カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

サクラ・さくら・桜

2016-03-31 09:11:19 | 日記
 今日で3月も終わり明日から4月で新年度のはじまりだ。

 別れと出会いのスクランブル交差点というわけだ。

 桜もほぼ満開の状態で、一昨日からの雨や風で既に花びらを散らしているものも散見される。

 
 (秋津川の桜)

 菜の花とせせらぎと桜の花という絵に描いたような景色がつづく・・・。

 
 (桜と小川と・・)

 まだ少し冷たいはずの小川では、小魚を網で掬おうと元気な子供達のはしゃぐ声が聞こえていた。

 
 (川岸でくつろぐアヒルたち)

 川岸の菜の花と桜の間には、ちゃっかりアヒルたちがユーモラスな姿態を披露する。

 そして別れと出会いのメインは何と言っても学校だろう。

 
 (近くの小学校の校門の桜)

 学校の思い出の中で、校門の桜は外せない。

 開花時期が卒業・入学時期に重なるということと日本人独特の桜に対する思い入れがあるのか、学校には桜が必需品。

 それも校門の桜は特別で、自分の母校でなくともあの頃の自分とダブらせて感慨に浸るのだ。

 学校の近くに住宅地ができ、若い人達が越してきたので小さな子供達が増えた。

 春休み中の学校は、沢山の小学生が校庭を飛び跳ねながらたのしそうに遊んでいる。

 そんな様子を見ているだけで、愉快な気分にさせられる。

 「混浴で桜を愛でている足湯」

 これもまた、一興。

 
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町道が開通した

2016-03-30 09:12:17 | 日記
 ウオーキングのコースに設定しているものに、町の北部の台地を歩くコースがある。

 一昨日の午後歩いていると、紅白の幕を巡らしたテントが、開通していない道路の中央に建てられていた。

 直ぐ傍にはこれまた紅白のリボンのついたテープが張られている。

 何年間にわたる工事だったか記憶に無いがどうやら完工したらしい。

 
 (開通した町道)

 今日は跡形も無く撤収され、ときどき車が往来している。

 歩道部分も入れるとやたら幅の広い道路だが、将来を考えると少し広めの方が正解なのかも知れない。

 工事の途中に遺跡に遭遇して、その調査などでかなり工事は長期にわたった。

 町の南は水田地帯で計画的な圃場整備がなされ、北の台上は空港へのアクセス道路が一本通っていて、市街化調整区域指定のため、人間の居住生活空間は台地と水田に挟まれた県道沿いに密集している。

 町の中心を通る昔ながらの狭い県道は、車の渋滞が日常化している。

 市街化調整区域の指定緩和と2本目の道路の設置は、町の将来像を描く上で不可欠といわれていた。

 限られた町の建設予算のため工事は長期にわたり、以前なら直ぐさま道路脇にいろいろと進出したであろう商業施設なども、失われた日本の20年の縮小版よろしく、実にスッキリした風景を提供するだけのものになっている。

 車道と同じくらいの広さの歩道を両側に確保しているこの道路が、道路脇の除草のメンテナンスを心配することにならないよう祈りたい。

 ただ一つスッキリした気分になれるのは、この道路が国や県の計画道路ではなく「町道」であることだ。

 「山を指し元は棚田と教えられ」

 「街は混み田舎は過疎とそれぞれに」

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桜の頃の水鳥たち

2016-03-29 09:40:57 | 日記
 桜が咲き始めると、心おだやかではなくなる動物がいる。

 もっぱら水辺で生きている、水鳥たちである。

 
 (アオサギ)

 人が近づく度に彼方へ移動こちらへ移動と心落ち着かぬ毎日である。

 
 (カワセミ)

 カワセミは橋の橋脚部分で様子見だが、当分の間少し下流の桜の無い辺りで生活することになるだろう。

 
 (アヒル)

 アヒルは悠然と桜の花の下で昼寝をしていた。

 子供達が様子を見に近づいても慌てる素振りもない。

 あまりに悠然としているので、かえって悪戯をするのが憚られるらしく子供達も遠巻きに見守る。

 人が花に浮かれる暫くの間、頑として生活の場を主張するアヒルを除いて、その他の鳥たちは不承不承ではあろうが自分の縄張りと思っていた場所を人間達に明け渡す。

 なあに、桜がパッと散れば人間もパッと居なくなるさと知っているから。

 
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「未成年」を読んで・・・

2016-03-28 08:56:40 | 本と雑誌
 「未成年」を読んだ。

 高等法院の女性裁判官は、法廷でさまざまな問題にとりくむ一方家庭では夫との関係に悩まされている。

 仕事と家庭、公務と私生活等よくある話ではある。

 だが立場が裁判官となれば・・・・。

 
 「未成年」イアン・マキューアン(著) 村松 潔(訳)2015.11新潮社(刊)

 職業的野心に燃えて高等法院の裁判官という地位にまで上った主人公フィオーナは、法廷での冷静で理性的な判断を下すことで同僚の信頼も厚いが、一方では私生活を犠牲にしてきたツケが60歳を間近に控え老いを意識する今明らかになってくる。

 彼女が携わった数々の事件とその判決、同時に進行する彼女の私生活、そんな中で宗教上の理由から輸血を拒否する18歳に少し満たない少年に対する審理が病院側から持ち込まれ、患者の思想と病院側の医療行為という信仰と生命の問題に正面から取り組んでいく様が描かれる。

 裁判官は研ぎ澄まされ賢すぎるほどの少年の思想と感性に触れ合いながら、保護者としての両親に判決を下す。

 判決後のさまざまな出来事が丹念に描かれ、彼女の過去や現在の私生活、彼女の心の有り様が事件を別な方向に展開させ、むしろこの本のメインはそこにあることが分かってくる。

 「未成年」は少年の物語ではなく、「大人とは」を問いかけてくる。

 私にとって、何ともやるせない気持ちにさせられた一冊である。

 
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足下の花

2016-03-27 10:15:54 | 日記
 桜の季節、上ばかり見るのも首がつかれる、時々は下も見た方がよろしいようで・・。

 2部咲きほどの桜並木の根元に、白や薄いピンクの花が咲いている。

 
 (ハルジオン:春紫苑)

 4~5頃まで咲き、その時期を過ぎると無くなるそうである。

 よく似た白い花で6月~10月頃に咲く花があって、よく似ているがハルジオンとは別物らしい。

 調べて見たら6月以降の白い花は「ヒメジオン」というらしく、草丈がすこし大振りであることを確認した。

 少し歩いていると、植え込みに薄紫の花が咲き始めているのが見えた。

 
 (つつじ)

 なんと桜と前後して既に花を咲かせようとしていた。

 桜が満開を過ぎ、葉桜が目立つようになった頃ツツジの花は咲くのが順序としては正しい。

 ただし何処にも順番を無視するやつはいるし、品種や育っている場所によっても時期は微妙に異なる。

 予定調和もよろしいが、意外性というやつも時には良いものである。

 「それぞれの花の記憶もそれぞれに」

 
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仔羊の頭・・・

2016-03-26 09:08:26 | 本と雑誌
 「仔羊の頭」を読んだ。 

 スペイン内戦の戦前・戦中・戦後を、か弱き子羊たちの目線で描いている。

 では内戦で右往左往する哀れな市民の姿ばかりが描かれているのかというとそうでもない。

 
 「仔羊の頭」フランシスコ・アヤラ(著)松本健二・丸田千花子(訳)2011.3現代企画室(刊)

 14ページにわたる序文から始まる5つ短編から構成されている。

 序文に作者の思い入れが記されていて、スペイン内戦の意味と自分の責任というものが語られる。

 「言伝」:数年ぶりに会った従兄弟との会話と意味不明のメモをめぐる物語。判然としないまま時代は動く。

 「タホ川」:反政府側に参加した中尉の葡萄畑での出来事。内戦後に心の沈殿物が浮き上がってくる。

 「帰還」:帰還した祖国で居場所を見つけられずに苦悩する亡命者。

 「仔羊の頭」:たまたま自分とルーツが同じだという家族と、興味半分で食事をする中で出された羊料理。
        デンと鎮座する「仔羊の頭」を見ながらの脂っこい料理を食べ、帰ったホテルで消化不良のため嘔吐する。
        自分の過去、家族、内戦・・・そして自分自身の生き方そのものが消化不良であった。

 「名誉のためなら命も」:作り話ではないとことわって、数奇な体験を語る人の話を物語として構成している。

 5篇のすべてが、作者独特の語り口でユーモアさえ感じるし、内戦を描きながら軍の戦闘場面は無い。

 3年間に及ぶスペイン内戦は、国民を抜き差しならぬ対立感情に巻き込み、その後心的後遺症に苦しむことを強いる。

 内戦に勝利したフランコ政権独裁は1975年まで36年間つづく。

 作者の著作が原文のままスペインで発刊されるのは内戦終了後のずっと後になる。

 21世紀になって「セルバンテス賞」を受賞し、そのスピーチの中で昨今の読書離れを憂う言葉があえて発せられたというが、本によって想像逞しいドン・キホーテが生まれた国としては、心配でならなかったのだろう。

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やはり野におけ蓮華草

2016-03-25 09:18:25 | 日記
 春の草花と言うと直ぐに思い浮かぶのは「すみれ・たんぽぽ・レンゲソウ」である。

 何だか童謡の歌詞のようでもあるし、かといってどんな歌だと言われても歌えない。

 馴染みはあるのに不思議と、その辺りを突っ込まれると訳が判らない。

 不思議な3点セットの春の野の花ではある。

 ウオーキングの道すがら3点をセットで撮してみた。

 
 (すみれ)

 PCに取り込みながら初めて気づいたのだが、花の直ぐ上の位置に「つくし」まで映っていた。

 
 (たんぽぽ)

 タンポポは日本固有種と外来種があるらしいが、私には見分けがつかない。

 以前は白が固有種で黄色が外来種だなどと思っていたら、図鑑によるとそうではないらしい。

 これでレンゲでも咲いていたら3点セットだなどと思いたんぼ道に回ってみた。

 
 (レンゲソウ)

 咲き始めでまだ数は少なかったが、チラホラと可憐な花が顔を出していた。

 さて、この「すみれ・たんぽぽ・れんげそう」の固有名詞がセットで出てくるのは何だろうとネットで調べて見た。

 すると「国民学校国語教科書」の、「よみかた三」の中で、「目次1の春」に出てくる読み方の文であるらしいことが分かった。

 国民学校がよく分からないし、ましてや教科書など分かろう筈もない。

 なのにどうして、春の花の代名詞のように語られ続けるのだろう。

 古い言い伝えや、教訓などが童歌や童話などによって歌い継がれ残されていく場合が多いが、これもその一つなのだろうか。

 パッと散る桜の潔さや、ストンと落ちる椿に花など、兎角人の生き方に例えられ利用されてきた春の花に比べて、如何にも足下の自然の花であって、気づかないで通り過ぎることもある三つの花である。

 漱石の「スミレほどな小さき人に生まれたし」の句を、小さいが逞しいスミレの姿と、健康上の悩みなど当時の漱石の状態等と関連づけて解釈する向きもあるようだが、私は勝手に、平凡で目立たぬ小さな人生も良いなと述懐した句だと解釈している。

 同じ春の花でも、花見に繰り出す人とてない野辺の花にも優しい目は注がれる。

 それが日本人の感性で、それだからこそいつまでも伝わっていくのだろう。

 「手に取るなやはり野におけ蓮華草」

 これも昔から日本人にはピンとくる句、だから残る筈。

 
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お花見のシーズン到来

2016-03-24 09:39:18 | 日記
 町の南側を秋津川という小さな川が流れている。

 河川敷は遊歩道が整備され桜が植えられていて、もうすぐ花見の賑わいが始まることだろう。

 一昨日に開花宣言がなされたが、河川から城山一体の桜はもうかなり咲いていた。

 
 (木山城址のさくら)
 
 あくまでソメイヨシノが基準になっているので、早咲きの他の品種ではもう満開を過ぎているものもある。

 
 (ユキヤナギ)

 ユキヤナギも満開で、春風に揺れていた。

 我が家のユキヤナギは去年に比べるとやや遅いようなきがする。

 
 (レンギョウ)
 
 直ぐ傍ではレンギョウも黄色の花をつけて、白いユキヤナギと対象をなしていた。

 河川公園では桜の開花した順番に、各々のグループが弁当を広げていた。

 「清酒なら二合くらいで花盛り」

 確か去年は桜のシーズンは腰痛で行動不能だったことを思い出した。

 
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安眠枕で眠られず

2016-03-23 09:00:32 | 日記
 かなり以前の事だが、「磁気まくら」なるものを購入したことがある。

 どう健康にいいのかは知らないが、配偶者とともに2個買ったのだが私は暫くして止めてしまった。

 頭や首のラインに自然で負担感のない枕らしかったが、私には堅すぎたし妙な凹みも嫌だった。

 いちばん嫌だったのは磁石の違和感で、上向きに寝るときはさほどではないものの横向きに寝ると妙な感触があった。

 磁気枕で磁石が嫌なら処分するしかないので、大きくて柔ら目の枕に買い換え、安眠できるようになった。

 頑固に使い続けていた配偶者が最近枕の中が変だというので中を確認すると磁石が集団で一ヶ所にまとまっていた。

 
 (磁石の集団)

 適度の間隔で所要の場所に固定されていた筈のものが、寄る年並みで外れてしまいオマケにお互いくっつき合ってしまっていたのである。

 何万ガウスだのと磁力の強さを誇るような宣伝がしばし流行した時代があったが、かなり強力にくっつき合っている。

 最近テレビの番組で、幼児が丸い磁石を幾つか吞み込んでしまい病院でレントゲン撮影を受けたら数個が腸内の数カ所に所在することが判ったらしい。

 自然に出るのを待つ処方だったらしいのだが、その後短い時間に状況が悪化し再度検査したら、磁石同士が腸壁を挟んだ状態でくっついてしまって、緊急に手術が必要になったと報じていた。

 最近は色々なものに磁石は使われているし、何でも口にする乳・幼児は要注意だというので、早速娘にテレビ報道の内容を伝えると、「そのテレビは見た、注意する」と返事が返ってきた。

 リニアモーターカーや電子レンジ、電磁調理器など電磁波に対する懸念はしばしば話題に上るが、小型で強力な磁石が使われた生活用品が壊れたまま放置される状態は多いはずなので、もっと危険性を周知すべきではないかと思う。

 出てきては消えていく便利グッズや健康用品ブームを見ていると、以前の「暮らしの手帖」のような消費者の側に立った安全な商品を見極める情報発信が今こそ必要なのではないだろうか。

 危機管理とは事前の分析・危険の排除がもっとも重要なことだと思うのだが・・・・。

 「宣伝のどこが嘘やら真やら」


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子供達による「伝統文化にふれる会」

2016-03-21 18:50:07 | 日記
 文化協会主催による「伝統文化にふれる会」が開催された。

 協会の会員として、裏方に徹して協力することになった。

 舞台展開は最初のセッティングのまま動かす必要はなということで駐車場整理の方に廻った。

 概ね駐車場が満車になって第2~第3駐車場に廻って貰うべく誘導をした。

 一段落ついたところで、舞台を覗いてみることになった。

 
 (町の文化会館)
 
 
 
 (子供達のおどり)
 とにかく上手い。躍動感はあるし相当に鍛えられているなという印象を受けた。

 
 (邦楽:琴・尺八・小鼓・大鼓との競演)
 
 次の世代への伝統文化の継承ということで、町でも神楽・民謡・謡曲・和太鼓・おどり等が盛んになってきた。

 県下では各市町村が持ち回りで、子供の伝統文化の祭が開催されている。

 思い出すのは沖縄に勤務していた頃、子供達の沖縄伝統芸能に対する自然な取り組み方に感心させられたことだ。

 おどり、民謡、伝統楽器の演奏など皆が自然にやれてしまうのには驚いた。

 しかし、わが県下でもそして我が町でも熱心に取り組む人達が増えてきた。

 町民文化祭の他、こうした若い子供達ばかりの発表会を年に一回は行っており、それを観に来た大人達が元気を貰って帰るという状況が続くようになってきた。

 今日はウオーキングに行かなくとも、12000歩以上もウロウロと歩く結果になって別の目標も達成したし・・・。

 ビールの旨さが、また格別だったのは言うまでもない。

 
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