「 九州 ・ 沖縄 ぐるっと探訪 」

九州・沖縄・山口を中心としたグスク(城)、灯台、石橋、文化財および近代土木遺産をめぐる。

福岡県東峰村小石原  「 松尾城跡 」

2015-06-19 01:28:41 | 歴史 ・ 墓 ・ 城 ( 本土 )



福岡県東峰村小石原にある 「 松尾城跡 」 の虎口 ( 城門 )








松尾城跡の入り口にある看板







お城への登り口にある説明板







旧小石原小学校の校庭からお城へと入って行く







250mほど歩くと右手に城郭が見えてくる






城門へ続く前の道







上から見た城門へ続く前の道







左側の城門







城門の突き当り







クランクに折れた通路






点々と置かれた建物礎石






城内の大方の位置







主郭の石積み






主郭の裏側にある堀切







北側にあるの説明石







北側の畝状堀切






主郭広場から見た小石原の町並み











松尾城跡のある東峰村大字小石原は、
南に流れる大肥川と西に流れる小石原川の源流にあたり、
標高480mの高原盆地であるため、城として地形的条件に適した場所である。

小石原は、古来より交通の要衝で、小倉街道と英彦山街道の交差する場所であり、
松尾城跡は小石原高原盆地の小高い山にある。
ここから、東に1kmの所に行者堂があり、
このあたりが筑前と豊前小倉との国境でもあり、
この地点が地理上の要衝であったことを十分に認識することができる。

また近年の調査で、28ヶ所が確認されている筑前と豊前小倉の国境を示す国境石は、
行者堂付近から二股山にかけての1.5kmほどの非常に短い範囲に残っていることから
国境争いの歴史を今に伝える貴重な史跡である。

慶長5(1600)年に黒田長政が関が原の戦いの功により豊前中津から筑前に入国し、
慶長6(1601)年に黒田六端城の一つとして築城され、
黒田家の重臣中間(黒田)六郎右衛門が城主を務めた。
元和元(1615)年幕府の一国一城令により取り壊されるが、
豊前小倉藩との国境を守る重要な出城であったことは間違いない。
現在は福岡県指定史跡「松尾城跡」として整備され、当時を偲ぶことができる。


主郭斜面には畝状(うねじょう)竪堀が北側に13本と南側に11本あり、
東側の尾根には堀切りが3本ある。
畝状竪堀は尾根脇の斜面を等高線と直角に交わる方向に掘った竪掘と
その脇の竪土塁を交互に畝状に並べ築いたもので、
山麓から攻め登ってくる敵を阻止するためのもで、
堀切りは丘陵の尾根上を遮断する掘のことである。

丘陵中央部には二段に造成された主郭がある。
下段の西側には幅4mほど城の出入口である虎口 ( こぐち ) があり、
東中央部に3間×5間の建物礎石がある。
上段は1.2mほど高く、西端北側に3間×5間・東側に1間×1間の建物礎石がある。
また、東端に約5m×16m・高さ70cmほどの櫓台がある。

また、主郭部を囲うように全周160mほどの土塁と石垣が巡る。
北側の土塁下部は地山に含まれる石を雑に積み、
この石垣を包むように盛土が版築されている。
南側は塔ノ瀬地区や鼓地区西側に見られる花崗岩を多く使っている。
また、主郭中央部南北や西北部に 「 横矢 」 と呼ばれる城壁に迫った敵兵に対し
側面から攻撃するために石垣線を部分的に突出したり、
虎口の側面を張出したりした部分があり、戦闘を意識した造りになっている。



松尾城跡 ・ 「 ムサシのお城探訪 」

2015-06-19 01:27:41 | 柴犬 ムサシとピース














松尾城跡を一緒に探訪したムサシにとっては、
今回が初めての探訪である。

いつも一緒に行動するムサシは、
助手席が大好きである。
自分が運転している気持ちになるのか?
座って前を見たがる。

横に居るのはいいが、抜け毛がひどくて、
コロコロでの掃除が大変である。
まぁ、今はムサシの指定席だから仕方がないけれど・・・



熊本県南阿蘇村 「 阿蘇 ・ チーズ饅頭 」

2015-06-19 01:26:41 | パン ・ ケーキ ・ お菓子







しばらく熊本の実家に帰っていた嫁さんが
「 何も買ってこなくていい 」 と言ったのに
小さなチーズ饅頭を買ってきた。

南阿蘇で作られているチーズ饅頭・・・
この南阿蘇で来る日も来る日も厳しい練習に耐えた。

高森の直線で繰り返されるインターバル。
時速60キロで行く自動車を捲り、400mを全力でモガき、
後ろについた選手に抜かれたらまた一からやり直しである。
それを連続して10本逃げ切るまで練習は終わらなかった。
やっと終わったと思ったら、
疲労でパンパンに腫れた脚で熊本市内まで帰らねばならなかった。
そんな苦しいヘドを吐くような練習が一番に思い出される。