私は東京郊外の調布市に住む年金生活の66歳の身であるが、
過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】のひとつのニュースを読んだりした。
大津波に耐え、そして18時間も冷水につかり、やっと家に帰還した男は、やがて原発の避難となった、
記事であったが、私は読みながら圧倒的に感動させられ、
読み終わった後、気が付くと涙が流れたいた・・。
無断であるが、この男性の言動を賞賛致したく、転載させて頂く。
《・・
「ゴー」。
11日午後3時20分頃、仙台港で、運んできた荷物をトレーラーから下ろした直後、
福島県・南相馬市の運送会社員(40)の耳に、地鳴りのような音が響いた。
海の方を振り返ると、数百メートル先に津波が見える。
高さ約10メートル、壁のような波の上で、コンテナや車がクルクルと回転していた。
「少しでも高いところに逃げないと」。
とっさに、近くに並んで止まっていたトレーラーの中で、一番高い荷台に飛び乗った。
運転席近くに張ってあった鉄製ワイヤに、しがみつく。
すぐにたたきつけるような波が襲ってきた。
「ダメかもしれない」。
何度も流されそうになりながら、ちぎれそうになる指に、力を込めて体を支えた。
「助けてくれー」。
隣のトレーラーが横転し、荷台にいた同僚が、叫び声を上げながら水にのみ込まれた。
津波が過ぎ去っても、首から下は、水につかったまま。
周りを見渡すと、周囲の建物は消え、残骸となった立体駐車場だけが残っていた。
日が暮れた。
上空から自衛隊のヘリコプターのサーチライトが、付近を照らす。
凍えて体に、力が入らない。
何とか片手を振ったが、気付いてもらえない。
余震の度に水面が揺れ、近くで起きたコンビナート火災の「ボン」という不気味な音が、
暗闇に響いていた。
その時だった。
「死ぬんじゃねえぞー」。
流されたはずの同僚の声が、遠くで聞こえた。
同僚は救助され、少し離れた倉庫2階に避難していた。
「大丈夫だ」。
大声で返す。
寒さで意識を失いそうになるたび、同僚の励ましの声が聞こえ、気持ちを奮い立たせた。
「妻子を残して死ねない」。
自分に言い聞かせ、耐えた。
長い夜が明けると、少しずつ水が引いていった。
午前10時頃、荷台から下り、水の中をがれきに、足を取られながら40分かけて移動し、
同僚らのいる倉庫に引き上げられた。
その日、同僚の車で約4時間かけて、南相馬市の会社にたどり着いた。
心配して社に駆けつけていた妻(36)、長男(10)、長女(2)と抱き合った。
自宅は無事という。
涙が止まらなかった。
「生きていることが自分でも信じられない。
こんなことがあるんだと思った」
必死の思いで戻った我が家。
だが、「奇跡の生還」から2日後の14日、
福島第一原発3号機で爆発が起きた。
足は凍傷になっており、医師からは入院を勧められたが、
家族と避難することを決めた。
「放射能が広がったら危ない。
家族を守らないと」
福島市で避難所暮らしが始まった。
原発の脅威は増すが、ガソリンが足りず移動手段もない。
つらい生活は続く。
だが、前を向いて生きようと決めている。
「命があって家族といられれば、それでいい。
みんなで苦しみを乗り越えたい」
(2011年3月18日14時42分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
参考として、原文を添付する。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110318-OYT1T00584.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《大津波から生還、原発から退避…「でも生きる」》☆
この後、私は改めて再読し、涙を浮かべ読んだりしている。
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過日の11日に発生した観測史上最大の地震の東日本巨大地震に伴い、
先ほど、読売新聞の基幹ネットの【YOMIURI ONLINE】のひとつのニュースを読んだりした。
大津波に耐え、そして18時間も冷水につかり、やっと家に帰還した男は、やがて原発の避難となった、
記事であったが、私は読みながら圧倒的に感動させられ、
読み終わった後、気が付くと涙が流れたいた・・。
無断であるが、この男性の言動を賞賛致したく、転載させて頂く。
《・・
「ゴー」。
11日午後3時20分頃、仙台港で、運んできた荷物をトレーラーから下ろした直後、
福島県・南相馬市の運送会社員(40)の耳に、地鳴りのような音が響いた。
海の方を振り返ると、数百メートル先に津波が見える。
高さ約10メートル、壁のような波の上で、コンテナや車がクルクルと回転していた。
「少しでも高いところに逃げないと」。
とっさに、近くに並んで止まっていたトレーラーの中で、一番高い荷台に飛び乗った。
運転席近くに張ってあった鉄製ワイヤに、しがみつく。
すぐにたたきつけるような波が襲ってきた。
「ダメかもしれない」。
何度も流されそうになりながら、ちぎれそうになる指に、力を込めて体を支えた。
「助けてくれー」。
隣のトレーラーが横転し、荷台にいた同僚が、叫び声を上げながら水にのみ込まれた。
津波が過ぎ去っても、首から下は、水につかったまま。
周りを見渡すと、周囲の建物は消え、残骸となった立体駐車場だけが残っていた。
日が暮れた。
上空から自衛隊のヘリコプターのサーチライトが、付近を照らす。
凍えて体に、力が入らない。
何とか片手を振ったが、気付いてもらえない。
余震の度に水面が揺れ、近くで起きたコンビナート火災の「ボン」という不気味な音が、
暗闇に響いていた。
その時だった。
「死ぬんじゃねえぞー」。
流されたはずの同僚の声が、遠くで聞こえた。
同僚は救助され、少し離れた倉庫2階に避難していた。
「大丈夫だ」。
大声で返す。
寒さで意識を失いそうになるたび、同僚の励ましの声が聞こえ、気持ちを奮い立たせた。
「妻子を残して死ねない」。
自分に言い聞かせ、耐えた。
長い夜が明けると、少しずつ水が引いていった。
午前10時頃、荷台から下り、水の中をがれきに、足を取られながら40分かけて移動し、
同僚らのいる倉庫に引き上げられた。
その日、同僚の車で約4時間かけて、南相馬市の会社にたどり着いた。
心配して社に駆けつけていた妻(36)、長男(10)、長女(2)と抱き合った。
自宅は無事という。
涙が止まらなかった。
「生きていることが自分でも信じられない。
こんなことがあるんだと思った」
必死の思いで戻った我が家。
だが、「奇跡の生還」から2日後の14日、
福島第一原発3号機で爆発が起きた。
足は凍傷になっており、医師からは入院を勧められたが、
家族と避難することを決めた。
「放射能が広がったら危ない。
家族を守らないと」
福島市で避難所暮らしが始まった。
原発の脅威は増すが、ガソリンが足りず移動手段もない。
つらい生活は続く。
だが、前を向いて生きようと決めている。
「命があって家族といられれば、それでいい。
みんなで苦しみを乗り越えたい」
(2011年3月18日14時42分 読売新聞)
・・》
注)記事の原文にあえて改行を多くした。
参考として、原文を添付する。
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20110318-OYT1T00584.htm
☆【YOMIURI ONLINE】《大津波から生還、原発から退避…「でも生きる」》☆
この後、私は改めて再読し、涙を浮かべ読んだりしている。
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