平田城跡の全景
平田城跡の遠望
下から見た平田城跡
平田城跡の入り口の案内板
平田城跡の入り口の案内板と説明板
入口に設けられた有害鳥獣のフェンス
平田城跡の曲輪図
城内から眺め下ろした平田集落
黒田時代の石垣
場内にある路標
主郭に通じる石段
頂部にある主郭広場
主郭広場にある忠霊塔
平田城跡から見る対岸の立留りの景
対岸の道を走る度に「行こう行こう」と思いながら行きそびれていた平田城跡。
先日その城にやっと行って来た。
平田城は、山国川左岸にある小高い丘に築かれており、
丁度山国川に架かる馬渓橋を渡った正面の丘になる。
登城口前に平田城の案内板がある。
ここから舗装された坂道を少し登ると左手に登る道へと進むと、
小さな曲輪跡を経て神社の境内になっている本の丸へと登る。
平田城は、神社境内となっている主郭部と登って来た舗装道を隔てて
北側の丘にも曲輪を配置した一城別郭式の縄張りと云える城である。
但し、城の遺構はわずかに黒田時代の石積みは見られるものの、
ほとんど消滅しており、曲輪の形跡しか残っていないのが現状である。
平田城は、建久年間に野仲重房が築城したもので、
重房は、豊前守護宇都宮信房の弟で野仲郷を領して野仲氏を名乗った。
建久9年、重房は耶馬溪町津民に長岩城を築いて移り、
平田城には平田掃部介を城番とした。
天正16年、中津城主となった黒田如水・長政父子に対して、
豊前の諸氏が反旗を翻した。
この時、長岩城主野仲鎮兼も黒田氏によって攻められ滅亡し、
この平田城もこの時に落城した。
黒田氏は、野仲氏の残党蜂起に備えて栗山備後を城主とした。
この備後の子が、後に黒田氏の国家老となり、
黒田騒動の引き起こした栗山大膳である。
その黒田騒動の立役者、栗山大膳が少年期を過ごした城である。