夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

改めて、『どんと焼き』の想いで・・♪

2009-01-13 16:03:56 | 幼年・少年時代の想いで
ここ数日、NHKのニュースを視聴していると、
地方に於いて、『どんと焼き』の情景が放映されて折、
私は懐かしげに見惚(みと)れていたのである・・。

私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であるが、
遠い昔、私の近くの実家は、祖父と父が健在だった頃、
農業を営(いとな)んで、程々の広さの田畑を耕し、雑木林もある農家であった・・。

そして、今頃の時節に、確かに『どんと焼き』をしていたと思い、
飯倉春武・編の『日本人のしきたり』(青春新書)を本棚から取り出して、
読んだりしたのである。

この中で、【左義長(さぎちょう)】という項目で、
正月飾りを燃やす理由、と付記されて、
明晰に解説されていた。

無断であるが、転載させて頂きます。

【・・
小正月の1月15日の前後に行われる火祭りが『左義長』です。
『左義長』は『どんと焼き』、『どんと祭り』とも呼ばれ、
この日には、正月に飾った門松やしめ飾りを、
神社や寺院の境内などに持ち寄って燃やしました。

いわば正月飾りの後始末の行事ですが、
燃やす時の煙に乗って、新年に訪れた年神様が、
天上に帰っていくと信じられたのです。

そのとき同時に、棒の先に餅・芋・だんごなどを刺し、焼いて食べたりします。
地域によって違いはあるものの、
門松やしめ飾りなどを燃やした火で焼いて食べると、
その年は無病息災であると信じられました。

なぜ『左義長』と呼ばれるかについては、
平安時代の宮中の儀式で、三毬杖(さぎちょう)と呼ばれる青竹を立てて、
正月の飾り物を燃やしたことに由来するという説や、
鳥追い行事の鷺鳥(さぎちょう)から来ているなどの説があります。
・・】

注)解説の原文をあえて改行を多くした。

私はこの解説を読みながら、【どんど焼き】に於いて、
遠い昔、どうして青竹を用いていたか、初めて理解したのである。


私は【どんど焼き】については、このサイトに於いて、
一昨年の1月20日で【その昔、小正月、そして20日正月・・♪】と題して、
投稿していたが、あえて再掲載をする。


【・・
私は東京の郊外に住んでいるが、私の幼年期の頃を想いだしていた・・。

昭和26年の頃は小学1年生であった私は、
祖父、父が健在で程々の広さの田畑を耕作していた農家の子であった。

お正月の三が日が終わると、七草がゆ、鏡開き、そしてどんと焼きをしていた。

この頃は、旧家ではその家なりに工夫して、『どんと焼き』を行っていたのである

私の実家に於いては、田畑の外れに青竹を10数本ぐらい建てかけ主柱として、
稲の藁(わら)で覆(おお)いながら高い塔のように10メートル前後に作り上げた後、
旧年で使用していた注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、
新年に彩った輪飾りなどを清めた後、燃やしたりした。
そのまじかで、枝葉に幾つも付けた団子をこの燃え上がる火で焼いたりしていた。

このようなことを思い馳(はせ)たりしていた・・。


古人達は、20日正月と称していたので、先程調べていたら、
藤野邦夫・著の『幸せ暮らしの歳時記』(講談社文庫)に於いて、
次のように述べられていた。

【・・
『20日正月』とは、正月の祝い納めをし、1月15日の『小正月』の飾り物などを片付ける日のことである。
つまり、元旦から始まった正月が、完全に終結する日を意味して折、
雪に閉ざされて、余り仕事もないこの季節を、
少しでも明るく過ごそうととする心情がが、
このような制度を作りだしたのではないだろうか。

小正月も20日正月も、今では地方にしか見られない風習になっているが、
かっての小正月は、それなりに重要な新年の行事だったのだ。
15日の朝、一年の健康を願う『小豆(あずき)がゆ』を食べる風習が各地で見られたり、
豊作を願って木に『繭玉(まゆだま)』を飾ったり、
若者が鬼の面をかぶって蓑(ミノ)を着け、家々を訪問して、怠け者を探し廻る儀礼などが行われたものだった。

今でも15日に、火を燃やして正月の飾りや書き初めなどを焼く『左義長(さぎちょう)』や、
『ドンド焼き』を、盛大に行う地方が少なくないらしい。
この火にあたると、1年間、風邪を退かないと云われてきたのである。
こうしてみると、小正月は健康と豊作などを祈る儀式だった訳であり、
20日正月は、そのお終(しま)いの日だったのだろう。



以上、無断であるが引用させて頂きました。


私は遠い昔のことは、忘れかけていた。
『小豆がゆ』も確かに頂いたこともあったし、
どんど焼も子供心にも風邪を退かないようにと、火に近づいたりした。

枝葉につけた数多いの団子も食べたりしたが、
この枝葉は宅地の外れにあった雑木林の大きな樹木から採っていたのであるが、
何の樹木から採ったのかは・・想いだせないでいる。

・・】


このように綴っていたのであるが、
我家は私が小学2年3学期に父が病死し、そして祖父も小学三年の一学期に亡くなり、
男手の大黒柱を失った実家は没落しはじめ、『どんと焼き』も取りやめたのである。

そして、まもなく実家の周辺も住宅街に変貌し、
私が小学校を卒業する頃になると、どの旧家でも『どんと焼き』をすることなく、
最寄の神社などに注連縄(しめなわ)、御札(おふだ)、輪飾りなどを持ち寄って、
神社の境内で共同の『どんと焼き』となったのである。

私は、その家なりの『どんと焼き』に愛惜を深めたためか、
神社で各家の持ち寄った『どんと焼き』には興味がなく、
これ以来、私が幼年期に体験した実家の『どんと焼き』が心の宝物と思い、
今日に至っているのである。



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冬の朝、私は『冬景色』に愛惜を秘め・・♪

2009-01-13 09:58:57 | 音 楽
東京郊外の調布市に住む私は、年金生活の5年生の身であり、
いつものように日の出の7時前には、起床している。

今朝は幾分寒いかしら、と思いながら、
居間のガスファン・ヒーターの暖房を点けた。
急速暖房のスイッチを指定しても、1度が表示されていた。
15分程度が過ぎれば、遅くても居間は17度くらい暖かくなるのであり、
ネットで地元の天気情報を見たりした。

朝の6時はマイナス2度、昼下がりは9度、そして夜の6時は5度となり、
冬晴れで風もなくおだやかな1日となるが、
今年一番の寒い朝かしら、と感じたりしたのである。

そして、雨戸を開けたり、新聞を取り込んだりした後、
主庭のテラスで煙草を喫ったりした。
冬木立の樹木を眺めたり、黒土が霜で薄っすらと白く染められて、
しばらく眺めていたのである・・。

私の母の命日だったと思ったりした後、

♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】

と何気なしに心の中で唄っていたのである。


この後、家内にコーヒーを淹れたりした後、
NHKの7時のニュースが始まる頃であった。
そして世の中の多くの方は、3連休明けで何かとお忙しいと思いながら、
私の定年退職前の5年間は、起床が4時45分で始発のバスに乗り、
小田急線の電車の通勤途上で日の出を迎えたりしていたので、
あんな時代もあったなぁ、と苦笑したりしたのである。

7時半過ぎに、まばゆい朝の陽射しを受けながら、
このサイトに何を綴ろうか、と思案したりしたのである。

昨夜、テレビ・ドラマの『そうか、もう君はいないのか』を視聴したので、
批評文を綴ろうか、と思ったりしたが、
城山三郎氏の奥様が亡くなわれた前後の数々の随筆の原作を読んだりしていたので、
このテレビドラマの作品は、残された人生の切実感が乏しく、失望したのである。
何より、城山三郎氏に扮した田村正和氏の演技は、
私は初めて真剣に観た作品であるが、人生の苦楽の表情、しぐさ等の表現が出来ないので、
期待していたに係わらずミスキャストである。


この後、私はこのサイトでこの時節に於いて、
どのようなことを投稿していたか、読んだりしたのである。

昨年の1月25日に於いて、
【今朝の鼻歌は、『冬景色』となり・・♪】と題して、
投稿していたのである。

【・・
東京の郊外は、昨日は冬晴れであったが、
午前11時前後から、ときおり風が強く吹いて、寒い一日であった。

昼下り家内の母より、旅先の佐渡島より電話があり、
両津港~新潟港のフェリーが欠航しているので、帰京を延ばす、
と連絡を受けたりした。

家内の母は、冬の佐渡島を旅友達と3泊4日で観光めぐりをしていたが、
暴風雪に遭遇してしまったのである。

『せっかく行かれたのだから・・
仲良しグループとゆっくりと・・』
と私は家内の母に云ったりしていた。

『そうよねぇ・・』
と家内の母は笑いながら云ったりしていた。

私は家内の母の77歳の身を案じたが、
国内旅行の好きな仲間同士であり、心身健在の時に行きたい時に行かればよい、
と日頃から思っているので、
家内と微苦笑をしながら話あっている。


今朝は6時半過ぎに庭のテラスに下り立つと、
黒土に霜柱が見られた・・。

私はこのような情景を眺めたりしていると、


♪さ霧(ぎり)消ゆる 湊江(みなとえ)の
 舟に白し、朝の霜。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


と何気なしに小声で唄ったりした。


♪ただ水鳥の 声はして
 いまだ覚(さ)めず、岸の家。

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


私はサラリーマンを35年間をした後、
年金生活をしている63歳の身であるが、何かと長年、身過ぎ世過ぎしているので、
こうした歌から濾過(ろか)がされ、心の純潔が取り戻されるようで、
私は好きな歌のひとつである。

居間に戻ると、テレビは、
東京の郊外は、朝の6時はマイナス1度、日中は冬晴れで6度前後で風はおだやかです、
と報じていた。

・・】


そして、2006年1月26日の綴りのひとつには、
【『冬景色』を聴くとき・・♪】と題して、
投稿していたのである。

【・・
私は、ときたま唱歌を聴くときがある。

冬の季節には、『冬景色』は私の好きな唱歌のひとつである。

作詞はどなたが創られた不明であるので、《文部省唱歌》となっている。


♪さ霧消ゆる みなとえの
 舟に白し 朝の霜
 ただ水鳥の 声はして
 いまださめず 岸の家

【 『冬景色』 作詞・不詳 】


こうしたのを聴いたりすると、どなたが歌っても、
私はときたま涙ぐんでしまう時がある・・。

遠い幼年期を想いださせるのか、
或いは失ってしまった純粋な心を甦させようとする
もうひとりの自分に哀歓を寄せているのかは解らない。

何より、この作詞の日本語は、はかなく美しい。

私は詩の世界は理解する素養はないが、
声により唄いつながれて行く言葉の結晶である作詞の世界は解るつもりである。

・・】


このように拙(つたな)い投稿文を読み返し、私は微苦笑してのである。




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