ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

皇室ウイークリー

2023-06-11 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

6月2日・・・天皇陛下 → 通常業務

6月3日・・・両陛下 → 岩手県訪問

・県勢概要聴取・昼食

・高田松原津波復興祈念公園供花

・奇跡の一本松視察

・東日本大震災津波伝承館視察

・国土緑化運動・育樹運動ポスター原画コンクール等入賞作品を見る・懇談

・復興状況等視察

・キャッセン大船渡視察

・第73回全国植樹祭式典出席・植樹

6月5日・・・天皇陛下 → ヴィオラスペース鑑賞

6月6日・・・天皇陛下 → 勤労奉仕団に会釈

             通常業務

      一家 → 養蚕(ご給桑、毛羽とり、繭切り)

6月7日・・・一家 →養蚕(上蔟)

 

皇嗣家

6月2日~3日・・・両殿下 → 福岡県訪問

・TOTOミュージアム視察

・熱帯生態園、ひびき動物ワールド視察

・県政事情聴取

・「みどりの愛護のつどい」記念レセプション

・「第34回「みどりの愛護」のつどい」式典出席

・誓いの言葉宣誓者・活動事例発表者・受賞団体代表との懇談

・九州地方における花と緑に関する取組パネル展示ご覧、高校生による会場緑化装飾ご覧、記念植樹

・昼食会出席

・旧安川邸視察

6月2日・・・佳子内親王 → 誰もが読書できる社会を目指して」について説明を受ける

6月3日・・・佳子内親王 → 日越外交関係樹立50周年記念事業「ベトナムフェスティバル2023出席

6月7日・・・両殿下 → 「2023年度日蘭協会懇親会」出席

                     佳子内親王 → 産経児童出版文化賞の贈賞式出席

 両陛下はなんと供花の時、花を持っていかず、慌てて後ろから女官が花を持って駆け付けたんですね。レセプションも昼食会もなく・・・お立ち寄りだけがやたら多い。

 ヴィオラスペースでは天皇は「時々一人で弾いています」と言ってました。寂しいですね。誰も聞いてくれないんだ~~~60歳を過ぎて、孤独な老人になりつつあるんですね。

 三笠宮百合子妃殿下 100歳に 

6月4日 100歳のお誕生日を迎えられた百合子妃殿下。

おめでとうございます。というか、本当にお元気そうでなにより。

でも信子妃には冷たすぎやしませんかね?

いくら彬子女王が可愛いったって、祖母が甘やかしてはいけないのでは?

まあ、皇室がどんどん崩れていくのを見なければならないのも苦痛かもしれませんが。

 

 

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両陛下 インドネシアへ  閣議決定

2023-06-10 07:00:00 | 皇室報道

訪問1週間前に閣議決定とは・・・・オランダ戴冠式は2週間前でしたので記録を更新してしまいました。

当たり前ですが、相手国にとっては大迷惑。

先ごろ、高島屋の写真展を見に行った一家は、夜の8時半に出発して11時半に帰ったと正式発表されました。

店員さんの残業が~~というい問題ではなく、非常識な時間帯で、酒を飲みに行くんじゃないんだからと言いたい。

天皇ってそんなにお偉いの?って思いますよね。デパートは7時閉店なのにまてどくらせど天皇一家は来ないって。

そして。今度はインドネシアですよ。

6月17日から23日まで両陛下はインドネシアを訪問。

それが決まったのが1週間前の9日っていうのはわざとですか?

しかもスケジュールが酷い。

6月17日 出発

6月19日 ジョコ大統領と会見 現地人に会う

6月20日 カリバタ英雄墓地供花

6月21日~22日 天皇単独でボロブドゥール遺跡で有名なジョグジャカルタ訪問

6月23日 帰国

何しに行くのか全然わからない・・・・晩さん会は行われず昼食会のみ。

主席随行には福田康夫ですよ。これはもうお目付け役としか思えない。

元総理が主席随行員になるなんて。(福田家は小和田雅子入内の裏で動いていましたから)

国際親善というわりにはスカスカスケジュールで皇后はあっちの国でも休養とは。

結婚30年では記者会見もなく、皇族方からのお祝いもなく、ただ天皇が文書を出すに留めました。

全文掲載はやめます。文章が拙すぎて書くのも嫌。

ただ「雅子」連発はやめた代わりに「二人で」という言葉が出て来ました。

これは雅子さんが作ったものではなく、別人の文ですね。

この30年間に我が国と世界は大きな変化を経てきましたが、そうした道のりの中で、たくさんの方からの助けを頂きながら、二人で多くのことを経験し、互いに助け合いつつ、喜びを分かち合い、そして時には悲しみを共にし、これまでの歩みを進めてこられたことに深い感謝の念を覚えます」

いやいや、侮辱され約束を反故にしたと責められ、いいなりになるしかない30年だったなあと感慨深いんじゃないですか?

喜びを分かち合うというより押し付けられた感ありで誰に感謝するのかな?

上皇上皇后両陛下が、常に国民の幸せを願われながら、心を込めてお務めに取り組んでこられたお姿を私たちも拝見してきましたが、そうしたなさりようを心に刻みながら、今後とも国民の幸せを願い、二人で協力しながら務めを果たしていくことができればと考えています」

・・・と言っておけば間違いないという文章です。

具体的に何がどうというのがないって所が、そもそも考えてもいないんでしょう。

 

愛子も成年を迎え、少しずつ皇室の一員としての活動を行うようになりました。

愛子は、私たちの生活を楽しく和やかなものにしてくれるだけでなく、愛子が学び、経験する一つ一つのことが、私たちにとっても新たな学びへとつながっていると感じます」

愛子内親王は一度も公務なんてしてませんが。

愛子=楽しく和やかに つまりペットと同じなんですよね。夫婦の間を取り持つペット。

東日本大震災がどうの、社会が変わるのがどうのとか壮大な事を言う前に、自分の家族が、時間を護ったり、規則正しい生活を送る事をまず目標にされたらいいと思います。

今のような生活は天皇の体にはよくありません。

やっぱり昼間に動いて夜は眠らないと。夜にごそごそ鑑賞公務をするなんてもってのほかです。

 

御料牧場での写真も公開されましたがネットでは「ただの農家」「こんな写真を見せられても」の意見が多いです。私もそう思います。

本当は天皇はこういう事が苦手だろうし嫌いでしょ。悠仁殿下が軽々とやってるから張り合ったのか?なぜマスクしてるの?

こおn白づくめの防護服にマスク姿なんて皇族とは言えないんじゃないですか?

トラウマがぶり返しそうなスタイルですけど。こういう経験を今頃になって嬉々としてやってる事が問題なんです。

「牧場はうちの庭です」と言いたいのかしら?

「秋篠宮けは来るなよ」とけん制しているのか?

牛にミルクあげて鶏の卵とって、いちご狩りしてタケノコ掘って、馬にエサあげて大根収穫したぞ~~~小学生の遠足をゴージャスにして「一般庶民と同じ事やってみました」という自慢かな。

プチ・トリアノンにこもるアントワンネットの気分?

あーら皇后陛下、馬アレルギーじゃなかったの?

あれはあの時だけよ~~薬飲んで治った?

そして養蚕まで親子でやる。

家庭円満でしょ?

一般庶民は牧場行ってもなかなか経験出来ない事をしてのけて、養蚕も家族が手伝うのが常になって。

こんなもの見せられて「敬愛」出来るかと。

日々退化していく天皇一家、来年は幼稚園生になっているかもしれない。

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祝!成婚30周年 雅子様語録 11

2023-06-09 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

新しい年を迎えると、雅子様もいい加減皇室行事のサイクルがわかってきます。

正月の新年祝賀の儀から一般参賀、講書始の儀、歌会始の儀など、また来てしまったというような感覚で雅子様はますますやりたくない事が多くなってしまいました。

という事で「風邪」を理由に、様々な行事をお休みになります。

すると、マスコミは「これはご懐妊に違いない」と騒ぎ立てます。

その度に「やっぱり違った」とがっかり感一杯の記事を載せ、「今回もダメだったのか」と誰を責めているのかわからないような流れになりつつあります。

宮内庁としてはとにかく、雅子様には予定されている公務にはきちんとお出ましを頂きたいと思っています。

それなのに、「この公務は出る、この公務や嫌」と自分の好みを主張され、それを横で見ている皇太子様が黙って「雅子の好きにさせて下さい」などとおっしゃるものですから、灯具職は振り回されて大変な状況になりました。

一度は、欧州訪問が予定され、雅子様も乗り気で楽しみになさっていたのですが、「今、ヨーロッパへ行かれてもあの雅子様では全ての行事をこなす事は出来ない」と判断され、秋篠宮へ流れたりすると、がっかりよりう怒りしか湧いてきません。

 

 1997年2月20日あきた国体

この時も寒いのを我慢して国体に出席したのに「ご懐妊ではなかった」と書かれ、激しく傷つきました。

 1997年2月23日 皇太子誕生日

 1997年3月14日 外務省主催アジア・ヨーロッパ青少年リーダーシンポジウム

外に出るのが苦痛の時は「お休み」しますが、その理由を東宮職は「風邪」と発表するのでいかにも嘘っぽく、誰も信じません。

雅子様は「懐妊を期待されるのも嫌」であり「懐妊するのも嫌」であり、「不妊かどうか調べる」のも嫌で、回りとどんどん対立していきます。

東宮職の侍医達は何とか雅子様に検査を受けて頂きたいと訴え、せめて1か月のサイクルだけでも教えて欲しいと言うと「プライバシーの侵害」と言い、「皇室ってなんて所なの」と怒り出します。

いくら「東宮妃である以上はお子を儲けるのは当然」という考え方は何年経っても受け売れられるものではないし、そもそもは子供など欲しくないのですから、通じる筈ありません。

 1997年5月 那須静養

とにかく、異例の静養を作り、夫婦で仲良くしてほしい。そして自然にお子様が出来る環境を作らないといけない。

宮内庁の方はもうこの方法しかないものと思っています。

根本的には雅子様に結婚前に「後継者を生むことが義務」と教えなかった皇太子様が悪いのではないかと誰もが思いましたし、ここに至ってまだ「雅子様ファースト」を貫く皇太子様にはみなげんなりとしていました。

 1997年5月30日 英国アレキサンドラ王女主催の船上パーティへ

事が段々重さを増してきた頃、小和田家の父君がアメリカから帰国しました。

小和田家としても雅子様がこれ以上、不妊かどうかの検査を拒否するのはよくないと思っていました。

「いい加減に医者の診断をあおぎなさい」

と父君は厳しくおっしゃいました。

私のせいだっていうの

お前のせいかどうかなどどうでもいい。とにかく原因があるなら取り除いて子供を産めばいい」

そんな風に言われると雅子様は黙ってしまいます。

昔から父君に叱られるのがとにかく怖かったのです。

秋篠宮に先を越されてもいいのか?考えてもみろ、あちらに男子が生まれたらこっちの立場はどうなる?お前はそれを考えた事があるのか?安穏として皇后になれるなどと思うなよ。もうこれ以上失望させないでくれ

父君が思わず口走ってしまった言葉。

かつて父君は雅子様に大きな期待をかけていました。

元々は男子が欲しかったのですが、残念な事に雅子様のあとに生まれたのも女児の双子。

だからこそ一層長女の雅子様には期待をかけていたのです。

しかし、雅子様はお小さい頃から決してご優秀というわけではなく田園調布雙葉には2度落ちてしまいました。

その時も失望したし、せっかく入った学校でも部活で問題を起こすし、結果的にアメリカに行かせないといけない事になり、その度に父としてコネを最大限に使ってハーバード大出と、外務省入りの肩書を与えたのです。

そのおかげで皇太子妃にもなれたというのに、少しも懐妊の兆しがない。

これは一体どういう事なのだ?

小和田氏としては「マイドーターイズプリンセス」と言うのが楽しみの一つであり、やがて、「天皇の祖父」になるのが夢なのです。

権力、そして権威を持てば家柄重視主義の世の中を変えることが出来ると本気で思っているのです。

ここまで待って雅子様に懐妊の兆しがないという事は、後がないというのと同じ。

いい医者を見つけてやるから」と雅子様を説得しました。

 1997年7月3日 ナイチンゲール紀章式

いつもどんな時でもきっちりとしている秋篠宮妃には嫌気しか感じない雅子様。

学習院ごときで二人も子供を持って・・・実際はそれすら出来ない自分に自己嫌悪を感じていたのです。

 1997年7月15日 沖縄県訪問

 1997年8月7日 那須静養

 1997年8月17日 裏磐梯静養

 1997年9月4日 小和田静(父から祖母)の葬儀

雅子様は検査を受けるにあたり、散々うるさく言っていた侍医の長を首にしました。

「お父様が連れて来るドクターしか信じられない」というのがその理由でした。

こうして白羽の矢が立ったのが東大で不妊治療の権威である堤医師でした。

 

 1998年1月1日 新年祝賀の儀

 1998年1月2日 一般参賀

 1998年1月23日 ウェセックス伯エドワード王子来

 1998年2月2日 IOCサマランチ会長と

 1998年2月19日 ノルウェーのホーコン皇太子と

 

堤医師に課されたのは「何が何でも男子を懐妊させよ」という命令でした。

どんな手を使ってもよいから男子を・・・というのが小和田家の意思です。

というくらい、雅子様の不妊症は切羽詰まっていたのです。

また小和田氏はマスコミを巧みに操作し始めました。

国民の大方はすでに東宮夫妻には興味を失っていました。

なぜって、いつも「静養」としているイメージかなかったからです。

でも、それをいい事に、「雅子様には長男の嫁としてプレッシャー」があると喧伝します。

一方で紀子様の事は「気楽な次男の嫁」と貶めます。

「長男の嫁」「次男の嫁」の対比は主婦たちには興味を持ちます。

実は紀子様は「次男の嫁」として気楽な日々を送っていたわけではありません。

佳子様が生まれて以来、末端宮家には「東宮家より先に子供を産むなんて」と言われて傷ついたものの、何か言えばまたそれが誹謗中傷の的になると思い、紀子様は耐えました。

紀子様に出来ることは日々の公務をこなし、家庭を保ち、お子様方を躾ける事のみ。

特に眞子様は長女であり、紀子様にとっては初めての子育てという事で、間違いがないように小さい頃から厳しく躾けられました。

眞子様が何か粗相をすれば「だから次男の家は」と言われます。

後ろ指をさされる事は殿下にとってもマイナスになってしまう。

そう思うと紀子様は常に唇を真一文字にして、悲しくても笑わなくてはいけない。

眞子様もそんな母君を気遣って、両陛下の前でも東宮夫妻の前でもお行儀のよい完璧な内親王でした。また、妹を可愛がるよいお姉さまでもありました。

 1998年2月23日 皇太子殿下38歳の誕生日

 記者会見で皇太子様は

結婚しましてから,本当にあっという間に月日がたったというのが率直な印象です。雅子には皇太子妃として,そして妻として本当に良くやってくれていると心から感謝しております。

また,雅子が結婚前に経験した様々なことは,今の生活においても本当に有益なものと思っております。それから忙しい中ではありますけれども,本当にくつろいで,そして憩いのある場を持つことができるということを,本当にうれしく思っております。

それから,料理の話ですけれども,本当に忙しい公務の合間をぬって料理を作ってくれることがありますが,大変おいしいです

今後のこととしましては,二人でそろって力を合わせて国民の幸福を願い,そして日本の国にとって,そして社会にとって重要と思われる事柄にも心を寄せつつ,二人で精一杯公務に励んでいきたいと思っています」

皇太子様としてはここは嘘でも何でも雅子様をたてなくてはなりません。

皇后陛下はそんな皇太子様が不憫で不憫でなりません。

雅子様を妃に迎えた事は人生の中で一番の失敗だったと気づきましたが、もう遅いです。

まるで蜘蛛の巣にとらわれたように皇太子様は雅子様にとらわれてしまったのです。

こうなってくると、それを庇ってやるしかない。

皇后陛下は今までよりなお一層皇太子様の事を思うようになりました。

もはや目の前の孫よりも、公務に忙しい日々を送る秋篠宮よりも、皇后陛下にとって大切なのは皇太子様です。

その皇太子様を護ると言う事は、ひいては雅子様を護る事だったのです。

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録   10

2023-06-08 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

結婚3年目を迎えた雅子様を襲っていたのは強烈な虚無感です。

皇室外交とかいいながら中東に2度行ったきりであとは国内をあちこち歩くだけ。

しかも、いつも人に見つめられ、苦手な事をあれこれさせられる。

雅子様の不得意なこと

人前で話す みられる

・興味のない話をしなければならない

・礼儀作法

・歌を詠む

・場の空気を読む

・場にふさわしい言葉を発する

苦痛が顔に出ているよ・・・とどこかで誰かに言われているような気がする。

 1996年1月12日 歌会始めの儀

雅子様が詠んだのは「もろ手もちひたすら花の苗植うる知恵遅き子らまなこ輝く」

で、これは発表する事を止めた方がいいと言われました。

どうして

知恵おそき子」という言葉が少し差別的に思えるからです。以前はそんなに問題にはならなかったこの言葉も現代では少々問題があるのでこの歌ではないものを」

これ以外の歌なんて詠めないから

雅子様は紋切り型にそういうと、ぷいっと横を向いてしまわれた。

障害者施設での子供達が一生懸命に花の苗を植える姿がよかったと素直に詠んだのに、ケチを付けられて雅子様はかんかんになってしまいました。

結局そのまま発表されたのですが、わざわざ障害者を「知恵遅き子」と呼ぶのは、どこか上から目線で侮辱的に聞こえたのではないかと。宮内庁ははらはらしながら聞いていました。

もし、お子様がいたらもう少し「知恵遅き」と呼ばれる子の身になって考えるのではないかと。

 1996年1月17日 阪神大震災1周年の追悼式典

早いもので、あの震災から1年。

という事は中東訪問から1年経過したと言う事になります。

1年も外国に行ってない・・・雅子様にとってはありえない出来事でした。

嫌々ながら被災地に行った事が思い出され、それを懐かしい中東へ思いを寄せることで乗り切ろうとした雅子様はうっすらと微笑んで式典に臨んだのですが、その「笑み」がこれまた「辛い思いをしている人達を見て笑った」と言われ、雅子様は本当に嫌になってしまいました。

 

 1996年2月23日 皇太子36歳の誕生日

誕生日の記者会見でも「ご懐妊」については触れられず、雅子様はただ「子供の事もかんがえなくちゃいけないのはわかってるけど、それ以上に私に課せられた皇室外交の仕事をしなくてはと思うのです」と答えました。

 

「雅子妃のこと」は実は宮内庁でも千代田でも大きな問題になっているのです。

それは、一向に「懐妊」の兆しが見えないこと。

早くおめでたで紙面を埋めたい週刊誌などは、理由もなく雅子様が懐妊しない事をどう+思考で受け止めたらいいのかわかりませんでした。

「不妊」と言ってもいい頃です。

だけど、それを記事にするわけにはいかない。

だから「雅子様はひどいアトピーがあり、その治療の為に強い薬を使っていたのでご懐妊なさいませんでした。でも、治療も終了したので今年こそは」という憶測記事を載せる始末。

そして何とか「女帝」を容認させ、皇室を根本から変えたいと思っている連中は「女帝の事はどうなのか」と宮内庁長官に詰め寄ります。

今なら眞子様が女帝候補。

皇太子に子がなくても「眞子がいるではないか」と天皇がおっしゃったというのです。

女帝はありません」と長官は何度も記者達に語りました。

本当に何度も・・・・でもそれもいつまで。

今、秋篠宮両殿下には「お子を持たないように」と皇后陛下からきつく言われている中、早く皇太子夫妻に親王を持って頂かないと皇室が滅んでしまう。

宮内庁の危機感は増すばかりです。

この結婚は失敗だった

思えば1年前から宮内庁ではそう言われていました。

親密になるどころか、雅子様が皇太子様を振り回しているような夫婦関係。

どんなに教えても礼儀作法やしきたりを覚えない事や祭祀を軽く見て「やる意味がない」とおっしゃり拒否されている事など。

ちょっと・・・」と女官が詰め所に来て、女官長に「大変な事になってます」と伝えました。

「どうしたの」女官長は、また何か?と思います。でも今日は皇居でお食事会だから何も起こらない筈。

もうすぐ東宮様達はお帰りになるのですが、何でも雅子様が泣いているとか」

「泣いてる?」

そうなんです

「原因は何?」

さあ・・・」

雅子様が気が利かないというのは有名な話です。

お客が来てもお茶も出さない。茶たくに乗せないとかへんてこなしきたりを作ったり、天皇陛下とのお食事会でも、お茶を継ぎ足したり、取り皿に乗せたりとかいがいしく働く紀子様は紀宮様に比べて雅子様はただ黙々と食べているだけです。

陛下が「東宮妃はどうなの?」とご質問されても返事をしない事もあり、紀宮様は「陛下がお呼びですよ」と声をかけ「え?私?」と答えた事もあります。

そんな雅子様にはもう慣れっこになっている筈の皇族方なのに、雅子様が泣くような事態になるとは?

あの・・・陛下がやんわりと雅子様が懐妊しない事に触れて、出来れば診断と治療をうけるようにとおっしゃり、「みんな待っているからね」と。そしたらいきなり雅子様は立ち上がり「私の回りにそんな事をいう人は一人もいません!」とお答えになったそうです。

私に原因があるって思ってるんですか?それって男女差別ですよね。もしかしたらそちらかもしれないじゃないですか」って。

皇后様は「陛下に向かって失礼ですよ。そちらとはなんですか」と厳しくおっしゃると、雅子様はより激して「不妊の原因が女性にだけあるというのは偏見です。今は男性に問題があるという事も多いです。特に天皇家って近親婚を繰り返していたそうじゃないですか」と言ってはならない事をおっしゃったのです。

その場にいた女官も侍従も固まったそうですよ。

陛下は気分を害し「私達はちゃんと3人いる」とおっしゃいました。

陛下がそこまでおっしゃるのは稀な事でみな恐縮し、黙ってしまいました。

秋篠宮も・・

だから私に責任があるっていんですか!信じられない」そして雅子様は泣き出したそうです。東宮様もちょっと怒って「雅子は悪くありません」とおっしゃって。女官長、どうしましょう」

ああ・・・・」女官長は座り込みたい気分になりました。

とりあえず、お部屋ですぐに眠れるようにして。侍医を呼びましょう

 

宮内庁ではこの問題を大きく捕らえました。

夫婦に何も問題がないのに3年不妊が続けば「不妊症」を疑い、検査を受けるというのはよくある話。

まして東宮妃であれば積極的に検査を受けるなり治療を受けるなりすべきなのに、「自分は悪くない」の一点張りで先に進みません。

事が事で微妙ですし、すぐに小和田家に伝わって優美子さんから叱責の電話が鳴ったりと面倒な事が多いのです。

そこで宮内庁は、いつもより東宮夫妻の静養を多くする事で、機嫌を直してもらおうと思いました。

 1996年4月6日 葉山静養

 1996年4月9日 歌舞伎鑑賞

 1996年4月26日 会津若松静養

 1996年6月29日 葉山静養

7月後半には山梨インターハイへお出ましになりましたが、退屈な行進なんかほっといて、雅子様はひたすら皇太子様に語りかけて時間を潰しました。

 1996年8月1日 山梨県坊ケ峰ふれあいセンターにて

 

その後、ワイン蔵にも行くことが出来てその時だけは雅子様も上機嫌でした。

 1996年8月 北海道訪問

 1996年9月15日 大相撲秋場所観戦

 1996年9月20日 オペラ鑑賞

 1996年10月22日 ベルギー国王夫妻を迎える

ベルギー国王夫妻と王太子の訪問は雅子様にとって特別に素晴らしい出来事に思えました。

王太子は背が高くて恐ろしくハンサムだったからです。

わくわくしてお出迎えを待つ間も黙っていられません。ついつい「どんな人かしら」などと話してる間に国王夫妻が登場。

(またやっちまった・・・)宮内庁職員は思いました。

 雅子様は王妃様とすっかり同じ格好だったからです。

 

 1996年10月27日 広島訪問

広島の原爆については雅子様だって知っています。しかし、それが皇室にとってどんな関係があるかはわかりません。

供花したからって誰が喜ぶのかなと思いつつ、つい微笑んでしまう。

雅子様は外では笑っていれば大丈夫と思い込んでいたのです。

原爆ドームを視察しても「へえーー気持ち悪い」くらいにしか何も思いませんでした。

 

 1996年11月7日 御料牧場静養

 週刊女性 1996年11月19日号

雅子さまに身内いじめ 雅子様は宮内庁長官に何度も叱られた」とのイタリア報道を徹底検証」

この頃には、イタリアだけでなくアメリカやイギリスやドイツなどでも「雅子様はうつ状態」「雅子様の姿が消えた」などの報道が相次ぎました。

鳴り物入りで入内したキャリアウーマンが3年も経つと存在感をなくし、数々の失敗に皇室の中で孤立していると言ったような内容です。

国内でも静養ばかりする皇太子夫妻に疑問を感じるような報道が目立ち始めました。

 

 1996年12月9日 雅子さま33歳

単独記者会見が苦手な雅子さま、今年は逃げられませんでした。

「伝統的な・・皇太子妃のあり方・。・・と自分らしさの調和、なり、バランスのよい接点を見出していくには、苦心も致します」

「国民と共に歩んでいく皇室というものが大切でございます・・ので、その為には、国民のみなさんがその時々でどのようなことを皇室に期待し、また、どのようなことを望んでいるのかということを常に念頭に置いていかなければと思います」

最後はもう何を言ってるのか自分でもわからなかったし・・・「期待」「望む」もおおむね同じ言葉という事も気づきませんでした。

記者達が質問しつつもわけがわからない顔をするのが嫌で、心の中では「馬鹿」と呟いていたのですが、顔は歪んで映像を見るととんでもない姿に見えました。

 

今の所、海外のマスコミも日本のマスコミも「皇室の旧弊なしきたりがキャリアウーマンで優秀な雅子様の個性を殺している」という報道ですから、雅子様にとっては痛くもかゆくもない、むしろ歓迎すべき報道でした。

そう、私は元キャリアウーマンで外交官で英語が話せる優秀な人間なのだ。

なのに子供を産めと強制する皇室が悪い。完全に悪い。

雅子様の心の中ではそれが信念のようになっていました。

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  9

2023-06-07 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

阪神大震災のお見舞いに関しては千代田でも意見がまちまちでした。

「すぐ行くべき」と「まだ無理」の2択です。

大規模災害時に静養していた両陛下は批判され、責められるのを最も嫌う皇后様はすぐにでも被災地に行くべきと思いました。

しかし、その頃、皇后陛下は週刊誌の記事が原因で「失声症」になっており、お声が出ない状態では公務を続けるのは難しいのではないかと言われていたのです。

だから先に東宮夫妻が被災地に赴くのもよいではないかという意見もありました。

しかし、皇太子夫妻は動こうとしませんでした。

理由は当然のごとく「他の公務で疲れているし、被災地には行きたくない」と雅子様がお考えになっていたからです。

「皇室での自分の役割、それは外交」と思いこんでいる雅子様は絶対にその信念を曲げようとしません。というか、「外交」を約束されたからこそ結婚を承諾したのです。

被災地などへ行くのは、他の人でもいい筈と思っていました。

1995年1月31日。とうとう両陛下が被災地を訪問しました。

それまで、被災地では立ってのお声がけだったのですが、両陛下はスリッパを脱いで座り込んで話を聞くと言うスタイルを編み出しました。

それが本当によかったかどうかはわかりません。

でも、その当時は感動した被災者も多かったのです。

 1995年2月8日 ダイアナ妃が来日

これは雅子様にとってサプライズな喜びでした。

何と言ってもあの有名なダイアナ妃の隣りに立つことが出来るのです。

雅子様は嬉しくて「これこそが皇室外交」と思いました。その日の為に一生懸命に洋服を考えたのですが、デザイナーたちは「こういう時期ですので黒がよろしいのでは」と言います。

黒なんて・・・雅子様はよい事を思いつきました。こっそりダイアナ妃来日時に着る服を行き来出して、同じ色の服を作らせたのです。

背丈が180もあるダイアナ妃が東宮御所にいらした時はもう嬉しくて嬉しくて笑顔が止まりませんでした。

だけど、ダイアナ妃は観光に来たわけではないのです。

被災地にお見舞いに来たのです。

ダイアナ妃は早速被災地に足を運ぼうとしたのですが、千代田から「実は皇太子夫妻がまだ被災地訪問をしていないので遠慮して頂きたい」と言われたので仕方なく諦めました。

日赤訪問も最初は「皇太子夫妻が・・・」と言われたのですが、皇后陛下の特別のお計らいでダイアナ妃の訪問が実現しました。

イギリスからわざわざ震災のお見舞いの為に駆けつけてくれたダイアナ妃。

それを考えると、日本の皇太子夫妻がいつまでも被災地にいかないわけにはいきません。

 1995年2月26日 被災地入り

皇太子夫妻はやっと被災地市を果たしました。

皇太子様はいつものように笑って手を振るし、雅子様も颯爽と歩きます。

みな恐縮して頭を下げていますし、侍従たちも本当に辛そうなお顔をしているのですが、皇太子様も雅子様もまるで異世界ワールドに迷い込んだかのような錯覚を覚えました。

勿論、避難所では膝をついて話をしたのですが、あまりごみごみしているとダメだと言う事で、一時的に避難者は外にだされ、話をする人も決められました。

雅子様は出来るだけ笑顔で話しをしたのですが、これがなかなか難しい。なんといっても体育館は寒いし、服は汚れるし内心では早く帰りたいとすら思っていました。

 それでも自分がいることで回りが涙ぐんでいるのを見るのはいいなと思いました。

「ありがとうございます。こんな所まで」と言って貰えるんですから。

続けざまに3月5日は宝塚市を訪問。こうなってくると新しい服を着ていくのは無駄です。

雅子様はいつも同じ服装で、しかも古いバッグを持ちました。

そうすれば汚れも気にならないし、あとは捨てればいいのです。

 そうは言ってもこのだぶだぶの服装が「ご懐妊ではないか」と言われた時には傷つきました。

別に太っているわけじゃないのに失礼だわ。

3月には秋篠宮夫妻が大阪を訪問。

佳子様を出産してすぐであるのにまだ皇族が足を踏み入れてない大坂を訪問。

それこそ被災地の人達はこぞって秋篠宮夫妻の回りに集って来ました。

そんな報道を見ると、どういうわけかとても腹が立つ雅子様です。

 

それでも被災地訪問が一段落したので落ち着いた雅子様なのですが、その後の公務もつまらないといったらありませんでした。

外国へ行きたいと言っているのに、宮内庁はそういう仕事を持って来ません。

むしろ両陛下や秋篠宮ばかり外国に行きます。

なぜなんだろう・・・と思っていたら、それは「ご懐妊が先」という宮内庁の考えだというではありませんか。

私は子供を産みに皇室に入ったんじゃない」と侍医や女官に言った事もあります。

でも、返って来るのは「お子様を持つのは妃殿下のお務めの一つです。お子様のいない宮家は亡びるだけです。常陸宮家や高松宮家などを見ればおわかりでしょう。三笠宮家も高円宮家も内親王しかいらっしゃいません。このままでは皇統の危機なのです。どうか今は海外ではなく皇族としての務めを優先して頂きたい」

という言葉のみです。

こんな言い方をするのは、宮内庁は自分を「不妊症」だと疑っているのではないか?

雅子様はそう思いました。

失礼な話です。子供なんて産もうと思えばいつでも産めるし、学歴も勉強も必要ない楽な仕事です。自分のようなハーバード大出の人間に普通の人がやるようなことを要求するというのは一体どういう事なのか。

この事については皇太子様とも話し合いました。

皇太子様は「子供は可愛いんじゃないかと思うけど・・・」

馬鹿じゃないの。誰も彼も子供って

秋篠宮家にも2人いるし」

学歴がない人は子供を産む事に逃げるのよ

そこまで言われてしまっては皇太子様も何も言えません。

そうでなくても日頃から「学習院出」と小ばかにされている状態です。

それは小和田家に行った時も同じで、「学習院の偏差値はいくつだったかな」などと義父に言われて何となく嫌な気がしたのを覚えています。

何で今なのよ。今じゃなくてもいいでしょ」と雅子様はつんとして部屋に入る。

日々、そんな事が繰り広げられていました。

 1995年5月24日 日赤大会

 1995年6月22日 ナイチンゲール紀章式

この頃、雅子様は皇族方と何かに主席する時は、必ず誰かの服とそっくりに作る事にしていました。

その理由は「同じ服なら批判されない」と思っていたからです。

寛仁親王妃の信子様は何度もこれをやられて、「心を病んでしまった」と言われる程です。

色や形、どういうものが公式行事で正しいのかわからないのです。

わからないから真似する。教えてくれない東宮職が悪いのです。

でも、教えないのではなく聞き入れないのが雅子様のスタンスとわかっている職員は、「これは間違っています」とはもう言えなくなっていました。

そんな事をしてご機嫌を損ねると公務に出て貰えないかもしれないから。

だから、言われた通り、同じ衣装を作らせないといけません。

でも

 1995年7月4日 マンデラ大統領来日の晩さん会

ここで、紀子妃そっくりのドレスに身を包んだ雅子様を見た時は、みな唖然としてしまいました。

どちらがどちらをまねたものか、顔を見ればわかります。

水色のドレスは色白の紀子妃によく似合っていますが、雅子様は同じデザインのドレスを、紀子妃よりもよい生地でしかも派手に作り、さらに紀子妃が持っていないだろう高級なネックレスをつけて現れたのです。

紀子様は今にも泣きそうなお顔をされましたが、じっと耐えておられました。

雅子様はそんな紀子妃を見ると、ちょっと得意になりました。

意地悪ではなく、ちょっとしたいたずらなのです。女の子がお揃いの服を着る姉妹コーデのつもりだったのですが、皇后陛下始め、皇族方はみな固まってしまいました。

ご自分がせっかくの空気を壊している事には少しも気づかない雅子様でした。

 

そんな雅子様にぴったりの公務が巡って来ました。

それは単独で行う初めての公務で

 1995年10月19日 CWAJ版画展セレモニー

における英語のスピーチです。

英語がお得意な雅子様にはまさにぴったりと思われた公務でしたが、どういうわけか雅子様は大変緊張され、手も震え・・・そして「ちょっと一人にして」と部屋にこもられました。

英語を話す事は得意。でも、人前で話すのは苦手。

視線を感じると心臓が鳴りだし、手が震え唇が震えてしまう。もう帰りたい・・・そう思いましたが、時間は待ってくれません。

仕方なく雅子様は一生懸命に体の震えを抑えてスピーチに臨みました。

Ladies&Jentleman・・・

雅子様は一生懸命に喋ったのですが、原稿があるにも関わらず、もう二度とこんな事はしたくないと思いました。

雅子様はそもそも人付き合いがいいとは言えない性格です。

相手に何をどう話したらいいのかわかりません。

だから、特に園遊会のような催しは大嫌いです。

 1995年10月25日 秋の園遊会

だからつい会話も途切れがちになって、あっちこっちあらぬ方向を見る羽目に。

またも気が塞いで来た雅子様を元気づけるようにと、宮内庁は登山を計画。

 1995年11月9日 雲取山へ登山

遊ぶ時は絶対に機嫌が悪くはならないので。

そうは言っても、誕生日が近づくにつれ「記者会見」という問題が出て来ました。

雅子様は、この間のスピーチのような経験はしたくないと思ったので、記者会見は断り、一方的な「お誕生日にあたって」という文章を出して終わらせようとしました。

 1995年12月9日 32歳の誕生日

ところが、マスコミは黙っていません。

今まで皇后陛下が皇太子妃の時は毎年記者会見してきたのに、これでは「開かれた皇室」とは真逆ではないかと。

要するに雅子様が出した文章はご自分が書いたものではないでしょうとまで言われたのです。

確かに自分で書いたわけではありません。

雅子様は実は文章を書く事も苦手だったのです。

まとまりのない感想を宮内庁に出し、文章にして貰っただけです。

でもマスコミは怒ってしますし、宮内庁もまさか「雅子様が嫌がっている」とは言えず、

何とかしようと計画を立てました。

すなわち、東宮大夫の定例記者会見の後、各新聞社から1名づつ集め、「オフレコ」の記者会見を開いたのです。

記者達は色めき立ちました。

やっと・・・記者会見だ。だったらまず今年の感想とかダイアナ妃が来た時にどう思ったかとかご懐妊はどうなのかとか色々聞きたい。質問状も出してある。

意気込んでマスコミの人達は「オフレコ」の記者会見に臨んだのですが、実際には本当にオフレコで、外で一言も漏らさないようにきつく言い渡され、たった数十分雑談をしただけでした。

週刊誌の記者達は、記事にするわけにもいかず、結果的に「宮内庁が皇室を遠ざけている」と書きました。

全てをかぶったのは宮内庁だったのです。

 

 

 

 

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  8

2023-06-06 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

1995年1月17日。

その日、雅子様は普通に午後に起きたのですが、どうにも部屋の外が騒がしいようです。

早く朝ごはんが欲しいと言おうとしてドアを開けると、誰もいません。

誰かいないの」と叫ぶと、女官が慌てて飛んできました。

「あ・・おはようございます。妃殿下」何だかその女官は泣いているようでした。

雅子様は「朝食」とだけいい、食堂に行こうとリビングを通りかかった所で、「雅子」と皇太子様に呼び止められました。

「大変な事が起こったよ」

何?」

「関西の方で大きな地震があって、連絡が取れないそうなんです」

関西というと大坂とかそっちの方か・・・雅子様は眠そうに考えました。

震度5くらい?

「そうかな。でもNHKにもなかなか連絡が入らなくて」

侍従も女官も心配そうな顔をしていますが、雅子様は何がそんなに心配なのかわかりません。

雅子様は構わず食堂に入り、朝食を食べました。

それからしばらくして、リビングの方から「おお・・・」という声が聞こえてきました。

神戸市の長田地区が火にまみれ、高速道路が見事に倒れている映像がテレビに映し出されたのです。ヘリコプターからの映像はそれは日本の風景とは思えず、みな、呆然と画面をみています。

「親戚と連絡がとれないの・・」と思わず泣き声で話している女官もいます。

雅子様はこれまでこんな悲惨な風景は見た事がありませんでした。

とても・・そう、とても信じられなかったのです。

だって東宮御所の庭はいつも通り冬の風景だからです。

「大変ね」と雅子様は精一杯同情して言いました。

皇太子様も多少顔色を変えています。

そのうち、宮内庁から事務官がやって来て「両殿下にお話が」と言います。

なんだろうと、思っていると、なんと21日からの中東訪問を中止にした方がよいだろうという話だったのです。

え!何で?」

思わず雅子様は叫びました。

国の大事だからです。こんな時に中東へ行っている場合ではないではないかと

そうだね・・・」皇太子様も頷きます。

それではさっそく、あちらに報告を・・・」と事務官が言いかけた時、雅子様は「やめてよ!」と叫びました。

何事かとみなびっくりして雅子様を見ました。

どうして中東行きを中止しないといけないの?その理由はなに?

妃殿下、関西では未曾有の震災が起きております。被害はこれからますます広がっていくでしょうし、皇族方にとっても他人事ではありません」

関係ないでしょ!それって関西の話でしょ?日本の話じゃない

その「日本の話じゃない」という言葉に事務官はぽかんと口をあけてしまいました。

私達が中東へ行くのは公務でしょ?みんないつも公務優先って言ってるじゃない。何で今だけそうじゃないの?矛盾があるわ」

しかし・・・先年の奥尻島の地震と津波が来た時、両陛下は静養中でお帰りになりませんでしたが、その事がかなり批判されました。国民と共に歩む皇室であれば、こういう震災などの大規模災害があった時は皇族は慎まないと」

遊びに行くわけじゃないじゃない

雅子様は頑として譲りません。

行くわ。絶対に中東へ行く。地震なんて関係ないもの

でもね、雅子、後で国民に批判されてしまうしね」

何でよ!震災と私達の公務、関係ないでしょう

ですから、こういう時はすぐに被災地へ駆けつけるとか」

あんな画面見てこれから被災地に行くなんて考えられない

雅子様はとうとう大声を出して泣き出してしまいました。

意地悪ばっかり!あんなに外国へ行かせてくれるって約束したじゃないの!外交官が関西で地震があったからって赴任先から帰って来る?帰って来ないわよ!」

事務官はもう何も言えず「長官並びに政府に相談いたします」とだけ言って去っていきました。

それでも激した雅子様は「約束したわよね!」と皇太子様に詰め寄ります。

皇太子様は困ってしまって「それは平和な時は・・・」

今まで一度しか外国へ行けてないのよ!これだけでも十分に約束違反だと思う。もうお父様にいいつけるから」

雅子様は泣き顔のまま、自分の部屋に入るといきなり電話をかけ始めました。国際電話です。誰にかけたかはもうご存知でしょう。

テレビでは全ての番組が中断されて関西の惨状を報道していました。

長田地区の火事はどんどん広がって建物を壊していきます。

すさまじい都市火災が起き、地元の人達はどこへ非難すべきかと右往左往しています。

また高速道路が壊れたし、線路もダメで、大阪から兵庫県に入る手段がありません。

仕事帰りの人も呆然とするばかりで、それはそれは恐ろしい光景でした。

 

暫くすると、宮内庁長官がやってきました。

すでに諦めたような顔です。

両殿下の中東行きは中止いたしません。予定通りに出国します。前に一度中止している経緯もあり今回は断る事は出来ませんので・・という事にしておきます」

こうして、皇太子夫妻の中東行きは決まったのでした。

 1995年1月21日 クウェート到着。

 雅子様は最初から赤を着ようと思っていました。だって赤はご自分にとって最も似合う色だからです。

主張を表敬訪問。

クウェートから見える景色は本当に広くて素晴らしく、雅子様は熱心にご覧になりました。

 このピンクの衣装も大好きで、雅子様は終始ご機嫌でした。

思わず側にあったお菓子をつまみ食いするところをマスコミに取られましたが、全然構いません。

晩さん会は思わずカメラ目線に。どう?綺麗でしょう?

これが皇室外交ってものよ・・・

アラブ首長国連邦に到着

晩さん会も最高!

遺跡見学も楽しいし、カメラをいじりながら、雅子様は楽しそうでした。

その頃・・・日本は

迎賓館でパチリ。皇后陛下から頂いた帯留めをブローチにしてみました!

そして大好きなラクダレース。この時ばかりは皇太子様の声も聞こえません。

興奮した雅子様は笑顔一杯で応援し続けます。

ハリファ王太子とサッカーも観戦しました。

もはやここは陰気な日本とは違う別世界です

ドバイでは木造船でドバイ・クリークを見学

ムハマド王太子のもてなしは本当に素晴らしきく、目の前には果物が一杯です。

そしてヨルダン到着。

 

英語を話して綺麗な格好で颯爽と歩く私・・・雅子様はご自分に酔いしれていました。

遺跡を見学して

食事会に晩さん会、何から何までゴージャスです。

しかし、ここで思わぬことが。

ヨルダン側から「お国が大変でしょう。どうぞお帰り下さい」と言われました」と随行員が伝えて来たのです。

何でも国王夫妻は日本の様子に心を痛め、恐らく皇太子夫妻もそうであろうと考えて、2日早く御帰りになってとおっしゃって下さったのです。

何という余計な事を言うんでしょうか?

雅子様はその日は怒り狂っていましたが、皇太子様はどことなくほっとした様子。

あまりに不機嫌になってしまい、サルワット妃とのお別れにもむすっとした顔を隠しませんでした。

「私、死海を見たかったのに」

「またいつかお会いしましょう」こんな時に「死海」とサルワット妃は思いましたが、外交上喧嘩するわけにもいかないので、ここは大人の態度をとおしました。

1995年1月28日に帰国。

さあ、いよいよ被災地訪問です。

現実を前に雅子様はまたもうんざりしていました。

 

 

 

 

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祝!成婚30周年 雅子様語録  7

2023-06-06 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1994年11月5日

とうとう初の海外訪問が巡って来ました。中東4か国訪問です。

雅子様はこの日をどんなに心待ちにしていたかしれません。

海外でなら自分の能力を発揮出来る。うじうじした日本と違ってはっきりものを言っても叱られない。そんな風に考えました。

 サウジアラビアに到着。

砂漠の空気が心地よい。いよいよ来たぞ。

早速油田の見学。

サウジアラビアでは王族方が非常に手厚く接待してくれて雅子様は嬉しくてしょうがありませんでした。

皇太子妃だからこそ受けられるこの待遇!

滅多に見られないものを見たり、

随行員付きで遺跡をみたり。

ちょっと水分補給。

オマーンもまた素晴らしい国でした。皇太子さまを無視してしまう程。

オマーンの国王陛下は大葬優しい方で、雅子様を優しく受け入れて下さいました。

何と言ってもラクダレースの面白かったこと

 そして馬を見せられました。素晴らしい馬です。

雅子様は思わず「なんて素敵な馬なんでしょう」と言ってしまいました。

周囲は顔色を変えてしまったのですが、国王は冷静に笑い「では差し上げましょう」とおっしゃいました。

馬を褒めてはいけないとあれ程注意を受けていらしたのに雅子様はその禁断の一言を口にしてしまったのです。

アハージュ号は早速日本に送られる事になりました。

単なる贈り物ではありません。オマーンからすると「頂戴」とおねだりされたから差し上げただけです。

「ものをねだる」という皇族としてはもっともやってはならない事を雅子様はやってしまったのでした。

 

オマーンでは王族と会う事もあり、着物を着用。御坐ればよろしいのに、上から目線で中腰になってしまい、これまた側近に叱られてしまいました。

ちょっと水分補給

バーレーンでは公務もしました。現地の日本人学校を訪問したのです。

船上でもてなされると不思議に心が高揚します。

こんなに楽しいものなんて!海外大好き。熱い砂漠も何のその、雅子様は道中一度も体調を崩す事はありませんでした。

 

けれど日本に戻って来ると、やっぱり「ご懐妊はまだ」の声が聞こえてきます。

日本ではどの公務も堅苦しくてつまらない。

自分がやりたいことと、回りが希望する事が真逆である事に雅子様は悩みました。

 

 1994年12月9日 雅子さま31歳の誕生日

相変わらず記者会見では極度の緊張から、何を話しているのか自分でおわからなくなる状態に「なぜ記者会見が必要なのか」と皇太子様に詰問してしまう事もありました。

侍従も女官もどうも皇太子夫妻の仲があまりよろしくないという事に気づいていました。

そもそも1日のスケジュールが違うのです。

最初の数日だけは雅子様も皇太子さまに合わせていましたが、慣れてくると雅子様は自分のスケジュールで行動します。

すなわち、皇太子様は独身の頃と同じように朝の6時には起きて7時に朝食、テレビを見ながら新聞や音楽を楽しむのに対し、雅子様の起床時間はほぼほぼ午後。

朝食はとらず、昼食を代わりに召し上がるし、寝る時間も決まっていません。

不規則な雅子様の行動に皇太子さまも合わせようとしましたが、すぐに諦めてしまいました。

侍従長から「不規則な生活はいけません」と言われていたからです。

女官長に言われた雅子様は「これが私のルールだし、プライバシーじゃない?」と言い返しました。オフの日くらい、何時に寝て何時に起きるかくらい好きにさせてよもう。

侍医達は一向に懐妊の気配が見えず、しかも不規則でジャンクフードばかり食べたがる雅子様に四苦八苦しており、体温一つ計らせてくれない事にも困っています。

皇太子様に掛け合っても「雅子の好きにさせてあげて」と言われるばかりです。

 

 1994年12月29日 佳子内親王殿下誕生

「とにかく女の子でよかった」と皇太子殿下はほっと胸をなでおろされました。

もし親王だったら皇位継承順位が違ってくるからです。

いくらのんびりやの皇太子さまでも、自分ではなく弟宮に先に男子を持たれたら困るのはわかっています。

そうでなくても、小さい頃から何かとこの弟は兄に先んじることがあり、結婚も子供を持つことも全部先にやられて、いい気はしていません。

しかも、秋篠宮家はあんな職員用宿舎に住んでいるというのに、やたら幸せそうじゃないか。

こちらは改修された東宮御所で贅沢な日々を送っているのに妻は全然優しくしてくれないし、自分の立場も考えてくれない。

自分だって「皇太子殿下。よろしいですか」とか言われてみたいのに、雅子様と来たら「あ、これ、どう」ってなものです。

皇孫として大事に育てられてきた皇太子さまは、妻にぞんざいな扱いをされるとは思ってもみなかったのですが、じゃあ、それを厳しくたしなめることが出来るかと言ったらそれも無理でした。

なぜなら、6年も待ってやっと結婚してくれた人だからです。

雅子様が結婚してくれなかったら、もしかすると自分は今も独身だったかもしれない。そう思うと怖くて何も言えません。

それに天皇陛下も皇后さまを叱った事など一度もありませんでした。

皇后様は東宮時代から、1から10までご自分が決めてしまわないと機嫌が悪くなるご性格で、公務でもプライベートでも訪問先の事、相手の事、ファッションから用意するものまで完璧になさるのです。

ゆえに天皇陛下は皇后陛下に頭があがらず、ほぼ言いなりになっていました。

そんな父君を見て育った二人の兄弟。秋篠宮はかなり亭主関白ぶりを発揮しています。

何でそれが許されるのかな・・・・皇太子さまは生まれたばかりの内親王を目にして、可愛いとは言えませんでした。

 勿論、雅子様も「生まれてよかった」とはおっしゃったけど、「おめでとう」とか「可愛い」とはおっしゃいませんでした。

むしろ、宮内庁病院に駆けつけることすら苦痛だったのです。

二人目は女の子でよかった。

でもこのまま3人目とか4人目とか産んだらどうしよう。その一人が男子かもしれない。

紀子妃はまだ若いのだ。これから何人でも産んでしまう危険性がある。

病院を訪れた皇太子夫妻は、心なしか顔色がよくありませんでした。

 

それでも雅子様にはまだ楽しみがおありでした。

そう。二度目の中東訪問です。

 

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カジノ・ロワイヤル 我が名はボンド

2023-06-05 07:00:00 | 宝塚コラム

大劇場、星組休演。残念ですね。

初日映像を見て礼真琴、珍しく汗をかいているなと思ったんですが。

あいさつの時には「瀬央さん・・」と言ったまま泣きそうな顔になっちゃって。

何とか復活してくれ~~~~

お祓いもした方がいいよ~~~

 カジノ・ロワイヤル 我が名はボンド 

三井住友カード様で見てまいりました。

ああ・・ホワイエが復活してる。これが本当の日常かもねと思いながら。

小池修一郎ということで、まあね~~完全オリジナルよりはましかもしれないけど、基本的には1時間半に収めてショーをやった方がよかった。

無理やり2幕にしてる感ありありで、だれるだれる

1幕最後の長々シーンはいらないし、2幕目の仮装舞踏会もいらない。

そもそもバカラに行くまでが長い。

まず「冷戦」の説明から始めないといけないのか~~~

今時の人にはわからないんだよね。

そーなの。ロシアってソ連だったのよ。ソ連って怖かったのよ~~

プーチン見てればわかるでしょう? ソ連には沢山の歴史的建造物があるけど、見に行くとか旅行とかありえないから。

ソ連の影響を受けていた国々はとにかく普通に旅行に行くのが無理っていうか、行きたがる人もいなかったと思う程怖い。

当時はネットもないし、テレビも白黒だし情報がいつでも流れて来るわけじゃないから一層怖さが募りましたよ。

ゆえにスパイが大活躍していたんだろうと思うけど。

さらにロシア革命の説明までいれるので、いわゆる映像が大活躍。

それはわかりやすいけど、そこまで丁寧に説明しないとわからないっていうのが問題なんだよね。きっと。

 

ジャマイカで静養中のボンドがいきなり呼び戻されて、パリでKGBル・シッフルとバカラで勝負して勝って、KGBの資金の元を断てと命令される。

パリでは学生運動の真っ最中。フランス人なのになぜかアメリカのヒッピー風の格好でデルフィーヌは警察に追われ、ボンドに助けられる。

このデルちゃんのファッションっていうのが、絵にかいたようなヒッピーで、おじさまおばさま達の心を揺さぶるんじゃないかと思われ。

とりあえずロシアの大公女なのに、服装はラフそのもので、髪も伸ばしっぱなし。

ロマノフの生き残りのゲオルギー一家は実は貧乏だけどパパがバカラで勝てば「夢をもう一度」ってこと。

わからないのは、説明されてもル・シッフルが何でそこまで「ロシアの皇帝」になりたがったのかって事ですね。

ゲオルギー皇帝を担ぎ出して、やがて自分が独裁国家の主になる。

ネオ・ロマノフの世界こそが素晴らしいと思っているっていうのが、年齢的にも合わないし、フランス生まれのフランス育ちがそこまでソ連に執着するかなと。

学生運動のリーダーのミシェルは頼りなくて優柔不断だけど、そこが妙に可愛くて、わけのわからないこのストーリーの中では癒しになっていました。

1幕でバカラが終わったんだし、これで任務完了じゃないの?

2幕目あるの?って思ったら、大公女の戴冠式やってティアラの暗号掴んでスイス銀行から金の延べ棒を取り出すというロマノフ一家の野望とKGBの陰謀にボンドが入り込む。

ちょっと無理があるよね。

ホテルで戴冠式ってのもおかしいし、全体的に服装が地味だから少しコスチュームを着せようとしたんだろうけど、それにしてもデルフィーヌちゃんは髪も挙げずに、コスチュームの下にはヒッピーの格好が隠れていたとは。

ここからはもうだらだらの追いかけごっこで、絶対に当たらない銃と手抜きアクションに「いつまでやるんだろう」状態。

子供向けのドラマ見てる感じでしたよ。

しかもご丁寧に最後の最後まで、出演者の伏線を拾ってくれちゃって。

まあ、パラシュートで歌うシーンは素敵だったけど、潤花ちゃんは絶対に怖がっていたと思う。左手がボンドの後ろで服握りしめてそうだったもんね。そこが可愛いです。

フィナーレは芹香斗亜の歌で始まるんだけど、この方10年近く2番手やってたの?

新鮮味も何もないよね。今更トップになるのかとちょっと思ってしまいました。

大階段の燕尾は黒に緑のジャケット。恐らく「エリザベート」の衣装かな。

でも黒に緑は合わないなと思ったり。

デュエットダンスも最後なんだし、もう少し情熱的でもよかったんじゃない?

潤花が去った後に、余韻を残して一人踊る真風。

でもこのダンスがまたしょうもないんだよね・・・・一応、ダンサーなんでしょう?

ファンは泣くかもしれないけど、ファンじゃない人にとってはどういう動きか理解でき中田かもしれません。

総じて、小池先生、もう映画の舞台化は止めた方がいいと思います。

正直、つまんないです。

 出演者について 

 真風涼帆・・・お疲れ様でした。としかいいようがありません。コロナの間も淡々と上演出来て、いつもと変わらず。一部週刊誌にあれこれ書かれましたけど、本人的には打撃になってないし、宙組ファンも離れたわけじゃないようなので安心ですね。

新人の頃と変わったのは顔だけで、あとは何も変わってないという所がよかったのか悪かったのか、それは今後、本人が外の世界で経験する事でしょう。

 芹香斗亜・・・この人も、二番手経験長すぎて、悪役も見慣れ過ぎてて今更ル・シッフルをやられてもどうって事ないよね。これから念願のトップになるんですけど、頑張ってね。

 潤花・・・正統派の娘役として宙組を盛り上げてくれてありがとう。本当に可愛いデルフィーヌちゃんで、この作品はデルフィーヌちゃんの為にあるのかなと思った程です。

潤さんが真風にくっついてくれたから、宙組が何とかここまで続いて来たなと私は思っています。綺麗だし、度胸もあるので今後の活躍が楽しみです。

 桜木みなと・・・この方の3番手も長いわ~~同期はトップになっているっていうのに、2番手にすら昇格できずだったよね。

でも、単に可愛い桜木みなとから、本格的な演技派の桜木みなとに成長したという事は素晴らしいです。今後、二番手としてトップを支えるわけですけど実力十分でしょう。

今回のミシェルは頼りないけど面白くて真剣でとても見ごたえありました。

 天彩峰里・・・週刊誌のせいですっかり悪役にされてしまった感のある天彩峰里。今回も鞭持ってバシバシだし。でもドレスで踊っている時の彼女は本当に可愛いのです。

発声もよく、存在感も高い彼女が、宙組を陰で引っ張る役割になるでしょう。

 鷹翔千空・・・イリヤという役はとりあえずいい場面に出て来る役で、おいしい役なんだけど、存在感が今一つ。華がないというか。

 寿つかさ・・・長い組長生活お疲れ様でした。あまりに長くていつ専科に行くのかなと思っていたけど。宙組が誕生した時からずっと組の要にいて下さいました。ありがとうございました。

 

イギリスとフランスの諜報員を演じていた紫藤りゅうは相変わらず華が会って上品、瑠風輝

は化粧をもう少し頑張れ。

ロマノフ家のバカ息子2人、亜音有星と風色日向は有望株。

体が柔らかい優希しおんにちょっと目が行きました。

 

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皇室ウイークリー

2023-06-04 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

5月26日・・・天皇陛下 → 通常業務

      両陛下 → 岩手県訪問について説明を受ける

5月28日・・・天皇陛下・愛子内親王 → 雅楽鑑賞

5月30日・・・天皇陛下 → 通常業務

       皇后陛下 → 養蚕(給桑、初繭搔き)

      天皇陛下・愛子内親王 → 養蚕(繭搔き)

      両陛下・愛子内親王 → 即位5年・御成婚30年記念 特別展鑑賞

5月31日・・・天皇陛下 → 信任状奉呈式

              勤労奉仕団に会釈

6月1日・・・天皇陛下 → 旬祭

 

皇嗣家

6月26日・・・両殿下 → 公益財団法人日本ワックスマン財団「令和5年度学術研究助成金贈呈式出席

5月29日~30日・・・殿下 → 高知県訪問

・「公益社団法人日本植物園協会第58回大会」開会式・表彰式・認定式

・「公益社団法人日本植物園協会第58回大会」意見交換会

・「公益社団法人日本植物園協会第58回大会」研究発表会

・高知県立牧野植物園視察

5月29日・・・佳子内親王 → 千鳥ヶ淵戦没者墓苑拝礼式

5月31日・・・殿下 → 山階鳥類研究所会議(オンライン)

      両殿下 → 外務省より進講を受ける

 なぜ皇后の単独の仕事である「養蚕」に天皇と愛子内親王が関わるのか。

  カメラが入っている時は一人でやったけど、あとは3人でやったって所でしょう?

  養蚕所の人達もそこまでしてほしいとは思ってない筈です。

  天皇は本当にプライドを失ったんだなあと思いました。

 勤労奉仕団に会釈を頑なにやらない皇后。恨みでもあるのかって感じですね。

 写真展で愛子内親王が「プロポーズを再現して」とてぶり身振りでお願いしたけど展のは苦笑い。マスクの下は悲しそうな表情なんだろうと思いました。

  あの時、ちゃんとセリフを確かめて「言質を取るな」と宮内庁が注意してくれたら、30年たっても「守る約束」を云々と言われなかったのにと思います。

それにしても、マスコミが写真を撮影したのが午後8時50分くらいです。

高島屋は7時で終わりですけど、買い物と鑑賞で一体何時に着いたのか。常識外れの時間帯に文句がいえないデパートに同情します。

また、母と娘で同じような格好でどうなんでしょうか?

母はパンツ、娘はスカート。同じグレーで。リンクコーデを越えていますね。

 雅楽鑑賞で、天皇が内親王に「座って」と席をすすめるシーンが。そういうの、おかしいって思わないんだろうな。

皇后は「この先の予定の為、欠席」だそうです。単純に雅楽なんて興味ないんじゃないか?と私は思います。

 インドネシア訪問はどうなったのでしょうか?

  6月下旬に訪問予定で、ついに6月に入りましたが、閣議決定もないし。まさか、オランダの即位式のように「2週間前に突如訪問決定」とかやるんでしょうか?

  そもそもヨーロッパ以外は行きたくない皇后。どうしてもイギリスに行きたかった皇后が、インドネシアに行きたい筈がなく。では早々に天皇一人で行けばよいのに。

 「体調の波」ごときでいかないと決めたら「イギリスは行けたのに」と言われてしまう。もう矛盾をつかれても全然平気、面の皮が5倍くらい厚くなってるし、週刊誌はあげあげ報道しかしないから、怖いものなどないでしょうにね。

 3日からの岩手は行けますよね。岩手だけ雨が降ってないようだし。

 皇嗣殿下、高知県入りすると沿道に沢山の人が待っていて、「一言でいうとイケメン」と女子学生に言われていました。単独でご公務でも素晴らしいですね。

正直、私はヨルダンの皇太子の結婚式にはあまり興味がありませんでした。

確かに招待状は秋篠宮殿下に来たのに「陛下」の意向で「高円宮妃」「承子女王」になったのは許せないと思いましたが、両陛下と高円宮家の繋がりは結婚前から。雅子皇后と結婚するにあたって亡き宮が非常に手助けした事は有名です。

一方で秋篠宮にはなぜか敵意を抱いていた高円宮。

結婚した時など「公務の依頼はないでしょう」と発言していました。

本来、皇嗣家に来た招待状なら皇嗣夫妻が万難を排して出席すべきだし、ダメなら佳子様でもいいと思います。

それをひんまけれ末端宮家の母子が出席すると言う・・・「またか」とヨルダン側は思ったでしょうね。

よその国からは国王夫妻や、国王と王女、ウイリアム皇太子夫妻、ブータン王妃までいらしたというのに、日本からは末端宮家ですよ。

でも、まあ、しょうがないでしょうと思っていたんですが、ツイッターに貼られていたこの写真を見るに至って、「しょうがない」とも言えないのかと、

まるで東南アジア系の王族のような承子女王。いい歳して髪飾りが幼稚。

久子妃もいつもならもう少しましなドレスを着るのに、なんでしょうね。

でも一番話題になっていたのが承子女王が持っている「フクロウ」のバッグ。

50万くらいするらしいんですが、これがイスラム教の国では不吉な象徴とされているらしいのです。

日本ではフクロウは目出度いという意味があってもお国柄によりますよね。

またヨルダンでは政策として「フクロウ作戦」とかいうのをやっていて、そういうのに合わせたんだろうとも言われていますが、いずれにせよ「フクロウ」はいい意味では使われておりません。

なぜ、結婚式という晴れがましい所に、わざわざアニマルバッグ、それもフクロウを使ったのか意味がわかりません。

宮内庁はチェックしなかったのか。

大失態と言えるでしょう。

素晴らしい皇太子夫妻

 ブータン王妃と義妹

 バイデン大統領夫人

 ベルギー国王とエリザベート王女

オランダ国王夫妻とアマリア王女

ウイリアム皇太子夫妻

ウイリアム皇太子夫妻は国内公務を片付けてからのサプライズ訪問。

色々な国から王族を迎えたヨルダン国王夫妻

このような場に末端宮家の妃と長女が、いかにも場違いな格好で現れた。

いくら陛下がそう言ったとしても、宮内庁はちゃんと国益を考えて行動すべきだったのではありませんか?

 

 

 

 
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祝!成婚30周年 雅子様語録   6

2023-06-03 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 1994年2月17日 結婚内定1周年にあたり記者会見

雅子さまはとうの昔に皇室にも結婚生活に飽き飽きされていました。

「記者会見、どうしてもしなきゃダメ?」

「どうして?以前はそんな事いってなかったでしょう」

「あの時はあの時よ」

雅子様は、最初こそ注目される事が好きだったのですが、段々、しきたりや所作ふるまいなどにケチを付けられることに嫌気がさしていたのです。

毎日のように週刊誌に「ご懐妊は」と書かれる事も。

こっちはそんな気は全くないのに、何で騒ぐのか少しもわからない。

 

「記者会見に出ないとおかしく思われます」

「おかしい?」

「僕達が仲が悪いんじゃないかとか、変な憶測されてしまう」

「どういうのが仲がよくて、どういうのが仲が悪いのでしょう」

「え?それは・・・」

皇太子様は顔を赤らめてしまいます。

他人のベッドの中まで想像しようというなら、そっちがおかしいのよ。

いかりに震えつつも、しょうがなく記者会見に出ました。

当然「ご懐妊は」という質問が来たので、殿下が先んじて

コウノトリのご機嫌をそこねないように」とお答えになり、雅子様は「依然としてオーケストラは考えておりません」と答えてみなを笑わせました。

とはいえ、マスコミは欲求不満に陥っていました。

それというのも、お祝いの記者会見の筈なのにカメラが入る事を許されたのは最初の3問まで、「カメラの照明があたると緊張される」という理由でカメラはそうそうに退散。

結果3分程度しか報道出来なかったからです。

雅子様はマスコミのカメラのフラッシュが大嫌いになりました。

条件反射で心臓がどきどきし、緊張でろくにものが言えなくなってしまうのです。

そしてとうとう、ダウンしてしまいました。

熱があるわけでもないのですが、だるくて起き上がれなくなったのです。

マスコミは一生懸命宮内庁に問い合わせをし、その度に宮内庁や侍医が色々言葉を選んで喋る。「懐妊ではない」と断じる。

しかし、それではなぜ公務を休むのか見当がつかないのです。

雅子さまは、単に回りに人がいる事や、カメラを向けられることが苦痛でしょうがなかったし、時間に縛られたり、服装をきちんとすることも嫌だったし。

でも回りに「懐妊」を期待されている事だけは何となく気づきました。

「妊娠しないといけないのか」とも思ってみたけど、ぞっとします。

妊娠に逃げる女なんて仕事が出来ない証拠。この世の中には子供を持つより重要な仕事がある。それは「外交」なのだ。

 1994年4月2日 小和田家に里帰り

小和田家に返った時だけ、好きなだけお母さまに甘え、朝からずっと寝ていられたし、夜中にテレビを見る楽しみも生まれました。

だけど楽しい事の終わりには必ず皇太子さまが出て来るのです。

 

 1994年5月11日 春の園遊会

春の園遊会の日。

「秋篠宮紀子妃殿下ご懐妊」のニュースが日本中を駆け回りました。

日本中がお祝いムードに包まれ、園遊会も明るい雰囲気になりました。

皇后陛下もみなに「おめでとうございます」と言われ、嬉しそう。

そして雅子様にも「おめでとうございます」と声をかける不調法者が現れました。

私じゃありません!」と雅子様はぴしゃりと言い返してやりました。

なんなの?あの紀子という女は。

人がこんなに毎日「懐妊はまだか」と言われて気分を害しているのに、自分が妊娠するなんて空気を読まないにもほどがある。

おかげで園遊会ではついついどうでもいい事を話し続けて、皇太子様の速度に後れを取り、職員から「お進みください」といわれる始末。

プライドはぐちゃぐちゃです。

何だか意味なく涙がこぼれて来ました。

悔しさで一杯です。

何で紀子が・・・何であの女が。何も知らない顔してわざと妊娠したに違いない。

皇族の序列を忘れているんじゃないの? 馬鹿じゃないの?

「もうほっといて!」

その日、雅子様は東宮御所に帰るなりご自分の部屋に引きこもり、いつまでもないていらした。

皇太子様はなぜ雅子様が泣いているのかさっぱりわからずただおろおろしていました。

 1994年5月12日 海外日系人大会

おかげで翌日は、泣きはらしたような目になってしまい、ますますマスコミが嫌いになりました。

おめでたい事に恵まれた紀子様ですが、その陰で実は悲しい思いもされていました。

皇太子妃より先に妊娠するなんてどういうおつもり」と末端の宮妃に言われてしまったからです。

もし男子だったらどうなるの?」

宮内庁にも怪しい電話がかかって来ました。

秋篠宮家は不敬である。皇太子妃より先に妊娠するなんて許せない」というもので、宮内庁はこんな目にあった事はありませんからとにかく驚いて、どう対処したらいいかわかりません。

それで皇后陛下に相談すると、陛下も頭を悩ませました。

天皇陛下は単純に喜んでいるけど、女同士のどろどろとした感情は御しがたい。

ご自分は皇太子妃だったし、弟の常陸宮家には子供がいなかったのであれこれ順序を気にする必要はなかったけれど・・・・

「今回は仕方ないけど、以後、気をつけてね」と紀子様にお伝えになるのが精一杯でした。正直、皇后陛下はもう秋篠宮家の子供はいりませんでした。

なんとか東宮家に子供がうまれればいいと思っていらしたのです。

そうでないと、様々なハードルを越えて雅子様を入内させた意義がないとお考えだったからです。

しかし、そんな皇后さまの思いやりにも雅子様は応える気はないようでした。

 

 1994年6月5日 奥多摩高水三山登山

事態を重く見た宮内庁は、公務とは全く関係なくしかも、皇太子様の趣味である登山をいかし、ご夫妻により仲良くなって頂く為に奥多摩への登山を計画。

それというのも、この頃、皇太子夫妻には「不仲説」が流れ始めていました。

結婚した頃は二人そろって皇太子さまの学友達とのテニスなどに興じていた雅子様ですが、次第に姿を現さなくなり、学友方も東宮御所を訪れなくなりました。

雅子様の「皇太子様についていく」姿勢が足りないのもその原因でした。

例えば頭の下げ方とか、一歩引く事とか、礼儀作法一般的な事です。

どんな振舞をしてもそのままにしている皇太子さまは尻に敷かれているのではないかとの噂が、次第に不仲説に繋がっていったのです。

この日も「雅子さまの手作りのおにぎり」と週刊誌はこぞって報道しましたが、実際は宮内庁の大膳課が作ったものであり、雅子様は手作りの「て」の字もご自分からは言い出さなかったのです。

 

 1994年8月31日 那須登山

 1994年9月10日 北海道静養羅臼岳登山

 1994年9月18日 京都・仙湧寺の孝明天皇陵参拝

 1984年10月22日 みえ国体に出席

とりあえず、度重なる静養で多少は復活した雅子さま。

公務の時も緊張しないように、皇太子様に色々話しかけて、ほぐれるように努力されました。

週刊誌はこぞって「ラブラブ」と報道しましたが、実際の所、前を向いていないといけない時に、横を向いている皇太子夫妻には誰もが呆然としていたのでした。

そんな雅子さまですけど、やっと元気になる出来事が。

そう・・・海外旅行です。

 

 

 

 

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