山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

宮廷文学から抜け出せない体質=加藤周一の提起

2016-12-19 21:29:15 | 読書
 やっと、加藤周一の『日本文学史序説・下』(筑摩書房、1999.4)を読み終わる。
 下巻は、町人時代から終戦までを対象としている。
 日本文学の担い手の特徴は、閉鎖小集団からなると言う。
 貴族の女房は「宮廷行事」の和歌を中心とする恋・もの思い世界を構築。
 茶人は「茶会」の総合芸術から美的享楽主義を生み出す。
 文人は「詩会・連句の会」で瞬間的感覚を研ぎ澄ました。

                                  
 それらの感性は、歌舞伎や人形浄瑠璃にも表現される。
 中国では早くから哲学・政治・兵法・商法などの諸子百家や漢詩人を生んでいるが、日本では日常の些末な世界を詳細に描く伝統を固辞してきた。
 こうした日本人の「土着的世界観」は、全体よりも部分を、過去・未来の完結性よりも現在を、重視する。
すぐ、スキャンダルメディア・原発・選挙・スポーツ界ボス・通り魔殺人などが頭によぎる。
  
          
 ついでに、『日本文学史序説・補講』(かもがわ出版、2006.11.)も読んでみた。
 上下巻は小気味いい案内書だったが、補講は、来場者からの質問に答えていく形式。
 そこでは、絵画の自然描写の東西の違いが面白かった。
 中世以降の西洋絵画は、イコンや壁画をはじめ、自然描写は人物の背景でしかなかった。
 自然描写は17世紀以降ブルジョアジーが台頭してきたオランダから始まった。
 日本や中国は山水画のように人間は自然の一部という存在に描かれた。

                                    
 9世紀に出た日本の「古今集」は近世になるまで自然を謳い続け現在に至る。
 しかしそこに出てくる花鳥風月は約束事として決まったものばかりで、本当の自然と向き合ったとはいえないと言う。

 東西世界の文化に造詣の深い加藤周一の言葉の切れは、一人ひとりの作家の評価にも例外ではなかった。
 加藤周一の視座は、文学だけではなく現在の日本の状況、日本人の精神的生き方そのものをえぐりだすメスにもなっている。
 ちなみに、彼は医者だった。
 
 
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする