ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

蜘蛛の糸を切らないで 

2017-11-04 | 系図のこと

https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/51R53B7W3RL._SX307_BO1,204,203,200_.jpg


http://www.ldschurchnewsarchive.com/media/photos/2001/3911.jpg

希望と夢を掻き立てて、設立されたワシントンD.C.のペンシルバニア街の解放黒人銀行建物


Freedman’s Bankは、解放黒人貯蓄貸付銀行のことで、合衆国政府が解放された黒人社会の経済発展などを先導する意味あいで始められた。1865年から1874年までの営業だったが、アフリカ系アメリカ人の初の経済機構としてある程度の成功は収めている。銀行は消滅したが、この銀行が所蔵した大量の書類は、奴隷解放後のアフリカ系アメリカ人社会経済にたいへんに貴重な物となった。そして、系図家、とくにアフリカ系アメリカ人系図家にとっては、重要な情報源となっている。私自身二件アフリカ系アメリカ人の系図を手掛けた折、使用した。

この書類の山は、リリースされて以来、長い間文字通り“山“で、一切索引化されてなく、情報の宝庫だったにも関わらず、宝の持ち腐れ状態だった。ついに索引化されて、整理されたのは、ついこの15年程のことで、多くのヴォランティア達がその過程を手伝った。

実は意外な人達が、この索引化作業に携わったことは、余り知られていない。この人達のおかげでこの作業が進み、はかどったことは、数えきれない人々に大きな恩恵をもたらした。その人達とは、ユタ州立刑務所で当時服役していた受刑者の有志である。

この作業を手伝った服役者の一人はその(忘れえぬ)体験を、系図家で著作の多いミーガン・スモレニャック・スモレニャック女史の著書Honoring Our Ancestorsに寄せている。以下はその体験記である。

http://www.trentonlib.org/microfilm/


二度目のチャンス

ブレイン・ネルソン

刑務所収監までは、鍵の束がカチャカチャ言うのを聞くと、教会で母親が鍵の束で遊ばせて、おとなしくさせようとしている子供のことを思ったものだ。現在私は服役しているが、その鍵束の音は、まったく違った意味を持つ。服役者にとって、鍵束の音は、監禁、手錠、そして刑務官がやってくるという意味だ。何をしていてもただちにやめて、寝ているふりをすることだ。

11年間フリードメンズ・バンク・プロジェクト(上記参照)を手掛けてきて、鍵束の音は奴隷たちにとってどのように聞こえていたのだろうかと度々思いめぐらす自分がいる。彼らにとって、鍵束の音は、やはり足枷や手枷を思い起こさせたのだろうか。

服役者の人生にとって、最大の恐怖の一つは、「さっさと支度しろ、お前は移されるのだ。」と言われることだ。刑務所内の新しい監房棟に移るのは、住み慣れた監房や友人となった他の服役者達と別れ、何が起こるかわからない環境に移されるのは、大変苦痛なことだ。

奴隷たちも荷馬車や見知らぬ人がやってくると、自分や愛する家族の誰かをそこから引きはがすようにして、他所に売るために、連れて行かれるのでは、と、不安と焦燥にかられたことだろう。我々服役者は、家族から離されることがどんなことかよく知っているが、それは、一時的なものに過ぎない。奴隷にとっては、愛する者との別離は未来永劫だった。

さて自分を奴隷の身になって考えさせた、このフリードメンズ・バンク・プロジェクトとは何か。今を遡る1865年、解放黒人貯蓄貸付銀行は解放されたばかりの元奴隷達の金融取引の指導などのために設立された。彼らの金子(きんす)を預金でき、そこは詐欺師から護られる安全な場所である筈だったが、不正直な管理経営とよくある詐欺行為によって、銀行は1874年に潰れてしまった。預金額$5700万以上は失われ、銀行を信頼していた何千、何万の預金者の夢と希望を打ち砕いたのだった。

この銀行について唯一の良いことは、その預金者の記録だった。預金口座を開くために、家族の氏名、住んだ場所、他所へ売られた身内についてさえ、詳細な個人情報を要請された。おおよそ八百万から一千万人のアフリカ系アメリカ人は、この預金者リストに記録された祖先を持っている。極端に些少な記録数のため、アフリカ系アメリカ人の系図を調べるにあたって、これは非常に貴重で価値の高い記録である。問題は、これらの記録が、今までどのような形にせよ、一切索引化されていなかったことであった。何百、何千、何万とあるファイルの中から、一つの家族を探し出すのは、非現実的であった。

そこで、受刑者達の出番となったわけである。およそ十年前、ユタ州立刑務所システムで教えられていた系図クラスに登録した四人の受刑者の一人が自分であった。どんどんこれは盛り上がり、刑務所内にサウスポイント家庭の歴史センターが設立されるまでになった。末日聖徒イエスキリスト教会の管理下設立されたが、あらゆる信仰・教会(無神論者にも)にかかわらず、どの服役者にも門戸が開かれている。(服役者のために刑務所内に設立されたセンターに)全ての受刑者は、悪い言葉を使わない, などのセンターの規則を守れば、参加できる。

刑務所に入所するまで、私はディーゼル(車両)整備工で、コンピューターについては何一つ知らなかったが、(家族の歴史センターで)プロジェクト・コーディネイターとして奉仕しているうちに、コンピューターの取り扱いの熟練者となった。センターについては、(服役者の間で)すぐ広まり、彼らの熱意は高揚し、フィルムリーダーの使用順番を管理するのが難しくなった。彼らの中にはリーダーを使う番を待つ間、マイクロフィルムを電灯にかざして読もうと試みた者さえ、居たほどであった。


 

https://www.lds.org/church/news/prisoners-rescuing-prisoners-indexing-at-utah-state-prison?lang=spa

ユタ州立刑務所内の家族の歴史センターでインデックス作業を奉仕する服役者


続きは、また明日。

 

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