和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

椀に、われ鍋・破れざる。

2024-05-18 | 安房
「安房震災誌」に、
「米の欠乏と罹災者の窮状」という箇所があります。
そのはじまりは、

「安房郡の全体からいふと、米は平年に於て、自給自足の土地である。

 此の大体論から推察すると、安房は大震災があっても・・・
 米の欠乏は左まで甚だしくない筈である。と、思はれるのである。
 ・・・然し・・・外観上の皮相論に過ぎない。 」(p258)

こうして、実際の窮状を指摘しておりました。

「 9月1日の震災の当時まで持越されるやうなものは
  大体に於て、殆ど総てが籾(もみ)米である。

  籾米が即刻の役に立たぬのはいふまでもない。
  加之ならず、籾摺器も、収納舎も、悉く地震で破壊されて了ったのだから
  手の着けやうがない。それでも、純農家の方は、辛くも一時の
  凌ぎやうもあらうが、被害の激甚な土地は、

  鏡ケ浦沿ひの市街地であり、漁村である。

  平素に於て、農村地から米の供給を仰いでゐるのである。
  多少の買置き位は兎も角も、それすら、倒潰家屋の下敷となって、
  物の役に立つべきものがない。

  突如として起った大震災である。・・激震地に米のないのは不思議はない。
  
  その上に道路も橋梁も破壊されて、
  米の輸送の途は絶対に断たれて了ってゐる。

  安房は自給自足の國だなどとの悠々閑々たる皮相論は、
  此の大震災に直面しては、何処へも通用ならぬのである。
  米騒動の起らなかったのが仕合であった。  」(p259)


ここに、『 米騒動 』という言葉が出てきておりました。

井上清・渡部徹編「米騒動の研究」第一巻(有斐閣・昭和34年)の
「騒動の構造」のなかに、いくつかに分けられる構造のひとつが
印象に残ります。そこを引用。

「・・・・この型では・・市町村当局や有力者に生活救済を嘆願するが、
 家屋や器物の破壊など暴動にはならない。・・・・

 また富山県下では、女の集団が椀をもって資産家の門前に立ちならび、
 救済要求の沈黙の示威をしている例もあるが、この形は同地方では、
 この年以前にも何回かおこなわれている。

 ・・古い例では、富山県ではないが、佐渡の相川で明治維新前にもあった。

  『 安政元治の交(1854~64年)米価暴騰のさい、
    窮民の婦女ら数十百人相集まり、
    人毎に椀一個を持ちて役所の前に集まり、
    組頭役の出庁を伺い、之を囲繞して
    無言にて椀をささげ飢餓の状を訴え・・ 』(「相川町史」)。  」
           ( p105~106 「米騒動の研究」第一巻 )  

はい。あらためて思い浮かんで来たのは
『安房震災誌』のこの場面でした。それをまた引用して終ります。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。・・・・・・・

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為に腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、・・・・
  その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。

  ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた力ない姿の
  罹災民が押しかけて来て、
  
     腐ったむすびがあるそうですが、
     それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
  ・・・・・・・         」(p260「安房震災誌」)
    
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嘆き、悲しみ、怒ること。

2024-05-17 | 安房
曽野綾子著「揺れる大地に立って」(扶桑社・2011年9月10日発行)の
副題は「東日本大震災の個人的記録」とありました。

この本のはじめの方には、
新約聖書の聖パウロの書簡に出てくる
『ところどころに実に特殊な、『喜べ!』という命令が繰り返されている。』
という箇所を指摘したあとに、曽野さんは、こう書いておりました。

『人間は嘆き、悲しみ、怒ることには天賦の才能が与えられている。しかし
 今手にしているわずかな幸福を発見して喜ぶことは意外と上手ではないのだ。』

それであるから、聖パウロの書簡にある『喜べ!』というのは、
『喜ぶべき面を理性で見いだすのが、人間の悲痛な義務だということなのだ』

曽野さんのこの本は、この言葉から始まってゆくのでした。

『安房震災誌』に登場する安房郡長大橋高四郎の震災に直面して
発した言葉を時系列で列挙してゆくのは、それだけでも価値があります。
きちんと、それをしてみたいのですが、それはそうとして、
流言蜚語も言葉であり、『喜べ!』も言葉なのでした。

ここでは、吉井郡書記と能重郡書記の回顧の言葉を引用しておくことに。

「 『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 私共には総ての困難な場合を切りぬけるモットーとなってゐる。

 震災直後に、大橋郡長が、庁員の総てに対して訓示せられた、

『 諸君は此の千古未曾有の大震災に遭遇して、一命を得たり。
  幸福何ものか之に如かん。宜しく感謝し最善の努力を捧げて、
  罹災民の為めに奮闘せられよ 』

 には何人も感激しないものはなかった・・・・・

『 あの時若し死んだならば 』といふ一語は、
 今日ばかりでなく、今後私共の一生涯を支配する重要な言葉である。
 言葉といふより血を流した体験である。・・・・    」(p319~320)


『安房震災誌』の震後の感想のはじまりに郡長大橋高四郎から聞いた
という言葉が記載されておりました。最後にそこを引用。

「氏(大橋高四郎)はいふ、
 此の大震災に就て、自分が身を以て体験したところを一言にして
 掩ふならば、唯だ『感謝』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
  ・・・・・・・・
 ・・・次は郡の内外の切なる同情である。
 それと又郡民と郡吏員の真面目な、そして何処までも忠実な
 活動振りである。どちらから考へても、『感謝』であって、
 そして『感謝』の内包をもう少し深めたくなるのである。

 それで一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
 此の前古未曾有の大震災の中で、大部分の人々が
 或は死に、或は傷いてゐる中に、
『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が
  ≪ 感謝 ≫すべき大きな事実ではないか。 』
 自分はどうして一命が助かったか。
 と、ふりかへって熟々と自己を省みると、
 ≪ 感謝 ≫の涙は思はず襟を潤ほすのである。
 実に不思議千萬な事柄である。不思議な生存である。
 ありがたい仕合せである。

    生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
    一身を犠牲にして、萬斛の同情を以て
    罹災者を救護せよ

 と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
 救護に當る唯一のモットーとしたのも
 此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。
  ・・・・・・                 」(p313~314)
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大正大震災『青年団の力』

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、「青年団の力」という言葉がありました。
その箇所を引用してゆきたいと思います。

「 今次の震災に當て、青年団が団体的にその大活躍を開始したのは、
  平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
  総動員を行ひ、2日未明、郡役所在地に向け応援したことに始まり、
  遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・・・・・


  青年団の第1段の仕事は、
  死傷者の処理であった。
  同時に医薬、衛生材料、食料品の蒐集であった。

  2日の如きは、市中の薬局の倒潰跡に就て、
  死体及び此等諸材料の発掘に大努力をいたされた。
  ・・・・・

  第2段の仕事は交通整理であった。
  地震に打ち倒された家屋の瓦や柱や、板や、壁などが一帯に、
  道路に堆積して、通交の不能となってゐるは勿論
  路面の亀裂、橋梁の墜落など目も當てられない中に、
  之れを整理して、交通運搬の途を拓いたのは、
  実に青年団の力である。
  ・・・僅かに一軒の取片付でさへも容易の業でないが、
  幾千百の倒潰家屋である。而かも運搬が自由でない。
  いはゆる手の着けやうのない様であったのである。

  第3段の仕事は、
  救護品、慰問品、斡旋品などの陸揚、配給は勿論、
  各町村への伝令等であった。

  あの大量な救護品、慰問品、斡旋品の殆んど全部の配給は、
  実に青年団の力である。若し青年団がなかったならば、
  救護事業の多部分は、あの通り敏活には処理出来なかったであろう。

  要するに、地震のあの大仕事を、誰れの手で斯くも取り片付けたか。
  といったならば、何人も青年団の力であった。
  と答ふる外に言葉があるまい。・・・・

  ところが、青年団には、何の報酬も拂ってゐない。・・・
  然るに報酬どころか、何人も当時にあって、
  渋茶一つすすめる余裕さへもなかったのである。

  それどころか、飯米持参で、而かも団員は自炊して、時を凌いだのであった。

  ・・・当時は雨露を凌ぐべき場所とては、
  北條町では僅かに北條税務署とゴム工場、納涼博覧会跡の一部に過ぎなかった。
  そして税務署以外は、何れも土間である。

  折柄残暑で寒くこそはなかったが
  湿気と蚊軍の襲来には、安き眠も得られやうがなかった。
  加之ならず、何れも狭隘の上に、多人数である。
  分けて雨の晩などは雨漏で寝所がぬれて立ち明かしたこともあった。
   ・・・・       」(~p286)

  その記述の次には、大正13年1月28日調べの
  「他町村救護に盡したるもの」の町村団体名の延べ人数一覧が載っております。
  そして、p289~290には、「郡外よりの救護団体」が記されてあります。
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震災の青年団のエピソード

2024-05-16 | 安房
『安房震災誌』に、青年団の活動をとりあげた箇所があり、
そこからの引用をしておきたい。

その活動を引用してゆくまえに、
大正13年3月1日に県知事より指令があった文面からはじめます。

「   安房郡連合青年団
  其団震災に当り東京方面よりの罹災民を救護したるにより
  金四百五十六円を支給す。
        大正13年3月1日  千葉県知事 齋藤守圀  」(p292)

「・・・4月9日を以て、関係町村青年団長に此の指令を共に
 現金交付の手続きを為したが、関係青年団にては・・保田町青年団は、

 地理上の関係からして、東京方面よりの罹災民を救護したので、
 他の被害激甚地方の青年団も、自町村相互救助に、
 被害の軽微なる町村の青年団も、亦た他町村罹災民の救護に、
 均しく多大の費用と労力を費やしてゐるのであるから
 東京方面からの避難民を救護した町村の青年団のみが、
 此の恩典に浴するは、他の青年団に対して情誼に適するものでない。

 といふ理由の下に、支給金は全部聯合青年団の経費に充当されたし
 との寄付申込みをしたので、連合青年団は、その意を容れて之を
 受納するに決した。

 東京方面よりの避難民救護団体は、・・8団体である

  保田町青年団、和田町青年団、江見村青年団
  太海村青年団、鴨川町青年団、東條村青年団
  天津村青年団、湊村青年団             」(~p293)


はい。この次は、安房の関東大震災の青年団の活動を紹介します。

 
   


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コレラのパニックと流言蜚語

2024-05-14 | 短文紹介
吉村昭著「磔」にあるらしいのですが、未読。
ここには、曽野綾子著「ほんとうの話」(新潮文庫)。
ちょっとですが、明治10年に起きたコレラのパニックが書かれておりました。

「・・・何のいわれもないどころか、いいこをして殺された人までいる。
 たまたま今、手許にある新聞には、明治初期の千葉県鴨川の医師・
 沼野玄昌という方のことが出ている。

 明治10年に、全国的に猛威をふるったコレラは、10月になると当時、
 長狭(ながさ)郡貝渚(かいすか)村と呼ばれた鴨川にも発生した。

 近隣の村を合わせると、患者480人のうち261人が死んだのである。
 村人たちは奇病を恐れてパニック状態に陥った。

 沼野医師は、漢方、蘭方、解剖外科にも明るく、
『 西洋医学も修めた医師 』として医学知識のない村民たちを相手に
 防疫に当ることになった。何の衛生知識もない村人たちは、

 汚物は川に捨てる、死者は土葬にする、という調子だったから、
 沼野医師はまず火葬をすすめ、井戸にクロール石灰を投げいれたりした。
 しかしコレラはそうは簡単にはおさまらないので、
 村人は沼野医師を信じなかった。

『 あの医者は、金もうけのために、井戸に毒を入れてわざと病人を作っている 』
 
 と彼らは言い、或る日、ついに竹槍やくわで、当時41歳だった沼野医師を
 惨殺したのである。この話は、土地の人々の間でも思い出したくない話しとして、
 長い間タブーになっていたのだが、今度101年目に慰霊碑が建ち、
 児童公園もできたという。

 別に恥じることはない、と私はおもう。
 私がその場にいても、恐らく医師殺害に与(くみ)したろうと思うし、
 私の父母も、その場に居合わせたら、医師を憎んで竹槍をふるったかも
 知れない。人間、誰しも考えること、やることは、同じようなものである。
 ただそこには、人間が普遍的に犯すあやまちがあるだけである。  」(p96)


私は「安房郡の関東大震災」をテーマに語ろうとしてるのですが、ここで、
流言蜚語に立ち向かう、指導者としての大橋高四郎を、まず思うのでした。

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茨木のり子の絵本

2024-05-14 | 絵・言葉
昨日は雨。午前中ちょいと用事があって館山市へ。ついでに、本屋へ。
新しくできていた古本屋『北条文庫』を尋ねる。
はじめて入りました。古本と新刊と、それに喫茶もあるみたい。
古本を3冊購入して帰る。その1冊の絵本を紹介してみたい。

茨木のり子作 山内ふじ江絵「貝の子プチキュー」(福音館書店・2006年6月)。
40ページで、サイズが29×31㎝。

最後には、こうありました。
「 この作品は、1948年茨木のり子が朗読のために書いた童話を絵本化したものである。
  ・・・・・今回の絵本づくりにあたり、文は大幅に書き直された。 」

う~ん。茨木のり子さんは2006年2月に死去とありますので、
ここは、どう読んだらよいのでしょう。
たとえば、「茨木のり子ご自身の手で、文は大幅に書き直された」と
あればすっきりとするのでしょうが、ちょっと引っかかります。
ごく自然に文面をたどれば、ご自身が書き直されたのでしょうね(笑)。

絵を描いた山内ふじ江さんのプロフィールの最後には
『 この絵本は、長い時間をかけて描かれ、心血を注いだ代表作といえる。 』
とあります。絵本として書き直された文をもとに、
時間をかけて描かれたというのが、絵本をひらくと、
ごく自然に、こちらへ伝わってくるのでした。


帰ってから、そのレシートを見たら
それは、買った本一冊一冊の書名が載ったレシートです。
ここは、最後にレシートそのままの紹介をして終ります。

       
  北条文庫
  千葉県館山市北条1625‐25      2024/05/13
  YANETATEYANA1F                                       11:25

      
    関東大震災の社会史        ¥1.300
    宮本常一とクジラ          ¥770
    貝の子プチキュー          ¥990

    合計               ¥3.060


コメント (3)
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震災の、握飯と牛乳。

2024-05-13 | 安房
まずは、「安房震災誌」から握飯にかかわる箇所を引用。

「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から焚出の握飯が
  沢山郡役所の庭に運ばれた。

  すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
  握飯をうんと背負ひ込んで、北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
  之を飢へた人々に分与したのであった。
  又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。

  兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
  郡役所の庭にあったものも矢張り同然で、
  臭気鼻をつくといったありさまである。

  そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
  疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
  甚だ遺憾千萬ではあったが、その日の
  握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。  」(p260)

この配慮に関しては、違うページに指摘がありました。

「 郡長は斯る場合に伝染病の流行は必定だと思ったので、
  特に伝染病に注意を拂った。極めて少数の赤痢患者の外、
  伝染病の出なかったのは、何より仕合せであった。 」(p244~245)

もどって、握飯の配給を停止した次を引用します。

「 ところが、われ鍋や、破れざるなどをさげた
  力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
  
  腐ったむすびがあるそうですが、それを戴かして貰ひたい。

  と、いふのであった。
  それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
  その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。

  郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
  流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。

  そこで、郡当局は、斯うした面々に向って

  『 よく洗って更らに煮直してたべて下さい 』

  と条件付で、寄贈品の握飯を分配してやった。・・・ 」(p260)


このあとに、引用する箇所に、泣く乳児という箇所がでてきておりました。


「  食料品は一般に欠乏してゐたが、
   傷病者と飢餓に泣く乳児とは、
   何とか始末せねばならなかった。

   殊に震災の恐怖で急に乳のとまった母が、
   飢に泣く乳児を抱いて、共泣きしてゐるさまなど見ては、
   郡当局は一掬の涙を禁じ得なかった。

   幸に安房は牛乳の国である。
   
   郡長は安房畜牛畜産組合に依嘱して、無償で牛乳の施與に
   当らしむることとした。しかし、交通杜絶の場合である。

   牛乳の輸送と、殺菌設備には、相当考慮を要するのである。

   が、折柄東京菓子会社、極東煉乳会社の好意と、
   青年団、軍人分会の盡力とで、

   9月4日から牛乳を配給した。そして
   10月7日まで、34日間之を継続した。
   配給区域は、北條、館山、那古、船形と南三原の
   4町1箇村であった。
   ――その上区域を拡張することは、事情が許さなかった――
   
   施配した石高は、実に76石1斗3升の多きに上った。
   施与延人員は、2萬人に達した。此の牛乳は、
   全部郡内牛乳業者の寄贈にかかるものである。   」(p256)



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72時間の救出活動。

2024-05-12 | 安房
「 瓦礫の下で救出を待っている人たちの生存率は
  72時間で急激に下がっていきますから、
  最初の72時間は最大限、救出活動に全力を挙げる
  というのが世界の常識です。・・」

はい。この72時間というのは、最近はよく知るところとなっております。
引用は、門田隆将著「死の淵を見た男」(PHP・単行本2012年・p132)。

最初の一手を、間違えない。ということで、なんども、
反芻しておきたいのは、東日本大震災の72時間でした。

「そういえば、政府と東京電力が一体となって
 原発事故にあたる『 対策統合本部 』の設置(3月15日)よりも、
 蓮舫行政刷新相に節電啓発担当相を兼務させる人事(3月13日)のほうが
 先というのも、ピントがぼけていた。」 ( 5月18日一面コラム )
 ( p197 竹内政明著「読売新聞一面コラム『編集手帳」第20集 )

この竹内政明氏の一面コラムの4月7日には、
震災4日後に発足した『福島原子力発電所事故対策本部』のことが出て来ます。

「政府の各府省と東電が、目と、耳と、口と、脳みそとを、
 ひとつ場所に持ち寄ってこその『対策統合本部』のはずである。

 疲労が重なっているのも分かるが、現場作業のような
 被爆の危険にさらされているわけではない。大事な局面で、

 やれ『聞いていない』だの、『寝耳に水』だのと
 内輪でもめる司令基地ならば存在しないと一緒だろう。 」

「 政府と東京電力が全情報を共有して事態に対処する、
  との触れ込みで震災4日後に発足している。

  放射能の汚染水を東京電力が海に放出することを
  農林水産省は事前に知らなかった。
  当然ながら、漁業関係者には伝わらない。
  外務省も知らなかった。通告なしの放出に
  憤る韓国政府から抗議を受けた。 」


はい。こちらは、震災の4日後に発足した本部のことでした。
比較する意味で、この箇所を引用したのですが、
以下には、『安房震災誌』の中に出る72時間を拾ってゆくことに。

関東大震災当日の9月1日。郡役所はどうだったのか。

「青年団の来援も、救急薬品等の蒐集も、炊出の配給も、
 其の他一切の救護事務は、郡衙を中心として活動する外なかった。

 ところが、郡衙は既に庁舎全滅して人の居どころもない。
 1日は殆ど余震から余震で、而かも吏員は救急事務に
 全力を盡しても尚ほ足らざる始末で、露天で仕事をやってゐた。

 ・・・萬事の処理に不都合で堪らない。そこで、
 吏員の手で3日、漸く畜産組合のぼろぼろに破れた天幕を
 取り出して形ばかりの仮事務所を造った。
 そして、危く倒潰を免かれた税務署から僅かばかりの椅子を
 借りて来て、事務を執った。・・・・」(p239)

「救護事務の中でも、第一義的なものは、死傷者の処理である。

 それは警察署と密接な関係がある。警察署も矢張り倒潰して
 了ったことであるから、同じ場所で執務するのが便利であるので、
 郡吏員と警察署員とは、郡衙の斯うした手製の仮事務所で
 一緒に救急事務を取扱ったのであった。

 救急事務は不眠不休でやり通うした。
 1日の震災直後から、2日3日頃までは碌々食事を攝らなかったが、
 又大した空腹も感じなかった。蓋し極端な緊張と眼前の惨状に
 空腹さへ感じなかったであろう。・・・・ 」(p240)

勝山町にも、1日からのことが記されています。

「本町に在る東京菓子会社、極東会社、ラクトウ会社、各工場内の
 機械は破損し、為めに休業の止むなきに至った。
 其の結果、9月1日より20日間位は全町内の牛乳を無料にて
 一般町民に分配するの状態であった。・・・  」(p141)

震災当日の千葉県庁への急使のことも出てきております。
佐野郡書記が1日の午後2時過ぎに、県への報告の途に上った。

「佐野氏は出発したが、郡長を始め主もなる庁員の心には、
『 此の場合のことだから果して県庁まで行き了せるだろうか? 』
 といふ心配のない訳には行かなかった。

 そこで、重田郡書記は自ら進んで、此の大任に当らんと申し出た。
 安藤郡書記も亦た同様に申し出た。誰れの心裡にも同様な心配があった
 のである。・・・佐野氏の出発後、共に郡衙を立ち出て、千葉へと向はれた。

 県への報告の要旨は第一は安房震災の惨状であるが、
 第二は工兵の出動と医薬、食料の懇請であった。・・・・

 ・・重田郡書記は、徹夜疾走して、翌2日の正午を過ぐる1時半頃、
 他の2氏に先んじて、無事に県庁に到り、報告の使命を果たしたのであった。

 加之ならず、途中瀧田村役場に立寄り、炊出の用意を托して行ったので、
 翌2日の未明には、山成す炊出が青年団によって、北條の郡衙へと運ばれた。

 瀧田村が逸早く震災応援の大活躍に當られたのは
 重田郡書記の通報に原因したのであった。    」(p236)

たとえ、百年前であっても、震災後の72時間の重要さについては、
頭をかすめたことでしょう。つぎに郡長大橋高四郎がどう判断したのか

「無論、県の応援は時を移さず来るには違ひないが、
 北條と千葉のことである。今が今の用に立たない。
 手近で急速応援を求めねば、此の眼前焦眉の急を救ふことが出来ない。
 
 そこで、郡長は・・・山の手の諸村が比較的災害の少ない地方であろう
 と断定した・・応援を求めることに決定した。 」(p237)

まわりを見回しても

「適当な使者を尋ねたが、庁員は・・救護の為めに忙殺されて居るし、
 学校の職員も、その他の人々も、当面の急務に忙はしく、
 殊に自己が被害者で眼を廻はしてゐるので、
 使者として平群、大山方面へ遣はすべきものが何処にもゐない。」

そこに、久我氏が急使を受けることとなります。

「然し、北條から・・諸村へ行くには、平日でも可なり
 道路のよくないのに、夜道ではあり、大地震最中のことで、
 果して使命を全うし得られるか、否か多大の疑問であった。・・・・

 郡長の意をうけて、夜中此等の諸村に大震災応援の急報を伝へた。
・・すると、此の方面諸村の青年団、軍人分会、消防組等は、
 即夜に総動員を行って、2日未明から、此等の団員は
 隊伍整々郡衙に到着した。

 郡当局は応援の此等団員を4隊に分ちて、
 1は館山方面、1は北條方面、1は那古船形方面
 の圧死者の発掘等に充て、
 そして他の1は救急薬品等の蒐集に當らしめた。 」(~p238)

こうして、さらに次の一手を郡長は考えておりました。

「上記の如く、真先きに県へ急使を馳せて、県の応援を要求してはおいたが、
 医薬、食料品の必要は寸時も時をうつすことが出来ない。
 
 そこで、館山にある県の水産試験場に ふさ丸と鏡丸の発航を依頼した。
 ・・・ふさ丸は機関部に故障があり、鏡丸には軽油の蓄へなく、
 その上地震の為め機関長の生死が不明であったので、
 2隻ともどちらも即刻の間に合わなかった。

 ・・・・2日の夜半漸く出帆準備が出来た。
 汽船の準備は出来たが、震災の為めに海底に大変動があり、
 且つ燈台は大小何れも全滅して了った。・・・・

 3日の未明、汽船鏡丸は館山を発して千葉に航行した。
 鏡丸には門郡書記が乗船して、救護品に就ての一切の処理に任じた。・・

 翌4日の午後8時15分には、又無事に館山に帰航したのであった。

 鏡丸には玄米百俵と、若干の食料品と、そして
 県の派遣員16名と、看護婦4名とが乗船してゐた。
 
 是れが千葉からの最初の応援であった。
 郡当局は斯うして最初の救護品を蒐集した。 」(p257~258)


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『流言蜚語』の境目

2024-05-10 | 安房
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)をひらくと、
流言蜚語に関する具体例が語られているのでした。
そこには、こんな箇所がありました。

「流言は、通常些細な事実が不当にふくれ上って
 口から口に伝わるものだが、関東大震災での
 朝鮮人来襲説は全くなんの事実もなかったという特異な性格をもつ。

 このことは、当時の官憲の調査によっても確認されているが、
 大災害によって人々の大半が精神異常をきたしていた結果
 としか考えられない。そして、その異常心理から、各町村で
 朝鮮人来襲にそなえる自警団という組織が自然発生的に生れたのだ。

 大地震が発生直後、各町村では、消防組、在郷軍人会、青年団等が
 火災防止、盗難防止をはじめ罹災民の救援事業につとめた。

 被害を受けぬ地域では、炊出しをおこない応急の救護所を設けて
 避難してくる人々を温かく迎え入れた。
 その中心となって働いたのが各町村の団体であったが、
 朝鮮人に関する流言がひろまった頃から、その性格は一変した。」(p178)


ここに引用したところの、最後の4行が印象深い。
『 ・・・流言がひろまった頃から、その性格は一変した。 』とあります。

あらためて、『安房震災誌』にもどると、関東大震災当日に
安房郡長は、山間部へと急使を立てそれが夜になって伝わるのでした。

「平群、大山の青年団が、1日の夜半、郡長の急使に接して、
 総動員を行ひ、2日未明、郡役所所在地に向け応援したことに始まり、
 遂に全郡の町村青年団の総動員となったのである。・・・」(p283)

このあとに、思わぬ事態がおこります。

「9月3日の晩であった、北條の彼方此方で警鐘が乱打された、
 聞けば船形から食料掠奪に来るといふ話である。・・・・・

 又是れと同じ問題は、鮮人騒ぎにも見たのである。
 安房郡は館山湾をひかへてゐるので、震災直後東京の
 鮮人騒ぎが、汽船の往来によって伝はって来た。
 果然人心穏やかならぬ情勢である。・・・・

 丁度滞在中であった大審院検事落合芳蔵氏も
 鮮人問題に少からず心を痛め、東京から館山湾に入港した
 某水雷艇を訪ひ、船長に鮮人問題の事を聞いて見ると、
 同艦長は東京の鮮人騒ぎを一切否定したといふことであった。

 そしてそれを郡長に物語った。物語ったばかりではない、
 人心安定の為めに自分の名を以て艇長の談を発表しても
 差支なしとのことであった。

 之を聞いた郡長は、大に喜び直ちにさうした意味を記載して、
 北條、館山、那古、船形に十余箇所の掲示をして、人心の指導に努めた。

 而かも落合氏の言ふ如く大審院検事落合芳蔵の名を以てしたのであった。
 此の掲示は初めは大に効果があったのであるが、
 東京の騒擾が実際大きかったので、
 後ちに東京から来る船舶が、東京騒擾の事実を伝へるので
 最早疑を容るるの余地がなかった。

 そこで、一且掲げた掲示を撤去しやうかとの議もあった。
 然し、郡長は艦長の談として事実である。
 それを掲示したとて偽りではない。
 而かも、之れが為めに幾分なりとも、
 人心安定の効果がある以上、之れを取去るは宜しからずと主張して、
 遂に其の儘にしておいた。

 兎角するうちに郡衙を去ること遠き旧長狭地方に
 鮮人防衛の夜警を始めた土地があった。

 為めに青年団が震災応援の業に事欠かんとする虞れがあった。
 加之ならず、人心に大なる不安を与へることを看取した。

 其處で田内北條署長と共に、
『 此際鮮人を恐るるは房州人の恥辱である。
  鮮人襲来など決してあるべき筈でない 』
 といった意味の掲示を要所要所に出した。

 加之ならず、
『 若し鮮人が郡内に居らば、定めし恐怖してゐるに相違ない、
  宜しく十分の保護を加へらるべきである 』
 とのことも掲示して、鮮人に就ての人心の指導を絶叫した。

 要するに、斯うした苦心は
 刹那の情勢が雲散すると共に、
 形跡を留めざることであるが、
 一朝騒擾を惹起したらんには、
 地震の天災の上に、更らに人災を加ふるものである。

 郡長が細心の用意は実に此處にあったのである。

 蓋し安房に忌まはしき『鮮人事件』の一つも起らなかったのは、
 此の用意のあった為めであらう。  」(p222~223)


ここに
『 要するに、斯うした苦心は
  刹那の情勢が雲散すると共に、
  形跡を留めざることであるが・・・ 』

という言葉がありました。思い浮かんだのは、
岸田衿子の詩の2行でした。最後にそこを引用。

    人の言葉の散りやすさ
    へびと風との逃げやすさ

            ( 岸田衿子の詩「古い絵」より )
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災害時、安房郡の流言蜚語

2024-05-09 | 安房
「安房震災誌」をひらくと、この震災誌の編纂方法が語られております。
まず、序文に大橋高四郎氏が
「 本書の編纂は、専ら震災直後の有りの儘の状況を記するのが
  主眼で、資料も亦た其處に一段落を劃したのである。

  そして編纂の事は、吏員劇忙の最中であったので、
  挙げて之れを白鳥健氏に嘱して、その完成をはかることにした 」

そのすぐあとには白鳥氏による「凡例」があり、そこにはこうあります。

「・・記述の興味よりは、事実の正確を期したので、・・・
 敢て統一の形式をとらず、当時各町村が災害の現状そのものに
 就て作成した儘をなるべく保存することに注意した。 」

さらに、第1編の大正12年9月19日調べの『震災状況調査表』の
各町村一覧表を掲げるその前の文に、白鳥氏はこう記しておりました。

「本編各章に掲ぐる編纂の資料は、各町村の被害状況を、
 郡長から、各町村長に嘱託して、出来得る限り精確に、
 而かも当時の実況を有りの儘に記述したるものを
 基礎として・・・修正したといっても出来得る限り
 各町村の報告を尊重して、その趣旨は一も変更したところはない。

 従って地震そのものの大小よりも、
 地震を感受したその土地の人々の主観が、
 報告書中に幾分反射されてゐるところが全くないでもなかったが、
 適当の程度に於て、之れを採用した。

 蓋し此等の事情は、即ち全体の被害を表示する
 本章の調査表によって、一見明瞭なれば、

 事に害なきのみならず、却って当時各地方人の
 その感受さを、その儘表現したものとも見られ、
 且つ後日の参考ともなることであろう。    」

はい。このあとに続く「震災状況調査表」は
総戸数・全潰戸数・半壊戸数・焼失戸数・流失戸数
被害数百分比・死亡数・負傷数・・が、
各町村別に数値として、一覧表に並べられているのでした。
その一覧表の数値が並べられたあとから、
各町村から上がって来た報告文が、項目別に取り上げられております。


この記述からしても、
当時の各町村の『当時各地方人の感受さを・・』掬い上げていることが
わかるのでした。
それをふまえて、流言蜚語を、各町村がどのように
伝えられていたのか、どのように受け止められていたのかを
知る手がかりともなりそうです。それをうかがえる箇所を
ポツリポツリとひろってみます。


安房郡でも太平洋側で、勝浦の方へ隣接する天津町

「天津町にては交通上の被害はなかったが、
 鮮人侵入の浮説で村民は多く家をはなれなかった。」(p203)

つぎに、東京湾側の勝山町。

「勝山町についても火災なく、海嘯の襲来も全く一時の流言に過ぎなかった。
 然し、蜚語流言はその夕方から、人から人へと伝唱され、
 次で鮮人の暴動、帝都の全滅、鉄道の惨状など伝へられ、
 人心は一刻も安定を得られなかった。」

はい。勝山町のこの箇所は他の町村よりも文が長いので
以下に残りの全文を引用しておきます。

「 又、人々は海嘯の襲来を怖れて、はしたない米櫃を背負ひ、
  古筵を手になどして、老も若きも大黒山に集った。
  又田文山へも、天神山へも、付近から避難した。

  そしてその夜はそこに夜を明かした。その時、
  誰も彼も明日は宅に帰れるだろうかと語り合って居たが、
  明日になっても、余震はまだ強烈であった。

  かうした恐怖を抱いて次の一日も送った。
  海潮は遠く渚から去った。海面は一丈も下った。
  海嘯の襲来も殆んど謎から謎の中へと這入て行く。

  不逞鮮人は金谷へ30人も上陸したとか、
  東京では鮮人の為めに毒殺され、官庁や会社などは、
  爆弾のために崩壊されたなど云ふ、
  人々は不安と恐怖とが続いた。

  さうして3日目になってもまだ宅へ帰ることが出来なかった。遂には
  消防組、青年団、在郷軍人団などの手に護衛されて野宿をつづけた。」
        ( p210~211 第1編の第9章「海嘯及び火災」から )
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山階宮殿下の慰問。

2024-05-07 | 安房
「安房震災誌」の第2編「慰問と救護」に
「山階宮殿下の御慰問」(p226~230)という箇所があります。

そういえば、吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)に
その山階宮殿下に関する記載があります。そのすこし前から引用。

「殊に小田原から鎌倉にいたる相模湾沿岸の地域と
 房総半島の那古、船形、北条、館山等は震源地に近いだけに
 最も激しい震動に襲われ・・・・  」(p47)

「・・・・藤沢の吉村別邸では東久邇宮(ひがしくにのみや)師正王殿下が、
  鎌倉の由比ヶ浜別邸では山階宮(やましなのみや)妃が
  それぞれ圧死した。  」(p51~52)

それでは、「安房震災誌」の箇所を引用。

「殿下(山階宮)の御慰問を給はったのは、9月28日のことである。」(p227)

そして、殿下の言葉が載せてあります。

「  今回の地震は多数国民を失ひ遺族の心中察するに餘りあり
   余も亦遽に妃を失ひ痛恨に堪へずと雖も妃が多数国民と
   其の難を共にせるを想へば以て慰するに足る

   妃も亦此の点に於て必ずや安んじて瞑すべきものあるは
   余が平常の信条に照し確信する所なり 

  と御仰せあらせられたり御心中拝察するだに忍び難き極みにして
  ・・・唯々感泣の外なし
  尚震害に関し青年団、軍人分会、消防組が能力を盡して
  活動せる次第を言上せるに深く其の行動を嘉し給ひ

  又一般罹災民に対し此際災害に屈せず寧ろ
  禍を転じて福と為す底の大決心を以て
  奮励努力一日も速かに復興の実を挙げられんこと
  余の特に希望する所にして此旨一般に貫徹せしむべき由
  特に仰出されたり・・・    」(~p220)

この文は、安房郡長・大橋高四郎の名で各町村宛に
その概況を記して送ったなかにありました。


ちなみに、関東大震災の一年後の大正13年9月1日、
南三原村には「震災記念碑」が建立されております。
360字ほどの漢字が刻まれた碑の上部には横書きで
「転禍為福」の四文字が刻まれておりました。
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吉村昭の安房の震災記述。

2024-05-06 | 地震
吉村昭著「関東大震災」(文春文庫)は、
p59からが「東京の家屋倒壊」として首都の内容へわけいってゆきます。
その前のページ(p57~58)に千葉県が出てきておりました。
はい。この機会に引用しておくことに。

「 千葉県の被害も、驚くべき数字をしめしている。・・・ 
  殊に相模湾をのぞむ房総半島南西部の沿岸各地の被害はすさまじかった。

  館山湾内の沿岸は最も激烈な地震に襲われ、
  那古では900戸の人家のことごとくが全壊した。

  館山町でも戸数1700戸の99パーセントが倒壊し、
  附近一帯の田が2メートルも沈下し、砂が吹き出るという現象すら起った。

  館山町に隣接した北条町では、戸数1600余戸中、
  全壊1502戸、半壊47戸にも達し、
  郡役所、中学校、停車場等すべてが全壊した。

  古川銀行、房州銀行の建物が奇蹟的に残った以外は
  柱の立っている家さえなく、電柱はかたむき、
  電線は地上にたれて町全体が壊滅してしまった。

  さらに亀裂は深さ2メートルにも及び、
  陥没地域も多く、測候所と小松屋旅館などが亀裂の中に落ちこんだ。」
                         ( ~p58)


ちなみに、この文庫の最後に、17冊が参考文献としてあげられています。
その中に、『安房震災誌』はありませんでした。
ひょっとすると、吉村昭氏は『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』
などは手にしていなかったようです。

はい。当ブログでは
『安房震災誌』『大正大震災の回顧と其の復興』を手がかりに、
『安房郡の関東大震災』を語ってゆくのでした。

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『ノウサギ日記』

2024-05-05 | 前書・後書。
キチンと本を最後まで読まない私なのですが、
これはもう直しようがないと思っております。

この前、古本で買った
高橋喜平著「ノウサギ日記」(福音館日曜日文庫・1983年)は
函入りで、表紙は子ウサギが後ろ足で立っている写真。
うん。いいね。本の最後には50ページほどの河合雅雄氏の解説。
この解説を読めただけで私は満腹。
また、そこだけでも再読してみたいのですが、
とりあえずは、解説からすこし引用しておきたくなりました。
二箇所引用。最初はこの箇所。

「動物好きの人は、世の中にはごまんといる。
 犬や猫をペットにして飼っている人は、何百万人におよぶだろう。
 しかし、高橋さんのような日記をものした人は、
 ほとんどいないにちがいない。

 なぜなら、高橋さんはたんなるペット好きなのでなくて、
 心からの自然愛好者――ナチュラリストだからである。

 この日記を見て感動を覚えるのは、
 ナチュラリストとしての高橋さんの人柄であり、
 動物に対する視点のたしかさ、
 すぐれた科学的な観察眼がもたらすものである。

 そこには、自然に対する温かい心と動物に対するやさしさとともに、
 動物の生態に対する鋭い目と洞察があり、独自の解釈が行なわれる。
 これこそナチュラリストの本領だといわねばならない。 」(p268~269)


さてっと最後に引用する箇所は、
この長い解説の終わりの箇所にあたります。
そこでは、今西錦司の「都井岬(といみさき)のウマ」に触れて
河合さんは読んだときの感想を記しております。

「この著作は、毎日のフィールドノートをそのままに写したようなものである。
 動物社会学の創始者である今西さんの最初の動物記であるから、
 期待に満ちた心躍らせてページをめくるうちに、しだいに
 速度が落ちてくる。そして、なにがなんだかよくわからなくなってくる。」
                          ( p308 )
このあとに、その今西氏の文を数行引用して説明しておりました。
そのあとでした。

「このごろの動物の行動に関する論文を読むにつれて、
 今西さんがこのとほうもない文体によってなにを主張し、
 なにを訴えようとしていたかが、ますます明瞭になてきたと思う。

 動物の行動や社会関係を表わすのに、最近は厳密で正確な数量的表現と、
 それにもとづく分析が要求される。2分ごとの行動をチェックし、
 それをまとめて個体の行動型を表記するといったことが、
 普通のレベルで行われている。

 このことはもちろん、非難されるべきことではない。
 しかし一方、科学的な精密さ、分析のメスの鋭さを競うあまり、
 いのちをもった動物の生きいきとした行動や生活のしかたが、
 どこかへ押しらやれてしまう、という状況が濃厚である。

 科学哲学者として著名なイギリスのホワイトヘッドが、
 最後の講演を行なったさい、『 精密なものはまやかしである 』
 とぼそっといって壇を降りたという話を、
 鶴見俊輔さんが書いておられたのを思い出す。
 彼は、分析のいきすぎが全体像を見失う危険を警告したのであろう。」
                   ( p309~310 )

そして、いよいよ解説の最後です。

「『都井岬のウマ』は、科学の進歩が、生物の実像を失わしめる
 危険があることに対する予言的警鐘として、重要な意味を
 もっていると、今にしてつくづく思うのである。

 『ノウサギ日記』は、『都井岬のウマ』と同列の作品であるといえる。
 その意味で、この旧(ふる)い日記が現在に登場する価値の重さに
 あらためて思いおよぶのである。 」(p310)


はい。私はこの解説をめくってもう満腹。
本文を読まずにスルーしちゃういつもの私がおります。
ひとまず、本棚に置いて、つぎこそは・・・。

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安房震災の救護。

2024-05-04 | 安房
あらためて、『安房震災誌』(大正15年3月発行)をひらく。
目次は第1編~第3編にわかれています。

第1編「地震と其の被害」で、被害状況が記され。
第2編「慰問と救護」。
第3編「復興計画と善行美談」となっておりました。

今日とりあげるのは第2編。そのはじまりを引用。

「前編に於ては、地震の惨害を事実の儘に叙述するがその目的であったが、
 本編はその惨害を如何に処理救護したか。
 即ち自然力に対する人間力の対抗的状態を詳記するが目的である。」(p219)

すこし端折ります。

「 一瞬前まで泰平な天地は、震動一過、忽ち修羅の巷
  と化して了ったのである。

人心の恐怖と不安と失望とは当然の帰結である。

此際郡当局の最も苦心したのは、斯うした人心を平静に導くの方法であった。

此の上人心が一たび自暴自棄に陥ったならば、
その波及するところは予め、測定することが出来ないのである。
そこで郡長は、声を大にして

『 此際家屋の潰れたのは人並である。
  死んだ人のことを思へ、重傷者の苦痛を思へ。
  身体の無事であったのが此の上もない仕合せだ。
  力を盡して不幸な人々に同情せよ。
  死んだ人々に対して相済まないではないか。 』

といって、郡民を導き、且つ励ましたのである。
そして此の叫びは実際に於て、多大な功を奏した。
萬事此の態度で救護に当ったのである。     」(p220)

ちなみに、潰れた安房郡役所は、北條町にありました。
北條町の被害の状況はどうだったのかを、第1編から引用してみると

「総戸数は1616戸であるが、その倒潰数は実に100分の96に達している。
 即ち全潰1502戸、半潰47戸である。・・・ 」(p106)

「 死亡者・・・222人。負傷者・・・268人。 」(p92)

そして、倒潰を免れた北條病院には、その負傷者と重傷者がつぎつぎと
担ぎ込まれくるのでした。その隣りに倒潰した安房郡役所がありました。
全潰した安房郡役所は、3日になって、
畜産組合のぼろぼろに破れた天幕をつかって仮事務所にしております。
「安房震災誌」の最初の方には、23枚の写真が載っているのですが、
そこに「郡役所及警察署ノ仮事務所(附)郡長告諭ノ要旨」と題する
一枚の写真があります。
それはテントの幕下の仮事務所と、諭告の文が写っております。
その諭告の本文はp225~226にありました。
最後に、その諭告から最初と最後の箇所とを引用しておきます。

    安房郡民に諭く

 今回の震災は未曾有の惨害にて・・・・・・
 ・・・・・・・・

 一、 罹災者は此際勇鼓萬難を拝し自ら恢復に努むべし

 一、 幸い被害を免れたるものは自己の無事なるを感謝し
    萬斛の同情を以て被害者を援助すべし

 斯の如くにして一日も速に惨害の恢復を計り
 以て聖慮を安し奉らんことを切望に堪へず

   大正12年9月     安房郡長 大橋高四郎   」


これは、9月11日に、山縣侍従の勅使来訪を期に、
郡民一般に対して諭告を発した文面でした。
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水田三喜男と田中角栄・福田赳夫

2024-05-03 | 道しるべ
水田三喜男著「蕗のとう 私の履歴書」(日本経済新聞社・昭和46年)
をせっかくひらいたので、気になる箇所を引用。

第二次池田内閣を語った箇所でした。

「日本経済の中には高度成長の要因というか、
 潜在力が蓄積していることをみてとって、
 このエネルギーの引き出し役をしたというのが
 池田政策の基本となているものであり、
 私どもはその片棒をかついだのであった。

 敗戦という事実のために、日本経済はかえって
 戦前に見られなかった新しい幾多の有利さに恵まれた。

 植民地を土台とした先進国のブロック経済に圧迫され、
 孤立化に追いこまれていた日本は敗戦によって初めて開放され、
 どこの国からも門戸が開かれるようになったことはまたとない機会であったし、
 
 終戦によって質のいい労働力があり余っていたことも幸いであった。
 それよりも国民の優秀な頭脳は何よりもの無形財産であった。

 明治の先人が偉かったために、教育の普及度が物を言うようになり、
 国際水準の技術を消化する能力は十分であって、戦争による
 科学技術のたちおくれを取り戻せる可能性は十分であった。

 また中共やソ連の建設五ヶ年計画がしばしば農業の不作によって
 挫折した事実を見てもわかるように、わが国がここ数年来、
 農業不作を経験していないことは、はかり知ることの出来ない
 潜在力の蓄積とみなければならない。

 さらに財閥の解体と農地の開放に併せて、古い指導者が追放され、
 日本の社会は若返って経済の体質も柔軟性を回復した。

 したがって伸びようとする潜在力の躍動がようやく
 随所に見られるようになってきたのである。
 そこで私どもは考えた。

『 日本経済は伸びる力をもっている。伸ばすのはいまだ。
  伸びられる時に伸ばさなければならない 』と。

 この考えがいわゆる所得倍増計画となって現れたのであった。」(p120~121)


もう一ヵ所引用。

「・・・経済を成長させる念願の方は、何やかや若干の実績を
 残し得た気持ちでいる。私は閣僚として、いわゆる
 神武景気と、岩戸景気と、いまのいざなぎ景気の
 三つの好況に遭遇しているので、世間からは
 積極的な高度成長論者とされているようである。

 しかしながらこの十年間を通じて私が実際的に心を砕いた仕事は、
 経済成長を刺激する仕事よりも、むしろ好景気によって悪化した
 国際収支をなおすための仕事の方が多かったようである。
 大蔵省で退任のあいさつをしたとき、

『 いつも私が引き締めのにくまれ役を買って、
  国際収支をよくすると、そのあとを受け継いで、
  こんどは予算の大盤ぶるまいをして、
  いい子になれる運命のいい星の下に生まれているのが、
  田中角栄君であり、福田赳夫君である 』

 と言って笑ったのであるが、冗談ではあっても、
 この二人にくらべるとやはり私が一番貧乏性に生まれている
 ことになるのかもしれない。   」(p135~p136)


つい最近、中村隆英(たかふさ)著
「昭和史」(東洋経済新報社文庫上下)を手にしました。
私のことですから、前書きと後書きをパラパラとめくるだけです。
そこに、田中角栄とあります。最後にそこを引用。

「 仕事をしながら思ったことをいくつか書きつけておきたい。

  まず、高度成長が終わるまでのところは
  書くのが比較的楽しく、そのあとが苦しかった。

  昭和前半は政治と軍事の時代、後半は経済の時代と
  分けていいように思っていたが、

  とくに田中角栄内閣のあとは、政治史がつまらなくなるのである。
  首相が交代しても、局面が変わるわけではなく、
  書きたいことがなくなってしまうのである。
  徳川幕府の老中が交代しても、
  政策はめったに変わらなかったようなものである。・・・  」
               ( p894 文庫下巻 )
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