クーたんとココ君のお家

燕尾服を着た女の子クーたんと神戸から来たやんちゃ坊主ココ君の小さなドラマ。

伸び伸びクータン

2006-06-18 18:40:02 | Weblog
昨日ブログを書いているとクーが見えなくなった。クーは廊下の本箱の上に上がり、横になっていた。「お父さんどうしたの」「クーが見えなくなったから探していたんだょ」「クーちゃんは、ここで、寝んこしていたのょ」「クータン足がはみ出でいますよ。戻しましょうか」「余計な事しないでよ」と僕を睨みつけた。
その後僕がお昼のお蕎麦を食べ始めると、本箱の上から降りて来て、「クーちゃんもご飯食べよー」と台所に行った。少しお酒の入った僕は、お昼寝タイム。クーも何時ものように、廊下の洋服箪笥の上のクータンベットに入った。

取られちゃった

2006-06-17 11:26:01 | Weblog
昨日の朝の事。ブログを書く前に台所で、文章の構成を考えながら一服していた。廊下から音も立てずに現れたクータン。ぴょんと空いている、パソコンの椅子に飛び乗った。出勤時間が迫ってくる。大雨で道路の状態も全く分からないから、何時もより早く家を出たい。クーは、椅子から下りる気配はない。雨の日はこの椅子で休んでいる事が多いのだ。
ブログを完成させるには、最低20分は必要だ。タイムアウト。故に昨日のブログはお休みとなった。クーは椅子の上で毛繕いを始めた。何時もより丁寧だ。カメラを取り出して何枚か撮った後会社に向かった。
途中の、仙川を渡った所で、道路が池になっていた。周囲に人は居ないので、一気に走り抜ける。今日の仕事は、機械搬入用のステージの構築だ。重量鳶の方も、監督者の僕も、ずぶ濡れになった。河童や長靴なんて全く役立たない。それでも無事作業が終わり感謝だ。
帰宅して車を車庫に入れると、2階の窓からマイクが尻尾振って「お帰りなさい」と言ってくれた。

お出迎え

2006-06-15 05:42:22 | Weblog
僕が夜8時過ぎに帰宅すると、ここ2日続けて、マイクが2階の窓から出迎えてくれた。表通りから自宅の前の道へと入る。角を曲がると、息子達の住む2階が見えて来る。窓は開いているが、マイクの姿は無い。車を車庫に入れて下りる。玄関を入る前に、もう一度2階の窓を見上げる。居ました。居ましたよ、マイクが。「マイクただいま。元気かい」と声を掛ける。マイクは僕の顔を見ながら、太くふさふさの尻尾を大きく振り「元気だよ」と返事を体で表す。マイクもすっかり新しい家に馴染んだようだ。「マイクお休み」と言って僕は家に入ったのだ。
居間に入るとクーは、本箱の上に正座していた。「クータンただいま」とクーにも挨拶。「ミャー」「お父さんお帰り」と返事があった。そして、コンビニの袋を置いたテーブルの上に飛び降りてくる。何を買って来たんだろうと、袋の中を覗き込む。クーはお遊びモードに入ったようだ。
何時ものように、風呂から上がりガラス戸を開け「クータン」と声を掛けたが、レンジの上に来ない。家内が「クーちゃんは、テーブルの下で丸くなっているはよ」と。今日は飛び出さないのかと思いながら、居間に入ろうとすると、クーは突然飛び出し、僕のつま先を飛び越え、おもちゃ箱の前で「やったー」と言う顔をしていた。昨夜は本当にびっくりした。クーの作戦勝ちだ。

クータンの顔

2006-06-14 05:47:03 | Weblog
クータンの顔はユニークである。最初息子の後追いを始めた時、抱き上げて見た時の印象も「なんてユニークな顔なの、これで女の子?!」。でも可愛かった。人も動物も一人だって同じ顔は無い。天はそれぞれ別の顔に作られたのだ。神様も、顔を考えるだけで大変なんだろうなー。
クーはこんな顔だから、貰い手も無く、捨てられてしまったのかな。可愛さは顔だけでは無いのに。昨年5月、家内の故郷、塩尻の小野神社の御柱祭りに、家族で出掛けた。家内の弟や親戚が集まった。家内はクータンの写真を沢山持っていって「可愛い娘よ」と盛んに、みんなに見せていた。すると弟が「こんな顔でも可愛いのかな」と言った。すると家内はむきになって「可愛いんだから。一緒に住んでみなければ可愛さは分からないはよ」反論した。この続きは10月の息子の結婚式の後のパーティーでもあった。「家内はクータンの写真を持って行き、弟に見せたのだ。「本当に可愛いの」「可愛いはよ。飼ってみたら分かるから」と。
確かにクー以上にユニークな顔をしている犬や猫も大勢居る。だけれど家族にとっては、みんな可愛い家族なのだ。

用意は良いですか

2006-06-13 05:49:20 | Weblog
クーは、僕が帰宅後風呂に入る事を良く知っている。昨夜も風呂から出て、脱衣場で「クータン居ますか」と呼ぶと、クーは飛んで来て、電子レンジの上に上がった。台所との境のガラス戸を開けると、顔を出し、盛んにガラス戸に、匂い付けをしながら、首を伸ばした。少し濡れた手で頭を撫でると、レンジの上に座って、頭に付いた滴を手で拭った。猫は綺麗好きだから直ぐに拭うのだ。僕も体を拭き、パジャマに着替える。脱衣場を出る前「クータン、用意は良いですか」と声を掛けて、ガラス戸を閉める。クーはレンジから下り、食卓の下に隠れる。僕が居間に入る直前「それっ」とばかりに、僕の足元に飛び出し、玩具箱の前に走って行く。そして「お父さん驚いた」と言う顔で、僕を見る。
これは我家の子供になった翌日から続いている。但し、家内がグリルでお魚を焼いている時は別だ。台所の”クータンのお椅子”に座ったまま「お魚焼けろ、クータンも食べたい」とばかりに動こうとしない。
玩具箱の前で「ミャ~」「遊ぼうよ」と一言。食事の用意が出来るまで、クータンと玩具で遊ぶ事も、毎日の日課になってしまった。

宝物

2006-06-12 05:32:51 | Weblog
写真の人形は、亡き母が、30数年前に作ったもので、我家の宝物。母は、生きていれば今年90歳になっている。30代の頃結核で、肺の4/3を切除した。だから75歳迄生きられた事に感謝して、天に召されたのだ。
母は多趣味の人で、このほかにも、皮細工も習っていて、スツールや、小箪笥も残っている。中でも僕が好きなのが、この人形だ。素朴な感じで、野良道を行く母と童(ほらべ)言うのが、心和ませる。クータンも同じだ。僕たちを慰め、癒してくれる神様から頂戴した大切な宝物だ。
クーは昼間、廊下にある人形ケースの上に乗っかる事が多い。特にはしゃぎモードの時に乗る。この人形ケースは、30年以上経った古い物だ。ガラスもかなりもろくなっていると思うので、普段はプラスチックのケースを天板の上に置き、クーがその上で走れないようにしてある。今日は特別に、クーをケースの上に載せて写真を撮った。
息子が自分が使っていた部屋を片付ければ、この人形も床の間に収まるのだが。

クー缶

2006-06-11 05:59:50 | Weblog
以前にも書いたが、クーの名前はジュースのキャラクターのクーのように、元気な猫に育って欲しいとの願いを込めて、家内が付けたのである。当時我家にはクーのペットボトルが有り、家内が病院ボランティアで利用する、世田谷線(玉電)にもクー電車が走っていた。この事を思い出して付けたと言う。クーは名前のように元気猫に育っている。一人っ子だからわがままだが、僕達にとっては可愛い子供だ。クーを我家に導かれた神様に感謝している。
ある時家内は、クーの飲み終えた空き缶を前に「ここにクーちゃんの写真を貼り付けて見たいんだけど」と言った。写真は、我家に来てまもなく普通のカメラで撮った物だ。CDに焼いてあった。これをパソコンに取り込み、シール印刷した。二つ重ねてテープで止めて出来上がった。名付けて”クー缶”。今はそれを居間の書棚に飾ってある。
昨年、知子のご両親とお祖母様が来られた時、お母様が「クーちゃんがいっぱい飾ってありますね」「クーちゃん幸せね」と。そして、猫談義となった。初めてお会いしたのに、すっかり打ち解ける事が出来たのだ。

その命(いのち)

2006-06-10 10:36:24 | Weblog
幼い命が無残に奪い去られて行く。実に悲しく、腹立たしい事だ。その影には何があるのか。今の日本は、物が豊富にある。親も物質主義に走りがちだ。心やいのちは二の次なっているのでは。ペットショップの隆盛もその一つか。お金さえあれば命が買えると子供に見せてはいまいか。何万円、何十万円と値札の付いた、子犬や子猫をいとも簡単に買う親。「お金があれば……」と子供に教育しているのと同じだ。これは貧乏人のひがみか?金で買った命だから簡単に捨てられる。老犬や老猫を施設に持ち込む。その家族には、真の愛があるのか。
キリスト教の信仰を持って45年。神父様や牧師からはキリストの十字架の意味と、命の重さを教えられて来た。そんな僕には、今の現象は腹立たしいばかりだ。今年3月の教会月報にも犬や猫の命の重さに付いて書かせて頂いた。宗教職にある、お坊さん、神父さん、牧師さん、神官さんはもっと声を大きくして「心の教育の充実」を、国民に、政府に訴えて欲しい。それがあなた方の責務だと考える。これ以上幼い命が犠牲にならないためにも。
僕が毎日拝見している、はっちゃん、にゃんぽち君、ジェルちゃん、等の猫のブログの主人公の多くが、拾われたり、里子になったりと言う。クータンも同じだ。クーが我家の子供になった直後、神様に感謝の祈りと共に、わずかだが感謝献金を捧げた。
お子さんやお孫さんと一緒に上記のブログ見て、命の尊さについてお話しして頂けたらと願っている。(クータンのお父さん)

予期せぬ遭遇

2006-06-08 05:53:49 | Weblog
たった今、6月8日午前5時10分頃の事だ。クーと一緒に外に出た。外は入梅前のどんよりとした厚い曇り空だ。クーは大人しくしていたので、自転車の荷籠に入れる。クーは小鳥の声にうっとりとしていた。写真を撮りたくなり、籠に網を掛け、クーが飛び出さないようにして、カメラを取りに戻った。クーが外を見ている様子を、何枚か撮影した。
撮影していると、ファインダーに見えるクーの様子がおかしい。自転車のハンドルに手を掛けた。撮影どころではなくなった。クーの体に手を掛ける。クーの目線を追うと、近所のお兄ちゃん猫ちゃんが、道を悠々と歩いていた。クーは、鼻息も荒く息巻いている。お兄ちゃんは、クーの事なんか全く無視し、数軒先のお宅の車に盛んに、匂い付けをしていた。堂々としたものだ。「ここは俺の領分」と言わんばかりだ。クーは「ここはクーちゃんのお家よ、入っちゃだめ」と息巻くのだ。
それにしても間一髪。クーの異変に気付くのが1秒遅れたら、今頃は、家内を起こし、嫁の知子も動員してクーを探し回った事だろう。
家に入るとクーは、怒りまくった。クーパンチを、何回も何回も僕の顔に浴びせてきた。今日のパンチは本気だから、当たったおでこはまだ痛い。

猫だらけ

2006-06-06 05:56:36 | Weblog
台所の冷蔵庫と、電子レンジの置いてある一角は猫だらけだ。猫のカレンダーが2枚と、息子が小学生の時作った状差しには、クーやマイクのポストカードが差し込まれてある。差し込んだのは、家内だ。クーが来てから猫にのめり込んでいった。クーを我家の子供にした直前家内は、僕や息子の話に素っ気無い返事をしていた。しかし家に入れ、その寝顔を見ていて愛情が湧き、クーの可愛いしぐさを見ているうちに猫にのめり込んでいったのだろう。
猫グッズは台所だけでは無い。電子オルガンの近くにも、猫の髭が五線譜になった絵や、クーの写真が額に入れ、猫のキーホルダーも飾ってある。はたまた、玄関への扉には、クーの子供の頃の写真が数枚飾られ、和室には、C社のクーの空き箱にはクーの写真等がしまってある。
ここまで、猫にのめり込むとは思わなかった。かく言う僕も通勤かばんの中には、10数枚のクーの写真が入っている。
ここまで僕たちが、猫の虜になったのは、クーが甘え、じゃれ、おしゃべりをし、可愛いしぐさを見せてくれたからだ。