安慶名闘牛場の上にある安慶名グスク
安慶名グスクの城門
城門の片側はきれいな石積みになっている
安慶名グスクは今回で5度目?の探訪である。
おそらく今までで一番多く探訪したグスクだと思う。
今まで安慶名グスクは城門側から内部を探訪して来たが、
こうして全景が見たのは初めてである。
今までは闘牛場の上には木々が生い茂ってグスクの輪郭どころか
石垣すら見ることは出来なかった。
それが、久し振りに闘牛場へ行ってみて、
「 こんなに石垣が築かれていたのか 」 と思うほど、広く高い石垣だった。
参考までに安慶名グスクについて書いておきたい。
安慶名城は14世紀頃、安慶名(大川)按司によって築かれたとされている。
別名、大川(ウーガー)グスクとも呼ばれ、
その名の由来である天瀬川は沖縄本島中部地方の東、
金武湾に注ぐ川を地元では大川と称していた。
その川名が城名や按司名になったようである。
沖縄のグスクは、主として郭が縦または横になった連郭式のグスクがほとんどであるが、
安慶名グスクは唯一の輪郭式のグスクであり、
独立した岩山頂上部の広場を内郭とし、
中腹部を外郭としており、岩山に築かれた階段を登って行くと、
自然岩を刳り貫いた石門が目に入って来る。
思わず「うぉー」っと声が出てしまうような光景である。
この門を潜り抜けると、主郭の広場(二の郭)が広がっている。
安慶名按司は、伊波城主の初代伊覇按司の五男と伝えられる。
城は最初、兼箇段(かねかだん)に築く予定だったが、
安慶名の独立丘の方が条件に適している事から、この地になったという。
落城伝説
勢力を付け、周囲を威圧してきた安慶名按司の勢いは、首里城主の領域までも及び、
そのことを恐れた首里城主は、軍勢を送って安慶名城を攻めさせたが、
要塞堅固な安慶名グスクはそう簡単に陥落せず、
そればかりか優れた安慶名軍の反撃に手を焼いていた。
ところが、安慶名グスクには水がなく、用水は大川より汲み運んでいた。
その事を知った首里軍は、水路を断つ作戦を敢行し、
ついに難攻不落の城も落城したといわれる。