和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

人の言葉の散りやすさ

2024-05-25 | 安房
流言蜚語から、私は岸田衿子の詩の2行を思い浮かべます。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

それはそうと、散らずに言葉をささえるという事例を以下に示すことに。

「安房震災誌」に、関東大震災の9月3日の晩の出来事が書かれています。

「 9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
  聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。

  田内北條署長及び警官10数名は、之を鎮静すべく
  那古方面へ向て出発したが、
  掠奪隊の来るべき様子もなかった。

  思ふに是れは人心が不安に襲われて・・・・
  何かの聞き誤りが基となったのであろう。  」(p220~221)

これに安房郡長大橋高四郎は、どう対処したのか

「 すると、郡長は、
 『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
 
  といふ意味の掲示をした。可なり放胆な掲示ではあるが、
  将に騒擾に傾かんとする刹那の人心には、
  
  此の掲示が多大に効果があったのである。
  果して掠奪さわぎはそれで沮止された。  」(p221)

この大胆な掲示内容を守るべく、郡長は食料調達へと
力を注いでゆくことになります。

「 郡当局は、一方県に急報して、食料の配給を求むると同時に、
  他方旧長狭に駐在してゐた県の耕地整理課技手齋藤正氏に嘱託して、
  同地方の米を買収して、鴨川より海路北條に輸送するの計画をした
  ところが、米の買収は中々困難であった。

  それは、何時又重ねて大地震の来るかも知れないといふ懸念と、
  交通杜絶の為めに、今米をはなせば、生命をつなぐ途が絶える
  と悲観したからであった。

  ―― 此の時 徴発してはどうだ。 と、いふ話もあったが、
     郡長は頭からそれに反対した。それは、唯でさへ
     
     人心恟々たる折柄に、徴発でもやったら、
     事態容易ならぬこととなるからであった。 ――  」(p261)


ここで、『徴発してはどうだ』という意見に
安房郡長は「頭からそれに反対した」とあるのでした。

安易な徴発が、さまざまに容易ならぬ事態を招くことを
郡長はきっと、経験知からして、判断を下していたのかも知れません。

たとえば、『米騒動』にかぎってみてゆくと、
「 騒動の第一期すなわち前駆期の事件のいちじるしい特徴 」
 が記録されているのでした。

「・・・富山県下のそれや岡山県の津山町、林野町、
 広島県の三次町、和歌山県の湯浅町などのように、
 自町村の米を他へ移出することを禁止する要求が
 事件のきっかけとなっている場合である。     」
         ( p105 「米騒動の研究」第一巻・有斐閣 )


うん。ここは、歴史的地理的に『米騒動』をめくってみます。
1918(大正7)年の米騒動は、
「それは、7月22日の富山県下新川郡魚津町の漁民の主婦たちの集会にはじまり、9月17日福岡県嘉穂郡明治炭坑の暴動で一応おさまるまで、
 すべての大都市、ほとんどすべての中都市、全国いたるところの
 農村、漁村、炭坑地帯など、一道三府三八県、およそ500ヵ所以上・・」
        (p1 「米騒動の研究」第一巻 )

この「米騒動の研究」第3巻には、千葉県の事例が新聞の記録から
とりあげられておりました。
安房郡勝山町と安房郡湊村とがとりあげられております。
ここには勝山町の記述を引用してみます。

「勝山町および船方町(船形?)では、
『 漁師の女房連も寄々町役場に話かけて、救護を願い出たるが 』
                    (万朝報、8・20)
『 ・・・形勢不穏の状を呈したれば、19日』(大阪朝日、8・21)
 朝、『成本北条署長は部下を従えて』(万朝報、8・20)、
『 同地へ急行し、その善後策を講じたるがため、平静に復せり 』
                  (大阪朝日、8・21)     」
                 ( p380 「米騒動の研究」第3巻 )


もどって、
『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』
といふ意味の掲示をした郡長の、そのあとも
「安房震災誌」に記述がありますので、
最後にそちらも引用しておきます。
安房郡内で米を現金で買入をしてからのことです。

「斯の如くにして、僅に集めた米は、
 焦眉の必要に応じて、それからそれへと配給して行ったが、
 
 日を経るに従って欠乏甚だしく、
 7日の夜に至っては、全く絶望状態に陥った。

 殊に・・『 食料は何程でも郡役所で供給するから安心せよ 』といった、
 各所に掲げた掲示で、人心を安定に導いてゐる刹那のことである。
  ・・・・・・・・・・

 郡長は・・翌8日の払暁、鏡丸に乗じて上県し、
 つぶさに郡民の窮乏を訴へ、而かも米の欠乏甚だしきを以て、
 直ちに米9千俵の急送を懇請したのである。

 すると県も之を容認して、米5千俵を給与するに決した。
 且つ輸送の為めに、館山湾に碇泊中の汽船を徴発すべく
 徴発令2通を交付された。

 そこで、郡長は9日直ちに帰任して、
 汽船2隻を徴発し、廻米の事に従はしめた。
 そして、その翌10日であった。
 突如、県よりは更らに米1千俵、増加配給する旨を通達された。
 此の通達は勅使御差遣あらせられた前日のことであった。

 震後人心に強い脅威を与へた食料問題も、是に至って
 漸くその眼前の急より救はるることを得たのである。  」
                (p262 「安房震災誌」 )


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9月6日、地震講の記念日。

2024-05-24 | 安房
関東大震災で被災した安房郡役所から、重田郡書記が徹夜疾走して、
9月2日の午後一時半頃に、千葉県庁へ到ります。

そこから、県内各地へと安房の状況が伝えられることになります。
その様子をたどってみます。

  本銚子町 ( 本銚子町青年団報 )より

「・・・翌2日に至って県下南部の震災も確実に伝へられ
  人心恟々たる内に郡役所より通牒あり。

  安房郡の震害甚しき故救護班を組織して出動せよとの事であった。
  仍て早速青年団員中より有志を募集して15名を得た。
  此の外に医師5名と総計20名で班は組織された。 」

       ( p1352 「大正大震災の回顧と其の復興」下巻 )

 以下には、北條に着くまでの様子が書かれておりました。

「 愈々出発となったが汽車は日向以西は不通と聞いて銘々自転車を
  準備して明朝を待った。

  翌9月3日早朝出発日向駅からは自転車で夜来の雨に
  道路泥濘幾多困難を凌ぎつつ漸く千葉に着いたものの
  西海岸も矢張り汽車不通已むを得ず其のまま
  巡査教習所に泊ることにした。不安と焦燥の一夜を明した。

  あくればもう4日である。
  今度は千葉駅前に自転車を預けおき、
  汽車で成東まで引返し更に勝浦までは汽車、
  之より自動車で天津へ着いた。

  最早日は暮れてゐるが
  前途が急がれて宿泊など出来ない。
  徒歩鴨川着、小学校の庭にしばし仮寝の夢未だ結ばぬ2時間計りにて
  又出発、和田町役場の庭に天幕あるを幸、
  ここに又1時間計りの仮寝をしたのは夜半であった。

  かくの如くにして漸く北條に着いたのは実に
  5日の午前11時頃であった。

  途中勝浦より千倉まで舟行された救護班小野田周齋外4名の
  医師及団員1名は茲に合体したのである。
  我等の班は救護班としては第一着であった。
  そして最惨害を極めた那古船形方面へ行くことになった。・・・」  
                         ( ~ p1353)

  旭町青年団報 より    (p1387~ )

「本団は9月4日正午県召集の緊急救護出動の命あるや
 団長は直に各支部に出動準備と人員の割当を通達せり。

 午后4時に至り各支部より確定報告あり。
 直に海上郡第二救護班医師4名団員12名、
 旭町青年団割当分の編成を終り
 警察分署を経て県に編成完了の報告をなせり。

 6日一番列車にて出発、成東大網勝浦を経て、
 途中困難と戦ひつつ鴨川に着き第一夜を明かし
 翌朝徒歩して北條警察署に辿り着く。
 
 直に警察並郡衙に到着報告をなし
 先発隊海上郡救護班銚子第一班と事務引継ぎを終り
 食糧部より給与の玄米を焚き夕食をとり
 案内さるるまま北條食堂に一泊す。  」


以前には、銚子青年団の活躍を引用したことがあったので、
ここには、旭町青年団の記述をつづけて記録しておきます。

「 一行は東天明けぬ内に、那古町に行き茲にて2班に分れ
  医師2名団員6名船形町へと急行す。

  船形町も全滅同様の惨状にて立てる家一戸とてなく
  寂寞荒れ果てたる廃墟の如く夜間は総て燈火なく全く暗黒たり。

  到着早々治療準備を行ひ8時より診察す。
  団員は主として受付手伝及各種の伝令、衛生材料運搬食糧分配等で
  那古町は観音堂下船形町は船形クラブで不眠不休の活動を為し、

  夜間は主として重患者を館山水産試験場へ彼の湊川を徒渉し、
  駆逐艦川風よりの探照燈を唯一の頼りとし輸送す。又水の運送等も行った。

  救護人員の計813名にて船形町は内科の48名外科の414名、
  那古町は内科の35名、外科の316名の多数であった。
  右総て延人員にて本職等の余り知る所にあらざれど
  受付簿に依り記載す。

  9日午後3時交代者来るにより引上げ命令あり。
  引継をなし郡役所並北條警察署に完了の報告を済し
  帰郷する旨を告ぐ。

  一行は出発以来不眠不休の活動にて加ふるに
  飲食物さへ不充分なるため皆やせ心身の疲労甚し。

  8時漸く雨は止んだ。風浪高きも出帆すとの報あり。
  帰心矢の如き折柄、元気は百倍せども
  前日正午夕食を摂りしままにて空腹と疲労は増すばかり
  漸く乗船す風浪高く皆船酔せり。

  午後4時木更津沖へと着く。
  上陸し5時30分に乗車し千葉にて乗替10時に佐倉に下車一泊す。
  翌朝一番にて帰郷することにした。
  重任も果し出発以来初めての入浴に心身の疲労一時に増し
  初めて布団の上に眠る事が出来た。

  一同記念撮影をなし地震講を組織し、
  9月6日を記念日とし、茲に目出度解散するを得た。 」(~p1389)




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備蓄と民間防衛と経文。

2024-05-23 | 地域
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)。
そのなかに「スイスの『民間防衛』に学ぶ」(p107~)という箇所。
すこし引用してみることに。

「・・第2の理由として、私の頭の中のどこかには常に毎日の生活が
 崩れる日に備えて、幾ばくかの備蓄をするということは国民の義務
 だという観念があった。

 それを私に教えてくれたのは、スイス連邦法務警察省発行の
 『 民間防衛 』という本であった。・・・
 
 16歳以上の国民には、この『民間防衛』なる小冊子が配られる
 と聞いていた。今、私の手元にあるのは、1974年7月に原書房
 から発行された第2刷である。・・  」(p108)

そして、すこしあとに、こんな箇所がありました。

「 備品の中に聖書があるというのもスイスらしい。
  日本だったらもちろんお経文を持ち込む人もいるだろう。」(p 113 )


今回は、この『お経文』という箇所が気になりました。
私事。5月20日21日と葬儀に親族としておりました。
日蓮宗の坊さんに通夜と本葬と、
『妙法蓮華経』のお経本の読経をしていただき。
二日にわたって、その読経について声を出しておりました。

  開経偈(かいきょうげ)からはじまり
  妙本蓮華経。方便品。第二 とつづき
  欲令衆(よくりゃうしゅ)は、漢字と平仮名でした。

まだ、読経はつづくのですが、ここには
欲令衆にふれることに。

通夜では、「欲令衆」の一部を全員で読経し
本葬では、「欲令衆」の全文をお坊さんが、立ち一人で読経されておりました。

その通夜での一部読経された「欲令衆」の箇所を、ここに引用しておきます。

「  三界(さんがい)は安き事無し。
   猶(なお)火宅(かたく)の如し。

   衆苦充満(しゅうくじゅうまん)して甚だ怖畏(ふゐ)すべし。
   常に生老病死(しょうろうびょうし)の憂患(うげん)あり。

   是(かく)の如き等(ら)の火、熾然(しねん)として息(やま)ず。
   如来(にょらい)は已(すで)に三界(さんがい)の火宅を離れて、
   寂然として閑居(げんこ)し、林野(りんや)に安處(あんじょ)せり。 

   今此三界(いまこのさんがい)は、皆是れ我有(わがう)なり。
   其中の衆生(しゅじょう)は、悉(ことごと)く是れ吾子(わがこ)なり。
   而(しか)も今此處は、諸(もろもろ)の患難多(げんなんおほ)し、
   唯我一人(ただわれいちにん)のみ能く救護(くご)をなす。  」


はい。「欲令衆」の三分の一ほどを、通夜の席で読経しました。
「欲令衆」の文は漢字と平仮名まじり、私にも理解しやすい。 
はい。それに、漢字にはきとんとフリガナがありありがたい。


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それから丁度4年目のこと。

2024-05-20 | 安房
『安房震災誌』は、大正15年3月31日発行とあります。
そして、編纂兼発行者は千葉県安房郡役所とあります。

すこし、郡制の廃止にふれておきます。検索すると、

「 1921年(大正10年)4月12日に
          『 郡制廃止ニ関スル法律案 』が可決され、
  1923年(大正12年)4月1日に郡制が廃止された。
           郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
           郡長および郡役所は残務処理のため
  1926年(大正15年)7月1日まで存置された。        」


はい。宮沢賢治が稗貫郡立稗貫農学校教諭となったのが大正10年でした。
のち、大正12年4月に郡立稗貫農学校は、県立花巻農学校となっております。

安房では、大正11年2月に郡立安房農業水産学校の創設が認可され。
大正12年4月25日、県立安房水産学校の設置が認可されたので、
水産科を廃して千葉県立安房農学校と改称した。


こうして、関東大震災の大正12年9月1日には、
ちょうど、郡制度が廃止された年だったのでした。

    郡会は制度の廃止と同時に無くなったが、
    郡長および郡役所は残務処理のため
    1926年(大正15年)7月1日まで存置された。 

この残務処理の期間に、関東大震災がおこったのでした。そして、
大正15年までの期間内で『安房震災誌』が発行されておりました。

郡制については、こうありました。

「 この郡制に、府県で処理するには小さく、
  町村で処理するには大きい事務を処理させるため、  
  両者の中間に位置する行政・自治団体としての機能を
  付与したのが法律としての『郡制』である。 」

こうして、安房郡長・大橋高四郎の時代的な背景がわかります。
さいごに、『安房震災誌』の序文にある、大橋氏の文のはじまり
を引用しておくことに。

「 私が安房郡に赴任したのは、
  大正9年12月のことで、まだ郡制時代のことであった。
  大正12年9月の関東大震災は、それから丁度4年目のことである。  」


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郡長と、宮澤賢治に貴島憲

2024-05-19 | 安房
資料の裏付けがない癖して、身近で、
あれこれ結びつけたくなるのでした。

今日思い浮かぶのは、米騒動と農学校設立でした。

米騒動が、1918(大正7)年にあったということでした。
それでは、大橋高四郎はそのころどうしていたのか?
取敢えず、山武郡の郡長をしていた頃と重なるような気がします。
そこでの、大橋高四郎は農学校の創立に尽力されていたようです。
そうして、大正9年12月、大橋氏は安房郡長として赴任し、
安房では、安房農学校の設立にかかわることになります。

ここでもって、思い浮かべるのが、宮澤賢治でした。

1920(大正9)年・・盛岡高等農林地質学研究科を終業した賢治でした。
1921(大正10)年9月、妹トシの病報を受け花巻に帰ってきます。

「そういうとき・・郡長の葛(くず)博、農学校校長の畠山栄一郎が
 賢治を農学校教諭にむかえたいといってきた。・・ 」
         ( p187 堀尾青史「年譜宮澤賢治伝」中公文庫 )

1921年12月3日 25才になる賢治は、稗貫郡立稗貫農学校教諭となる。

賢治が農学校の教諭になるさいに、
郡長からどのような言葉をかけられたのか、わからないながら気になります。
貴島憲が安房農学校の教諭になる、そのキッカケならば、
安房農学校の記念誌に、貴島氏の回顧文が載っておりました。

今回は、その回顧文を引用しておわります。

「 大正10年の春、時の安房郡長の大橋さんの電報で、
  私ははじめて北条の郡役所にやって来た。
  そこが安房農業水産学校の創立事務所になっていた。

  郡役所の玄関の前に大きな辛夷が一ぱいに花をつけていたから
  3月の中旬の事であったであろう。

  そこで大橋さんから学校に関して色々なお話を承った。
  何でも此の新しい学校は、今度新に文部省で制定された
  五ヶ年制実業学校として、全国に率先して創立されたもので、
  其期する処は、従来の様な不徹底な到底役に立つ筈のない
  下手な技術員養成でもなく、又それかと言って今の中学の様な
  ・・・・ものでもなく、将来社会の中堅として役立つべき青年に
  直に基礎的な普通教育を与へる学校、つまり農村的漁村的公民学校
  というべきものでなければならないという事であった。

  私はどうもこれはむつかしい仕事だと思った。
  併し同時に大変大切な事で、もしそれが全国に普及し
  よく運用されたなら、かの豆粕程のデンマークをして
  世界に重きをなさしめた国民高等学校のような働き、
  此の行き詰まった貧乏国家を一新せしめるような
  働きをなさないものでもない、
  吾々もまあ精々椽の下の力持を勤める事にしようと考へた。

  大橋さんの清新溌溂たる精神に感服すると共に、
  私自身も大に愉快になってきた。     」
       ( p76 「千葉県立安房農業高等学校創立五十周年記念誌」)
 
  
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椀に、われ鍋・破れざる。

2024-05-18 | 安房
「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、

「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。

 此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
 米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
 ・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)

こうして、実際の窮状を指摘しておりました。

「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
  大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。

  籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
  加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
  手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
  凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、

  鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。

  平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
  多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
  物の役に立つべきものがない。

  突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
  
  その上に道路も橋梁も破壊されて、
  米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。

  安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
  此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
  米騒動の起らなかったのが仕合であった。  」(p259)


ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。

井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。

「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
 家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・

 また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
 救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
 この年以前にも何回かおこなわれている。

 ・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。

  『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
    窮民の婦女ら数十百人相集まり、
    人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
    組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
    無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。  」
           ( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )  

はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、・・・・
  その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。

  ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
  罹災民が押しかけて来て、
  
     腐ったむすびがあるそうですが、
     それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
  ・・・・・・・         」(p260「安房震災誌」)
    
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嘆き、悲しみ、怒ること。

2024-05-17 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)の
副題は「東日本大震災の個人的記録」とありました。

この本のはじめの方には、
新約聖書の聖パウロの書簡に出てくる
『ところどころに実に特殊な、『喜べ!』という命令が繰り返されている。』
という箇所を指摘したあとに、曽野さんは、こう書いておりました。

『人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。しかし
 今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。』

それであるから、聖パウロの書簡にある『喜べ!』というのは、
『喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ』

曽野さんのこの本は、この言葉から始まってゆくのでした。

『安房震災誌』に登場する安房郡長大橋高四郎の震災に直面して
発した言葉を時系列で列挙してゆくのは、それだけでも価値があります。
きちんと、それをしてみたいのですが、それはそうとして、
流言蜚語も言葉であり、『喜べ!』も言葉なのでした。

ここでは、吉井郡書記と能重郡書記の回顧の言葉を引用しておくことに。

「 『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなってゐる。

 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、

『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』

 には何人も感激しないものはなかった・・・・・

『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉である。
 言葉といふより血を流した体験である。・・・・    」(p319~320)


『安房震災誌』の震後の感想のはじまりに郡長大橋高四郎から聞いた
という言葉が記載されておりました。最後にそこを引用。

「氏(大橋高四郎)はいふ、
 此の大震災に就て、自分が身を以て体験したところを一言にして
 掩ふならば、唯だ『感謝』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
  ・・・・・・・・
 ・・・次は郡の内外の切なる同情である。
 それと又郡民と郡吏員の真面目な、そして何処までも忠実な
 活動振りである。どちらから考へても、『感謝』であって、
 そして『感謝』の内包をもう少し深めたくなるのである。

 それで一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
 此の前古未曾有の大震災の中で、大部分の人々が
 或は死に、或は傷いてゐる中に、
『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が
  ≪ 感謝 ≫すべき大きな事実ではないか。 』
 自分はどうして一命が助かったか。
 と、ふりかへって熟々と自己を省みると、
 ≪ 感謝 ≫の涙は思はず襟を潤ほすのである。
 実に不思議千萬な事柄である。不思議な生存である。
 ありがたい仕合せである。

    生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
    一身を犠牲にして、萬斛の同情を以て
    罹災者を救護せよ

 と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
 救護に當る唯一のモットーとしたのも
 此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。
  ・・・・・・                 」(p313~314)
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大正大震災『青年団の力』

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、「青年団の力」という言葉がありました。
その箇所を引用してゆきたいと思います。

「 今次の震災に當て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
  平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
  総動員を行ひ、2日未明、郡役所在地に向け応援したことに始まり、
  遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・・・・・


  青年団の第1段の仕事は、
  死傷者の処理であった。
  同時に医薬、衛生材料、食料品の蒐集であった。

  2日の如きは、市中の薬局の倒潰跡に就て、
  死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。
  ・・・・・

  第2段の仕事は交通整理であった。
  地震に打ち倒された家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、
  道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
  路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、
  之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
  実に青年団の力である。
  ・・・僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、
  幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。
  いはゆる手の着けやうのない様であったのである。

  第3段の仕事は、
  救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、
  各町村への伝令等であった。

  あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、
  実に青年団の力である。若し青年団がなかったならば、
  救護事業の多部分は、あの通り敏活には処理出来なかったであろう。

  要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。・・・・

  ところが、青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・
  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。

  それどころか、飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  ・・・当時は雨露を凌ぐべき場所とては、
  北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
  そして税務署以外は、何れも土間である。

  折柄残暑で寒くこそはなかったが
  湿気と蚊軍の襲来には、安き眠も得られやうがなかった。
  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・       」(~p286)

  その記述の次には、大正13年1月28日調べの
  「他町村救護に盡したるもの」の町村団体名の延べ人数一覧が載っております。
  そして、p289~290には、「郡外よりの救護団体」が記されてあります。
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震災の青年団のエピソード

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、青年団の活動をとりあげた箇所があり、
そこからの引用をしておきたい。

その活動を引用してゆくまえに、
大正13年3月1日に県知事より指令があった文面からはじめます。

「   安房郡連合青年団
  其団震災に当り東京方面よりの罹災民を救護したるにより
  金四百五十六円を支給す。
        大正13年3月1日  千葉県知事 齋藤守圀  」(p292)

「・・・4月9日を以て、関係町村青年団長に此の指令を共に
 現金交付の手続きを為したが、関係青年団にては・・保田町青年団は、

 地理上の関係からして、東京方面よりの罹災民を救護したので、
 他の被害激甚地方の青年団も、自町村相互救助に、
 被害の軽微なる町村の青年団も、亦た他町村罹災民の救護に、
 均しく多大の費用と労力を費やしてゐるのであるから
 東京方面からの避難民を救護した町村の青年団のみが、
 此の恩典に浴するは、他の青年団に対して情誼に適するものでない。

 といふ理由の下に、支給金は全部聯合青年団の経費に充当されたし
 との寄付申込みをしたので、連合青年団は、その意を容れて之を
 受納するに決した。

 東京方面よりの避難民救護団体は、・・8団体である

  保田町青年団、和田町青年団、江見村青年団
  太海村青年団、鴨川町青年団、東條村青年団
  天津村青年団、湊村青年団             」(~p293)


はい。この次は、安房の関東大震災の青年団の活動を紹介します。

 
   


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コレラのパニックと流言蜚語

2024-05-14 | 短文紹介
吉村昭著「磔」にあるらしいのですが、未読。
ここには、曽野綾子著「ほんとうの話」(新潮文庫)。
ちょっとですが、明治10年に起きたコレラのパニックが書かれておりました。

「・・・何のいわれもないどころか、いいこをして殺された人までいる。
 たまたま今、手許にある新聞には、明治初期の千葉県鴨川の医師・
 沼野玄昌という方のことが出ている。

 明治10年に、全国的に猛威をふるったコレラは、10月になると当時、
 長狭(ながさ)郡貝渚(かいすか)村と呼ばれた鴨川にも発生した。

 近隣の村を合わせると、患者480人のうち261人が死んだのである。
 村人たちは奇病を恐れてパニック状態に陥った。

 沼野医師は、漢方、蘭方、解剖外科にも明るく、
『 西洋医学も修めた医師 』として医学知識のない村民たちを相手に
 防疫に当ることになった。何の衛生知識もない村人たちは、

 汚物は川に捨てる、死者は土葬にする、という調子だったから、
 沼野医師はまず火葬をすすめ、井戸にクロール石灰を投げいれたりした。
 しかしコレラはそうは簡単にはおさまらないので、
 村人は沼野医師を信じなかった。

『 あの医者は、金もうけのために、井戸に毒を入れてわざと病人を作っている 』
 
 と彼らは言い、或る日、ついに竹槍やくわで、当時41歳だった沼野医師を
 惨殺したのである。この話は、土地の人々の間でも思い出したくない話しとして、
 長い間タブーになっていたのだが、今度101年目に慰霊碑が建ち、
 児童公園もできたという。

 別に恥じることはない、と私はおもう。
 私がその場にいても、恐らく医師殺害に与(くみ)したろうと思うし、
 私の父母も、その場に居合わせたら、医師を憎んで竹槍をふるったかも
 知れない。人間、誰しも考えること、やることは、同じようなものである。
 ただそこには、人間が普遍的に犯すあやまちがあるだけである。  」(p96)


私は「安房郡の関東大震災」をテーマに語ろうとしてるのですが、ここで、
流言蜚語に立ち向かう、指導者としての大橋高四郎を、まず思うのでした。

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茨木のり子の絵本

2024-05-14 | 絵・言葉
昨日は雨。午前中ちょいと用事があって館山市へ。ついでに、本屋へ。
新しくできていた古本屋『北条文庫』を尋ねる。
はじめて入りました。古本と新刊と、それに喫茶もあるみたい。
古本を3冊購入して帰る。その1冊の絵本を紹介してみたい。

茨木のり子作 山内ふじ江絵「貝の子プチキュー」(福音館書店・2006年6月)。
40ページで、サイズが29×31㎝。

最後には、こうありました。
「 この作品は、1948年茨木のり子が朗読のために書いた童話を絵本化したものである。
  ・・・・・今回の絵本づくりにあたり、文は大幅に書き直された。 」

う~ん。茨木のり子さんは2006年2月に死去とありますので、
ここは、どう読んだらよいのでしょう。
たとえば、「茨木のり子ご自身の手で、文は大幅に書き直された」と
あればすっきりとするのでしょうが、ちょっと引っかかります。
ごく自然に文面をたどれば、ご自身が書き直されたのでしょうね(笑)。

絵を描いた山内ふじ江さんのプロフィールの最後には
『 この絵本は、長い時間をかけて描かれ、心血を注いだ代表作といえる。 』
とあります。絵本として書き直された文をもとに、
時間をかけて描かれたというのが、絵本をひらくと、
ごく自然に、こちらへ伝わってくるのでした。


帰ってから、そのレシートを見たら
それは、買った本一冊一冊の書名が載ったレシートです。
ここは、最後にレシートそのままの紹介をして終ります。

       
  北条文庫
  千葉県館山市北条1625‐25      2024/05/13
  YANETATEYANA1F                                       11:25

      
    関東大震災の社会史        ¥1.300
    宮本常一とクジラ          ¥770
    貝の子プチキュー          ¥990

    合計               ¥3.060


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震災の、握飯と牛乳。

2024-05-13 | 安房
まずは、「安房震災誌」から握飯にかかわる箇所を引用。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。

  すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
  握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
  之を飢へた人々に分与したのであった。
  又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったものも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
  疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
  甚だ遺憾千萬ではあったが、その日の
  握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。  」(p260)

この配慮に関しては、違うページに指摘がありました。

「 郡長は斯る場合に伝染病の流行は必定だと思ったので、
  特に伝染病に注意を拂った。極めて少数の赤痢患者の外、
  伝染病の出なかったのは、何より仕合せであった。 」(p244~245)

もどって、握飯の配給を停止した次を引用します。

「 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた
  力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
  
  腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

  郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
  流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。

  そこで、郡当局は、斯うした面々に向って

  『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』

  と条件付で、寄贈品の握飯を分配してやった。・・・ 」(p260)


このあとに、引用する箇所に、泣く乳児という箇所がでてきておりました。


「  食料品は一般に欠乏してゐたが、
   傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
   何とか始末せねばならなかった。

   殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、
   飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、
   郡当局は一掬の涙を禁じ得なかった。

   幸に安房は牛乳の国である。
   
   郡長は安房畜牛畜産組合に依嘱して、無償で牛乳の施與に
   当らしむることとした。しかし、交通杜絶の場合である。

   牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

   が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
   青年団、軍人分会の盡力とで、

   9月4日から牛乳を配給した。そして
   10月7日まで、34日間之を継続した。
   配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の
   4町1箇村であった。
   ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
   
   施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
   施与延人員は、2萬人に達した。此の牛乳は、
   全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。   」(p256)



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72時間の救出活動。

2024-05-12 | 安房
「 瓦礫の下で救出を待っている人たちの生存率は
  72時間で急激に下がっていきますから、
  最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げる
  というのが世界の常識です。・・」

はい。この72時間というのは、最近はよく知るところとなっております。
引用は、門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・単行本2012年・p132)。

最初の一手を、間違えない。ということで、なんども、
反芻しておきたいのは、東日本大震災の72時間でした。

「そういえば、政府と東京電力が一体となって
 原発事故にあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
 蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)のほうが
 先というのも、ピントがぼけていた。」 ( 5月18日一面コラム )
 ( p197 竹内政明著「読売新聞一面コラム『編集手帳」第20集 )

この竹内政明氏の一面コラムの4月7日には、
震災4日後に発足した『福島原子力発電所事故対策本部』のことが出て来ます。

「政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそとを、
 ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策統合本部』のはずである。

 疲労が重なっているのも分かるが、現場作業のような
 被爆の危険にさらされているわけではない。大事な局面で、

 やれ『聞いていない』だの、『寝耳に水』だのと
 内輪でもめる司令基地ならば存在しないと一緒だろう。 」

「 政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
  との触れ込みで震災4日後に発足している。

  放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
  農林水産省は事前に知らなかった。
  当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
  外務省も知らなかった。通告なしの放出に
  憤る韓国政府から抗議を受けた。 」


はい。こちらは、震災の4日後に発足した本部のことでした。
比較する意味で、この箇所を引用したのですが、
以下には、『安房震災誌』の中に出る72時間を拾ってゆくことに。

関東大震災当日の9月1日。郡役所はどうだったのか。

「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
 其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。

 ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
 1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
 全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。

 ・・・萬事の処理に不都合で堪らない。そこで、
 吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を
 取り出して形ばかりの仮事務所を造った。
 そして、危く倒潰を免かれた税務署から僅かばかりの椅子を
 借りて来て、事務を執った。・・・・」(p239)

「救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の処理である。

 それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して
 了ったことであるから、同じ場所で執務するのが便利であるので、
 郡吏員と警察署員とは、郡衙の斯うした手製の仮事務所で
 一緒に救急事務を取扱ったのであった。

 救急事務は不眠不休でやり通うした。
 1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を攝らなかったが、
 又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
 空腹さへ感じなかったであろう。・・・・ 」(p240)

勝山町にも、1日からのことが記されています。

「本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、各工場内の
 機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
 其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
 一般町民に分配するの状態であった。・・・  」(p141)

震災当日の千葉県庁への急使のことも出てきております。
佐野郡書記が1日の午後2時過ぎに、県への報告の途に上った。

「佐野氏は出発したが、郡長を始め主もなる庁員の心には、
『 此の場合のことだから果して県庁まで行き了せるだろうか? 』
 といふ心配のない訳には行かなかった。

 そこで、重田郡書記は自ら進んで、此の大任に当らんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。誰れの心裡にも同様な心配があった
 のである。・・・佐野氏の出発後、共に郡衙を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。・・・・

 ・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる1時半頃、
 他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、報告の使命を果たしたのであった。

 加之ならず、途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を托して行ったので、
 翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の郡衙へと運ばれた。

 瀧田村が逸早く震災応援の大活躍に當られたのは
 重田郡書記の通報に原因したのであった。    」(p236)

たとえ、百年前であっても、震災後の72時間の重要さについては、
頭をかすめたことでしょう。つぎに郡長大橋高四郎がどう判断したのか

「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
 
 そこで、郡長は・・・山の手の諸村が比較的災害の少ない地方であろう
 と断定した・・応援を求めることに決定した。 」(p237)

まわりを見回しても

「適当な使者を尋ねたが、庁員は・・救護の為めに忙殺されて居るし、
 学校の職員も、その他の人々も、当面の急務に忙はしく、
 殊に自己が被害者で眼を廻はしてゐるので、
 使者として平群、大山方面へ遣はすべきものが何処にもゐない。」

そこに、久我氏が急使を受けることとなります。

「然し、北條から・・諸村へ行くには、平日でも可なり
 道路のよくないのに、夜道ではあり、大地震最中のことで、
 果して使命を全うし得られるか、否か多大の疑問であった。・・・・

 郡長の意をうけて、夜中此等の諸村に大震災応援の急報を伝へた。
・・すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
 即夜に総動員を行って、2日未明から、此等の団員は
 隊伍整々郡衙に到着した。

 郡当局は応援の此等団員を4隊に分ちて、
 1は館山方面、1は北條方面、1は那古船形方面
 の圧死者の発掘等に充て、
 そして他の1は救急薬品等の蒐集に當らしめた。 」(~p238)

こうして、さらに次の一手を郡長は考えておりました。

「上記の如く、真先きに県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
 医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。
 
 そこで、館山にある県の水産試験場に ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。
 ・・・ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
 その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
 2隻ともどちらも即刻の間に合わなかった。

 ・・・・2日の夜半漸く出帆準備が出来た。
 汽船の準備は出来たが、震災の為めに海底に大変動があり、
 且つ燈台は大小何れも全滅して了った。・・・・

 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉に航行した。
 鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。・・

 翌4日の午後8時15分には、又無事に館山に帰航したのであった。

 鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、そして
 県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。
 
 是れが千葉からの最初の応援であった。
 郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。 」(p257~258)


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『流言蜚語』の境目

2024-05-10 | 安房
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)をひらくと、
流言蜚語に関する具体例が語られているのでした。
そこには、こんな箇所がありました。

「流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上って
 口から口に伝わるものだが、関東大震災での
 朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。

 このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、
 大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果
 としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で
 朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。

 大地震が発生直後、各町村では、消防組、在郷軍人会、青年団等が
 火災防止、盗難防止をはじめ罹災民の救援事業につとめた。

 被害を受けぬ地域では、炊出しをおこない応急の救護所を設けて
 避難してくる人々を温かく迎え入れた。
 その中心となって働いたのが各町村の団体であったが、
 朝鮮人に関する流言がひろまった頃から、その性格は一変した。」(p178)


ここに引用したところの、最後の4行が印象深い。
『 ・・・流言がひろまった頃から、その性格は一変した。 』とあります。

あらためて、『安房震災誌』にもどると、関東大震災当日に
安房郡長は、山間部へと急使を立てそれが夜になって伝わるのでした。

「平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
 総動員を行ひ、2日未明、郡役所所在地に向け応援したことに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・」(p283)

このあとに、思わぬ事態がおこります。

「9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
 聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。・・・・・

 又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。
 安房郡は館山湾をひかへてゐるので、震災直後東京の
 鮮人騒ぎが、汽船の往来によって伝はって来た。
 果然人心穏やかならぬ情勢である。・・・・

 丁度滞在中であった大審院検事落合芳蔵氏も
 鮮人問題に少からず心を痛め、東京から館山湾に入港した
 某水雷艇を訪ひ、船長に鮮人問題の事を聞いて見ると、
 同艦長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであった。

 そしてそれを郡長に物語った。物語ったばかりではない、
 人心安定の為めに自分の名を以て艇長の談を発表しても
 差支なしとのことであった。

 之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意味を記載して、
 北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。

 而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであった。
 此の掲示は初めは大に効果があったのであるが、
 東京の騒擾が実際大きかったので、
 後ちに東京から来る船舶が、東京騒擾の事実を伝へるので
 最早疑を容るるの余地がなかった。

 そこで、一且掲げた掲示を撤去しやうかとの議もあった。
 然し、郡長は艦長の談として事実である。
 それを掲示したとて偽りではない。
 而かも、之れが為めに幾分なりとも、
 人心安定の効果がある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、
 遂に其の儘にしておいた。

 兎角するうちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に
 鮮人防衛の夜警を始めた土地があった。

 為めに青年団が震災応援の業に事欠かんとする虞れがあった。
 加之ならず、人心に大なる不安を与へることを看取した。

 其處で田内北條署長と共に、
『 此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。
  鮮人襲来など決してあるべき筈でない 』
 といった意味の掲示を要所要所に出した。

 加之ならず、
『 若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、
  宜しく十分の保護を加へらるべきである 』
 とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。

 要するに、斯うした苦心は
 刹那の情勢が雲散すると共に、
 形跡を留めざることであるが、
 一朝騒擾を惹起したらんには、
 地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。

 郡長が細心の用意は実に此處にあったのである。

 蓋し安房に忌まはしき『鮮人事件』の一つも起らなかったのは、
 此の用意のあった為めであらう。  」(p222~223)


ここに
『 要するに、斯うした苦心は
  刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが・・・ 』

という言葉がありました。思い浮かんだのは、
岸田衿子の詩の2行でした。最後にそこを引用。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

            ( 岸田衿子の詩「古い絵」より )
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災害時、安房郡の流言蜚語

2024-05-09 | 安房
「安房震災誌」をひらくと、この震災誌の編纂方法が語られております。
まず、序文に大橋高四郎氏が
「 本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するのが
  主眼で、資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は、吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにした 」

そのすぐあとには白鳥氏による「凡例」があり、そこにはこうあります。

「・・記述の興味よりは、事実の正確を期したので、・・・
 敢て統一の形式をとらず、当時各町村が災害の現状そのものに
 就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。 」

さらに、第1編の大正12年9月19日調べの『震災状況調査表』の
各町村一覧表を掲げるその前の文に、白鳥氏はこう記しておりました。

「本編各章に掲ぐる編纂の資料は、各町村の被害状況を、
 郡長から、各町村長に嘱託して、出来得る限り精確に、
 而かも当時の実況を有りの儘に記述したるものを
 基礎として・・・修正したといっても出来得る限り
 各町村の報告を尊重して、その趣旨は一も変更したところはない。

 従って地震そのものの大小よりも、
 地震を感受したその土地の人々の主観が、
 報告書中に幾分反射されてゐるところが全くないでもなかったが、
 適当の程度に於て、之れを採用した。

 蓋し此等の事情は、即ち全体の被害を表示する
 本章の調査表によって、一見明瞭なれば、

 事に害なきのみならず、却って当時各地方人の
 その感受さを、その儘表現したものとも見られ、
 且つ後日の参考ともなることであろう。    」

はい。このあとに続く「震災状況調査表」は
総戸数・全潰戸数・半壊戸数・焼失戸数・流失戸数
被害数百分比・死亡数・負傷数・・が、
各町村別に数値として、一覧表に並べられているのでした。
その一覧表の数値が並べられたあとから、
各町村から上がって来た報告文が、項目別に取り上げられております。


この記述からしても、
当時の各町村の『当時各地方人の感受さを・・』掬い上げていることが
わかるのでした。
それをふまえて、流言蜚語を、各町村がどのように
伝えられていたのか、どのように受け止められていたのかを
知る手がかりともなりそうです。それをうかがえる箇所を
ポツリポツリとひろってみます。


安房郡でも太平洋側で、勝浦の方へ隣接する天津町

「天津町にては交通上の被害はなかったが、
 鮮人侵入の浮説で村民は多く家をはなれなかった。」(p203)

つぎに、東京湾側の勝山町。

「勝山町についても火災なく、海嘯の襲来も全く一時の流言に過ぎなかった。
 然し、蜚語流言はその夕方から、人から人へと伝唱され、
 次で鮮人の暴動、帝都の全滅、鉄道の惨状など伝へられ、
 人心は一刻も安定を得られなかった。」

はい。勝山町のこの箇所は他の町村よりも文が長いので
以下に残りの全文を引用しておきます。

「 又、人々は海嘯の襲来を怖れて、はしたない米櫃を背負ひ、
  古筵を手になどして、老も若きも大黒山に集った。
  又田文山へも、天神山へも、付近から避難した。

  そしてその夜はそこに夜を明かした。その時、
  誰も彼も明日は宅に帰れるだろうかと語り合って居たが、
  明日になっても、余震はまだ強烈であった。

  かうした恐怖を抱いて次の一日も送った。
  海潮は遠く渚から去った。海面は一丈も下った。
  海嘯の襲来も殆んど謎から謎の中へと這入て行く。

  不逞鮮人は金谷へ30人も上陸したとか、
  東京では鮮人の為めに毒殺され、官庁や会社などは、
  爆弾のために崩壊されたなど云ふ、
  人々は不安と恐怖とが続いた。

  さうして3日目になってもまだ宅へ帰ることが出来なかった。遂には
  消防組、青年団、在郷軍人団などの手に護衛されて野宿をつづけた。」
        ( p210~211 第1編の第9章「海嘯及び火災」から )
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