写真は、琉球王国時代の政治家蔡温の住居跡である。
蔡温は1682年に久米村 ( クニンダ ) ( 現那覇市久米 ) で生まれた。
沖縄名は具志頭親方文若 ( ぐしちゃんウェーカタぶんじゃく ) といい、
蔡温は中国名であり、 「 澹園 ( たんえん ) 」 と号した。
蔡温の祖は、1392年に琉球に渡ってきた久米三十六姓の一人である。
蔡温は1708年に通事 ( つうじ ) として中国に渡り、そこで儒学などを学んだ。
帰国後の1713年に、13歳で即位した尚敬王の 「 国師 」 ( 学問師匠 ) となったことから、
首里赤平村 ( しゅりあかひらむら ) に屋敷を賜った。
1728年に三司官(さんしかん)に就任し、1753年に辞任するまで25年間務めた。
この間、羽地大川の改修 ( 1735年 ) や地方の山林視察など、
自らが治水・治山を実践して、 「 山林真秘 ( さんりんしんぴ ) 」 などの実学書を残した。
また、蔡温は、儒教の教えをまとめた 『 御教条 ( ごきょうじょう ) 』 や
王国の政治経済についての提言書 『 独物語 ( ひとりものがたり ) 』 など
多くの書物を残し、近世琉球王国を代表する政治家であった。
1761年に享年80歳で死去した。
1792年に、尚敬王の王妃が、蔡温の長男の翼 ( よく ) に嫁ぐことになり、
改めて邸宅 ( 現在地 ) を賜った。
敷地は600坪余あり、屋敷には門が二つあったという。
沖縄戦時中、屋敷は日本軍の宿舎となり、石垣の石は飛行場建設のために供出された。
戦後、道路拡張により敷地の一部は削られたが、
蔡温が掘ったという井戸や当時の石垣はわずかに残されている。
所在地 : 沖縄県那覇市首里赤平町1-45