「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

沖縄県那覇市首里赤平町 「 蔡温旧宅跡 」

2015-06-26 00:02:41 | 沖縄



























写真は、琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡である。
 
蔡温は1682年に久米村 ( クニンダ ) ( 現那覇市久米 ) で生まれた。
沖縄名は具志頭親方文若 ( ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく ) といい、
蔡温は中国名であり、 「 澹園 ( たんえん ) 」 と号した。
蔡温の祖は、1392年に琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。
 
蔡温は1708年に通事 ( つうじ ) として中国に渡り、そこで儒学などを学んだ。
帰国後の1713年に、13歳で即位した尚敬王の 「 国師 」 ( 学問師匠 ) となったことから、
首里赤平村 ( しゅりあかひらむら ) に屋敷を賜った。
1728年に三司官(さんしかん)に就任し、1753年に辞任するまで25年間務めた。
この間、羽地大川の改修 ( 1735年 ) や地方の山林視察など、
自らが治水・治山を実践して、 「 山林真秘 ( さんりんしんぴ ) 」 などの実学書を残した。

また、蔡温は、儒教の教えをまとめた 『 御教条 ( ごきょうじょう ) 』 や
王国の政治経済についての提言書 『 独物語 ( ひとりものがたり ) 』 など
多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家であった。
1761年に享年80歳で死去した。

1792年に、尚敬王の王妃が、蔡温の長男の翼 ( よく ) に嫁ぐことになり、
改めて邸宅 ( 現在地 ) を賜った。
敷地は600坪余あり、屋敷には門が二つあったという。
沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出された。
戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、
蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣はわずかに残されている。


所在地 : 沖縄県那覇市首里赤平町1-45



沖縄県名護市 ・ 沖縄の文化財 / 蔡温が手がけた 「 改決羽地碑記 」

2015-06-26 00:01:41 | 沖縄の文化財







改決羽地川碑記
The Moument of Kaiketsu Haneji River

( 県指定史跡 )
Prefectural Historical Monument


指定年月日 : 昭和 44 ( 1969 ) 年8月26日 
Designaed Date : August 26,1969
所在地 : 沖縄県名護市字田井等
Location : Taira,Nago-shi,Okinawa-ken



この石碑は1735年に行われた羽地大川の改修を記念して建てられたものである。
改修工事は当時の三司官 ( 大臣 ) の具志頭親方蔡温の指導で行われ、
工事は周辺の村々から延べ10万人を動員して3ヶ月間かかったといわれている。
この改修によって羽地大川は田井等や振慶名の南を流れて呉我の海に注ぐようになった。
現在、羽地大川は1917年 ( 大正6 ) ~1938年 ( 昭和13 ) の改修によって
仲尾次の海へ注ぐようになっている。
最初は石碑が壊れてしまったので、1830年 ( 道光 ) に建て直したと記されていたが、
表面がすり減って文字はほとんど読める状態ではなくなっている。



This stone monument was dedicated to the repair of Haneji Okawa in 1735.
The repair was guided by the then minister,Gushicyan Oyakata Sai-On.
It is said that the repair took three months with 100 thousand residents
from surrounding villages.
On the monument, it was written that it was rebuilt due to the damage
on the original one, but the letters are unreadable.



沖縄県那覇市首里大名町 「 蔡温の墓 」

2015-06-26 00:00:41 | 沖縄の王墓、按司墓、拝所



第二尚氏・三司官 「 蔡温の墓 」











ゆいレールの市立病院前で降りて、正面の末吉公園を抜けて末吉宮へ向かって行き、
末吉宮が南向きの斜面だとすると、その裏側に蔡温の墓がある。
蔡温 ( 1682年~1762年 ) の墓は沢岻の広陵向け、浦添城向けに造られており、
蔡温は1716年に末吉の地頭、1719年に末吉親方となっているから、
末吉近在に墓があってもおかしくないとはいえる。

蔡温は、琉球王国の政治家であり、具志頭親方文若。
蔡氏具志頭殿内の小祖(蔡氏志多伯家十一世)。久米三十六姓の出身である。
第二尚氏13代王・尚 敬王に40年間にわたって仕え、第二黄金時代を築いた。
三司官に任ぜられ、羽地大川の河川工事や山林の保護に尽心竭力し、
琉球の農業の発展に貢献した。
「 御教条 」 など多くの本を書き残した。
平敷屋友寄事件で、平敷屋朝敏、友寄安乗を安謝の海岸で処刑したのも蔡温である。

蔡温の墓は浦添に向かう宿道からみれば、
南の坂 ( フェーヌフィラ ) から左手 ( 西 ) 方向となる。
平良、大名、末吉、石嶺は現在那覇市首里の町名となっているが、
近世では西原間切の村である。

今ではあまり訪れる人もいないのか?
地元の人でも、その墓所を知らず、
木立の間をひっそりと佇んでいるようであった。
ただ、墓は近年造り替えられたようで、思ったよりも新しく、
琉球王朝時代を偲ばせるものは感じなかった。