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山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

『地の果て至上の時』の混沌世界

2017-05-01 21:47:36 | 読書
 やっと読み終えた中上健次『地の果て至上の時』(新潮文庫、1993.7)。
 以前読んだ『枯木灘』の続編にあたる。
 被差別にあたる「路地」をめぐる人間のやるせなさ・どうしようもなさと希望との相克。
 日本版ドストエフスキーとも評される中上健次しか描けなかった宿業と呪詛に絡められた人間世界、そこに紀州の山と海との厳しくもみずみずしい自然が伴走してくれる。

                                
 血と性とが横行する暴力的な世界の「路地」は、地の果てなのだろうか、もしくはこれ以上救いようがない時間が支配する世界なのだろうか。
 そんな路地を抹消したい開発の土建屋の父とその路地で育ったことで思い入れの強い異母息子との愛憎。

     
 登場人物は『枯木灘』ほど多くはないが、不発に終わっている人物も多すぎる。
 物語の進行とともに逡巡として迷う作者の苦悩が同時に読みにくさや混乱ともなっている。

                                    
 結末は父の自殺や路地の火事に向かうが、人間の孤独と不安は解消されないまま置き去りにされてしまう。
 『枯木灘』で描かれたメリハリある自然描写は、ここではややトーンダウンしてしまい、また生硬だがはじける文体から慣れてきた文体に変化してきているのが不満でもある。

       
 路地がショッピングセンターに開発されようとしているが、人間の意識は簡単には変えられものではない。
 高度成長にわいた日本の豊かさは同時に路地の持っていた世界と本質的には変らない人間のまがまがしさをあぶりだしている。
 いやむしろ、かつての路地にあった人間的なつながりの高貴さを作者は言いたかったのかもしれない。

オイラが20代のとき、解放同盟の大会に研修として派遣された機会があった。
 主催側の主張は共感したつもりだが、行政を一方的に糾弾・告発・批判するだけでは本来的な連携は構築できないと思った。
 主張が正当でも糾弾では相手をどんどん敵にしてしまうだけではないか。
 行政のしたたかさを崩していくには、それを上回るしたたかで柔軟な戦略が求められる。

 その意味では、中上健次の小説はその内発的な「糾弾」と希望に意味があると思う。
 軟弱な文壇という壁に向かって中上健次はその汗とみずみずしさでツルハシを行使したのだ。
         
 
                    
コメント
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