ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

両陛下 IN インドネシア 3

2023-06-20 07:00:00 | 皇室報道

恥さらしな「皇室外交」になってしまいましたね。

日本のマスコミがいくら持ち上げようとも、あちらには歓迎されていない事が丸わかり。

それでもワイドショーなどが追いかけて

「今回のご訪問は素晴らしい」というので反吐が出るなと思いました。

まず、飛行機から降りた時。

国賓扱い・・・という割には出迎えの人数が少なく、儀仗兵も勿論少ない。

レイもかけられず車に乗り込んで日本人学校の子供達がいる所に。

予定より長々喋りまくり、その日はそれでおしまい。

 

翌18日は天皇陛下一人で公務。

高速鉄道見学は、ワイドショーやニュースが「日本の資本で作られた」と言っていますが、実は最初だけそれで途中で中国資本に乗り換えられたという代物。

それを社会見学のように大喜びの天皇。

インドネシア人の内心は「ざまあみろ」なのか、天皇がただ無知なだけなのか。

よりによって何でこんな所を見学しなくてはいけなかったのかわかりません。

皇后にしても、本来は病院とか施設訪問、インドネシアの織物とかそういうものを視察すべきなのにホテルで何してるんだか。

さらに天皇はプルイット排水機構を見学。

久しぶりにテレビに出て来た近重氏が

陛下の水への関心は昭和62年のネパールへの訪問がきっかけです」と言ってました。

後にその時の天皇の言葉も聞きましたが「女性達が少ない水運びに時間を取られて社会的な地位が向上しない」とか喋ってるんですね。

そりゃそうかもしれないけど、女性の地位云々という所があやしくてしょうがない。

それに「水問題」と「水運」は全く別問題ではないのか?

研究する場所が違うんじゃないの?

こんな・・・排水機構を見学し「貯水池は何の役に立つのですか」ってバカ?

水を貯める為に決まってんでしょ!!

ネパールに行った時、「大変だなあ」と素朴にそう思ったらしいけど、一体皇族として何を学んできたのだろうと私は思いますよ。

海外青年協力隊などと触れ合っている癖に、水事情が悪い国の事を知らなかったとはね。

 

さて19日。

ワイドショーで「両陛下揃っての公務が始まります」って言われていたけど、始まりますって・・・明日で終わりじゃんと思いました。

まず、民族衣装で出迎えた大統領や出迎えた人達に、皇后は着物ではなくごく普通のスーツで行ったんですよね。

17日は薄いピンク、そして19日は水色のスーツ。実務者研修ですか?

ここで天皇はレイをかけられ、皇后は紅白の花束を貰うのですがバカでかくて重そう。

皇后の格好は、ただ丈が長すぎるスーツって感じで、とても国賓とは思えない。

 何でも、予定が変わって「午餐会」でのスピーチ交換はなくなり、記念植樹も4人で1本を植樹したそうです。

(通常は天皇と大統領で1本、皇后と夫人で1本)

インドネシア方式とか言ってたけどそれは嘘で、恐らく手間を省き、時間を短縮する為だったと思われます。

「手が汚れたでしょう」と大統領が天皇の手に水をかけてタオルで拭くというサービス付き。

そして、本来は予定になかった「植物園」訪問。

これは2日前に急きょ大統領側から申し出があり、大統領が運転するゴルフカートで移動。

秋篠宮ご夫妻だったら目を輝かせていたでしょうけど、天皇皇后はただ説明を聞いているだけ。特に皇后はあまり興味もないって風。

そういうのが画面から通して醸し出されてくるのが情けないです。

省略したり、そのお詫びの植物園なのか、すっかり国賓としての訪問ではなくなっています。

天皇の挨拶「この度、大統領のご招待により帰国を訪問出来たことを私達は大変喜んでいます。

この度の訪問は、インドネシアへの訪問は私達二人にとって初めての訪問となりました。

この滞在中、私達は帰国の多様性に満ちた社会、文化について理解深めると共に、またインドネシアの歴史、そしてまたこの両国間の友好親善の??に今まで尽くしてこられた方々の歴史にも思いをはせたいと思います。

そしてまた今後、両国の若い人々の交流により両国間の友好親善が一層発展する事を心から願っております。

また、大統領ご夫妻には只今はこのような温かいおもてなしを頂き、またカートで植物園までご案内頂きそして、また蘭のところをご案内頂きまして、そのご厚意に対して私達二人は心からお礼を申し上げたいと思います。最後に大統領ご夫妻の今後、ますますのご健勝をお祈りいたします。テレマカシ

 

何度も書くけど「思いをはせる」だけなら誰でも出来る。

今回、まだ歴史も文化も触れてないじゃない?

ひたすら「皇后の負担を減らす為」の訪問でした。

皇后陛下、大統領が挨拶している時くらい、ちゃんと同時通訳のイヤホンをかけなさいよ。

全然聞いてないって事じゃないの?

それに大統領夫人のレースのお衣装の素晴らしいこと。

ジャワ更紗でしょうか?

私には現地にいる友人がいますが、布地を買って送ってとお願いしている程、好きなんです。

なのに・・・日本の皇后は。

それでも現地の特派員は「とても歓迎されて、マスコミも大きく取り上げています」

「植樹の仕方がいいですね」とか言うんだから笑うしかありません。

もう怒りしか湧いてこないです。

何ヶ月も前に決まっていたインドネシア訪問だというのに、皇后は服さえ新調しなかったのか?と。一体何に3億も使っているの?

私的な食事とかそういったものにですか?

20日は供花するだけですよね。

 

日本にとってインドネシアは歴史的に見ても大切な国だと思います。

日本兵の生き残りが戦後もインドネシアに残ってオランダとの独立戦争に挑んだ。

そんな兵士達に対する慰霊の旅でもある筈なんですけど。

「体調を整える為」としてホテルにこもる皇后。

これではインドネシア静養と言われても仕方ないです。

なぜ、こんな事が許されているんでしょうか?

 

ツイッターより写真拝借。お許し下さいね。

 

 

礼砲21発だけで「国賓」と言われても中身がね。

 

午餐会。

福田元総理がいます。

皇后は帽子をかぶったまま。

ジョグジャカルタの王室は今、女帝を認めるとか認めないとかで議論中だそうです。

それ、目的なの?

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両陛下 IN インドネシア  2

2023-06-19 07:00:00 | 皇室報道

6月18日、両陛下はジャカルタに到着

現地の日本人学校の子供達から歓迎を受けました。

予定より長く子供達と語らったのはいいけど、雅子様の公務はここまで。

あとは丸一日ホテルで静養。

まあ、元々18日の公務は出ないだろうと思っていたら本当に出なかった。

雅子さんの趣味は、海外の豪華なホテルでに宿泊して食べたり飲んだりを最上級のもてなしをうけながらやる事だったんだなあと。

皇室外交やりたいわけじゃなく、贅沢な気分に浸りたいんだって事ですね。

通常は、この後、在留邦人と会ったり、日本人会とお茶したり、施設訪問したり・・の筈がそういう予定は一切ないんですから、何をしにインドネシアに行ったのかわかりません。

国費の無駄ですね。

5つ星ホテルでゴージャスな料理とワインに包まれて幸せを満喫する皇后陛下です。

 

そして天皇陛下はジャカルタ高速鉄道を見学に。

日本の資本が入っていると言っても、途中から華僑の手が入ったらしく、日本の援助が無駄になってる様子を真剣にご見学。

国賓として海外訪問させてやる代わりにこういうのね~~って感じで、おバカな陛下は何もわからないで小学生並の社会見学を真剣にしていると言った感じです。

もう・・・本当に小学生並。

 

始めからなんですけど、政府は何の為に両陛下をインドネシアまで行かせたのか。

また、皇后はなぜ早々に静養しなくちゃいけないのか?

見たところ、元気そうだし、暑さに負けている風もない。

皇族は海外を訪問する時、国のナショナルカラーを服装の一部に取り入れたりするものですが、そういう気遣いは一切なし。国内にいるのと同じで暑苦しいシワだらけのスーツ。

そういうゆるゆる公務を受けてのインドネシアの「しかいし」なのかしらね。

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両陛下 IN インドネシア  1

2023-06-18 07:05:00 | 皇室報道

6月17日 両陛下はインドネシアに向けて旅立たれました。

空港の冒頭からぺちゃくちゃが止まらない両陛下

付き合っているのは紀子様だけ。

天皇陛下、振り返ってまで会話する必要ないんじゃない?

SPの顔が怖い。完全に怒ってるわ。「さっさと歩け」って感じ。

こういう事ばかりやてるから色々な場所に遅刻するんだなと。

薄いピンクのスーツの皇后陛下。

いつ頃のデザインなんだろうか。暑いんじゃないですか?

ところでインドネシアのナショナルカラーは・・・・・ついてないか。

やったー!本当に外国行けるんだわ====

僕も嬉しいよ、雅子

へへーん、下の人達。ザマーミロ(何が?)

いってらっしゃいませ。念願の国賓ですよ~~おめでとう!!

ちなみにインドネシアの国旗は

 今こそ紅白ドレスが役に立ちそうだけどね。

 

 

おしゃべりが止まらない~~~

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皇室ウイークリー

2023-06-18 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

6月9日・・・天皇陛下 → 通常業務

      両陛下 → 主席随員等に会う

            宮内庁・警察庁などから祝賀を受ける

     両陛下・愛子内親王 → 侍従職から祝賀を受ける

6月12日・・・両陛下 → 日本学士院第113回授賞式出席

6月13日・・・天皇陛下 → 勤労奉仕団に会釈

              通常業務

6月14日・・・両陛下 → 上皇上皇后陛下に挨拶

6月15日・・・天皇陛下 → 記者会見

 

皇嗣家

6月9日~9日・・・殿下 → 兵庫県訪問

・昼食会

・第48回全日本愛瓢会展示会を見る

・第48回全日本愛瓢会展示会名誉総裁秋篠宮賞表彰式、全日本愛瓢会役員および受賞者との懇談会出席

・砥峰高原およびとのみね自然交流館視察

6月9日・・・佳子内親王 → 第57回日本伝統工芸染織展を見る

              全米さくらの女王 日本さくらの女王と会う

6月10日・・・妃殿下 → 第98回日本結核・非結核性抗酸菌症学会学術講演会 -学会創立100周年記念大会における講演、聴講

6月12日・・・殿下 → 済生会理事長から報告を受ける

6月13日・・・殿下 → 第25回日本水大賞・2023日本ストックホルム青少年水大賞出席

6月15日・・・両殿下 → 特別展「古代メキシコ―マヤ、アステカ、テオティワカンを見る

 日本学士院での皇后陛下の姿勢が悪いのと服が暑苦しいのと・・・

おまけに自分達は座って説明を受けるのか?

いや~二人とも本当にお年寄り扱いされているんですね。

 インドネシアへ行くのにとうとう武蔵野陵にも行かず、宮中三殿にも参拝せず。

いくら直前に決まったからと言ってもありえないなあと思います。

こうやって神様をないがしろにしていくんだなと思いました。

生きてる親に挨拶すればいいやみたいな?気分は皇太子なんですね。

それと、記者会見で天皇陛下は思い切り間違えたようで、訂正が入ったようです。

ボケてるの?って言われたけど、現行作った人誰?

 結婚30周年の祝賀をなぜ愛子内親王が受けるのか?普通は侍従側に立って祝賀するんじゃないの?お偉いのね。

 両陛下結婚30周年にあたり宮内庁が公開した写真 

 なぜ宮内庁がこの写真をチョイスしたのかわからない。

前回の御料牧場の写真があまりに評判悪すぎてこれはまずいと思ったのか?

でも、養蚕だってほとんど「趣味」になっているし、家族でやる事じゃないでしょう?

天皇の顔色は悪いし、目は落ちくぼんでいるし、太った上皇って感じで嫌だわ。

「うちは紅葉山に養蚕所がああるから春は蚕の観察が出来るの」って言いそうな、どこか公務といより娯楽になってしまっています。

御料牧場の写真が評判悪かったのも、他人が丹精したものを得意気に収穫して回る「観光」に徹していたからですよね。

悠仁親王のように自ら土作りをして野菜を育て、ハーブを植え、稲を育てる・・というものだったら「すごい」となるんですけどね。

 

 常陸宮殿下 発明協会の表彰式に出席 

6月12日

ご自分のお兄様夫婦が、京都でプライベートと言いつつも最上級の扱いで観光して回っているのに、ご病気を抱えつつも公務に勤しまれる常陸宮殿下。

どうぞお元気で。

       

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祝!成婚30周年 雅子様語録  16

2023-06-17 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2000年11月19日 妹・礼子氏、池田祐久氏と結婚

 2000年12月7日 誕生日記者会見

「最近では地球環境に対する関心も高まっており私達の地球をこれからどう守り、どのように次の世代に引き継いでいくかという事について地球規模で真剣な討議がなされていると思います」

雅子様は誕生日でそのようにおっしゃったのですが、記者会はその意味がさっぱりわかりませんでした。いつも壮大に語る雅子様について「俺達凡人にはわからないよな」と思うばかりでした。

 2000年12月9日 37歳の誕生日

 2001年1月1日 新年祝賀の儀

 2001年1月2日 一般参賀

 2001年2月19日 長野冬季国体飯山ジャンプ場で

そのままスキーを楽しむ

 2001年3月26日 ノエウェー王国ハラール国王夫妻来日

宮中晩さん会

答礼レセプション

堤医師には至上命題が下されていました。

それは、雅子様を懐妊に導くこと、そして何が何でも男子を誕生させる事です。

海外の意地悪な新聞などは皇太子様を「死んだパンツ」などと揶揄したりという事があり、お子様に恵まれない皇太子夫妻の立場はますます孤立していきました。

3月に堤医師は正式に宮内庁御用掛けに就任。

いよいよ不妊治療、顕微授精も山場を迎えていたのです。

今回は自信がありました。男女産み分けという神への領域への挑戦を医師は堂々と果たそうとしていたのです。

堤医師は東大の医学部教授として日本中の不妊女性の期待の星となっていました。

全国から堤医師の診察を受けようと悩む女性達が押しかけてきます。

しかし、それらを少し後ろに回しても天皇家の世継ぎを産ませるという仕事は極めて重要であり、これが成功すれば堤医師の名声もさらに高まるだろうと思われたのです。

 

そしてその日はやってきました。

 2001年4月6日 雅子様ご懐妊正式発表

何と嬉しい日でしょう。ついに雅子様がご懐妊になったのです。

今回は宮内庁を飛ばしてスクープするマスコミはなく、宮内庁が正式発表しました。

小和田邸には人が集まり、今度こ雅子様の父君は嬉しそうに笑いました。

待ちわびていたその日はやってきました。

あとはぜひ親王殿下が生まれる日を待つだけです。

この日ばかりは雅子様も幸せな気持ちで一杯でした。

やっと・・・やっとこれで見下される事もないのだ。

役割を果たせるのだわ・・・・と。

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  15

2023-06-16 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

皇太后さまの斂葬の儀は7月25日に決まりました。

それからの日々は皇室にとって、昭和の帝の時以上に大変なものでした。

斂葬の儀の準備は、諡号から始まって数々の祭祀と潔斎、海外要人を迎える準備、また皇族方の序列や手順を次から次へと決めて行かなくてはなりません。

天皇陛下は皇太后さまへの諡号を「香淳」とされました。

こののち「香淳皇后」と呼ばれ、武蔵野東陵に埋葬される事になりました。

7月25日、豊島岡墓地での斂葬の儀についての打ち合わせも始まりました。

当日は第一級の喪服、ローブモンタントと決められ、座る位置や祭祀の手順を何度も何度も繰り返し確認します。

また列席者の顔と名前を覚えなくてはいけませんし、彼らに対する儀礼の程度もそれぞれ違いますので、一つ一つやってみなくてはなりません。

皇后様の元に皇太子妃以下、筆頭宮家の秋篠宮妃、常陸宮妃、高松宮妃、三笠宮妃、紀宮内親王が集まります。

ところが、雅子様はそれぞれの手順がどうしても頭に入って行きません。

特に祭祀は元々嫌いな分野ですから、歩く順番、道筋、拝礼の仕方が何度やってもうまくいかないのです。この5年というもの、雅子様はほとんど祭祀にはご出席になっていませんでした。

なぜなら「神道に費やす時間の意味がわからない」からです。

皇室は皇祖神の子孫として生きている現実が理解出来ません。

日本中に沢山の神社がありますが、その頂点に立つのが皇室である事を何度説明されたでしょう。けれど、雅子様の頭の中では相変わらず「てんてるだいじん」にしか見えない。

一般的な葬儀ならただ座っていればいいけれど斂葬の儀となると、いわゆる喪主の一族、その後継ぎの妻として徹底的な礼儀が必要で、これを間違えたら大変な事になるのです。

「もう一度言うわね」と皇后様は何度も同じ事をおっしゃって雅子様の頭に入れてあげようとしました。

歩き方一つにしても「もう少し背筋を伸ばした方がよろしくない?」「もう半歩ゆっくり歩けるかしら」とそれこそ丹念に教えられました。

最初は「はい」「すみません」とおっしゃっていた雅子様ですが、次第に皇后から何か言われる事が苦痛になって来ました。

周りのお妃達は微動だにせず座って一言もおっしゃらずその様子を見ている。

それが、衆人の中で叱られているように感じてしまったのです。

東宮妃はもう少し・・」と皇后様がおっしゃったとき、突然息苦しさを感じた雅子様は

すみません!」と叫びました。

周りはびっくりします。

あの・・・すみません。ちょっと・・ちょっと・・・」と言いながら雅子様はもうすでに泣いていました。

どうなさったの?」みな驚き、皇后が駆け寄ろうとした手を払いのけて雅子様は叫びました。

こういうのってひどい。ハラスメントです!

え?は・・ハラスメント?この当時はまだそんな言葉は一般的になっていませんから、皇后陛下始め宮妃方は目をぱちくりしています。

「だって、こんなみんないる前でそんな言い方しなくたって、私だって一生懸命やっているのに、なんか意地悪、意地悪じゃないですか?こんな・・・こんな・・・・」

雅子様は何とかご自分の言いたい事をはっきり伝えようとしますが、元々語彙が少なく、どんな言い方をしたらいいのかすぐには頭に浮かびません。

何をおっしゃってるのかしら・・・私があなたに意地悪?

どういう意味なの・・・?

皇后様も顔意を変え、紀子様は黙っていましたが、他の宮妃はみな顔を見合わせます。

あのね、雅子様、皇后陛下は斂葬の儀の手順について教えて下さっているんですよ」

と間を取り持つように高円宮妃がおっしゃいました。

出来るだけ場を和ませようとにこりと笑って「皇后陛下は完璧主義でいらっしゃるし、あなたに恥をかかせないようにと一生懸命・・・」

みんなの前で𠮟りつける事が意地悪なんでしょ!何よ、みんなじっと見て。私、初めてなんですよ。こういうの。それなのにわからなきゃいけないって決めつけて、わかるのが当たり前て。そんなの不公平じゃないですか

初めてでも何度目かでもこういう事は皇室について回るものですよ。その度に完璧に行わないと皇室としての権威が落ちるのです。秋篠宮妃も結婚して数か月後には即位の大礼に出席してちゃんと出来ていたし。だから東宮妃も

そちらは平気かもしれないけど、何度も同じ事やらされて、私、転ぶところだったんですよ。躓いて転ぶところだったんです

全然かみ合わない会話に誰もがおろおろし、どうしたらいいかわかりません。

皇后陛下もかつてこのような物言いをされたことはなかったし、紀子様も勿論です。

よくもよくも・・・

雅子様は泣きじゃくっています。

私、帰ります!

それだけおっしゃると雅子様はぱっと身を翻し、自分で扉を開けて出て行きました。

突如、部屋を飛びだしてきた雅子様に女官長もうろたえ

どうなさったのですか?」と追いかけます。

でも、雅子様は構わず御所を出ようとします。

どこへ、どこへ行かれるのですか

帰るの!」

では、車を。少しお待ちくださいませ

女官長は慌てて、車を回すように伝えその間だけ雅子様は立ち止まります。

女官長はハンカチを取り出してお妃の涙を何とかしようとしますが、全然触らせてくれません。

触らないでよ!もう誰も信じられないから

車に乗り込むと、もうちょっとで女官長は乗り遅れる所でした。

 

東宮御所にはもう電話で伝わっていて、上を下にの大騒ぎ。

雅子様が到着するなり飛んできた侍従に女官長は怯えたような目を向けました。

雅子様は息をはあはあと言わせて、苦しそうでした。

すぐに侍医を呼びます

そう言われても聞こえないように雅子様はご自分の部屋に入られるとベッドに倒れ込み

わあ!」と大声を出して枕を投げ、布団を引っ張り、そこまでいくともう誰も手を付けられません。

すぐに侍医が呼ばれましたが、「診察を受けない」とこれまた完全拒否。

でも、これは異常事態でございますから

雅子・・・少し落ち着こう

皇太子様は今にも逃げ出そうとしているし侍医は女官達が取り押さえるのを待つしかないし。

その日の夜。

侍医が言うには「脈拍にも異常がないしお熱があるわけでもありません。私は専門外ですから何とも申し上げられませんが、これは精神の病と言えるのでは

精神病?

皇太子様は報告を聞かれて言葉が出ませんでした。

精神病ってこんな風に突然起こるものなんですか?

殿下、妃殿下は昼間、とても屈辱的な思いをされたと伺いました。それで今までの色々な思いが募って収拾がつかなくなったのだと。原因となる出来事がございましたか」

女官が答えます。

皇居で少し・・・よくはわかりません。皇太后さまの斂葬の儀の打ち合わせにご出席されたのですが、突然お部屋を出てこられお帰りになると。その時から泣いておられました」

夕方になり、女官長を通して千代田の女官長に連絡をとったのだが、皇后陛下もたいそうご不快な思いをされて、今は何もお話にならないとの話でした。

不快な思い、屈辱的な思い、その場にいなかった皇太子様には何のことやらさっぱりわかりませんでした。

仕方なく皇太子様は紀宮様に連絡をとり、大筋の事情がわかったのですが、一体何が問題だったのか皇族方の誰にもわからないとのこと。

雅子様はその日を境に部屋から出る事はあまりなくなり、公務もお休みになりました。

そして2000年7月25日の皇太后さまの斂葬の儀を欠席されました。

驚いたのはマスコミです。

宮内庁記者会はこぞって古川東宮大夫に迫りました。

雅子さまは暑さが続いて疲れがたまり、夏バテのような状態。お体を大切にしていただくという見地から、お取り止めになった

そんな事を言われても誰も納得するわけがありません。

「夏バテのようなもの」で大事な行事をお休みになる皇族がいるのか?

ご懐妊ではないんですか?

それは絶対にない」と大夫は言いました。

それと、8月1日のインターハイにはご出席になりますが23日の全国農業青年交換会にはお出ましになりません。総合的に雅子妃の体調を考えて決断しました

なぜインターハイは出るけど農業の方は出ないのか・・その理由が判然とせず、古川大夫も「総合的な判断」としか言わない。

斂葬の儀に出席した外国の大使たちも「高齢の三笠宮夫妻が出席しているのにプリンセス・マサコはなぜ欠席なのか」と口々にいい、宮内庁職員は理由を説明するのに苦労していました。

 

 2000年8月27日 シドニー五輪選手結団式に出席

 2000年9月26日 ベルギーのフィリップ王太子夫妻来日

 2000年10月27日 身体障碍者スポーツ大会に出席にあたり富山県富山市セーナー苑視察

 

その後も静養を含めながらの公務出席をされていた雅子様ですが、東宮職の職員はおろか侍医達との会話もしなくなり、用がない限り部屋には入るなと厳命する程になりました。

気が向けば公務で鮮やかな笑顔をお見せになるのですが、東宮御所に帰られるとまるで別人のように無表情になって、一人になります。

雅子様自身、自分の心に何が起こっているのかわかってはおられませんでした。

 

 

 

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  14

2023-06-15 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

小和田家の面々は東宮御所に集まって、女性達はみな娘、姉を慰め、けれど父君は怒り心頭でした。

何度も雅子様はお父様に叱られ、隣の皇太子様も「殿下も殿下だ」と小ばかにした事を言われ、屈辱に耐えるしかありませんでした。

歳を考えたら1度だって持ったない位なんだ。人がせっかくお膳立てを考えてやっているのに何でこうも裏切る?お前はいつだってそうだ

お妃に対し「お前」呼ばわりはひどいのではないかと女官達は思いましたが、突っ込まれるのが嫌なので黙っていました。

堤君にもよく言っておくが、次のチャンスを逃すなよ

その日、雅子様は初めて皇太子様の前で泣きました。

何が悲しいって、いつもお父様の理想になれない自分が悲しかったのです。

雅子様はお父様が大好きでした。それにご自分に対する期待が高い事もわかっていました。

けれど、今まで人生の中で本当の意味でお父様を喜ばせた事があるだろうか?

期待通りの娘になった事があるだろうか?

期待されては叱られの連続。

ご自分ではどうにもならない能力の壁にぶつかる度に雅子様は自己嫌悪に陥ってしまいます。

一方皇太子様は純粋に雅子様が流産を悲しんでいるのだと思いました。

皇太子様にとって、今回は本当に悲しい出来事でした。

やっと出来た子なのに・・・しかも男子だったと言われたらこれはもう絶望の淵です。

陛下に「世継ぎを何だと思っているのか」と責められ、やっとご自分の立場に気づいたくらいですから、今までの自分もよくないなと思いました。

かといって、今の皇太子様は雅子様に徹底的に嫌われないように、ご機嫌を取る事しか出来ないし、とにかく機嫌さえよくしていてくれたらこちらは何も望まない状態ですから、どうしたらこの難関を突破できるのかわからないのです。

雅子には静養が必要だと思います。でも御用邸は嫌だというので別な所を考えて下さい

結局、皇太子様は雅子様の意志を宮内庁に伝えるしか出来ないのです。

御用邸が嫌と言われましても、皇族が静養なさるのは御用邸と決まっています」

「那須、葉山、須崎、御料牧場、こんなにあるのですからどれか選んでいただいて

雅子は傷ついているんですよ!マスコミがある事ない事書いてやれ懐妊だって騒ぐから流産したんじゃないですか。御用邸では付属邸しか使えないし、雅子にはもっと豪華な所じゃないと」

仕方ないので宮内庁は一生懸命に探し抜いて、みつけたのは静岡県にあるスルガ銀行VIP施設での静養でした。

勿論、ここを使用するにあたっては両陛下の許可が必要ですが、流産を盾に「傷ついた」と言われたらかつて同じ経験をした皇后陛下は何も言えなくなりました。

費用は内廷費からという事で特別に東宮夫妻は超豪華な別邸で静養をする事になりました。

 2000年2月9日 静岡県のスルガ銀行VIP施設「ヴィラ・ジ・アール」で静養

 2000年2月9日 沼津御用邸公園

 2000年2月23日 皇太子殿下40歳の誕生日

皇太子様はお誕生日会見にて雅子様の流産で以下のようにお答えになりました。

多くの国民の皆さんに心配していただいていると思います。

幸い雅子も順調に回復してきており,私はそのことが何よりうれしく思います。

この間,多くの方々から温かいお励ましをいただいたこと,中には全く知らない方から,多くのお手紙を頂きましたことを大変有り難く思っております。

今回のことは残念なことではありましたが,結果については私たちも心静かに受け止めることができました。しかし,そこに至る過程で,医学的な診断が下る前の非常に不確かな段階で報道がなされ,個人のプライバシーの領域であるはずのこと,あるいは事実でないことが大々的に報道されたことは誠に遺憾であります

そのような中で雅子は非常によく辛抱したと思いますが,国民の中にも戸惑いを覚えた人も少なくなかったというふうに聞いております。

今後,事柄の性質上,慎重で配慮された扱いを望みます

皇太子様は暗にマスコミによるご懐妊騒動を批判なさったのです。

殿下のお言葉には非常にとげがあり、そこにいた記者団もうろたえてしまいました。

特に、スクープを出した朝日新聞は、その後、同じマスコミによってコテンパンにバッシングされてしまいました。

また、雅子様は歌会始めで「七年をみちびきたまふ我が君と語らひの時重ねつつ来ぬ

という歌を詠まれましたが、その事に殿下はたいそうお喜びになりました。

本人に見せてもらうまでは,あのような歌を詠んでいるということは私も知りませんでした。

歌会始の当日は,少し恥ずかしいような気もいたしましたけれども,あのような気持ちを歌に詠んでくれたことを,大変うれしく思っています。

結婚して7年になりますけれども,この間,よき妻として,そして,よきパートナーとして,私を支えてくれていることを大変うれしく思っています。

数年後に歌を詠んだ時には,重ねてきた語らいが小言の言い合いになっていないようにしなければいけませんね」

と先ほどまでのとげのある言い方からそれこそとろけるような微笑みを浮かべておっしゃったのでした。

 

 2000年3月25日 葉山御用邸静養

 2000年3月29日 東京ドームで米大リーグ観戦

雅子様は再び不妊治療に取り組む事になり、静養を増やして公務は最低限という形になりました。

 2000年4月10日 ハンガリー大統領夫妻歓迎晩さん会

 2000年4月24日 オランダのウイレム・アレキサンダー王太子来日

 2000年5月10日 日本赤十字大会

 2000年5月17日~18日 屋久島訪問

徐々に雅子様は元気を取り戻されました。

喉元過ぎればなんとやらで、またもや頭の中では「海外」げ行く事が頭をもたげ始めていたのです。

そもそも今回の流産は仕方なかった事でご自分には全く責任がないのだ。

むしろ、自分がちゃんと妊娠出来る体だとわかってよかったじゃないか?

もし、今後も不妊が続くならそれは私のせいではない。

皇太子殿下の血筋によるものなのだと勝手に脳内変換していました。

5月も末になると静養も公務も少し飽きて来た感じで、そんな時に東京ローンテニスクラブのパーティに誘われたのです。

東京ローンテニスクラブは歴史あるブルジョワジーたっぷりの会員制のテニスクラブで、両陛下は度々お見えになっていました。

今回は両陛下は公務でお忙しく、代わりに皇太子夫妻が出席されたのです。

これはサプライズ訪問で、クラブに出席していた人達は日本人も外国人も大喜びでした。

皇太子様はスポーツジャケット、雅子様はスポーツジャケットに短めのベージュのスラックスで出席しました。

日本酒で乾杯の後、バイキング形式でのお料理を食べるのですが、皇太子様はせっせと雅子様に好物のローストビーフをとりわけて差し上げていました。

こちらには学習院のOBも多数いるので、皇太子様は久しぶりのご学友らとの会話を楽しんでおられ、雅子様は外国人とのふれあいにウキウキしていました。

やがてスローな音楽が流れ、みなはゆらりゆらりと踊り始め、両殿下も真似て手を取り合い、踊っていたのですが、それが突如ロックのリズムになると、一定の年齢に入った方々は「ついていけないよ」とばかり輪から離れていきます。

ねえ、踊りましょうよ」と雅子様は皇太子様を誘われました。

え・・・ロックですよ。だ・・大丈夫かな」

苦笑いしながら殿下と雅子様は輪の中心においでになり、激しいロックのリズムの中で、ディスコダンスを踊り始めたのです。

バブル時代、ディスコといえば雅子様達の世代のもの。大得意です。

久しぶりの自由な雰囲気に酔って雅子様は激しく踊り始めました。

皇太子様は、ディスコとは無縁の生活を送られていたし、そもそも皇族がそんなダンスを踊るなんて教育はされていません。

びっくりして妻をみやると、雅子様はさも楽しそうに外国人の人達と踊り狂っているではありませんか。

こんなにも生き生きとしたお妃を見るのはきっと結婚して以来かもしれない。

皇太子様は素直にそう思って、ご自分も出来うる限り一緒になって踊りました。

結局、予定よりも3時間もオーバーして東宮御所に帰った雅子様は、すっかりいい気分になりました。

今、この時だけは・・・刹那的な思いが胸をよぎります。

永遠に踊っていられたらどんなにいいか。

我にかえると雅子様はまた「皇太子妃」というプレッシャーに押しつぶされてしまうのでした。

 

 2000年6月15日 皇太后危篤の知らせをうけて大宮御所へ

突然、大変な事態が巡って来ました。

大宮御所にいらっしゃる皇太后さまが危篤に陥ったのです。

集まった皇族方は両陛下を始め、池田厚子さん、島津貴子さん、常陸宮両殿下、皇太子夫妻、秋篠宮夫妻、紀宮様。みな皇太后さまの最後を看取りました。

思えば長い97年の御生涯でした。

久邇宮家の長女としてご誕生になり、その昔は「良子(ながこ)女王殿下」と申し上げました。

女王殿下は関東大震災の後、摂政宮裕仁親王とご結婚遊ばされ、摂政宮妃となり、さらに皇后陛下になられました。

お世継ぎのプレッシャーは昭和の帝が側室制度を否定され、女官制度を改革された事で皇后の肩に集まり、それを乗り越え、今の陛下と常陸宮様をお産みになりました。

笑顔は「エンプレス・スマイル」と呼ばれ、世界の敬愛を受け、皇族出身の皇后陛下として並ぶもののない栄光を掴まれたかに見えました。

しかし、戦後、華族制度は解体され、皇太子妃に正田美智子さんが選ばれた時から苦悩は始まり、いわれなき「美智子様いじめ」のバッシングに耐え、認知機能の衰えが顕著になるにつれて表舞台から去られ、昭和の帝が亡くなられた後は、吹上御所をそのまま大宮御所にし、僅かな側近とともに孤独な日々を送られました。

両陛下は古い吹上御所には住まず、真新しい新吹上御所を建てられました。

皇太后さまがお好きだったお花も庭もすっかり別物になってしまい、両陛下も滅多に吹上に上がる事はありませんでした。

皇族・華族とのご縁がなかった美智子皇后陛下は、皇族出身で名門の姻戚を持つ皇太后さまや秩父・高松・三笠の3宮妃を嫌っておいででしたので、いよいよ平成の世が始まった時にはご自分流の皇室を作ろうと、それまでの伝統や格式を全て変えてしまわれた。

そして、その流れの先に小和田雅子さんの入内があったのです。

本来なら雅子様は皇太子妃になれる身分ではなく、またなってはいけないご身分でした。

けれど、反対されていた昭和の帝が崩御され、皇太后様がご自分の意志を示す事が出来なくなったタイミングで、雅子様は「高学歴の才女」というなり物入りで入内されたのです。

 

戦後、家柄や血筋を否定され、美しくマスコミを操る美智子さまに散々陥れられた皇太后様。

お歌と日本画がお得意、組みひもでも素晴らしい才能を発揮され、昭和の帝の傍らで門前学者になって一緒に植物を採取され、絵に描く。

皇太后さまはまさに日本の母でした。

その柔らかな笑顔にどれだけ多くの国民が癒された事でしょうか。

日本人のよい部分を体現されていた皇太后さま。悲しくも高貴な人生でした。

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録13

2023-06-14 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1999年5月31日 ベルギー王太子フィリップ殿下を江戸東京博物館に案内

 1999年6月2日 オーストリアのクレスティル大統領来日歓迎式典

 1999年6月4日 フィリップ王太子を出迎え

 1999年6月26日 小和田節子氏の結婚式

 1999年8月26日 須崎静養

雅子様の不妊治療は何度も行われていました。

最初は自然に・・・と考えていた医師団も、うまく行かない事に焦り、ついには顕微授精へと踏み切ったのです。これなら男女産み分けも可能ではないかと思われました。

ここまで来ると雅子様も観念したというか、どうしても子供をうまなければならない環境にいる事が理解できるようになりました。

週刊誌は、早々と「妊娠ではないか」と書き立てます。

一体どこからそんな情報を掴んでいるのかわかりませんが、噂が噂を呼び誠しやかに語られます。

でも日々の公務に忙しい雅子様はそんな噂を気にしている暇はありませんでした。

嬉しい事に双子の妹の片割れ、節子さんが結婚する時はあまりのうれしさに真っ白のドレスを着て行きました。

とはいえ、節子さんの夫になる渋谷健司という人は、結婚前から女性スキャンダルが報じられるなど少し心配な面もあります。けれど、彼が医師である事に小和田家の人々は信頼を寄せたのです。

 

とはいえ、本音を言えば雅子様は外国へ行きたいという気持ちに違いはありません。

実はこの年、ドイツ訪問が計画されていたのですが、突如秋篠宮夫妻が行く事になったのです。

雅子様は「行きたい」といい、「妊娠してないからいけるわ」と何度も言いましたが、宮内庁は許しませんでした。

この頃になると雅子様は少しも儀式の手順を覚えない事や非常識な衣装かぶりをすることなどが宮内庁の中で問題になっていました。

中東訪問も震災の後、嬉々として行った事も問題視されていましたし、勿論、馬も貰ってきてしまった事も。

下手に海外に出してどんな粗相をするかわからないお妃。

そしてそんなお妃を導く事が出来ない皇太子様の信頼は地に落ちていたのです。

 

 1999年11月29日 雅子様36歳の誕生日の記者会見

雅子様はドイツに行けなかった事を本当に悔しく思いましたし、許せないと思いました。

けれど記者会見でそんな事は言えませんので「特に、あの 難しい境遇に置かれている人々や様々な困難に直面している子供達には常に心を寄せていきたいと思っております」とおっしゃいました。

 

12月にはベルギーのフィリップ王太子の結婚式に行ける・・・それだけが心の支えです。

本当は11月下旬に微熱があったのですが雅子様はまだその事を秘密にしていました。

 1999年12月1日 ヨルダンのアブドゥラ国王とラーニア妃来日

何だかこの頃、雅子様はやたらだるくて眠かったのです。

でも大好きな海外の要人ですから張り切ってお迎えもしたし、晩さん会にも出席しました。

そしてその後、侍医の診察を受けました。

侍医は信じられないというような顔をして雅子様を見ました。

ご・・ご懐妊です」

ああ・・ついに雅子様はご懐妊されたのです。

一瞬、雅子様の回りは喜びに沸きました。すぐに皇太子様にお知らせしようとすると、雅子様は真顔で止めました。

あの、ベルギーには行けますよね

侍医は口をぽかんと開けてしまいました。この期に及んでまだ外国に行きたいとは。

まだ1週目か2週目に入る所ですし、恐らくは飛行機に乗られても大丈夫とは思いますが、年齢的な事を考えると賛成は出来ません」

大丈夫なんでしょう?そうよね?ベルギーに行けるわよね

上目遣いににらみつけるような雅子様の視線が怖くて侍医も女官も震えあがってしまいました。

とりあえず、皇太子殿下とご相談を」としか言いようがありませんでした。

 

懐妊の知らせはすぐに皇太子殿下に知らされ、殿下は嬉しそうに「よかった」と胸をなでおろしました。

しかし、雅子様はベルギーへ行くと言い張ります。

でも、雅子、万が一の事があったら」

だって私、自覚症状がないのよ。つわりもないし、お腹も大きくなってない。本当に妊娠したって言える?普段と何も変わらないのよ。だからベルギーへ行けるわ」

雅子・・・・」

皇太子様は困り果ててしまいました。

確かにごく初期と言えば初期ですから大丈夫なのかもしれない。

皇太子様はどうしたらいいかわからず、宮内庁の幹部にだけ相談をしました。

外遊はダメです。中止しましょう」と幹部の一人は言いました。

殿下、雅子様は年齢的な事を考えても今回の懐妊は大事な事です。もし万が一の事があったらどうするのですか

でも、ずっと海外へ行きたがっていたし、本人は大丈夫と言っているし」

お世継ぎになるかもしれないお子ですよ。万が一の事があったら

議論をしている所に突然雅子様がドアを開けて入ってきました。

顔はもう涙にくれています。

私、ベルギーへ行くから。行かせないなんて許せない。ドイツだってダメって言ったでしょ?私がどんな思いだったかわかる?どうしても行かせないなら死んでやるから

雅子様はテーブルを叩き、そのこぶしは皇太子様に向こうとした時です。

わかりました。では侍医を同行させましょう

皇太子様が怪我でもしたら大変です。

その前に雅子様が興奮のあまり流産などしたらもっと大変です。

とんだ修羅場になってしまいましたが、このようにしてついにベルギー訪問が実現したのです。

 

12月3日、皇太子ご夫妻は飛行機に乗りました。

ご懐妊の事は外務省にもベルギー大使にも秘密です。

雅子様は上機嫌で飛行機に乗り込みました。

ベルギーはとてつもない暴風雨でしたが、雅子様は嬉しくて天気の事なんかどうだっていいわと思っていました。

 レセプションでは普通にワインを飲み干しました。

雅子様はワインもシャンパンも大好きだったのです。

王室の方々にも式を前にして会う事が出来ました。

フィリップ王太子は皇太子様と仲良しで話が弾みますし、新しいお妃になるマチルドさんも優しい方です。

国王陛下も王妃様も日本がベルギーと特別仲がよい事がわかっているのでお茶にも呼んで下さいました。

そこで雅子様は話が弾み「日本の皇室は本当に古い体質でベルギーのように開かれないといけないと思います」とおっしゃいました。

それはどんな事が?

そうですね。古い神様をまだ信じていてアニミズムがまだ大きな儀式の中心になっているんです。公務も国内のものばかりで、海外との皇室外交があまり出来ていません。私は皇室外交をする為に皇室に入ったのですが、なかなか外国に行かせて貰えませんでした。だから今回は本当に嬉しくて」

頬を紅潮させ、雅子様はこの時とばかりしゃべくりまくりました。

思えば長い道のりでしたわ。このベルギーに来るまでヨーロッパ訪問が許されなかったなんて、そんな事ってあると思いますか?」

まあ、そうなの。私達、両陛下とはお会いしているけど

両陛下は海外旅行を独り占めしているんです」

これ以上は会話が続かないなと思ったので、王室の方々はシーンとしてしまいました。

皇室外交が出来ると思って結婚したのに、まさかそれより儀式だとか祈りだとかそんな事ばかり言われるなんて。これってまるで結婚詐欺ですわね」

まあ、それはいくらなんでも

となりの皇太子様は聞こえないふりして笑っています。

この時の雅子様の愚痴は、のちに両陛下に伝えられました。

 

1999年12月4日 フィリップ王太子結婚式に出席

 

雅子様は、この日、赤い衣装をお召しになる予定でした。

でも絨毯が赤い事を知って、突如「青の服にします」と言い出しました。

女官達はちょっと慌てました。

雅子様が持っている青の服は、いわゆるロイヤルブルーで、イギリスの王族が着る色です。

今回の結婚式にはイギリスからも出席しています。

彼らを前にしてロイヤルブルーを着るのはまずいのではないかと思われたのです。

でも雅子様は「ロイヤルブルーがイギリス王族専用の色って事はないわ。馬鹿馬鹿しい」とおっしゃってその服をお召しになったのです。

 

その日、雅子様はベルギー大使の兵頭氏に

おいしいレストランはあるかしら」とお聞きになられました。

兵頭氏は「ちょっと遠いのですがお勧めのレストランがあります」とお教えしたのですが、

行きたいわ。予約してくれない?」と言われたので、慌てて電話をします。

OKが取れたので、翌12月5日、兵頭大使の案内でヨーロッパ一小さくて美しい街である「デュルピュイ」に向かいました。

その町は、テレビで皇太子夫妻を見たのか村長まで出て来て大歓迎してくれました。

皇太子様も雅子様も笑顔で応え、レストランに入ります。

兵頭大使は(雅子様は本当に酒が強いな)と思いました。

というのも前日は大使公邸に宿泊したのですが、夫婦でワインを何本も空けます。

皇太子様は酒豪で知られていましたけど、まさか雅子様までとは。

そう言えば、公邸でもムール貝を山盛りにして出したら、手でむいて一生懸命に召し上がってたな。フライドポテトさもおいしそうに召し上がって・・・・

 

レストランでもワインを注文され、おいしい料理を次々平らげていきます。

「こっちのを食べてみる?」と皇太子様がおっしゃると「ええ」と雅子様が答えます。

そこで皿を交換して食べる姿にはシェフ達はちょっと怪訝な顔をしました。

明らかにマナー違反だったからです。

でも皇太子様は「私どもはよく別のメニューを頼んで半分ずつ分けますとおっしゃるので黙っていました。

寒いベルギーの小さな町で雅子様は自分が皇族である事を忘れていました。

でも最高のおもてなしを受けられるのはやっぱり自分が皇族だからなんだと再確認しました。

 

雅子様達は後ろ髪をひかれる思いで7日に帰国。

両陛下はこの時、挨拶に来た東宮夫妻を見て、初めて「懐妊の兆候」を知りました。

なぜ早く言わなかったのだ」と陛下は怒り心頭。

皇后陛下も唇が震える程お怒りでした。

すみません。雅子がベルギーに行けなくなったら可哀想だったので」

世継ぎを何だと思っているんだ?自分の歳を考えなさい」

そう言われると皇太子様は黙るしかありません。

雅子様は「無事に戻って来たのだからいいではありませんか」と言いました。

そういう話ではない。皇太子夫妻には世継ぎが必要、それを最大限に考えないといけない事がわからないかい?

雅子様はぷいっと横を向きました。これだから日本は・・・

 1999年12月10日 朝日新聞スクープ「ご懐妊」発表

その日、小和田邸に取材がくると優美子さんは「もし違っていたら妃殿下がお可哀想」とおっしゃいました。

その予想通り、この10日の段階で雅子様の体は異常をきたしていたのです。

 

 1999年12月13日 宮内庁病院へ

超音波検査をする為に宮内庁病院へ雅子様は皇太子様と一緒に向かいました。

しかし、その時はこれまで誰もやった事のない車にカーテンをつけ、一切中が見えないようになっていました。

小和田氏取材を受け、わりとご機嫌な様子だったのですが、検査の結果「稽留流産」である事をしると、とたんに不機嫌になりました。

両陛下だけでなく、小和田氏も相当な怒りでした。不妊治療の最中にみごもったのに、それを第一義としなかった情けない娘。

しかも、どうやら男子だった様子。

その落胆ぶりは見るも無残なものです。

 1999年12月30日 雅子妃7週目で流産が発表

 

マスコミは大騒ぎしたせいだと雅子様は嘆き、恥ずかしさのあまり、部屋に引きこもってしまいました。

 

 

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録   12

2023-06-13 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1998年3月25日 スペインフェリペ王子来日

外国に行けない雅子様にとってヨーロッパから吹く風を感じるのは、外国の要人がいらっしゃる時だけでした。それだけでもかなり慰められたのは確かです。

このままスペインでもどこでも行ってしまいたい・・・王子を案内しながら雅子様はなんどそう思った事でしょう。

しかし、目の前には「不妊治療」という仕事が待っていました。

 1998年3月30日 葉山静養

雅子様にとって普通の人が出来ることが自分に出来ないというのを認めるのが本当に嫌でした。

精密検査の結果は、独身時代にあれやこれやあった結果などだと思い知らされ、また落ち込む始末です。

けれど雅子様以上に困っていたのは治療を任された堤医師です。

彼は不妊治療の権威ではあるけど、夫婦がどれだけ力を合わせて「妊娠」へ向かっていくかという事が一番大事であり、成功のカギであると思っていました。

しかし、皇太子はともかく、雅子様はなかなか治療に乗り気にならず、ダメと言われている煙草を吸ったりお酒を飲んだりと、まるで思春期の女子のような行いをするのですっかり困り果てていたのです。

しかも小和田氏に厳命されたのが「男子誕生」です。

男子が生まれるか女史が生まれるかは神の領域であって、いくら現代でも産み分けは大変な事です。

 1998年5月13日 赤十字大会

 1998年5月24日 ヨーロッパ訪問の両陛下をお見送り

最初は自然に妊娠するように仕向けていた堤医師も、「これは人工授精しかないのかも」と思い始めました。

女性にとって辛い不妊治療、雅子様は耐えるのが嫌でわざといけないと言われる事をやってしまう。結果的に失敗する。この繰り返しです。

あの人はすぐに流してしまう」とある時、堤医師はぼそっと呟いた事があります。

煙草も止められないしな」と。

だけど、当時の雅子様の心情を思えば仕方ない事だったのかもしれません。

外国の新聞などには「籠の鳥」などと書かれて、「皇室に閉じ込められた哀れなお妃」と言われる。同情されるのは好きですけど、そんな皇室に入れたお父様達を恨みたくなります。

5年後にこういう事が待っているとわかっていたら絶対に結婚しなかったのに。

 

 1998年8月27日 石川県ふれあい昆虫館にて

 1998年9月17日 葉山静養

皇太子様は優しい方で、何でも雅子様のおっしゃることは聞いてくれました。

どこにでも一緒にいてくれるし、何でも望みは叶えてくれる、ある意味理想の夫です。

でも、理想の夫=理想の男性ではない。

心の奥底に潜む欲求不満に雅子様は日々悩みます。

ある日は「何でこんな人と結婚したんだろう」と思い、ある日は「外国にいついけるだろう」と思う。

 1998年10月29日 秋の園遊会

 1998年11月26日 江沢民主席歓迎式典

 1998年12月2日 アルゼンチン大統領夫妻来日歓迎式典

 1998年12月3日 エドワード王子来日

 1998年12月4日 35歳の誕生日記者会見

それでも雅子様は雅子さまなりに公務に励み、頑張っていたつもりです。

でもイライラして眠れない時は、部屋を抜け出して庭を散策するのが日課になっていました。

夜の東宮御所の庭は自然の宝庫です。

鳥や獣の泣き声すら耳に聞こえてきます。

1995年頃、この東宮御所に1匹の犬が紛れ込んで子犬を10匹産み、そのうち8匹を職員に渡し、残った子犬を引き取り「ぴっぴ」と「まり」という名前を付けました。

雅子様は子犬の為に東宮御所の車道を通行止めになさったりときめ細かく配慮しました。

また、野生の狸も夜には出て来ることがあり、雅子様は何匹か保護し、育てたりしていました。

35歳の記者会見では「いま、犬がおり、『夫婦げんかは犬もくわぬ』と申しますけれど、けんかのタネはわりとよく(犬が)拾って食べてくれる気がします」とおっしゃっています。

今や雅子様の心を慰めるのは、紛れ込んだ犬だったり狸だったり・・・・

 1999年1月1日 新年祝賀の儀

新年を迎えても雅子様は一向に懐妊の兆候を見せませんでした。

けれど、さすがに30代も半ばになり、不規則な生活をしていると太ったり痩せたりという事が多くなり、その度にまたも「ご懐妊では」と騒がれる始末です。

 

 サンデー毎日1999年2月7日号 「雅子さまの存在感」

何よ何よ アタシだってグレたいわよ。子供子供って何さ」と、雅子様は心の中で思われたかもしれない。それでも成婚から5年も試練に耐えてこられたのでしょう。最近は腹を据えられたのか存在感もご覧の通りデーンとしたご様子

 1999年2月8日 ヨルダンのフセイン国王の葬儀に出発

そんな雅子様に突如降ってわいたような外国訪問がありました。

それはヨルダンのフセイン国王が亡くなられたので葬儀に出席する事になったからです。

これは雅子様にとって千載一遇のチャンスともいえる出来事でした。

外国、ジョルダン、ああ、懐かしい・・・そんな思いで雅子様はいそいそとお出かけになったのです。

 

 1999年2月20日 北海道公務のついでにスキー三昧

 1999年2月23日 皇太子殿下誕生日

それでも皇太子様はある意味幸せでした。

私たちは言ってみれば、夫婦一緒に共働きをしている、一緒に行動する、そういうような毎日を送っております」

とお誕生日会見でおっしゃっています。

本当の夫婦共働きを知らない皇太子様ならではのお言葉ですが、殿下としては雅子様が次々に新しい「わがまま」を言い出し、それに対応しているうちに、今までに経験した事のない快感を覚えるようになっていたのです。

背徳感とでもいうのでしょうか。

今までしっかりしなくてはいけないと思い込んでいたのですが、雅子様が繰り出す突拍子もないいたずらや言葉はまるで麻薬のように殿下をとらえて離しません。

 1999年4月5日 ルクセンブルク ジャン大公夫妻宮中晩さん会

 1999年4月8日 ルクセンブルク大公国レセプションにて

 1999年4月22日 東京浅草仲見世

浅草に行ってつまみ食いしてみたい」と雅子様が希望された時は、宮内庁は笑ってごまかすしかなかったのですが「それはいいですね。僕も行ってみたいです」と皇太子様が後押しをすると実現しないわけには行きませんでした。

突如、東宮職と皇宮警察は素早く計画を立て、絶対に二人に危害が及ばないように最新の注意を払いつつ、何とか浅草を皇太子夫妻を案内しました。

いくら人払いしようとしても平日の真昼間の浅草です。

庶民が一杯歩いています。

そこにサプライズで皇太子夫妻が現れたものですから、みな一様にびっくりし、どうしようというムードになりました。

野次馬はどんどん集まって来るし、それらを止めるだけで精一杯の皇宮警察。

結局、お二人の回りを取り囲んだのは十数人のSP達で、お店の人はともかく、一般人にとっては大変迷惑な事でした。

それでも雅子様は庶民の街、浅草に来ることが出来たのが嬉しくて、気さくにお店の人に声をかけていきます。

なんと刺激的な事だったでしょうか。

 

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さよなら真風涼帆

2023-06-12 07:00:00 | 宝塚コラム

千秋楽ライブビューイングを見て来ました。

我が家の姫は初めて見たのですが、この「カジノ・ロワイヤル」を見て、初めて「SPY FAMILY」がわかったと申しておりました。

何度も教えたじゃn!って言ったら「ママの話はわかんない」と言われました。

さすがに千秋楽ですからみんな力が入っていたなと思います。

さよならショーは、何かと真風一択でいく感じがしたんですけど、こんなにも長くいたんだなあと今更ながら思いました。

寿つかさですけど、考えてみたら雪組の頃から知ってる。

宙に行くって決まった時「何で~~」って思った記憶があります。

それで15年組長だったのか。これまた長いわ。宙組の最初からいて副組長から組長への道もとんとん拍子で、第一線でご活躍でした。妹さんと共演もありましたし、ご本人は本望だったかもしれないけど、やっぱり専科に残って欲しかったと思いました。

真風涼帆と潤花コンビがもう面白過ぎて。

この二人、本当に漫才したらどないや?

もう・・正直、真風涼帆については書けないよ、と、姫にいったのです。

だって何の印象もないし、特別な何かを感じた事もないしなあ。

褒めようがないんだよね~~でも、姫ちゃんは「星組にいたんだし、せっかくだから書いてあげてよ」というので。辛口で。ファンは見ないで。

真風涼帆92期。予科生の時、本科にいた天寿光希に叱られて惚れる。

そういう人です。

・・・再下級生の頃かな。ロケットの中で一人だけ目立つ子がいてそれが真風涼帆だと教えられた記憶があります。

あまりに水夏希に似ていたので「絶対に姉妹でしょう」と何年も言ってました。

見た目は確かに似ていたけど、中身は全然違ったって感じですが。

星組に配属されるや、抜擢続き。

けれど・・・正直、 新人公演の映像を見ても学芸会じゃないんだからって感じ。

この頃の新人公演のメンバーがあまりよくなくて学芸会のようだったのは覚えています。

2010年の「ロミオとジュリエット」では死を演じていました。

これがまあ、今までの真風涼帆はどこへ行った?というくらいよい出来で。

代表作は「死」ですかね。

この表現力があれば上に上がっても大丈夫だよねと勝手に期待していたのです。

 

メイちゃんの執事」で演じた忍様もまたセリフが少なく、無表情でかっこいい。

見た目重視でいけば真風涼帆は最高にスターでしたよね。

だけど「めぐり会い再び」の脚本家は、1シーズンではセリフ、棒読み?っていうくらいマジでひどいもので、一体どうしたんだ?と。

初主役の「ランスロット」も脇の天寿光希の方がビジュアル的に優れていたし、何よりも演技力が違う。天寿がいなかったらひどい作品になったんじゃないか?と。

ここまで来て、真風涼帆の癖のようなものがわかってきました。

つまりいつまでたっても自分に自身が持てない。

だからセリフ回しがおどおどするし、ショーにおいても華はあるのに咲き切らないっていうもどかしさを感じていました。

オーシャンズ11」のライナスもめちゃくちゃおいしい役だったのに、「飛べ」なかったなあと。

考えてみると真風の上には夢乃聖夏とか、美弥るりかとか「出来る上級生」がかなりいて、元々出世欲がなかったのか、組の中でそれなりに楽しく過ごせればいいかなと思っていたのでは?

宝塚に入ったからといって必ずしもトップになりたいわけではない。

真風涼帆は回りがどう思おうと、マイペースで楽しみたいタイプだったんだと思います。

けれど、これだけのビジュアルを劇団がほっておくわけがなく、星でダメなら宙があるとばかりに組替え。

どうなるかなと思っていたけど、朝夏まなととの相性がほよどよかったんでしょうね。

王家に捧ぐ歌」のウバルドはとてもよいお兄ちゃんって感じで好感が持てましたし、

ヴァンパイヤ・サクセション」は作品自体が面白かった。

シェイクスピア」の時も風格が出て来て、何となく二番手として落ち着いてきましたよね。

王妃の館」の太陽王はコメディだったけど、とても面白くて楽しかったです。

歌唱力も伸びて来たし、随分自信を持つようになったんだなと。

神々の土地」ではまさかのゲイ?の役。そういうのでも自然に貴族的に演じて、ちゃらいけど実は真面目っていう役が染みついた風がありました。

トップになったらさぞや・・・と思ったんですけど、「天は赤い河のほとり」でつまづいた~~という感じでしょうか。

星風まどかと似合わないといういうか、何年経っても兄と妹以上に見えず。

その後は何作か見なかったんですけど、二番手に芹香斗亜、三番手に桜木みなとという順番が全然入れ替わりしないし、本人も馴染んだ人達との共演が続いて、「慣れ」が生じていたのかなと思いました。

 

でも、コロナ期間に入り、緊急事態宣言を乗り越え上演した「アナスタシア」は本当に感動しましたし、真風涼帆はこういう役が似合うんだなと思いました。

色々な組が休演になったりする中で、淡々と上演を続けてくれた事には本当に感謝しかないです。真風のお蔭で「コロナ禍の宝塚」を強く感じたし、それゆえに夢が必要なんだと思いましたから。

大変な時代を過ごし、メンタルを保つのは難しい時もあったのではないかと思いますけど。

真風が変わった・・・と思ったのは、相手役が潤花になった時です。

ポーカーフェイスでも、娘役がぐいぐい押してくるから知らないうちに引きずられて表情が豊かになっているという感じです。

ショーにおいても、デュエットダンスがやっとみられるようになったなと。

そういう意味では潤花様様なんですよ。

彼女と演じた「NEVER SAY GOOSBYE」は我が家の姫いわく「和央ようかよりわかりやすい人物になっている」そうで、確かに霞を食べて生きているような和央さんに比べると、地に足をつけたデラシネだったなと思います。

だけど、いかんせん長すぎたなと思います。

和央ようかも6年やってましたが、2番手がコロコロ変わってそれがある意味、宙組に刺激を与えていたんだと思います。

凰稀かなめも真風と同じように出世が早く、あまり苦労知らずのトップだったけど、でも自分の見せ方は心得ていたし、役を演じる時にちゃんと考えていたような気がするんです。

だけど真風の場合、自分を取り巻く人達が変わらないでいる・・・時が止まった場所にずっといるのと同じのようで、少しも成長しなかったんですね。

しかもセリフ回しに語尾を延ばすというへんな癖が出て来て、春野寿美礼状態。

さらにダンスが手抜きで手抜きで・・・

これが一つの組で長々やる弊害なのか、宙組の気風なのかはわかりません。

真風は真風なりのやり方で宙組を引っ張って来たんだと思いますけど、もうちょっと「男役の型」とか工夫を促すような導き方をしていたらよかったなと思います。

今後、外の世界では恐らく苦労するかと思いますけど、運のいい人はどこまでいっても運がいい。

落ち込んでも誰かが引っ張り上げてくれる。

それを信じて精進して頂きたいです。

紫藤りゅうも星組から宙組へ組替えになって、短い間だったけどよく頑張ってくれました。

星組風の貴公子然した立ち居振る舞いは目立っていたし、もう少し頑張ってくれるんじゃないかと思っていましたけど、しょうがないですよね。

常に気配りが出来る人なので、卒業しても幸せになって欲しいと思います。

 

 

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