夫だった?