ぼんくら放浪記

Blogを綴ることによって、自分のぼんくらさを自己点検しています。

開口神社 Ⅱ

2014-07-04 05:00:00 | 大阪にて

開口神社って皆さん「かいこうじんじゃ」と読んでいませんでしたか?実は私もそう思っていたのですが、「あぐちじんじゃ」と読むそうなのです。それにはチョット開いた口が塞がりませんが、私のPCでは「あぐちじんじゃ」と打っても変換してくれません。なので「かいこうじんじゃ」と打っているのですが、でもGoogleの検索エンジンを使うと「あぐち」と打つだけで『開口神社』と候補が出てきます。

             

近所からは「大寺さん」と呼ばれ親しまれているようですが、お寺ではなくてれっきとした神社なのです。何故「大寺さん」と呼ばれているのか、それはこの境内に行基が神宮寺として念仏寺を建立したと伝えられており、お寺としては明治元年まで残っていたそうです。勿論、明治政府のバカな政策によって毀釈の憂き目に遭ってしまったわけですが、三重塔などは先の戦災で焼けてしまうまで残っていたようで、近所の方々はその念仏寺を「大寺さん」と呼んでいたのでしょう。

               

境内に三つのモニュメントが有ります。一つは東側に有る泉陽高校跡の碑、泉陽高校は今、大小路ビルより北東側に有りますが、1874年に女紅場として開口神社の境内に誕生したそうで、古くは与謝野晶子や橋田壽賀子を、現在活躍している女優では沢口靖子が学んでいました。真ん中の句碑、これにも説明板が無いので、出だしの“風鈴や”だけが読め、作者も分りません。三つ目が三国ヶ丘高校跡地の碑、三国ヶ丘高校は方違神社の南隣にあった履中天皇陵よりもっと南に有ります。1895年にこの境内に仮校舎が建てられました。昨年の市長選挙で維新候補を退けた現市長はこの高校出身です。三国ヶ丘高校は1年後に移転、その後1年は寄宿舎だけが残っており、泉陽高校の前身の女学校は1903年に現在地に移転しているので、境内には二つの学校が有ったことになります。

どうしても気になるので真ん中の碑にある“風鈴や”の季語で始まる俳句を調べてみました。“風鈴や花にはつらき風ながら(蕪村)”“風鈴や草匂ふほど水きけり(富田木歩)”“風鈴や古典ほろぶる劫ぞなし(竹下しずの女)”“風鈴や天駆け巡りくる風に(長谷川櫂)”ぐらいしか出てきませんが、どれも句碑に彫られた字と比べると違う句のようです。

             

一番最初に使った大きな写真は西の鳥居です。西の鳥居はアーケードのある商店街と交わるように建っており、遠くからは写せなかったので苦労しました。境内側から撮ると鳥居の向こうがタバコ屋になっているのが分ります。顔は商店街の方を向いていますが、ここの狛犬がやたらと大きかったです。

             

商店街側から鳥居の全体を写そうとすると、アーケードの一部が入ってしまいます。鳥居の中、境内の向こうに東の赤い鳥居が見えています。

       

鳥居の右脇にこの神社で唯一の案内板を見つけました。ステンレス製で丸いのでよく目立ちます。南宋寺の塀に囲まれた一角に有った海会寺は、創建(元弘2年)当初はこの地に建立されたようです。その時代に掘られた井戸が金龍井と呼ばれていたとか、干ばつの時に龍神に祈ったら、老人に扮した神さんがここを掘るよう教えたという由緒がある、室町時代の記録では泉南第一の井戸(この辺りは泉南ではないのですが)、江戸時代の記録では豆腐製造に、また違う文献では茶の湯に適しているというようなことが記されています。案内板を注視すると一行目の真ん中辺りにテープが貼られているのが分ると思いますが、これは海会寺の創建の元弘2年の後ろで『(1332)』と西暦で表した箇所、案内板を造った時に間違ったのかと思ったけど、家で調べたら合っているので、単なるいたずらなのか、間違っていたのを上から貼ったのかも知れません。

             

東の鳥居です。鳥居の前がすぐ片側2車線の道路なので、渡って撮りました。

                     

どう見ても鳥居は新しいし、入口の狛犬の顔もマンガチックで新しそう、でも台座は古くからのもののようです。写真が小さいのでよく判らないかも知れませんが、目に黒目が描かれており、私にはマンガの顔に見えるのかも知れません。東の鳥居の南内側に豊竹稲荷大神、この境内にはいったい幾つの神が祀られていたのでしょう。